同じところで、また止まった。
佳澄は鍵盤から指を離した。
「……んー」
窓の外では、朝から蝉がうるさい。
八月に入って夏も本番を迎え、猛暑日・酷暑日が連日続いている。
カーテンの隙間から差し込む光が、電子ピアノの黒い天板を白く照らしていた。
譜面台には、一冊の楽譜。
シューベルト《Ständchen》セレナーデ。
佳澄は、少し手前からもう一度弾き始めた。
右手、左手。
さっきよりはいい。旋律を追って問題のところまで来る。
短く、ピアノの音だけが前へ出る。
そこから静かに落とす。
――つもりだった。
「あ」
また微妙に気に入らない。間違えたわけではない。
次へ行こうと思えば、普通に行ける。
でも、何か違う。
佳澄は鍵盤の上に指を置いたまま、少し考えた。
そして、ふっと笑った。
「ここ、アリアも苦手だったな」
言ってから少し違うかと思う。
苦手だった、というのはたぶん正確ではない。
銀座アリアは普通に弾けていた。弾けていたのに何度も止めていた。
去年の文化祭、いや、帥嶺祭を描いた『君がいる夏』のアニメ回。
急遽ピアノ伴奏を任されたアリアが、一人で練習していた場面だ。
同じところで止まって。もう一度。そしてまた止まって。
結局、カノンに「まだそこやってるの?」と呆れられていた。
技術的に弾けないのではなく、本人の中で気に入らなかったらしい。
佳澄は、そこまで覚えている。
もう一度、弾く。
今度は止めずにそのまま抜けた。
「……まあ、いいか」
いや、アリアなら、もう一回やるかもしれない。
そう思いながら、佳澄は曲の続きを弾いた。
ピアノの天板の横。
小さな棚の上に、二人のアリアがいる。
一人は、透明なカードケースに入った古いイラストカード。
漫画版の銀座アリアだ。
今より線が少し細く、表情もおとなしい。
かなり前に買ったものだから、ケースの角にはわずかに擦れがある。
もう一人は、今年になって出たアニメ版のアクリルスタンド。
プラチナブロンドの長い髪。金と琥珀色の光を灯した紫の瞳。
黒地の学園服を身にまとって微笑んでいる。
こちらはまだ新しい。
四月から六月まで、アニメの放送が止まっていた時期に発売されたものだった。
佳澄は曲を最後まで弾かず、適当なところで手を止めた。
机の上でスマートフォンが震えた。
四人のグループチャットだった。
『村上:十二時二十分には終わる』
『神田:ほんとに?』
『村上:なぜ疑う』
『青山:前も延長してなかった?』
『村上:今日は終わる』
佳澄は、
『じゃあ十二時半駅前』
とだけ送った。
既読が三つ表示されている。
「よし」
電子ピアノの電源を落とし、鍵盤のカバーをおろした。
朝の《セレナーデ》は、そこで終わった。
*
「暑っ」
ファミレスへ入った瞬間、村上が言った。
「さっきまで外にいたのお前だけじゃないんだよなあ」
佳澄が返す。
「オレは午前中から勉強してんの。体感温度が違う」
「どういう理屈?」
神田が笑った。
「疲労で暑さが増すんだよ」
「じゃあ体感温度じゃなくて疲労じゃん」
「細かいなあ」
四人で案内された席に座る。
窓際。
外では、アスファルトが白く光っていた。
青山はメニューを開くなり、
「涼しい……」
と小さく息を吐いた。
「それは分かる」
佳澄も同意する。
村上は夏期講習帰り。
佳澄と青山、神田はそれに合わせて駅前まで出てきた。
特別な予定があるわけではない。
昼を食べて、適当に時間を潰す。
夏休みなら、それで十分だった。
「オレこれ」
村上が早々にメニューを指さした。
「早」
神田が言う。
「腹減ってるから」
「ハンバーグに唐揚げに……チキンまでついてるけど?」
「午前中勉強したから」
「万能だね、夏期講習」
青山が笑う。
「ねね、どっちにする?」
「あっさりしたのにしたい」
神田と青山は季節限定の冷製パスタと普通のパスタを楽しそうに見比べている。
佳澄はチキンのグリル。
注文を終えると、村上がテーブルに肘をついた。
「で、みんな宿題どこまでやったん?」
「えーその話する?」
神田が嫌そうな顔をする。
「しないとオレだけ焦るから」
