その日も、この町の空は低かった。
灰色の雲が海から押し寄せ、街を丸ごと覆い隠そうとしている。
倉科骨董品店の硝子戸の向こうでは、細かい雪が風に巻き上げられていた。
店内では火鉢の炭が静かに赤く光り、一筋の薄茶色い湯気が、ゆっくりと天井へ昇っていく。
一花はその湯気を目で追いながら、湯飲みを両手で包んだ。
「……寒いね、今日は」
「ええ。海からの風が、少し強いようです」
帳場の奥で、倉科が茶筒の蓋を戻す。
白髪をきちんとまとめ、黒い着物の袖口からのぞく指先は、湯呑みの縁に静かに触れていた。
一花は、硝子戸の方へ視線をやった。
「久世さん、来るかな。なんか、こういう天気の日って、だいたい“厄ネタ”抱えてくるんだよね」
「ふふ。風が強い日は、噂も一緒に運ばれてくるものですよ」
倉科が穏やかに笑った、そのときだ。
からん、と風鈴が鳴り、硝子戸が横に滑った。
外気の冷たさと一緒に、マフラーに白い雪をつけた男が転がり込んでくる。
「……お邪魔します」
久世透だった。
黒髪に細かな雪をこびりつかせ、眼鏡のレンズを指先で拭いながら、軽く頭を下げる。
「おや、久世さん。今日はずいぶん早いですね」
「ええ、ちょっと……締め切りから逃げてきまして」
いつもの皮肉を混ぜた調子だが、声が僅かに掠れていた。
一花が首をかしげる。
「風邪ですか?」
「いや……そこなんだよ」
久世はマフラーを解き、湯飲みを受け取ると、喉をさすった。
「ここ数日、こっちの方がずっとおかしくて。で、原因になりそうな話も、ひとつ拾ってきたわけです」
「原因になりそうな話、ですか」
倉科が湯を注ぎながら尋ねると、久世は鞄から小さな取材ノートを取り出した。
「地元のアマチュア合唱団、知ってます? 市民ホールなんかでよく歌ってる連中」
「あ、あの青い制服っぽい衣装の。ニュースで見ます」
一花が頷く。久世はノートを開き、さらさらと書かれた字を指でなぞった。
「そこで、変な噂が出てるんです。“練習すると、ひとり足りなくなる”って」
一花が瞬きする。
「……サボりじゃないんですか?」
「最初はそう思ったらしいですけどね。ただ、点呼をすると、ちゃんと人数は合うんですよ。で、誰の顔を思い浮かべても、“その人はいる”」
「では、誰が足りないと?」
「そこなんです。誰も、“欠けている人の名前を思い出せない”らしい」
店内の空気が、少しだけ冷えたように感じられた。
「練習の録音を聴くと、なぜかハーモニーが一声足りない。音が、妙に軽い。なのに、団員は『誰がいないんだっけ』と首をひねる。指揮者の人だけが、深刻そうに『ひとり、消えたような気がする』と言っている」
久世は、そこで一度咳き込んだ。掠れた咳が、火鉢の上で小さく跳ねる。
「――で、合唱団が借りてる練習場所が、旧市民会館のホール。そこで昔、事故があったっていう噂までオマケで付いてきた。新聞社としては地味なネタですけど、“倉科骨董品店”的には、どうです?」
倉科は少しだけ目を細めた。
火鉢の炎が、瞳の奥に映る。
「“ひとり足りなくなる”のに、誰も名前を思い出せない。
――それは、声だけが先に“喰われている”のかもしれませんね」
「声が……喰われる?」
一花が繰り返す。倉科は頷いた。
「声は、その人の記憶と強く結びついています。歌ならなおさら。誰かの声が奪われれば、その人の存在も、少しずつ輪郭を失ってゆく」
外で、風が一際大きく唸った。
硝子戸が震え、看板がかすかに軋む音がする。
「行ってみましょうか、久世さん」
「……そう来ると思いました」
久世は肩をすくめ、マフラーを巻き直した。
一花は湯飲みを飲み干し、立ち上がる。
