人通りの少ない一角に、煤けた看板に『倉科骨董品店』と書かれた店があった。
並ぶ品々はどれも埃をかぶり、値札すらついていない。
昼下がりの薄暗い店内で、店主は長身を少し傾け、椅子に腰を預けていた。
倉科隆雄。
四十代も半ばを過ぎた男。
年の割に頭髪はほとんど白髪。
細身の身体に紺の着物をまとい、糸のように細い目をさらに細めている。
物腰は柔らかく、『断れない男』という自覚があった。
――ちりん
扉につけた鈴が、微かに揺れる。
――客だ、珍しい
扉を押し開けて入ってきたのは、和装に身を包んだ初老の女性だった。
背筋は伸びており、身なりがきちんとしているところから比較的裕福な印象を受けた。
「ご相談がありまして……」
低く、しかしはっきりとした声が店の空気を震わせる。
倉科は柔らかな調子で「どうぞ」と促し、女の前に置かれた写真に目をやる。
煤けた木枠、そして金色に曇った振り子――古時計だ。
「夜になると、止まっているはずのこの時計が鳴るのです。カチ、カチと……まるで人の歩く足音のように」
店の奥に吊るされた別の時計が、ちょうどその時、「ボーン」と鈍く響いた。
女の言葉を肯定するように。
女性は写真を机の上にそっと置き、手を重ね合わせた。
その仕草には、恐れと困惑、そしてどこか懇願めいた必死さが混じっている。
「何代も前から我が家にある時計でして……。今まで一度も狂ったことがないのに、主人が亡くなってから、夜な夜な鳴り出すようになったのです。
気味が悪いのですが、捨てることもできず……。どうか、お調べいただけませんでしょうか」
倉科は指先で白髪を耳にかけながら、柔らかな笑みを浮かべた。
糸のような細い目はほとんど閉じられていて、感情を読ませない。
だが、声音は春の風のように穏やかだった。
「……なるほど。ご主人の形見というわけですか」
女性は小さくうなずく。その肩がかすかに震えた。
本来なら、骨董品店の店主としては「修理業者に持ち込まれては」と断るのが筋だろう。
だが、倉科の中でそんな答えは浮かばなかった。
この手の相談を持ち込まれるのは、これが初めてではない。
「お話は分かりました。よろしければ、今夜にでも拝見いたしましょう。少し古い時計の癖を探るには、夜の顔を見ておくのが一番ですからね」
女性の顔に安堵の色が差す。
「本当に……よろしいのですか?」
「ええ。こう見えて、夜更かしは得意でしてね」
倉科は冗談めかし、袖を軽く直した。
その柔らかい声音には「断れない男」の優しさと、どこか不可思議な覚悟がにじんでいた。
客が帰ると同時に、奥の暖簾がばさりと揺れる。
「おじさん! 今の人、依頼人?」
金と黒のツートンカラーの髪を揺らし、小柄な少女が顔を出す。
波多野一花――倉科の妹の娘である。
「……また勝手に奥から出てきましたね、一花さん」
「えー、だって面白そうだったんだもん。怪奇調査でしょ? ねえねえ、今度はどんな依頼?」
目を輝かせる一花に、倉科は細い目をさらに細めて、小さくため息を漏らした。
「夜中に古時計が鳴る、という話ですよ」
「うわー、絶対オバケじゃん! あたしも行く!」
「……大学の課題は?」
「それとこれとは別!」
倉科は苦笑し、結局は断れないまま、頷いてしまうのだった。
夜の帳が下り始め、倉科と一花は依頼人の家へと向かっていた。
街灯の少ない裏路地を抜け、辿り着いたのは古びた屋敷だった。
和洋折衷の造りで、瓦屋根に煉瓦の外壁が不思議に調和している。
外壁のあちこちには蔦が絡まり、長年の時を物語っていた。
「わぁ……なんか映画に出てきそうな家だね。ホラー系の」
一花が声を弾ませる。
目は興奮で輝き、夜の闇さえ遊び場のように見ているらしい。
「……あなたは本当に怖いもの知らずですね」
倉科は淡々と返す。着物の袖を静かに直し、細い目のまま屋敷を見上げた。
その表情は柔らかいが、奥底にある警戒の色を隠しきれてはいない。
屋敷の玄関を開けると、依頼人の女性が深く頭を下げて出迎えた。
「今夜は遅くに申し訳ありません……。どうぞ、中へ」
土間から続く廊下はひどく静かで、踏みしめる床板がかすかに鳴る。
家全体に、長い時間が積もったような匂いが漂っていた。
「時計は居間に置いてあります。どうか……お願いします」
女性に案内され、二人は居間へと足を踏み入れる。
そこには、背の高い古時計が鎮座していた。
煤けた木枠、金色に曇った振り子。針は十二時をを指したまま、止まっている。
「おお~、出そうだねえ……! 鳴るかな、これ!」
一花は小声でわくわくしながら囁く。
倉科は静かに座布団に腰を下ろし、時計をじっと見据えた。
「……さて。今夜は、長い夜になりそうですね」
時刻は深夜零時。
