「私の命を使います」
「やめろ」
「他に方法がありません」
女はゆっくりと腹を撫でた。
「普通に生まれれば、この子は魔王の子として狙われるでしょう」
「……」
「この国も、この世界も、この子を受け入れてはくれない」
声が僅かに震える。
それでも、女は笑おうとした。
「だったら……この子が生まれる時間そのものを、遠くへ送ればいい」
「時間を……?」
アレクシオスが目を細める。
「だから――この子が生きられる時間を、少しだけ遠くへ送ります」
女の身体から、魔力が溢れ始めた。淡い光が、崩れた廊下を満たしていく。
それは攻撃魔法でも、治癒魔法でもなかった。時間に干渉する、特殊な封印術。
アレクシオスは、魔法陣を見つめた。
「この子を……眠らせるのか」
「いいえ」
女は首を横に振った。
「眠るのではありません」
魔力がさらに膨れ上がる。足元に淡い光の術式が浮かび、幾重もの魔法陣が女の身体を取り囲んでいく。
そのたびに、女の呼吸が浅くなる。
「ただ、生まれる時を遅らせるだけです」
「いつまでだ」
「分かりません」
女は静かに答えた。
「この子が、生まれてもいい世界になるまで」
アレクシオスは何も言えなかった。
そんな世界が、本当に来るのか。魔王の血を引く子供を、人々が受け入れる日など。
けれど女は、疑っていなかった。自分が見ることのできない未来を、それでも信じていた。
魔術が完成へ近づいていく。女の身体が淡い光に包まれ、輪郭が少しずつ滲んでいく。まるで、この世界から身体だけが切り離されていくようだった。
やがて、その身体は巨大な魔力の殻へと姿を変え始めた。まるで、一つの箱のように。
その中心には、小さな生命だけが残される。
アレクシオスは、その光景を黙って見つめていた。
「……名前は?」
女が顔を上げた。
「名前?」
「ああ」
アレクシオスは言った。
「その子の名前だ」
女は少しだけ目を細めた。
そして、優しく腹を撫でる。その手は、もうほとんど光の中に消えかけていた。
「エルディアス」
その名を口にした瞬間、彼女の表情が柔らかくなる。
「エルディアス・ヴェル・レグナ・アシュレル・セレディオ=グラディア」
まだ生まれていない子供に与えられた、最初の贈り物だった。
「……長い名前だな」
女が小さく笑った。
「この子が大きくなったら、きっと困るでしょうね」
「それでも?」
「ええ」
今度こそ、女は嬉しそうに笑った。
「この子の名前ですから」
光が強くなる。もう、彼女の姿はほとんど見えない。
それでも最後に、女はアレクシオスを見つめた。
「この子があなたの前に現れたとき」
女の声が弱くなる。
「どうか、一度だけ名前を呼んであげて」
アレクシオスは黙っていた。
「この子が、誰にも自分の名前を呼んでもらえない人生にならないように」
その言葉を最後に、魔術が発動した。
光が弾ける。女の姿が消える。あとには、巨大な魔力の殻だけが残された。
アレクシオスは、その前に立ち尽くしていた。やがて彼は、静かに口を開く。
「……エルディアス」
初めて、その名を呼んだ。
返事はない。ただ、殻の奥で小さな命が脈打っている。その鼓動だけが、静かな廊下に残っていた。
アレクシオスはしばらくそれを見つめていた。
やがて、背を向ける。いつか、この子がこの場所から出てくる日が来る。そのとき、この子が何になるのかは誰にも分からない。
魔王になるのか。それとも――。
その答えを決めるのは、まだ生まれていないこの子自身だった。
*
そして、時は流れる。魔王討伐から、二十六年。星環暦一〇四一年、春。エルディア学術院、入学式。新入生たちの声が、広い校庭に響いていた。
人間族。エルフ。竜人族。獣人族。様々な種族の学生たちが行き交っている。春の風が吹くたび、真新しい制服の裾が揺れた。
その中を、一人の少年が歩いていた。十五歳。黒に近い濃紺の髪。どこか不安げな表情。周囲を気にするように視線を彷徨わせながら、それでも少年は前へ進んでいく。
エルディアス・ヴェル・レグナ・アシュレル・セレディオ=グラディア。
誰も知らない。彼が魔族であることを。その身に、かつて世界を滅ぼしかけた魔王の血が流れていることを。
少年は校門をくぐった。
その姿を、校舎の二階から一人の男が見つめていた。四十五歳になったアレクシオスは、窓辺に立っている。二十六年前。魔王城で、まだ生まれていなかった子供の名前を呼んだ男。
そして今――その子供は、自分の目の前にいる。
「……エルディアス」
少年が振り返る。
だが、こちらに気づくことはない。アレクシオスは、ほんの僅かに口元を緩めた。
「……大きくなったな」
その声は、春の風に紛れて誰にも届かなかった。
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