放課後の教室には、授業が終わったあとのざわめきがまだ残っていた。
机を後ろへ寄せる音、段ボールを引きずる音。
色紙や模造紙を抱えた生徒が、教室と廊下を何度も行き来している。
普段なら連絡事項が書かれる教室後ろの黒板には一面に黄色や水色、桃色のチョークでいろいろなことが書き込まれている。
『帥嶺祭、もうすぐ!』
『あとちょっと、がんばろー』
女子生徒が書いたものだろうか、板面いっぱいのハートにかわいらしい音符。小さな星。その隣には、似顔絵らしきものまである。
字の大きさも色もばらばらで、昨日まではなかったものが休み時間のたびに少しずつ書き足されていた。
黒板の右側には、白いチョークの文字で日付が書かれている。
十一月十七日。
黒板の下には、白い粉まみれの、使いかけの小さくなったチョーク。
そしてまだ貼られていない装飾と、開封されたままの段ボール箱。
「それ、廊下側に置いといて!」
「テープどこ?」
「誰か銀の折り紙知らない?」
声が飛び交う。
教室を出れば、廊下も同じだった。
大道具らしい大きな板を二人がかりで運ぶ生徒や脚立を抱えた男子生徒。
窓際には、乾燥中のポスター。
階段の向こうからは、どこかの部活が合わせている楽器の音がかすかに聞こえる。
校内全体が、いつもの授業の日とは少しだけ違っていた。
浮き足立っている。
でも、まだ本番ではない。そんな空気だった。
画面が切り替わる。
講堂。
舞台の上では、すでに何人もの生徒が動いていた。
「第二場、背景だけもう一回確認します!」
「はーい!」
大きな吊り背景が、ゆっくりと降り始める。
赤や黄に色づいた木々。秋の庭園。
所定の位置まで下りて、止まった。
「ちょっと遅いかも」
舞台中央で、桃園司が言う。
「役者がもう二歩先まで行ってる」
「じゃあ次、二秒早くします」
「お願い」
舞台袖から愛宕カノンが出てくる。
「司、こっちの立ち位置も見て」
「今行く」
生徒たちがまた動き始める。
マイク。照明。進行表。舞台美術。
残っているのは、大きな変更ではない。
舞台の上で実際に動かしてみなければ分からない、ほんの数秒や数歩のずれ。
その一つ一つを、最後に合わせている。
そのとき。
ぽん。
一音だけ、ピアノが鳴った。
もう一音。
佳澄の目が自然に画面の左へ向く。
カメラも同じように、舞台の下手側へ振れた。
グランドピアノ。
その前に、銀座アリアが座っていた。
佳澄はグラスに伸ばしかけていた手を止めた。
プラチナブロンドの髪。
肩よりずっと下まで流れるそれが、講堂の照明を受けて淡く光っている。白というには少し温かく、金というには淡い色。その内側、首筋や背に触れるあたりから毛先へかけて紫の光が差し、角度が変わると、その色は表側にも青みを帯びて浮かぶ。
プラチナブロンドの淡い色を残したまま、その奥で紫だけが光のように揺れていた。
そしてその髪の中から、伏せられていた瞳が上がる。
瞳も……紫。
けれどそれもただの紫ではなく、光が差すと、その奥に薄く金や琥珀色を含んでいるように見える。
帥嶺学園の女子制服は、黒を基調にしている。
なかでも目を引くのが、肩から腕を覆う、短いケープのような黒い上衣だった。前には金色のボタンが二列に並び、広がった袖口から白いブラウスのフリルが覗いている。
袖には細い刺繍。黒いプリーツスカートの裾近くには、一本の金のラインが走っている。
普通の高校の制服とは少し違う、帥嶺の独特なシルエット。
プラチナブロンドの髪を持つアリアには、妙に似合っていた。
アリアは数音弾いて、首を少し傾げた。
「今の、ちょっと気持ち悪かった」
声。
高すぎない。低くもない。柔らかく、透明で、すっと耳へ入ってくる。それでいて言葉に力が入ると、ちゃんと芯が残る声。
