風の音が、細い笛のように鳴っていた。
倉科骨董品店の硝子戸が揺れ、外の寒気がわずかに入り込む。
午後四時を過ぎたばかりだというのに、外の光はすでに青く沈み、街路樹の枝が冷たい風に細かく震えていた。
帳場の中、倉科隆雄は炭をいじりながら火箸を動かしていた。
炭火の赤が、静かな呼吸のように明滅している。
湯の沸く音がかすかにして、空気が柔らかく揺れた。
「なんだか急に寒くなったなぁ……」
波多野一花は両手を火鉢にかざしながら、小さく肩をすくめた。
金と黒のツートンの髪が、炭火の色を映して揺れる。
暖を取る仕草は幼く見えるが、その表情は退屈と眠気の入り混じったものだった。
「……もうすぐ冬になっちゃうじゃん。 冬って嫌い。外寒いのに、室内は乾燥してさ……肌が荒れるんだよ」
「……女性らしい発言ですね」
「ほめてないよね、それ」
倉科は湯呑みに茶を注ぎながら、静かに微笑んだ。
硝子戸の外では風が唸り、どこかで季節外れの風鈴が鳴った。
――その音に重なるように、もう一度、戸の引き鈴が鳴る。
チリン、と一度。
続けて二度。
「……お客さん?」
一花が顔を上げると、硝子戸の向こうに黒いコートの影が立っていた。
襟を立て、手にはくたびれた革の鞄。吐く息は少し白く、指先が赤く染まっている。
倉科が立ち上がるより早く、その男は扉を開けた。
冷たい風が店内に流れ込み、紙灯籠の火が小さく揺れる。
「いやぁ……寒いですね、先生」
声は低く、どこか掠れている。
その男――久世透は、慣れたような動作でコートを脱ぎ、帳場の前に立った。
一花は眉をひそめて、胡散臭そうに睨んだ。
「誰? 先生って。知り合い?」
「……久世さん。ずいぶん久しぶりですね」
倉科は微笑みながら答えた。
久世は軽く会釈をし、ポケットからメモ帳を取り出した。
「お邪魔します。相変わらず静かで助かりますよ。取材にも向いてそうだ」
「うちは喫茶店じゃないですよ」
一花が即座に突っ込む。久世は肩をすくめ、笑ってみせた。
「ですよねぇ。……でも、不思議なんですよ。
この店に来ると、外よりあったかいのに、背筋がちょっと寒くなる」
「それは……たぶん、私の目のせいかもしれません」
倉科の穏やかな返答に、一花が苦笑する。
「それで――今日はどんな風の吹き回しです?」
「ええ、その“風”の話をしに来たんです」
久世はメモ帳を机に置き、少し身を乗り出した。
目の奥に、記者特有の探るような光が宿る。
「最近、この町の古い商店街で、妙な“噂”が流れてるんですよ。
――“見た人がいない影”の話です」
一花が小さく首をかしげる。
「見た人がいないのに、噂?」
「そう。誰も見てないのに、全員が知ってる。
夜、街灯の下を歩くと“影が二つになる”って話」
倉科は茶を注ぐ手を止め、静かに聞いていた。
久世は言葉を続ける。
「おかしいでしょう? “見た人がいない”のに、“語る人がいる”。
……それを取材してたら、なんだか私自身、変な影を連れてる気がしてきましてね」
軽口のように言いながらも、その声はどこか疲れていた。
店の外では、また風が鳴った。
落葉が硝子戸に叩きつけられ、淡い音を残して舞い落ちる。
倉科は湯呑みを置き、久世を見た。
目の奥が、ほのかに光る。
「……見えないのに“いる”もの。
――それは、私の得意分野かもしれませんね」
夜の街は、まるで世界が息を潜めたようだった。
少し冷たい空気が肺の奥を刺し、白い息が街灯の光をすり抜けて消えていく。
古い商店街――昼間でも人通りの少ない場所が、夜になるとまるで廃墟のように静まり返る。
アーケードの鉄骨が風できぃ、と鳴り、遠くの看板がわずかに揺れている。
街灯の光が等間隔に並び、その下に、三つの影が落ちていた。
倉科隆雄、波多野一花、そして久世透。
「……うわ、寒っ。なんでこの時期の夜って、音まで冷たく聞こえるんだろ」
一花は吐く息を手のひらで温めながら、周囲を見回した。
店のシャッターは下り、並ぶガラスには「貸店舗」の貼り紙がいくつも見える。
「たぶん、空気が乾いてるからだよ」
久世がカメラのレンズを拭きながら、肩をすくめる。
「音が湿らない。だから、人の声も、足音も、やけに遠くまで響くんです」
その言葉に、倉科がわずかに頷く。
「……音が“遠く”に届くということは、こちらにも“近くない音”が届く、ということでもあります」
「……やめてくださいよ先生、そういうこと言うの」
久世は苦笑しながら録音機のスイッチを入れた。
