一度だけ、ヨグは従者を従え下界に降り立ったことがある。
目的は特になかった。
というより、付き従っていた従者に無理やり連れてこられたのである。
しかし、その時の自然が織り成す美しい光景。
魔界の住人とは異なる、人々の柔らかな対応。
感情を持つ生き物の、『笑顔』というものをヨグはここで初めて目の当たりにした。
こんなに素晴らしい世界があるのかと、いたく感動させられた。
人々と少し会話もし、ヨグもまた自然と微笑みながら彼らと打ち解け……る事は出来なかった。
ヨグの膨大な魔力は、下界の環境には毒に近しい存在だった。
草木は枯れ、人々は病を発症する。
枯れた草木は流石に無理だったが、病んだ人には魔力を少し操作する事で治療したのち、ヨグは直ちに魔界へ戻った。
そしてそれが、『ヨグ様の奇跡』とされ、今日まで続くヨグ教の始まりである。
転移、あるいは転送と呼ばれる事象は、なかなかに厄介なものである。
原理を簡単に説明すると、『別次元を用いたショートカット』というものだ。
魔法陣が入口、及び出口となり、亜空間を進み目的の場所へ行く。
しかしながらこの亜空間が単純ではない。
重力や気圧、或いは温度に至るまで全てがめちゃくちゃになっているのだ。
距離の短い転移であれば、その分亜空間を進む距離は比例的に短くなり時間も少なくて済むのでリスクは少ない。
だがその逆は言わずもがな、なのである。
無策で亜空間に入ってしまえば、例えば超スピードで飛来する何かの瓦礫や岩石に衝突してしまったり、超低温で凍らされた後に灼熱地獄に晒されたりする事もあるのだ。
そんなわけで思った以上に危険な転移であるが、それを軽減する方法が一つだけ存在した。
『生贄』である。
これを捧げる事によって、亜空間に入った時の厳しい環境を和らげる事が何故か出来た。
何故かは分からないが、とりあえず『生贄』として効果があるのはどうも適当な『有機物』である事らしい。
例えば、小動物だとか魔族や下界の人間や、或いは……生肉なんかもいいだろう。
一応捧げるものによって効果に差はあるとの事である。
「うまく……いったのか?」
「消えたと言う事は……とりあえず転移は出来た模様です」
「よし、では――」
反乱軍の仮の代表となった魔族――ハスターは集まった群衆に向き直り、大声で叫ぶ。
「ヨグ=ソトスは死んだ! この世界から消滅した! やつの所有していたものは、全て私たちのものである!」
群衆は沸き立ち、大きく盛り上がる。
素直に喜べないのは、声を上げたハスターと詳細を知る老魔族――ビヤーキだ。
「――よろしいので? 先程のは、転移とも呼べぬ『ただ亜空間に放り出しただけ』ですが」
「構わん。 あれ以上ヨグを倒せないとなれば、またヨグを持ち上げる奴が現れるかもしれんからな」
ヨグ=ソトスは、誰よりも強い。
領土拡大に興味が無い、会議にも出ない、全て部下任せ――ヨグが部下の忠誠心を失う理由は確かにあるのだが、それでもその強さは魔界において全てであり、カリスマであった。
ましてや、先程の戦闘でそれをまざまざと見せつけられたのである。
もし誰かが、「やはりヨグ=ソトスは最強だ」などと声を上げてしまえば再びヨグに付き従うものが現れるかもしれない。
だからこそ、早々に消えてもらう必要があった。
「……それで、この転移において問題点はどこにある?」
「まずどこにたどり着くかわかりません。 すぐそばに現れる可能性があります」
「それは大問題なのだが――」
「次にいつ出てくるかもわかりません。 普通の移転ならばきちんと出口を定め、亜空間に飛んだ時に目的地の道筋が現れますので出てくるまでにそう時間はかかりませんが……今回は亜空間に飛ばすことに専念したので――しかも無理やりに飛ばしたので、どんな弊害があるか、私にもわからないのです」
「……逆に亜空間でくたばることは?」
「……ヨグ=ソトスが死ぬ、とでも?」
「いや……ないな……くそ」
ハスターとビヤーキは顔を見合わせて、深くため息をついた。
弊害は、あった。
いつも自分に備わっていた魔力が、減少している。
どうやら、自分はまだ生きているらしい。
周囲の光景は、まるで水面にピンクやオレンジのインクを垂らしたような光景が広がっていた。
そして、あちこちに光を放つ【ゲート】が見えていた。
転移と亜空間の原理はある程度理解はしている。
「この場所は危険だが……」
四方八方に飛ぶ飛来物。
高温箇所や低温箇所。
いかにヨグといえども、ましてや魔力が減少している今の状態で長くここに滞在するのはやや危険である。
だがしかし、だからといってすぐ近くのゲートに入るのには躊躇われた。
転移する距離は、亜空間を進んだ距離に比例する。
反乱軍の近くに転移して、また揉めたりするのは非常に面倒だ。
そんな風に思いながら、ヨグは出来るだけ遠くのゲートを求め歩き始めた。
万全の状態であればおそらく傷を負うことなどなかったであろうヨグなのだが、しかし魔力が減少しておりしかも異常空間ともいえるこの亜空間を彷徨うのはいかに彼でも無傷ではいられなかった。
至る所に擦り傷、切り傷を作り、やけどを負ったところがあれば凍傷になったところもある。
近場にゲートは存在していたものの、それでもヨグは前を見て歩き続けた。
これほど傷を負うことは今まで無かったな――そんな風に思いながら。
自身が傷を負うことは、特に気にならなかった。
そんな事よりも、出来るだけ遠くに行きたかった。
そんな矢先に、他のゲートと比べ一層光るゲートを見つけた。
更には、淡くだが誘導するかのように光の道筋が現れる。
心なしか、自分の周りに青白く光るオーラのようなものがまとわりつく。
これは――保護、か?