「よし、じゃあ“声の犯人”探しですね!」
「一花さん、あまり物騒な言い方は、声が傷つきますよ」
倉科の穏やかな冗談に、一花は舌を出して笑った。
だがその笑い声も、どこか雪に吸い込まれていくように、すぐにしぼんだ。
店の外は、もうすっかり、冬の気配で満ちていた。
*
旧市民会館は、街外れの少し高い場所にあった。
灰色のコンクリートの外壁はところどころ黒ずみ、入口のガラスには古いイベントのポスターが、色褪せたまま張りついている。
「ここ、まだ使ってたんだ」
一花が鼻をすする。外灯の光が、彼女のツートンの髪を青白くなぞった。
「ホール自体は老朽化で閉めてるけど、小さい練習室はまだ現役らしいです。市もなかなか壊せなくて」
久世が事前に取材許可を取っていたため、三人は管理人に案内されて中へ入った。
中に入ると、冷えた空気が肌にまとわりついてきた。
足音を立てるたびに、床板が低く鳴る。
合唱団の練習室は二階にあった。
扉を開けると、折り畳み椅子がいくつか並び、壁際に古いスピーカーとマイクスタンド、譜面台が残されている。
「……ここで歌ってたんだ」
一花が、空っぽの部屋を見渡す。
天井は高く、少し喋るだけで声がよく響きそうだ。
「練習の録音も、ここで取ってたそうです」
久世がメモをめくる。
倉科はスピーカーの前まで歩くと、指先で黒い布地をそっと撫でた。
「スピーカーは、“声の出口”でもあり、“記憶の口”でもある。ずいぶん長く働いてきたようですね」
一花が、興味津々といった様子でマイクの前に立つ。
「ちょっと、やってみてもいいですか?」
「ほどほどにお願いします」
「はーい」
一花は咳払いをし、「あー」と声を出した。
少し高めの、明るい声。
その声が室内に響いた――かと思った瞬間、
スピーカーから同じ声が返ってきた。
だが、それは耳に刺さるような冷たさを含んでいた。
湿った地下室で響くような、重たい残響。
一花は思わず肩をすくめた。
「……今の、あたし?」
「ええ。ですが、今あなたが出した声とは、少し違って聞こえましたね」
倉科が、スピーカーを見つめながら言う。
久世も眉をひそめた。
「妙に……湿っている。生で聞く声と、録音の声の違いってレベルじゃないな」
倉科はしばらく沈黙し、それから部屋の奥の壁を見た。
そこには、別の扉がひっそりと付いている。
「地下に続く階段があるようですね」
「地下?」
久世が鍵束を探る。
扉を開けると、冷気と一緒に、かすかな黴の匂いが立ち上った。
コンクリートの階段を下りるたびに、靴音が鈍く反響する。
地下室は狭く、コンクリートむき出しの壁と、裸電球がひとつ。
中央に、年代物のテープレコーダーが置かれていた。
「まだ、こんなの使ってるんだね……」
一花が呟く。
倉科はレコーダーに近づき、誰も触れていないはずの「再生」ランプが点灯していることに気づいた。
スピーカーから、ざらついたノイズが流れている。
よく耳を澄ますと、その奥に“声”が混じっていた。
〈……かえ……して〉
〈……わたしの……こえ……〉
一花は息を呑んだ。
「今の……」
「たしかに声ですね。だが、言葉が、ところどころ抜け落ちている」
倉科が目を細める。
久世は思わずスマホを取り出し、録音アプリを立ち上げた。
「音声、撮っておきます。記事になるかどうかはともかく、証拠には――」
そのときだった。
テープレコーダーの再生ランプが、ひときわ強く明滅した。
ノイズが膨らみ、声が悲鳴のように跳ね上がる。
〈かえして かえして かえして〉
「っ……!」
久世の喉に、鋭い痛みが走った。
息を吸っても、声が出ない。
「久世さん!?」
一花の叫びだけが、地下室に響く。