屋敷の灯りはすでに落とされ、蝋燭の淡い火だけが居間を照らしていた。
倉科は胡座をかき、黙って時計を見据えている。
その横で、一花は座布団に寝転がり、スマートフォンをいじったり、天井の木目を数えたりと退屈そうにしていた。
「ねえ、本当に鳴るの? ただのボロ時計じゃないの?」
小声でつぶやく一花。
「……静かに」
倉科の糸目は細いまま、しかし声には芯があった。
その瞬間――。
カチ。
カチ。
止まっていたはずの針が、微かに動いた。
時計の長針が、まるで誰かに背を押されたかのように、ぎこちなく前へ進んだのだ。
一花はびくりと体を起こす。
「……い、今動いたよね!? 絶対動いたよね!」
倉科は何も答えない。
ただ、深い皺を刻むように眉を寄せ、耳を澄ませていた。
カチ、カチ、カチ――。
静まり返った屋敷に、時計の音だけが規則正しく響き渡る。
それはまるで、誰かが廊下をゆっくりと歩いてくるような音だった。
一花は思わず倉科の袖を引っ張る。
「おじさん……これ、やばくない?」
返事の代わりに、倉科はわずかに目を細め――針の先を凝視した。
秒針は止まったまま。
だが確かに、「時を刻む音」だけが、部屋を満たしていた。
やがて、午前二時。
――ボーン。
不意に、重々しい鐘の音が鳴り響いた。
止まったままの時計から。
――ボーン。
重苦しい鐘の音が部屋を満たし、やがて静寂が戻った。
一花は思わず息を呑み、倉科の袖を掴んだまま目を丸くしている。
「お、おじさん……。これ、本当に……」
倉科は糸目のまま、わずかに首をかしげた。
その声音は、恐怖とは無縁の穏やかさを帯びている。
「……ふむ。なるほど。想像以上に“元気”ですね」
「元気って……! あの時計、止まってたんだよ!? 勝手に鳴るなんて、どう考えてもオバケでしょ!」
倉科は袖口から懐中時計を取り出し、針を確かめた。
「時刻はちょうど二時。外気が冷え込む時間帯です。古い屋敷は梁が軋み、壁や床が収縮して音を立てる。その振動が、時計の枠を伝って共鳴し……」
彼は時計の側面に手を当て、軽く叩いてみせた。
――カチ。
まるで応えるように、振り子がわずかに揺れた。
「ほら。このとおり」
一花は唖然とした顔で時計を覗き込み、口を半開きにした。
「……じ、じゃあ……足音みたいに聞こえたのも?」
「梁の軋みと共鳴が重なれば、十分に足音のように聞こえます。
そして鐘の音は――」
倉科は時計の裏面を開け、奥を指差した。
「ほら、ご覧なさい」
そこには、小さな影が蠢いていた。
ネズミだ。歯車の隙間に入り込み、たまたま仕掛けを動かしていたのだ。
「……偶然とは恐ろしいものです。湿気でわずかに動いたゼンマイ。軋む梁。共鳴する木枠。そして小動物。これらが重なって、怪奇に“仕立て上げられた”わけです」
一花は口を尖らせて腕を組んだ。
「なーんだ……全部科学で説明できるってこと?」
倉科は小さく笑みを浮かべた。
「そういうことになりますね」
部屋に再び静寂が戻る。
一花は胸を撫で下ろしながらも、まだどこか納得のいかない顔をしていた。
調査を終え、依頼人もようやく安堵の息をついた。
時計の裏に潜んでいたネズミは追い払われ、倉科の説明により「怪奇の正体」は解き明かされたように見えた。
「これで、もう大丈夫でしょう」
倉科は穏やかな声で告げ、時計を覆っていた布を丁寧に掛け直した。
依頼人は深々と頭を下げ、涙ぐんで礼を言う。
安心したためか、依頼人は時計を倉科の店で引き取ってほしいと申し出た。
一花は大げさに伸びをして、気を抜いたように笑う。
「ふー、なんだ。オバケじゃなかったんだね。
でもちょっと残念だなあ、もっとド派手なやつ見たかったのに」
倉科は苦笑を浮かべる。
「……派手なものなど、無いほうがいいのですよ」
二人が時計を持ち上げ、玄関先まで運び出そうとしたその時だった。
――ボーン。
布に包まれ、針も動いていないはずの古時計から、重々しい鐘の音が響き渡った。
一度、二度、三度……止まることなく十二回。まるで真夜中を告げるかのように。
一花は蒼白になり、布の端を慌ててめくり上げた。
だが、針はぴたりと止まったままだった。
「お、おじさん……。今の、どういうこと……?」
倉科は時計を見下ろし、細い目をさらに細める。
やがて小さく息を吐き、柔らかい調子で答えた。
「……まあ。風のいたずら、ということにしておきましょう」
その声は穏やかだったが、瞳の奥にはかすかな鋭さが宿っていた。
――科学で説明できることのほうが多い。
だが時に、説明のつかないものが残る。
それこそが“怪異”なのだ。

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