おそらく転移における『生贄』の保護膜のはず。
しかし……何故だ?
ヨグにはこの現象の理屈が説明できなかった。
とその時、脳内に声が聞こえる。
『ヨグ=ソトス様、お慕い申し上げます。 貴方様のご来訪、お待ちしております』
「うっ……」
柄にもなく、嫌な感情の籠った声が漏れた。
今まで存在していた部下でもこんなどっぷりと自分に心酔したかのような言葉は聞かなかった。
なんか、気持ち悪い。
むしろ部下達のはどことなく裏があるような、聞こえは良くとも『腹に一物抱えているんだろうな』と思わせる素振りのようなものを感じていた。
しかし今聞こえたものは、そういったものはまるで感じず、まさに本心からの言葉のように聞こえた。
逆にソレが、ヨグにとっては耳障りだった。
そんな折、もう1つの声が聞こえた。
『……誰か、パパのこのヨグ教狂いを治してくれないかな――』
「……ヨグ教……狂い?」
ヨグ、とは恐らく1つ前の男性の発言からも推測して自分の事……だと思われる。
『教』――宗教になっている、という事か?
一体、何故……いや、それよりも――
自分が宗教になっている事が気になりはしたが、ヨグはもう1つの声の方が気になっていた。
「久しぶりに……『人の声』を聞いたな」
些細な――本人にとっては大事かもしれないが――願いが、ヨグには新鮮に聞こえた。
しかも、平和な願いだ。
ヨグが行き先を決めるには、十分過ぎる理由がそのゲートにはあったのだ。
【オリオン専用祈祷室】
「え……ちょ、なにこれ……何が起きてんの……?」
セリアは現状に戸惑いを隠せない。
魔法陣が光を放ち、収まったと思ったら誰かいる。
背は父親よりも高め。
黒髪の長髪で、黒い羽が生えてる多分男の人だ。
光に包まれて、まだ詳細は分からない。
なんか、只事じゃなさそう。
「まさか……ヨグ様……なのですか……?」
オリオンは体を小刻みに震わせ、現れた人物に聞く。
バチバチと、何の音なのかよくわからない音が鳴りやむと、光は収まり男の姿があらわになる。
「え、超――」
イケメン、と言いそうになって流石に止めた。
父親のいる前で自分の好みを公表するのは、年頃のセリアに酷な事だった。
というか、それよりも。
「……ここは……どこだ?」
「ヨ……ヨグ様! ヨグ様なのですね!」
傷だらけ、であった。
なんかボロボロだった。
しかしそんな事を気にもとめない父親は、彼が『ヨグ=ソトスなのかそうでないのか』しか興味が無いようだった。
頭に来たので、流石に1発頭を叩いた。
「いたっ……セ、セリア?」
「言ってる場合じゃないでしょ! ほら、パパはよけて!」
言いながらセリアはオリオンを突き飛ばすようにおしのけて、現れた男性に近寄る。
「うわっ……傷だらけじゃん。 ほら、こっち来て」
「むっ……この程度大した事――」
「あるよ! 傷からバイ菌入って重症化することもあるの! 早くしなさい!」
「う……うむ」
セリアの剣幕に、『魔王』たるヨグもたじろいだ。
だが、同時に少し嬉しくもあった。
『魔王』としてではなく、対等に見て貰えることが、何より嬉しかったのだ。
少し微笑みながら、ヨグはセリアに手を引かれていた。

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