そして放課後。
最終リハーサルが始まる少し前だった。
「これ、向こう?」
アリアが細長い箱を抱えて舞台袖から顔を出す。
「それ照明の予備だから、そっちじゃない」
司が進行表から顔を上げた。
「じゃあどこ?」
「舞台裏。オレ持ってく」
「いいよ。これくらい」
「いいから」
「大丈夫だって」
アリアが箱を持ち直す。
「そんな重くないし」
「お前、さっきからずっと動いてるだろ」
「みんなそうでしょ」
「お前は明日ピアノあるんだから」
「関係ないよ」
少し離れたところからカノンが声をかけた。
「私、職員室に最終版の進行表持ってくるね」
「ああ、お願い」
「十分くらいで戻る」
カノンはそう言って講堂を出ていった。
スタッフの生徒たちも、それぞれの持ち場へ散っている。
アリアが箱を抱えたまま歩き出す。
「だからオレ持つって」
「いいって言ってるでしょ」
「頑固だな」
「司に言われたくない」
それでも司が横から箱へ手を伸ばす。
アリアが避ける。
「ちょっと」
「貸せよ」
「嫌」
箱の端を二人で持つ形になった。
「離して」
「お前がな」
「私が先に持ってたんだけど」
「そういう問題か?」
「そういう問題」
睨み合う。
結局、近くにいた後輩が、
「あ、それ僕持っていきますよ」
と箱を受け取っていった。
「……ほら」
司が言う。
「何が、ほら、なの?」
「解決」
「司何もしてないじゃん」
「しようとはした」
「勝手にね」
アリアが小さく息を吐いた。
「はーほんと、そういうところ」
そう言いながら向きを変えた拍子に、頬の端へ白いものが付いているのが司の目に入った。
「アリア」
「何?」
「動くな」
「え?」
司が手を伸ばした。
指先が、アリアの頬へ触れる。
アリアの動きが止まった。
「……何」
「付いてた」
司が指を見せる。
白い粉。
大道具に使っていた塗料か、舞台袖の埃か。
「先に言ってよ」
「言ったら自分で取るだろ」
「当たり前でしょ」
「だから」
「だからって何」
アリアが睨む。
司は悪びれずに答えた。
「別に。オレが取りたかっただけ」
「…………」
今度はアリアが黙った。
「何だよ」
「司って、たまにそういうこと普通に言うよね」
「どういうこと」
「……知らない」
アリアが目を逸らした。
耳が少し赤い。
司はそれを見てしまう。
肌が白いから、赤くなるととても目立つ。
「アリアも赤くなるんだな」
「なるよ!」
「へえ」
「何その顔」
「いや」
「何?」
「可愛いなと思って」
「――は?」
アリアが完全に固まった。
司自身も、言ってから気づいたらしい。
「…………」
「…………」
「今の忘れろ」
「いや無理でしょ」
「じゃあ聞かなかったことにしろ」
「もっと無理」
アリアはそう言ってから、司の顔をじっと見た。
「……司だって」
「オレ?」
「黙ってれば、結構格好いいのに」
「喋ると駄目なのかよ」
「ちょっとね」
「お前な」
「でも」
アリアは笑った。
「眼鏡、似合ってると思うよ」
司が黙る。
「何」
「いや……」
「赤くなってる?」
「なってない」
「あはは、なってる」
「うるさい」
アリアが笑った。
それで終わればよかった。
「じゃ、私、残ってる飾り付け手伝ってくるね」
「待てよ」
「何?」
「その前に少し休め、ほんとに」
「大丈夫だって」
「さっきからそれしか言ってないだろ」
「本当に大丈夫だから」
「明日本番なんだぞ、お前はピアノ」
「知ってるよ」
「なら今日はもう、演奏以外のことしなくていい。勝手なことすんな」
「……何それ」
アリアの表情が変わった。
「だから、残りはオレたちでやるから」
「何で?」
「何でって」
「何で司が決めるの?」
司も黙った。
「私が何するか、司が決めることじゃないでしょ」
「お前が無理するから言ってるんだよ」
「無理してない」
「してる」
「してないって言ってるでしょ」
「そうやって何でも自分だけで大丈夫だって言うの、やめろよ」
アリアの眉が寄った。
「……意味わかんない」
「そのままの意味」
「私が何したの」
「だから、明日本番なのに朝からずっと動いて、頼まれてもないことまでやって」
「みんなやってるでしょ」
「みんなとお前は違う」
「何が違うの?」
「お前はピアノ弾くんだよ」
「だから何?」
「手でも痛めたらどうすんだよ」
「そんなことで痛めない」
「絶対じゃないだろ」
アリアも声を強めた。
「そういうの、本当に嫌い」
「何が」
「勝手に決めるところ。心配してるみたいな顔して、最後は全部自分で決めるじゃん」
「お前が聞かないからだろ」
「聞く必要ないでしょ。私のことなんだから」
「だからって全部一人でやるなよ」
「一人でやってない!」
アリアが司を見る。
「カノンもいる。みんなもいる。司だっている。でも、最後に決めるのは私でしょ」
「分かってるよ」
「分かってないから今言ってるんでしょ!」
「じゃあお前も分かれよ!」
「何を!」
「心配してる人間がいるってことくらい!」
アリアが止まった。
