体を布で拭く。風呂に入れないのは惜しい気もするが、今は傷に響くだろう。
深かったであろう腹部の傷は、跡が残っていないほど綺麗に塞がっていた。とはいえ見た目上の話で、まだ傷が開く可能性はあるのだが。体のほうも快調で、動き回っても差し支えないのではと思えるほどだった。
「ねえ、朧。外出てもいいかしら。空気が吸いたいの」
ここ数日部屋に籠りっぱなしだったためか、少々気が滅入っていた。やることもなく暇がありすぎたのだ。
朝日を浴びて、新鮮な空気でも吸わないとやってられない。
『まだ大人しくしておれ。傷は、綺麗に塞がって見えるだけじゃ。大きく動けば開くぞ』
体を拭き終えた布を、水の入った桶へ放り込み、横になる。
そして盛大にため息を吐いた。
『お主も気落ちすることあるんじゃな。てっきりずっと平坦な心持ちなのかと』
「私だって生きてるもの」
『お、おう。そりゃ生きておるわな』
珍しく動揺する朧でさえ、立派な刺激になっている。それを感じて、二度目のため息を漏らす。
仰向けになって待っていると、足音が聞こえた。
きっとおきよが桶を取りに来たのであろう。隠は顔だけを戸に向けて、しかし眉をひそめた。
『どうした』
「……違う。おきよじゃない」
起き上がる。
近づいてくる。
おきよにしては感覚が広い。温羅にしては音が重い。
何か別の物音もする。まるで。
戸が開く。
「あ」
戸の先には知らない男がいた。
隠を確認するなり、口の端を吊り上げる。腕が上がる。その手には、刀があった。
『隠っ!』
そして、刀が振り下ろされた。
○
狐の妖が慌てて部屋に入ってくる。
どうやらただ事ではないらしい。息をきらして、こちらを見た。
心当たりがないわけではない。
「あなた、何かした?」
「してない」
「なら、外の人間たちは何!?」
肩を強く掴まれ、揺すられる。
目をそらしつつも答える。
「依頼してたんだよ。元々僕と協力者でここを襲撃するつもりだったんだ。僕は間抜けにも捕まったわけだけど」
「ひとりじゃなかったの」
手が離れる。
狐の妖の顔はすっかり青ざめていた。恐怖に瞳が濡れ、耳が震える。
「このままじゃ……!」
狐の妖は急いで部屋を出る。大方、他のやつらに知らせに言ったのだろう。
立ち上がる。外にいるのなら、合流できるだろう。そうすれば妖どもとはおさらばだ。余計なことに悩まなくて済む。
狐の妖が開け放った戸を通り、外へ向かう。
胸が痛い。
だがきっと、もう少しすればこの痛みもなくなるだろう。
――斬るのはもっと違うやつのはずだから。
うるさい。
――あんたは、何と戦ってるんだ?
うるさい。知らない。考えたくない。
ここのやつらが全員死んで、綺麗さっぱり忘れる。それでいい。それでいいんだ。
屋敷を出て、階段を降りる。
階段の下には、見覚えのある男が一人と武装した集団がいた。
細く鋭い目に、ねずみのような顔。やたら格式ばった黒い着物。
自分に札を授けた、陰陽師……名を確か。
「やぁ道行」
「おやおや吉打殿。ご無事で何より」
「ありがとう。で、今どんな感じ」
階段を降りきると、道行は薄ら笑いを浮かべ、吉打を出迎える。
道行は妖相手では頼りになるが、人間性のところでは、苦手だ。というのも、両手をすり合わせて媚びるように話をする態度が、どうにも気色悪く感じられたからだ。
「すでに数人忍ばせてありますゆえ。何やら視線を感じたので術で気配をごまかしながらやってまいりました。あちらは大混乱でしょう」
狐の妖の慌てようを思い出す。あっちからすれば、突然敵が近くに現れたことになる。それで落ち着きがなかったのだろうか。
「結界が少し厄介でしたが、私にかかればほれこの通り! 妖の居所を暴きましたぞ」
「さすが道行」
胸が痛むのを感じつつも、笑みをつくりあげる。
しかし道行はふと、笑みを消して真剣なまなざしを向けてきた。
「ところで吉打殿、妖刀はいずこに?」
ばつが悪くなり、頭の後ろをかく。
「実はさ、あいつらに折られちゃって今ないんだ」