司が舞台中央から振り返った。
「そこ?」
「うん。転換が早くなったから、こっちの入りも少し変えた方がいいかも」
「観客には分からないと思うけど」
「でも、合わせられるなら合わせたいの」
アリアはそう言って、もう一度同じところを弾いた。
今度は少しだけ入りを早くする。
「こっちかなぁ」
「んーオレにはどっちも同じに聞こえる」
司の言葉に、カノンが横から入った。
「司に聞くのが間違い」
「ひどくない?」
「音楽のこと、分かんないでしょ」
「少しくらい分かるって」
アリアが笑う。
「じゃあ司、どっちが役者の動きに合ってた?」
「……後の方?」
「正解」
アリアが頷くと、司はカノンへ顔を向けた。
「ほら、分かるって言っただろ」
カノンまで笑った。
こういうところだ。アリアは綺麗だ、それは間違いない。
でも、画面の中でずっと綺麗な顔だけをしているわけではない。
むっとする。笑う。考える。失敗する。自分が気になるところには、ちゃんとこだわる。
誰かの意見を聞くこともある。
そして、何でも自分を中心に考える人でもない。
舞台では、また背景が動き始めた。定位置まで上がって止まる。
「じゃあマイク確認しまーす」
役者の一人が台詞を言う。
途中で甲高い音が鳴った。
「うわっ」
カノンが耳を押さえる。
「ごめんなさい!」
音響担当の生徒が慌てる。
「今のなーし! もう一回!」
講堂に笑い声が広がった。
その少し後だった。
「アリア、そっち危ない」
司の声が飛んだ。
「え?」
楽譜へ目を落としたまま後ろへ下がろうとしていたアリアのすぐ背後を、大きな背景パネルを抱えた男子生徒が通ろうとしている。
司が手を伸ばした。
アリアの手をつかむ。
「わっ」
一歩。
引かれたアリアの身体が、司の方へ寄った。
「ごめんなさい、通ります!」
男子生徒が二人の後ろを抜けていく。
「悪い。大丈夫?」
「……うん」
アリアが答える。
「ありがと」
そこで終わるはずだった。
けれど。
「…………」
「…………」
司は、まだアリアの手を握っていた。
アリアも離していない。
先に気づいたのがどちらだったのかは分からなかった。
アリアがゆっくりと視線を下げる。
二人の手。
「……司」
「ん?」
「手」
「あ」
司も見る。
それでも、すぐには離れなかった。
アリアが顔を上げた。
「……いつまで握ってるの?」
「嫌だった?」
一拍。
アリアの目が少しだけ大きくなる。
「そうは言ってないけど」
「じゃあ、いいだろ」
「何それ」
言いながらも、アリアは手を引かなかった。
数秒。
本当に、それだけ。
「二人ともー?」
少し離れたところから、カノンの声がした。
二人の手が離れた。
「何してるの?」
カノンがこちらへ歩いてくる。
「何も」
司が答える。
「何もじゃないでしょ」
アリアが小さく笑った。
「司が助けてくれただけ」
「ああ。危なかったから」
カノンも笑う。
「アリア、気をつけなよ」
「うん。ごめん」
それだけだった。
また誰かに呼ばれて、司が舞台中央へ戻っていく。
アリアもピアノへ戻る。
カノンはその後ろ姿を見た。
二人を交互に。
胸の奥が、ちく、とした。
一年前。
講堂の扉の向こうから、アリアのピアノを聞いていた司を見たときにも。
確か、こんな感じだった。
あのころは、まだ何なのか分からなくてもよかった。
今はもう……。
「……何か飲も」
誰にも聞かれないくらいの声で言って、カノンはペットボトルを手に取った。蓋を開け、一口飲む。
舞台の上では、また次の確認が始まっていた。
帥嶺祭を目前にした帥嶺学園では、まだそんな程度の時間が流れていた。
*
その夜。
画面には四つの小さな窓が並んでいた。