久世は口を開け、言葉を紡ごうとするが、空気だけが乾いた音を立てて吸い込まれていく。
そのさまを見た倉科は、懐から一枚の古びた札を取り出した。
迷いなく、テープレコーダーの上へ置く。
「――もう、十分でしょう」
その瞬間。
再生ランプが火花を散らした。
ノイズが、ぷつりと途切れる。
沈黙。
地下室の空気が、ぴんと張り詰めた弦のように震えた。
久世は膝に手をつき、肩で息をしながら口を押さえた。
「……っ、は……」
掠れた音が、ようやく喉から漏れる。
一花が駆け寄る。
「大丈夫ですか!?」
「……なんとか、声は、まだ……」
久世は自分の声を確かめるように、ゆっくりと短い言葉を発した。
倉科は札を押さえたまま、レコーダーを見下ろす。
「危ういところでした。もう少し遅ければ、久世さんの声も、“あちら側”に引き込まれていたでしょう」
「……あれが、“声を喰うもの”ですか」
「正確には、“声を喰った跡”ですね。
このレコーダーは、永い間、ここで声を取り込み続けてきたのでしょう。歌や台詞、独り言……どれほどの声が、この中を通ったのか」
「それが怪異になったってこと?」
「……さて。それは、このレコーダーに聞いてみなければ分かりませんね」
一花が、小さな声で問う。
「じゃあ……合唱団の“ひとり分の声”も、ここに?」
「可能性は高いでしょうね」
倉科は、札をもう一枚取り出し、そっとレコーダーのテープ部分に貼り付けた。
「これで、これ以上“食事”をすることはないはずです。
ただ――すでに喰われた声を返すことは、難しい」
久世は、乾いた笑いを漏らした。
「記者生命、危うくなるところでしたよ、本当に……」
「あなたの声は、まだこちら側にあります。油断は禁物ですが」
倉科が肩を軽く叩く。
地下室の空気は、先ほどよりもわずかに軽くなっていた。
だが、テープレコーダーの内部には、誰かのか細い声が、まだどこかに残っているような気配があった。
〈かえして〉
誰に聞かれることもなく、
それはゆっくりと、静かな沈黙の中に沈んでいった。
*
翌朝。
倉科骨董品店の前には、新しい雪が薄く積もっていた。
一花が雪かきをしていると、硝子戸の向こうから声がした。
「おはようございます」
久世だった。
いつもどおりのコート姿。
ただ、声の掠れはほとんど残っていない。
「久世さん、喉だいぶ良くなりましたね」
「ああ、まあ……寝て起きたら、だいぶ。変な夢は見ましたけど」
「変な夢?」
「なんか、真っ暗なホールで、誰かが歌ってるんですよ。
でも、歌詞もメロディも思い出せない」
一花は一瞬、昨夜の地下室を思い出し、言葉を探した。
そこへ、奥から倉科が顔を出す。
「おはようございます、久世さん」
「先生。……あの、昨日って何かありましたっけ」
久世が眉をひそめる。
一花が驚いて、倉科の顔を見る。
「旧市民会館の合唱団の件、ですよね?」
「合唱団? ああ、取材に行こうと思ってたんだ。
でも、まだ日程決めてなかったはず……昨日、行きました?」
一花の背筋を、冷たいものが走った。
「覚えてないの?」
「何か、ありました?」
久世は、本気で首をかしげている。
倉科は静かに微笑んだ。
「――声を少し、持っていかれたのかもしれませんね」
テーブルに、久世のスマホが置かれた。
倉科の勧めで、確認してみることになったのだ。
録音アプリを開くと、見慣れないファイル名がひとつある。
《koe_wo_k_uu_mono.wav》
「……俺、こんな名前つけました?」
「覚えていないのですから、私に聞かれても困りますね」
久世が再生ボタンを押す。
一花も身を乗り出した。
だが、スピーカーから流れたのは――完全な“無音”だった。
