魔王城には、静寂が落ちていた。先ほどまで響いていた剣戟も、魔法の轟音も、もう聞こえない。
崩れた城壁から風が吹き込み、焼け焦げた瓦礫の間を抜けていく。壁には無数の亀裂が走り、床には砕けた石と血が散らばっていた。
世界を滅ぼしかけた魔王は――もういない。長きにわたった戦いは、終わった。そのはずだった。玉座の間へ続く廊下の奥。崩れた壁際に、一人の女が座り込んでいた。
魔王の妻だった。その身体は傷だらけだった。衣服は血に染まり、腹部には深い傷が刻まれている。呼吸は浅く、胸が上下するたびに苦しげな息が漏れた。
もう長くはない。それは、誰の目にも明らかだった。
それでも女は、両手で自分の腹を抱えていた。そこには、小さな生命がある。まだ、この世界に生まれてすらいない命。
その子の父親は、もう死んだ。そして、この女自身も、もう長くは生きられない。
それでも――この子だけは、生きてほしかった。
その時だった。廊下の向こうから、足音が聞こえた。
一歩。また一歩。瓦礫を踏み越えながら、誰かがこちらへ近づいてくる。
女は顔を上げた。
現れたのは、一人の青年だった。血に濡れた鎧。傷だらけの身体。そして、その手に握られた聖剣。
魔王を討った勇者――アレクシオス・ヴァン・エルディア。
彼は女の前で足を止めた。そして、彼女の腹へ視線を向ける。
「……子供か」
「分かるのね」
「勇者の加護がある」
アレクシオスは、もう一度その腹へ目を落とした。
聖剣を握る手に、まだ戦場の熱が残っている。けれど、その視線の先にあるのは敵ではない。
まだ、生まれてすらいない命だった。
「魔王の子だな」
「……ええ」
女は否定しなかった。短い沈黙が流れる。
崩れた城の隙間から風が吹き抜け、二人の間に血と煤の匂いを運んできた。
やがて女は、ゆっくりと頭を下げた。
「お願いします」
アレクシオスは黙っていた。
「この子だけは……殺さないでください」
その言葉に、アレクシオスの眉が僅かに動いた。
「……魔王の子だぞ」
「分かっています」
「この子が、いずれ魔王と同じ力を持つかもしれない」
「それでも」
女は腹を庇うように、両腕を回した。傷ついた身体が小さく震える。
それでも、腕だけは離れなかった。
「この子は、まだ何もしていません」
「……」
「父親が何をしたのかも知らない。人間が何を恐れているのかも知らない。ただ、生まれようとしているだけです」
アレクシオスは答えなかった。
視線を落とせば、腹の奥にある生命の気配が分かる。
あまりにも小さい。この手に握った聖剣で、簡単に奪えてしまうほどに。
「俺に、どうしろと言う」
「見逃してください」
「そして、いつかこの子が魔王になったら?」
女は静かにアレクシオスを見つめた。
「そのときは……あなたが決めてください」
「……」
「この子が魔王になるかどうかは、この子自身にも、まだ分からないでしょう」
女の声は弱かった。
それでも、その言葉には迷いがなかった。
「だから、まだ何もしていないこの子を、父親と同じだという理由だけで殺さないで」
長い沈黙が落ちた。アレクシオスは目を伏せる。
魔王を討った。それは、この世界を守るためだった。ならば、その魔王の血を継ぐ者も――。
そこまで考えて、彼は腹の中の小さな気配に意識を向けた。
まだ何も知らない。何も選んでいない。そんな命まで、自分が裁くのか。
やがて、アレクシオスが口を開く。
「……俺を買い被るな」
低い声だった。
「その子が魔王になるなら、俺はこの手で殺す」
女は目を伏せた。
けれど、拒絶はしなかった。
「それでも……構いません」
「何?」
「この子が、自分で選べるのなら」
女は腹へ手を添える。
「生き方を選ぶことも。力をどう使うのかを選ぶことも。誰を好きになるのかも。何を目指すのかも」
苦しげに息を吸う。
それでも、声は途切れなかった。
「その結果、魔王になるのなら……そのときは、仕方ありません」
アレクシオスは何も言わなかった。
女はそんな彼を見つめる。
血に濡れた勇者。世界を救った男。その手には、つい先ほどまで自分の夫の命を奪っていた聖剣がある。
それでも今、その剣は抜かれていない。
女は僅かに笑った。
「あなたは、優しい人だから」
「……」
「だから、お願いします」
アレクシオスは答えなかった。
ただ、聖剣を鞘へ収めた。硬質な音が、静まり返った廊下に響く。
それだけで、女には十分だった。けれど――彼女は自分の身体へ目を落とした。傷口から流れる血は止まらない。指先は、もう冷たくなり始めていた。
このままでは、自分が死ぬ。そして、この子も。
「……一つだけ」
女が呟いた。
「この子を守る方法があります」
アレクシオスの表情が変わる。
「何をするつもりだ」

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