小さな赤いランプが灯り、風の音が拾われる。
その時だった。
――コツ、コツ。
一花がぴくりと肩を揺らした。
「……今、足音しましたよね?」
「俺たちのじゃないか?」
「ちがう。……アタシたちの足音の後ろに、もう一人いる」
風が通り抜け、ポスターがはらりと剥がれる音がした。
街灯の下に、三人の影が並んでいる。
そのうち、一花の影だけが――わずかに“遅れて”動いた。
息を呑む間もなく、彼女は後ろを振り返った。
だがそこには誰もいない。
ただ、倉科が静かに彼女の肩に手を置いた。
「慌てないでください。あなたが動揺すると、“それ”も揺れます」
「……それ?」
「影というのは、“光の記憶”です。
……もし光にさえ、何かを覚えておく性質があるのだとしたら――」
言葉が途切れる。
風の向きが変わり、照明がひとつ、瞬いた。
その瞬間、アスファルトの上に――“四つ目”の影が落ちた。
動かない。
形も曖昧で、人の輪郭のようで、そうでないようでもある。
一花が息を止める。
久世が思わず、カメラを構えた。
「おいおい……冗談だろ……」
ファインダーの中。
彼の視界に、影が確かに写っていた。
しかしシャッターを切った瞬間、光が揺れて――影は、消えた。
ただ、録音機だけが、風とは違う音を拾っていた。
――コツ。コツ。
まるで、誰かがもう一人、そこを歩いているかのように。
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帰り道、一花はほとんど口をきかなかった。
久世も笑い飛ばす気になれず、ただ録音機を握りしめていた。
倉科は、冬の空を見上げたまま静かに言う。
「……見たものが“存在する”とは限りません。
けれど、“存在しないもの”を恐れるのは、いつだって人間の方です」
白い息が空に溶けていく。
夜は、何もなかったように静かだった。
翌朝。
曇り空の下、商店街はまるで何事もなかったように静まり返っていた。
昨日あれほど強かった風も止み、空気は重たく湿っている。
久世はカメラを肩に下げ、ひとり通りを歩いていた。
昨夜、確かに“影”を見た。
それが光の錯覚でも、記憶の揺らぎでもないことを、彼の記者としての感覚が告げている。
ただ――
それをどう書けばいいのか、まるでわからなかった。
ポケットの中でスマートフォンが震えた。
画面を覗くと、一花からのメッセージ。
「久世さん、倉科先生が呼んでる。店に来て」
久世は無意識に息を吐き、足を倉科骨董品店へ向けた。
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店の中は、昨日よりもさらに静かだった。
火鉢の炭が赤く光り、湯の音だけが空間を満たしている。
一花は帳場の横で新聞紙を丸め、火箸で突いて遊んでいた。
久世が入ってくると、彼女は顔を上げる。
「おっ、噂の記者さん。影連れてきてないよね?」
「どうだろうな。写ってたら、スクープだ」
軽く言いながらも、久世の声はどこか張りを欠いていた。
倉科が湯呑みを差し出す。
「どうぞ。温かいうちに」
「ありがとうございます」
湯気が白く上がり、指先が少しずつ温もる。
倉科はその湯気を見つめながら、静かに口を開いた。
「……商店街の噂、消えましたよ」
「消えた?」
「はい。朝の時点で、誰も話していません。
昨夜まで“影が二つになる”と言っていた人たちも、今朝はまるで覚えていない」
一花が眉をひそめた。
「そんなことある? あたし、昨日あんなに怖かったのに」
「人の記憶というのは、都合のいいものです。
特に“誰も見ていないもの”ほど、忘れやすい」
倉科の声は淡々としていた。
久世は湯呑みを置き、スマートフォンを取り出した。
「……先生、これ、見てもらえます?」
「昨夜の写真ですか?」
「いえ。俺が撮った写真じゃないんです」
画面に表示されたのは、一枚の写真。
街灯の下、アスファルトに落ちた黒い影。
人の姿はない。
そこにあるのは、“影だけ”。
一花が覗き込み、息を呑む。
久世は指でスクロールする。
撮影時刻は、昨夜の十時二十七分。
――あの“影”を見た直後の時間だ。
「もしかして、ポケットの中でシャッター押したとか……?」
一花が半ば冗談で言う。
久世は首を横に振った。
「その可能性も考えたけど、角度が違う。俺の立ち位置じゃない」
倉科はスマートフォンを手に取り、じっと見つめた。
光の反射に、薄く瞳が揺れる。
「……興味深いですね。
