穏やかな日差しに照らされた海が、どこまでも広がっていた。
波のうねりに合わせて、光の粒が細かく弾ける。見ているだけで、胸の内側がゆっくりほどけていく。潮風を吸い込むと、塩と藻と、遠くの船板の匂いが混じって肺を満たし、波音が時間の輪郭を鈍らせた。
島から大陸へ出る航路は、この港だけだ。
だから港には、島の若者が各地から集まってくる。大陸へ行ってみたい。世界を見てみたい。そんな熱が、人と人の隙間から湯気みたいに立ちのぼっている。
片言の大陸言葉が潮風に乗って聞こえた。慣れない発音が弾むたび、笑い声がこぼれ、誰かの肩がぶつかり、誰かの夢がすれ違う。
俺は船着き場から少し離れた、小高い木陰に腰を下ろしていた。日差しは明るいのに、葉陰はひんやりと落ち着く。
腰の長剣に手を置く。革巻きの感触は、握る前から掌の形を知っているみたいに馴染んでいる。指先に力を入れると、胸の奥で何かが硬く結び直されるのが分かった。ひとりで来た。ひとりで、行く。そう言い聞かせるための手つきだった。
村に訪れる大陸商人の話を聞いて育った俺は、いつの間にか数々の見知らぬ街や迷宮、怪物討伐に憧れるようになっていた。魔法や伝説、遠い土地の気候や動植物。火山の麓に咲く花の色、雪原で鳴く鳥の声。
そして……
世界の壁。
遥か西の果てに、世界の壁があるという。
この世の終端と呼ばれる場所。何人たりとも寄せ付けぬ、長大で高大な絶壁。その両端も、その上方も、誰も見た者はいない。語られるほどに輪郭が薄くなるのに、不思議と胸の内側だけは鮮明に震えた。
俺は、その壁に無性に惹かれた。
理由は分からない。ただ、惹かれる。見てみたい。越えてみたい。壁を見たこともないのに、壁を思い描くだけで、心がすっと軽くなる瞬間がある。広い広い大空のイメージが、内側から満ちてくるのだ。
どこかで、それを「知っている」みたいに。
父から譲り受けた長剣を手に、俺は大陸商人から買った剣術書を手本に訓練を重ねてきた。
あるとき、俺の長剣を見かけた商人が、どこかの国の名前を口にした。幼かった俺はその名前を覚えられなかったが、この島の地名ではない、不思議な響きだけは耳に残っている。
数十人の集落の貧しい村落で暮らす父が、どうしてこんな長剣を持っていたのかは分からない。父は亡くなる前、ただ「大切にしてきたものだ。お前に使ってほしい」と言っただけだった。
長剣は、俺の手にすっと馴染んだ。なぜか懐かしさすらあった。
譲り受けたその日から、俺はこの剣を手元から離したことがない。離すほうが不自然で、離せば自分の輪郭が薄れる気がした。
十七年間、生まれ育った村を出た俺は、今この港から大陸へと出発しようとしている。
俺は立ち上がり、尻に付いた砂を両手で払った。ざらり、と乾いた音。思いがけず現実味が強くて、少し笑いそうになる。
船着き場へ向かって歩き出す。
そのときだ。
グレーのフードに、マントのふたり組が、俺のほうへ勢いよく駆けてくるのが見えた。
背中まで覆うサイズのマントを胸から腰のあたりまで閉じていて、一見するとローブにも見える。みるみる姿が大きくなる。海風の中で、その者たちだけが風を裂いているみたいだった。
ふたりとも、フードの中の顔は完全な白塗りで、輪郭を強調した化粧。表情が読み取れない。
そういえば、この島の奥地に、そういう化粧を美しいとする価値観を持つ、排他的で厳格な村があると聞いたことがある。あれの人間だろうか。だとしたら、港でこんなふうに走る理由は何だ。
ふたりは猛突進と呼びたくなる速度で、俺の横をすり抜けようとした。
ひとりは軽やかに過ぎ去った。横目に見えた輪郭は、女性のようにも見えた。
次の瞬間、もうひとりが俺に正面衝突した。
油断していた俺は避けられず、体勢を崩す。反射的に右足を後ろへ引き、踏ん張って立て直し、衝突した相手を抱きとめた。
マント越しに伝わる火照り。柔らかな感触。湯気立つ汗に甘い香りが混じり、鼻孔をくすぐる。
こちらも女性だった。目が合う。
一瞬、相手は固まった。
俺の目を見たまま、小さな吐息とともに短く呟く。
「碧い…」
その一言が、潮風より冷たく胸に落ちた。
女性は気づいたように俺を鋭く睨み、次の瞬間、両手で俺の胸板を正確に突いて体勢を立て直した。突きは迷いがなく、身体の軸を狙ってくる。
マントがはだけ、左肩が露わになる。意外と筋肉質な肩に日差しが照り、拳より少し小さいほどの涙形のタトゥーが、一瞬だけ見えた。
俺は踏ん張り切れず、後ろへ転倒した。
尻を石畳に打ち付け、叩かれたみたいに脳が痺れる。息が一拍遅れて戻り、視界の端で海がきらついた。
相手は、俺を見下ろしていた。
過ぎ去ったはずのひとりも、いつの間にかその隣にいる。いつでも、いかようにも動ける。無駄のない気配だけが立っていた。
はだけたマントを羽織り直す女性に、もうひとりが知らない言葉で何か問うている。声が高い。やはりこちらも女性なのだろう。化粧のせいでよく分からないが、俺と同じくらいの年頃に感じた。
一瞬の静寂。
見上げている俺に、ふたりは刺すような視線を放った。
そして、背を向け、走り去った。
俺はしばらく唖然としていたが、軽くため息をつく。
立ち上がって身体についた砂を払うと、何事もなかったふりをして、船着き場へ向かって歩き出した。潮風はさっきと同じ匂いのはずなのに、胸の中だけが少しだけ、別の味を帯びていた。

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