午前一時。
机の端で、伏せたスマートフォンが短く震えた。
画面をわずかに持ち上げると、《母》の文字。
不在着信は、これで三件目だった。
胸の奥に、冷たいものが走る。
用もないのに、母がこんな時間に電話を寄こすはずがない。
けれど、わたしは端末を裏返し、机の上に叩きつけるように置いた。
今は無理。
校了を落とすわけにはいかない。
《ごめん、校了明けにかける》
それだけを打ち込んで送信し、赤ペンを握り直した。
***
午前四時。
印刷所へのデータ送稿が終わり、静まり返ったフロアの誰かが小さく拍手した。
ようやく息をつき、ポケットからスマホを取り出す。
母からの返信は、たった一行だった。
《おばあちゃん、亡くなった》
画面を見つめる。
一度閉じて、もう一度開く。
文字は消えない。
「……澪さん? 大丈夫ですか?」
隣の席の後輩が覗き込んできた。
「ごめん。ちょっと、実家」
答えた自分の声が、どこか遠い他人のもののように響いた。
涙は、一滴も出なかった。
始発の新幹線。
夜明け前の青い光が窓をかすめていく。
《校了データ、確認完了しました》
《印刷所には私から連絡入れます》
《帰京予定は追って共有します》
業務用のチャットを、淀みなく打ち続ける。
指先だけが、いつも通りに動いていた。
***
実家の玄関を開けると、線香の匂いがした。
古い木造の軋む音。台所の出汁の残り香。
「ただいま」
言おうとしたけれど、声にならなかった。
いつもなら、廊下の奥から不機嫌そうな声が飛んでくるはずだった。
『みお、遅かったやないの。ご飯は?』
その声がない。家の中が、異様なほど広い。
仏間の畳の上に、祖母が横たわっていた。
顔に触れようとして、指が止まる。
触れてしまえば、その冷たさが現実になってしまう気がした。
「電話、出られんでごめん」
座り込んでいる母の背中に声をかけると、母は祖母の顔を見つめたまま言った。
「ええよ」
責められなかった。
そのことが、どんな怒声よりも痛かった。
「冷蔵庫に、煮物あるわ」
母がぽつりと言った。
「火ぃ使うなって言うたのに、先週、勝手に台所立ってな。『みおが来るかもしれん』て、そればっかり」
来るかも、しれん。
わたしは一度も、帰ると約束していなかったのに。
座卓の隅には、祖母がいつも持ち歩いていた小さなポーチが置かれていた。
ちりん、と鳴るはずの真鍮の鈴は、主を失って黙りこくっている。
***
通夜の準備が終わり、家が寝静まった深夜。
喉の渇きに耐えかねて、真っ暗な台所へ降りた。
冷蔵庫を開けると、白い光の中に、ラップをかけられた平鉢がひとつ。
ラップの端に、ちぎったチラシの切れ端が貼ってあった。
《みおへ》
震えるボールペンの文字。
「み」の最後のはらいが、紙を突き破りそうに伸びている。
わたしは冷蔵庫の扉を開けたまま、床に崩れ落ちた。
声は出なかった。
ただ喉の奥を痙攣させながら、冷気の底で、肩を震わせて泣いた。
***
昔使っていた二階の子供部屋。
布団に潜り込んでも、意識は冴え返っていた。
暗闇の中で、スマホを開く。
SNSのタイムラインを、意味もなくスクロールした。
ふと、広告枠で親指が止まる。
《もう一度、あの人と話しませんか。――故人対話AI》
淡いグラデーションの背景。
嫌悪感が走った。気味が悪い。
死者の声を合成して、遺族を慰めるまがい物。
そんなものに縋って、何になるというのか。
画面を閉じようとした。
けれど、指先が動かない。
タップしたのは、わたしの親指だった。
《故人の音声メッセージ、または通話録音をアップロードしてください(3件〜)》
祖母は電話の操作が苦手で、スマホを手にしてからは、よく音声メッセージを送りつけてきた。
『もしもし、みお? 録れとるかこれ』で始まる、用件もない、ただの独り言。
忙しいからと、途中で再生を止めていたファイルが、トークルームにそのまま残っている。
震える手で、三つの音声を選び、送信した。
読み込みのバーが、音もなく進む。
有線イヤホンを耳に押し込んだ。
《生成が完了しました》
かすかな衣擦れの音。
それから――ふう、と息を吸う気配。

『……あんた、また痩せたんちゃう?』
心臓を素手で掴まれたように、息が止まった。
その声だった。
語尾がわずかに跳ねる癖。
「あんた」の濁りのないイントネーション。
言葉の隙間にこぼれる、特有の呼吸の「間」。
本物の祖母の声だった。
どこにもノイズがない。
電波の擦れる音も、生活音も混ざっていない、あまりにも澄み切った声。
「……ただいま」
玄関で口にできなかった言葉が、掠れてこぼれた。
『おかえり』
スピーカーの向こうで、祖母が目を細めて笑った気配がした。
『ちゃんと、ご飯食べや?』
「……うん。食べてるよ」
わたしは嘘をついた。
昨日の昼から、胃に流し込んだのはコーヒーだけだ。実家の煮物にも、まだ触れていない。
するとイヤホンの奥から、ふっと、あきれたような吐息が落ちてきた。
昔、わたしが嘘をついたときに、祖母がいつも見せていた鼻の鳴らし方。
『嘘ばっかり。……あんた、ほんまに何も食べとらんやろ』
死んだはずの祖母が、暗闇の中から、わたしの空腹だけを正確に見抜いていた。

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