「私は半分くらいかな」
青山が言った。
「いやー嘘でしょ!?」
「え何で」
「青山が半分ならオレやばいじゃん」
「私を何だと思ってるの」
「夏休み入って最初の一週間は何もしない人」
「それ去年の話でしょ」
「今年は?」
「今年はちょっとやった」
「ほらーちょっとじゃん」
村上が勝ち誇って青山はむっとする。
「佳澄は?」
「数学だけ少し」
「四条、お前絶対最後にまとめてやるタイプだろ」
「否定はしない」
「ピアノ弾いてる場合か」
佳澄が顔を上げた。
「何で知ってる」
「前言ってたじゃん。夏休みはピアノ弾くって」
「ああ」
そういえば言ったかもしれない。
「今日も弾いてきたよ」
「朝から?」
「うん」
村上が大げさに感心した顔をする。
「優雅だなあ」
「別に優雅じゃない」
「夏休みの朝にピアノ弾いてから友達と昼飯って、優雅だろ」
「途中で普通に間違えるし」
「それは知らんな」
料理が届いた。
しばらくは食べる方に集中する。
村上が唐揚げを一個落としそうになり、神田に笑われる。
青山がドリンクバーで取ってきたグラスを一つ間違えて佳澄の前に置き、
「あ、ごめん。それ私の」
と戻す。
そんな程度の時間が流れた。
「今日、夜ゲームやる?」
食事も半分ほど終わったころ、村上が聞いた。
「やる」
佳澄は答える。
「十一時半までは」
「ああ、君夏?」
「うん」
神田がフォークを止めた。
「今って原作と違う話やってるんだっけ」
「違うっていうか、もう完全に別ルート」
「そんなに?」
「十三話くらいから結構変わってる。今の高二の帥嶺祭編、漫画にはないし。もうアニオリ」
「へえ」
村上がハンバーグを切りながら言った。
「銀座さんは?」
「出てるよ」
「なら四条的には問題なしか」
「まあ、それもある」
「それも、なんだ」
神田が笑う。
「作品自体、普通に好きだから」
「でも一番はアリアなんでしょ?」
「そうだよ」
「何がそんなにいいの?」
神田が聞いた。
「見た目?」
佳澄はほとんど間を置かずに答えた。
「それだけじゃない」
「即答」
「そりゃ即答よ」
「具体的には?」
「何って言われても」
佳澄は少し考えた。
声とかふるまいとか総合的に……けれど、うまくまとまらない。
「……長くなる」
「何が?」
「説明が」
「おたくだ」
「だから聞くなって、もういいだろ」
神田が笑う。
「前から好きだもんね、その子」
青山が釣られて笑って言った。
「まあね」
それだけだった。
料理を食べ終え、神田がデザートを追加した。
「さっきお金ないって言ってなかった?」
村上が言う。
「アイスは別会計」
「財布は同じだろ」
「気持ちの会計」
「はー意味分からん」
佳澄はドリンクを飲みながら、その会話を聞いていた。
窓の向こうでは、まだ夏の日差しが容赦なく照りつけている。
今日はまだ長そうだった。
*
ファミレスを出た四人は、結局そのまま帰らなかった。
「暑い」
村上がまた言う。
「今日それ何回目?」
「暑いものは暑い」
「じゃあ駅ビル入ろ」
神田の一言で、全員が異論なくそちらへ向かった。
大型書店、文具、雑貨。
特に目的もなく、それぞれが勝手に見て回る。
佳澄は漫画売場で足を止めた。
棚には『君がいる夏』。
連載開始から数年。既刊がずらりと並んでいる。
アニメ化を知らせる帯が巻かれた巻もあれば、キャラクターのイラストが入った小さな販促カードもある。
見慣れた背表紙で当然、全部持っている。佳澄的にはもう買うものはない。
それでも一度、アリアが表紙にいる巻へ目が行った。
「また見てる」
横から青山の声。
「見てただけ」
「持ってるんでしょ?」
「持ってるよ」
「じゃあ行こ」
「はいはい」
そのあと寄ったゲームセンターでも『君夏』はもっと分かりやすい形で置かれていた。
「これ君夏じゃん」
村上がクレーンゲームの前で止まった。
筐体の上には、大きな販促パネル。
青空を背景に笑う少女。透明感のある黒髪が美しい。
赤坂セレナ。
第一クールの制服ビジュアルをもとにした、プライズフィギュアだった。