おそらく、久世さんが“撮ったことになっている”写真なのでしょうね」
「どういう意味です?」
「さて。 私にもわかりません」
一花が目を丸くする。
「なにそれ、心霊写真の理屈みたい」
「心霊より、よほど現実的ですよ」
倉科の声は柔らかいが、どこか深い響きを持っていた。
「噂は、人の“共有する記憶”から生まれる。
誰も見ていなくても、“みんなが知っている”という感覚が、実体を与えるのです。
あなたが取材して書こうとした瞬間、その“影”は、形を得た」
久世は黙っていた。
確かに、あの瞬間――自分は“これを記事にしよう”と思った。
それが“見えない何か”に形を与えたのだとしたら。
「……つまり、俺が“作った”ってことですか」
「ええ。無意識に。ですが、それは罪ではありません。
あなたが“言葉にしようとした”ことが、この噂の終焉を呼んだのかもしれませんね」
一花が、納得できない顔で湯呑みを見つめる。
「噂って、怖いね……。言葉にしたら、本当に出てくるなんて」
倉科は微笑み、ゆっくりと頷いた。
「“語り”とは、命を吹き込むことです。
そして、“忘れる”という行為が、その命を鎮める。
……古くから伝わる“言霊”とは、そういうものですよ」
店の外では、風が再び吹き始めていた。
硝子戸の向こうを、白いものがちらちらと舞っている。
――雪だった。
久世は立ち上がり、コートの襟を直した。
「先生、これ……記事にはできませんね」
「ええ。ですが、記録には残しておくべきです」
「……記録?」
「忘れられたことを、覚えておく役目もありますから」
倉科の言葉に、久世は微笑みを返した。
その笑みには、ほんの少しの寒気が混じっていた。
日が沈むのは早い。
午後四時を過ぎると、この町の空はもう群青に沈み始めていた。
街の光が雪片を照らし、宙を漂う白がゆっくりと降りてくる。
倉科骨董品店の硝子戸の向こうに、三つの影が映っていた。
倉科隆雄は帳場の前で茶を淹れ、一花は湯呑みを両手で抱えて座り、久世透は立ったまま外の雪を見つめている。
「静かですね」
久世がぽつりと呟く。
「雪が降ると音が吸われますから」
倉科の声が柔らかく返る。
一花は頬を赤らめながら、ぼんやりと窓を見た。
「……なんか、あっけなかったね。あの噂、すぐ消えちゃって」
一花の言葉に、倉科は茶を注ぎながらほほ笑んだ。
「消えたのなら、それでいいのですよ」
その時、倉科が何かに気づいたように顔を上げた。
「……久世さん、スマートフォンを見てもいいですか?」
久世が差し出すと、倉科は画面を軽く拭き取り、再び写真を開いた。
昨夜、影が映っていたはずの一枚。
――そこには、もう何も写っていなかった。
ただ、街灯の下に広がる薄い光の帯。
影は消え、跡形もない。
一花が小さく息を呑んだ。
「……ねぇ、ほんとにこれ、昨日の?」
「はい。ですが、“噂”が消えれば、“証拠”も消えます」
「……そんなこと、ある?」
「ありますよ。世界はいつだって、言葉で繋がっている。
だから、言葉を失えば、世界の一部も静かに消えるんです」
久世は黙ったまま、画面を見つめていた。
そこに何も写っていないのに、なぜか視線を外せなかった。
――まるで、何かに見られているような気がした。
「先生」
「はい」
「……また、何かあったら相談してもいいですか」
「もちろん。うちは、“形のないもの”専門ですから」
倉科が微笑むと、湯気の中でその表情が少しだけぼやけた。
一花が軽く伸びをして言う。
「じゃあ、今度は“給料が出る怪異”持ってきてね、久世さん」
「そんなもん、あるなら俺が欲しいよ」
笑いが小さく店内に広がる。
湯の沸く音がかすかに重なり、風が硝子戸を叩いた。
その音はどこか寂しげで、しかし心地よかった。
久世はコートの襟を立て、軽く会釈した。
「じゃあ、また。……次はもう少し、明るい話を持ってきます」
「期待してます」
倉科は穏やかに頷き、一花は小さく手を振った。
戸を開けると、白い風が流れ込んだ。
久世はその冷気に少し目を細め、ゆっくりと通りに出た。
夕闇の中、足跡が雪の上に続く。
――ふと、街灯の下で彼は立ち止まった。
自分の影が、足元にひとつ。
そのすぐ隣に、もうひとつ。
目を凝らすと、それは風の形に溶けていった。
久世は小さく笑った。
「……記事にはできませんね、やっぱり」
夜風がその言葉をさらい、風の中に淡く消えた。
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