司、カノン、アリア、そして赤坂セレナ。
原作漫画とは異なり、交換留学でバンクーバーにいるセレナの背後には、朝の淡い光が入っていた。あちらは朝のようだ。
長い髪をざっくりまとめて、大きめのマグカップを持っている。
昼間、ゲームセンターで箱になって並んでいた少女である。けれど画面の中の本人は、プライズの笑顔よりもずっと表情が多い。
『で、どうだった?』
「何が?」
司が聞く。
『今日の調整。明日リハなんでしょ?』
「まあまあ」
カノンが答える。
「背景の転換がちょっと遅かったのと、マイクが一回すごい音した」
『何それ、見たかった』
「ハウってたね、耳痛かったよ」
アリアが笑う。
『アリアは?』
「私は大丈夫。入りを少し変えたくらい」
『余裕そうじゃん』
「去年よりはね」
その言葉に、セレナが笑った。
『そりゃ去年は急だったもんね』
「あれは本当に急だった」
アリアも笑う。
「私最初、断ろうかと思ってたし」
『え、そうだったの?』
セレナが目を丸くする。
「うん。準備する時間ほとんどなかったから」
「知らなかった」
カノンも言う。
「言わなかったからね」
「じゃあ何で引き受けたの?」
アリアは少し考えた。
「……やってみたかったから、かな」
『結局そこなんだ』
「うん。でも、ほんとやってよかったよ。カノンが誘ってくれたんだよね」
その言い方が、佳澄は好きだった。
大げさではない。
過去を美化しているわけでもない。
大変だったことは大変だった。
でも、やってよかった。
アリアはそういうふうに話す。
「……うん」
カノンが恥ずかしそうにうなずく。
『そういえばあの曲、まだ弾ける?』
セレナが聞いた。
「セレナーデ?」
『そう。あたしの名前と同じ』
「あーもともとはセレナ提案だっけ?たぶん指は覚えてると思う」
『懐かしいなあ』
「そっちが言う?」
司が笑う。
『あたしだって帥嶺祭いたでしょ』
「今いないから」
『それ言う?』
「早く帰ってくればいいじゃん」
『簡単に言うなー』
四人が笑う。
距離があっても、国が違っても、四人で話せば、以前とあまり変わらない。
『本番終わったら動画送ってよ』
セレナが言った。
「公式で撮るんじゃなかったか?」
司が言う。
『ちーがーうそういうのじゃなくて、裏側のやつ。終わったあととか』
「分かった、スマホで撮っとくね」
カノンが答える。
「忘れてなかったら」
『忘れないで』
「じゃあセレナから連絡して」
『はいはーい』
そんな会話のまま、通話は終わった。
*
翌日の帥嶺祭前日。
午前中は普通に授業があった。ただ、学校全体が少し落ち着かない。
教室の後ろには装飾用の段ボール。
廊下には模造紙。
休み時間になるたび、誰かがどこかへ走っていく。
「今日、講堂四時からだよね」
昼休み、カノンが確認する。
「ああそのはず」
司が答える。
「その前にマイクだけ見たいって」
「観客、どれくらい来るんだろ」
「生徒会の企画だし、それなりには来るんじゃない?」
「それなりって何人?」
アリアが聞いた。
「百とか?」
「講堂もっと入るよ」
「じゃあ二百」
「急に倍になった」
「アリアは気にならないの?」
カノンが聞く。
「客の数?」
「うん」
アリアは少し考えた。
「少ないよりは多い方が嬉しいけど。演奏すること自体は変わらないかな」
「それは演奏する側だから言えるんだよ」
司が言う。
「生徒会は席埋めたいんだから」
「じゃあ司が呼び込みして」
「オレ?」
「主人公なんだから」
「何の主人公だよ」
そんな話をしながら、午後の授業へ戻った。


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