ノイズすらない、底なしの沈黙。
それを数秒聞いたところで、久世は停止ボタンを押す。
「……壊れてますね、これ」
「いいえ」
倉科が湯を注ぎながら、静かに首を振る。
「そこには、たしかに“声”があったはずです。
けれど、それを喰ったものが、すべて持ち去ってしまった」
「じゃあ、これ、何も写ってないのに、名前だけ残ってるファイルってことですか」
「ええ。
“声があったという事実”だけが、ここに刻まれている」
一花は、ぞくりと肩を震わせた。
「……声って、消えるんだ」
「消えるというより、“向こう側へ移る”と言った方が近いかもしれません」
倉科は湯飲みを手渡しながら、窓の外を見た。
雪は、細かい粒が絶え間なく降り続けている。
「声は、記憶の器です。
誰かがその声を覚えている限り、その人は“ここにいる”。
けれど、声を奪われ、思い出すこともできなくなれば――
その存在は、世界から少しずつ輪郭を失う」
倉科は、久世の方へゆっくりと視線を戻した。
「昨日の出来事を、あなたが覚えていないのは、そのためでしょう。
しかし、こうして“無音の記録”が残っている。
そして、一花さんと私が覚えている。
だから、その出来事はまだ、この世界から完全には消えていません」
一花は、スマホの画面を見つめた。
ただの無音の波形が並んでいるだけの画面。
それでも、確かに“何かがあった痕跡”のように思えた。
「……声って、こわいですね」
「ええ。見えない分だけ、なおさら」
倉科は湯飲みを口元へ運び、ひと口だけ啜った。
「ですが同時に、見えないからこそ――人の心に、深く残るものでもあります」
その言葉に、一花はふと笑みを浮かべた。
「じゃあ、あたしの声も、どっかで誰かの記憶に残ってるのかな」
「もちろん。ここにも、ね」
倉科が、静かな目で一花を見る。
一花は照れくさそうにそっぽを向いた。
久世は、スマホの画面を消し、そのままポケットにしまった。
「……また、記事にはならないですね、これは」
「書いてもいいですよ。ただ、あなた自身が、何を書いたか忘れてしまうかもしれませんが」
「それは勘弁してほしいなあ。
でも、ネタとしては――悪くない」
久世は立ち上がり、肩を回す。
「先生、また何かあったら連絡します。
喉を持っていかれない程度の、ほどほどのヤツで」
「それは、怪異側の都合次第ですね」
一花は笑いながら、硝子戸まで見送りに出た。
「久世さん、今度カラオケ行きましょうよ。ちゃんと声、生きてるうちに!」
「それ、死ぬ前提で誘ってません?」
軽口を交わしながら、久世は外へ出ていく。
冷たい風が、灰色の空から吹き込んできた。
倉科と一花は、店の中からその背中を見送る。
久世の足元には、雪の上に伸びる影がひとつ。
……一花は、その横に、一瞬だけ揺らめく“もうひとつの影”を見た気がした。
風が通り過ぎたときには、
それはもう、どこにもなかった。
「おじさん、今……何か聞こえなかった?」
「何がです?」
「……歌。遠くで」
倉科は答えず、硝子戸を閉めた。
一花は首を振り、店内へ戻った。
倉科は硝子戸を閉め、火鉢に炭を足しながら、ぽつりと言う。
「――見えないものほど、人の心に残るものですよ」
外では、風がまた強くなり始めていた。
雪は、街の音を少しずつ飲み込み、
かわりに、どこか遠くから届く“誰かの声”の気配を、かすかに運んできているように思えた。
倉科骨董品店の一日は、そんな静かな、そして少しだけ不穏な音の中で、ゆっくりと過ぎていった。
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