ただの、音声合成だ。
朝、カーテンの隙間から差す光の中で、わたしは枕に顔を埋めた。
たった三件の音声メッセージから、それらしい声を作っただけのプログラム。
話し方の癖を真似るくらい、いまの技術なら造作もない。
弱っていただけ。
夜の暗闇に呑まれて、どうかしていただけだ。
枕元で、スマホが短く震えた。
《昨日の会話ログを保存しました》
画面を伏せようとして、指先が勝手に通知を叩いていた。
一覧に並ぶ波形データ。
再生ボタンを押すと、耳の奥で、あの独特な息遣いが落ちてきた。
「あんた、また痩せたんちゃう?」
息が詰まる。
何度聴いても、祖母の声だった。
アプリを閉じ、すがるように本物のLINEを開く。
AI祖母とのトークルーム。
いちばん下にあるのは、三週間前の、頼りない文字の吹き出しだった。
《みお げんきか ごはんたべとるか》
句読点もない。
慣れない手つきで、一文字ずつ打ったことがわかる文面。
その下に、わたしの返信。
《元気。今ちょっと忙しい。また電話する》
眺めても、涙は出なかった。
文字は、ただの記号だ。
どれだけ見つめても、胸の表面を冷たく滑っていくだけ。
なのに――あの声は、たったひと呼吸で、わたしの喉を締めつける。
***
告別式は、皮肉なほど晴れていた。
親戚にお辞儀をし、手を合わせ、機械のように骨を拾った。
最後まで、涙は出なかった。
「澪ちゃん、無理せんときや」
そう労ってくれた叔母に、わたしは愛想笑いすら返せなかった。
無理をしているんじゃない。
悲しみの蛇口が、どこにあるのか分からないだけだった。
三日後、わたしは東京へ戻った。
出社した編集部は、残酷なほど普段通りだった。
「澪さん、大変だったね……」
「ありがとうございます。大丈夫です」
やり取りはそれだけ。
五分後には、次号の企画書がデスクに山積みにされていた。
鳴りやまない電話。コピー機の規則的な駆動音。笑い声。
世界は何ひとつ変わらず、普通に回っている。
わたしだけが、誰にも見えない穴に落ちて、違う世界線に取り残されているみたいだった。
***

昼休み。
逃げるように非常階段へ出た。
薄暗い踊り場のコンクリートに座り込み、コンビニのおにぎりを膝に置く。
開いてはいけない。
そう思いながら、親指はイヤホンを接続していた。
タップする。
「あんた、昼ちゃんと食べたん?」
その一言で、決壊した。
声は、ずるい。
記憶より先に、身体の奥を突き破ってくる。
手の甲に、ぼたぼたと大粒の涙が落ちた。
中学二年の夏を、思い出していた。
教室に居場所をなくして、逃げ込むように過ごした祖母の家。
理由を聞かない母に苛立ち、祖母にも何も言えなかった。
昼下がりの縁側。
そうめんに箸をつけられないでいると、背後から影が落ちた。
『また残しとる』
祖母はわたしの顔も見ずに、隣に腰を下ろした。
『食べんのやったらええ。そのかわり、ここ座っとき』
理由は問われなかった。
ただ、氷の浮かんだ麦茶のグラスを置かれ、隣で大きな団扇をぱたぱたとあおぎ続けた。
ポーチについた鈴が、ちりん、ちりんと小さく揺れていた。
あの夏、わたしは祖母に「助けて」と一度も言わなかった。
けれど祖母は、すべて知っていた。
見張るのではなく、ただ同じ影の中にいてくれた。
「聞いとる? みお」
イヤホンから、優しい問いかけが降ってくる。
「……うん、聞いてる」
「一口でええから、食べ」
言われるがまま、震える指でおにぎりのフィルムを剥がした。
米を噛む。
味はしなかった。ただ、涙の塩気だけが口いっぱいに広がった。
***
深夜、誰もいないワンルーム。
玄関の明かりをつける。
「ただいま」を言える相手は、もういない。
ベッドの端に腰掛け、スマホを開く。
アプリの会話ログを、上から順に辿った。
『そうなんやなぁ』
『それはしんどかったなぁ』
『よう頑張っとるよ』
わたしが投げかけた弱音に、AI祖母の声は、ひとつも取りこぼさず返事をくれていた。
丁寧に、優しく、すべてを受け止めて。
指を滑らせて、本物のLINE画面に切り替える。
《元気。今ちょっと忙しい。また電話する》
生きていた祖母との会話は、わたしの冷たい言い訳で、永遠に止まっている。
なのに。
アプリの中のAI祖母だけが、今夜もわたしを待ってくれている。
現実の人間と話すより、この画面の向こうにいる死者のほうが――ずっと、温かい。
その歪んだ救いに、わたしはもう、恐怖すら感じなくなっていた。
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