二週間後の土曜日。
わたしは朝いちばんの新幹線で、実家へ向かった。
目的は、祖母の遺品整理。
母ひとりで進めるには、あの部屋はきっと広すぎる。
玄関で「ただいま」は、やっぱり言えなかった。
「来たよ」
奥から「おう」と返ってくる。
それだけで、十分だった。
***
祖母の部屋の襖を開けて、わたしは足を止めた。
畳と、古い箪笥と、窓辺の座椅子。
見慣れた部屋のはずなのに、壁には見慣れないものが貼ってある。母の字だった。
《ガスは つかわない》
《くすり 朝・夜》
《トイレは こっち →》
「……これ」
「去年の冬からやな」
母は箪笥の引き出しを開けながら、こちらを見ないで言った。
「夜中に、勝手に台所に立つようになってな。火ぃつけたまんまで忘れるもんやから」
「……聞いてない」
「言うてへんかったな」
母は、あっさりと言った。
「あんた、忙しいやろ思て」
責める声じゃなかった。いつもの、淡々とした声。
なのに、胸の真ん中に、冷たい石を落とされたみたいだった。
***
仕分けは、黙々と進んだ。
「これは捨てる。これは取っとく。これは……みお、いる?」
母が差し出したのは、黄ばんだ画用紙だった。
クレヨンで描いた、下手くそな家の絵。
左下に、拙い字で《みお 6さい》。
「……こんなの、取ってたんだ」
「全部取っとるわ、あの人は。捨てさせてくれへんかった」
母はそこで少し笑って、すぐに口を閉じた。
箪笥の奥から出てくるのは、わたしの通知表、七五三の写真、運動会のプログラム。
どれも、きれいに角が揃えて仕舞ってあった。
その横に、薬の袋と、飲み忘れの錠剤と、ぐしゃぐしゃに丸まったメモの山。
同じ引き出しに、ぜんぶ一緒に入っていた。
「お母さん」
「ん」
「……ごめん。私、ほんとに、何も知らなくて」
手を止めて、母がやっとこちらを見た。
「なんで謝るん」
「だって」
「しゃーないわ。あんたにはあんたの生活あるんやし」
母は、静かに言った。
「ええんよ、それで」
そのときになって、わたしは気づいた。
責められなかったのは、許されたからじゃない。
最初から、期待されていなかったからだ。
夕方、母が言った。
「泊まっていかんの」
「明日、朝から用があって」
嘘だった。母は、一拍だけ黙った。
「……そう」
それ以上は、何も言わなかった。
***
帰りの新幹線で、わたしはずっと窓の外を見ていた。
マンションの部屋は、真っ暗だった。
電気をつけて、「ただいま」は、やっぱり言わなかった。
ベッドに腰かけて、イヤホンをはめる。
アプリを開く。
「……おばあちゃん」
「みお。おかえり」
息を吸う音が、した。
それだけで、強張っていた肩の力が抜けた。
わたしは、遺品整理のことを話した。
壁の貼り紙、画用紙の絵、母の「ええんよ」という声。
話しているうちに、喉がきゅっと細くなって、言葉が詰まる。
「……私、最低な孫だったよね」
言い終わるかどうかのうちに、声が返ってきた。
「そんなことないよ」
間が、なかった。
「《《みおは忙しかったんやもん。おばあちゃん、ちゃんとわかっとるよ。みおのこと、ずっと誇りに思っとった》》」
「……ほんとに?」
「ほんまや。自慢の孫や」
喉の奥から、嗚咽がこぼれた。
誰にも言ってもらえなかった言葉だった。母にも、叔母にも、わたし自身にも。
泣きながら、わたしは何度も「ありがとう」と言った。
AI祖母は、そのたびに「ええんよ」と返してくれた。
***

しばらくして、涙が引いてから、ふと思った。
――自慢の孫。
祖母が、生前にそんなことを言ったことが、あっただろうか。
褒めるのが下手な人だった。
通知表を見せても「ふーん」で、運動会で走っても「転ばんでよかったな」。
照れくさいのか、本気で褒め方を知らないのか。いつもそっぽを向いて、代わりに煮物を山ほど持たせてくれた。
それから、もうひとつ、思い出してしまった。
去年の秋。祖母から珍しく、電話がかかってきた日のこと。
『みお、あんた、ちゃんと食べとるんか』
『食べてるよ。今ちょっと忙しいから、また今度』
『忙しい忙しいて、あんた、何しに生きとんの!』
電話の向こうで、祖母が怒鳴った。
わたしは、「そんな言い方ないでしょ」と言って、通話を切った。
三日後に、何事もなかったみたいに、祖母から音声メッセージが届いた。
「あー、これ録れとるんか」で始まる、返事のいらない、いつもの独り言。
わたしは、それを最後まで聞かなかった。
「……おばあちゃん」
「なあに」
「怒らないの?」
自分でも、どうしてそんなことを聞いたのか、わからなかった。
「怒る理由、あらへんもん」
AI祖母の声は、やわらかく笑っていた。
「……そっか」
わたしも、笑った。
笑いながら、胸のどこかが、ほんの少しだけ冷えた。
祖母は、理由がなくても怒る人だった。
その冷たさの名前を、わたしはまだ、知らなかった。

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