「ふむ」
道行は顎に手を当て考え込む。
やがて、近くの兵を手招きして耳打ちした。
道行は兵がどこからか持ってきた面を受け取り……吉打に向けてきた。
その面がどういうものか吉打は知っていた。
「……え?」
頭が真っ白になった。
「ちょ、どうしたのさ。道行」
鋭い眼光が、吉打を射抜く。
「いえ、簡単なことですよ吉打殿」
口が開く。
裂けそうなほど上に歪んだ口は、大きく歯を見せる。
「妖刀がないなら、ここで妖と戦って死んだことにしようと思いまして」
ぞっとした。
あまりに突然の裏切りに、足が動かない。
「ま、待てよ。僕が君らに報酬払うって話だっただろ? 増やすから落ち着いてくれよ。な?」
「何をおっしゃいますか」
表情に影が差し、地の底から響くような声で、道行は言った。
「あなたをこの面で妖にして、まるごともらったほうがいいじゃないですか」
そうだ。道行はここらであれこれ試していた。より強い式神を作るためだといって、木や動物に細工をしたりしていた。
そして吉打に向けられている面には鬼の角がつけられ、怨念が込められている。人を鬼にする面だ。
刀を引き抜いた兵たちに囲まれ、動けない。
「あぁ……や、やだ」
押さえつけられ面を無理やりつけられそうになったそのとき。
体が後ろに引っ張られ、面をつけられずに済んだ。
「うわっ」
そのまま体は宙を浮き、釣られるように階段の上まで引っ張り上げられる。
そして、地面に投げ出された。
顔を上げると、目の前に狐の妖がいた。髪を振り乱し、こちらを見る。
「大丈夫かしら!」
「あ、あ」
うまく話せない代わりに必死に頷く。心臓が強く脈打って、今更ながら警笛を鳴らしていた。
「良かった……」
安堵の表情を浮かべ、狐の妖が正面を見る。
兵を引き連れて、道行が階段を上ってきたところであった。
「おや珍しい。妖孤の類とは。しかもそれなりに強力ときた」
腰の袋から札を数枚取り出し、構える。
「抵抗しないのであれば楽に殺して差し上げますよ。こちらには多くの武士くずれの者もいます。勝ち目はありませんよ」
「私はあなたたちよりも何十倍も生きてるのよ。舐めないでもらいたいわ」
狐の妖の周りに、いくつもの火が発生する。
吉打が負けたときにも体を拘束する術を使っていた。狐の妖も戦えないわけではないのだろう。
「まさか仲間を裏切るなんて思いもしなかったわ」
「裏切り? 違いますよ。金にならない役立たずなんて不要ですからね」
そうだ。
所詮は金の関係だったのだ。信じることが間違っている。
「お話をしにきたのではありませんので……さっさと殺しを始めましょうか」
道行が周りの者に命令を下す。
刀を持った者が、一斉に襲いかかってきた。
「ちっ」
狐の妖は火を飛ばすが、それを道行が投げた札が打ち消す。
そうして、あっという間に狐の妖は間合いを詰められた。
当然だ。いくら狐の妖が強かろうが、道行も手練れの陰陽師である。道行だけならいざ知らず、兵もいるとなれば、数刻も持たないというのは自明の理である。
そういった妖を、吉打は何度も見てきた。
日の光を反射して、刀がきらめく。高く掲げられたそれは、死そのものだ。
刀が振り下ろされる。
――だが。
「……え?」
死んだのは、狐の妖ではなかった。
狐の妖に斬りかかった兵の一人のほうである。首に矢のようなものが突き刺さっていた。膝をつき、うつ伏せに倒れる。兵が倒れた直後、矢は幻のように霧散する。
間髪入れず、狐の妖を囲うようにしていた三人も、同様に首を撃ちぬかれ、絶命した。
その場の誰もが、動きを止めた。
視線が、集まる。狐の妖の後ろへ。さらに言えば吉打の後ろへ。
屋敷の入り口へ。
霧がそこに流れていく。
白い上着はそのほとんどを赤に染め、黒髪は赤黒く変色したその姿。
「随分、賑やかね」
女が、そこにいた。
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