風に髪とスカートをなびかせた夏制服姿で、箱の側面には、
『TVアニメ『君がいる夏』より
プレミアムフィギュア 赤坂セレナ』
の文字。
「セレナだ」
神田が言った。
「神田でも分かるんだ」
「これはさすがに分かるよ。君夏っていえばこの子じゃない?」
「うーんまあ、そういう認識になるよな」
佳澄も否定しない。君夏といえばセレナ。
一期の人気投票でも堂々一位だ。作品をそこまで知らない人に一人だけ挙げさせれば、まず彼女になるだろう。だけど。
村上が財布から百円玉を数枚出した。
「一回やる」
「取れるの?」
「見てろ」
三十秒後。
「これ絶対アーム弱い」
「たった一回で言う?」
神田が呆れる。
「今のは取れる動きだっただろ」
「箱が一ミリも動いてないけど」
「設定が悪い」
「全部機械のせいにするじゃん」
佳澄は二人の横で、筐体の中をもう一度見た。
セレナばかりが並んでいる。
隣の台にも『君夏』の小さな景品はあったが、そちらもセレナだった。
アリアはなしか。
まあ、そんなものだろう。不満というほどでもない。
セレナが一番前に出るのは昔からだ。それに、カノンの商品も多い。
主人公の司にも女性ファンがそれなりにいる。
アリアはさらにその次。それでも最近はグッズが増えた。自分の部屋にも、一応新しいアクスタがある。
だけど。
君夏第二クールはアニメオリジナル展開だ。
正直、完全に予想外だった。
二クール目、第十三話から徐々にずれだした。
佳澄はすぐに別の台へ視線を移した。
「やっぱりないな」
四人で音楽ゲームを見たり、クレーンゲームを何台か覗いたりしているうちに、時刻は四時を回った。
ゲームセンターを出ても、夕方になりかけているのにまだまだピークの暑さだ。
「オレもう帰るわ暑い」
村上が言った。
「朝から勉強したし」
「まだ言うのそれ」
神田が笑う。
「今日のオレのアチブだから」
駅まで戻る。
神田は反対側の改札へ。
「じゃあまたね」
「おつ」
「また」
村上も別方向へ消える。
少しだけ残った佳澄と青山も、特に何を話すでもなく歩いた。
「じゃ、私こっち」
青山が言った。
「うん。また」
「またね」
手を軽く振って、青山も人の流れへ入っていった。
佳澄は一人になる。
駅の外では、夕方の光の中で蝉がまだ鳴いていた。
*
家に戻ると、スマートフォンが震えた。
村上からだった。
グループチャットに、さっきのセレナの筐体写真が上がっている。
『村上:これ絶対設定悪い』
『神田:まだ言ってるよ』
『青山:一回しかやってないじゃん』
『村上:一回で分かるし』
佳澄は、
『次は千円入れてから言え』
と送った。
『村上:鬼』
そこでスマホを伏せる。
夕食はいつも通りだった。
「今日はどこ行ってたの?」
母親に聞かれ、
「駅前。村上たちと飯食って、そのへん」
と答える。
「暑かったでしょ」
「暑かった」
「熱中症気を付けてね」
「うん」
それ以上、とりわけ特別な話もない。
食事。
風呂。
自室。
少しネットを見て、ゲームにログイン。十時を過ぎたころには村上もログインしてきた。
いつものオンラインゲームだ。PCでボイスチャットをつないでから、コンテンツを適当に周回する。
「そっち」
「分かってる」
「いや分かってない動きだった、ダメージ食らいすぎ」
「うるさい」
何度かやっているうちに、時計が十一時を回った。
十一時十分。
佳澄は画面の隅に表示された時刻を見た。
「俺、そろそろ抜けるわ」
『君夏?』
「うん」
『ほいほいー、お疲れ』
「おつ」
通話を切ってログアウトする。
佳澄は冷蔵庫から飲み物を持ってきた。グラスに氷を入れてテレビをつける。
君夏はネットでも配信がある。
あとからでもいくらでも見られるしテレビのほうも録画予約はもちろんしてあるが、やはり見られるならリアルタイムで見たい。
リアタイでみるようになったのは一クール目からずっとだ。
スマートフォンを机の上に伏せて十一時三十分、番組が始まった。


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