司も息を荒くしている。
「……何で」
アリアが言った。
「何で、そんなに気にするの」
「は?」
「私のこと、そんなに見てるわけ?」
司はほとんど間を置かなかった。
「見てるよ」
「…………」
今度は、アリアが言葉を失った。
「見てる」
司がもう一度言った。
「何でも平気な顔するところも。自分でできるって言って、あとで疲れてるところも。ピアノの前だと細かいこと気にして何回もやり直すところも」
「……やめてよ」
アリアは自分の片腕を掴む。
「何が」
「そんなの」
「お前が聞いたんだろ」
「そこまで言えって言ってない」
アリアが一歩下がる。
司が一歩進む。
「じゃあ何ならいいんだよ」
「知らないし」
「……っざけんなよ」
「司が勝手に――」
司がアリアの腕を取った。
一歩。
アリアの背中が壁へ触れる。
強くぶつけたわけではない。
けれど、その勢いに二人とも一瞬止まった。
司がそのまま、アリアの顔の横へ片手をついた。
「…………」
「…………」
近い。
さっき頬に触れたときよりも、ずっと。
司の眼鏡の奥にある目まで、はっきり見える。
アリアは逃げなかった。
司を真っ直ぐに見返す。
「……何」
さっきまでの勢いが嘘みたいに、アリアの声が小さくなる。
「いや」
「何よ」
「……近い」
「司がやったんでしょ」
「だから?」
司も動かない。
アリアも動かない。
何秒経ったのか分からなかった。
「……私のこと、そんなに気になる?」
アリアが聞いた。
今度は、司も誤魔化さなかった。
「気になるよ」
「…………」
「悪いか?」
アリアの瞳が揺れた。
「……悪くない」
「じゃあ何だよ」
「私だって」
アリアが一度だけ息を吸う。
「司のこと、気になるよ」
司が黙った。
講堂の向こうから、何かを運ぶ声が聞こえる。
二人のいる狭い舞台裏だけが、そこから切り離されていた。
「だから困ってるの」
アリアが言う。
「何が」
「……知らない」
「またそれかよ」
「うるさい」
それでも今度は、怒ってはいなかった。
司がゆっくりと壁から手を離した。
アリアの腕からも手を離す。
二人の間に少しだけ距離が戻る。
「……悪かった」
「何が?」
「今の」
「壁?」
「うん」
「……別に」
アリアが制服の袖を直す。
「びっくりはしたけど」
「悪い」
「だから、別にいいって」
そこで足音が聞こえた。
「ただいまー」
カノンの声。
二人が同時にそちらを見る。
「進行表、先生の確認取れたよ」
カノンが戻ってくる。
「……二人とも何してたの?」
「何も」
司が言った。
アリアが司を見る。
「何も、ではないでしょ」
「おい」
「何?」
カノンが二人を見比べる。
「また喧嘩?」
「……まあ」
「司が勝手なこと言うから」
「お前も大概だろ」
「ほら」
「はいはい」
カノンは呆れたように笑った。
「もーほんと本番前日に喧嘩しないでよ」
「ごめんもう終わったから」
アリアが言う。
司も少し遅れて、
「ああ」
と答えた。
「ほんとに?」
「ほんと」
「ならいいけど」
カノンが二人の間を通り抜ける。
アリアは一度だけ司を見た。
司も見ていた。
二人とも何も言わなかった。
そして。
最終リハーサルが始まった。
*
舞台照明が落ちる。
客席には、スタッフと生徒会の生徒がまばらに座っているだけ。
誰もいない座席の方が圧倒的に多い。
明日になれば、ここへ人が入る。
音楽劇は、およそ二十分。
ある少女が、誰かへ伝えられなかった言葉を手紙にしようとする。
けれど、渡せない。
季節が変わる。時間が進む。それでも言葉だけが残る。
シューベルトの《ロザムンデ》が、その物語を支えていた。
俳優の声とヴァイオリン、ナレーション。
そして、アリアのピアノ。
すべてが舞台の上で重なる。
第二場。
秋の庭園を描いた大きな背景がゆっくりと降りてきた。
役者がその前を横切る。
照明が変わる。
問題なく進む。
第三場。
最後の台詞。
音楽が静かに収束していく。
最後に残ったピアノの音が消えた。
数秒。
客席から、小さな拍手が起きた。
「……いけそうじゃない?」
誰かが言う。
「マイクだけ、もう一回見たいです」
「第二場の背景、明日は二秒早めます」
「了解」
「お疲れ様でーす!全体は今日は締めであと個別に!」
完全ではない。
でも、たぶん大丈夫。
そんな空気だった。
*
通しリハーサルが終わっても、講堂にはまだ何人か残っていた。
舞台袖では、スタッフの生徒たちが明日の確認を続けている。
「第二場の背景、明日は少しだけ早めに下ろします」
「照明も合わせます。三秒くらい?」
「二秒でいいと思う。今日それで間に合ってたから」
客席では司が進行表を片手に後輩と話していた。
舞台の端にはカノン。
ペットボトルを両手で持ったまま、しばらく何もせず座っている。
アリアはピアノの前に残っていた。
譜面台から《ロザムンデ》の楽譜を外す。角を揃え、書き込んでいた鉛筆をケースへ戻す。
「アリア、もう終わりだって」
カノンが言った。
「うん。分かってる」
「じゃあ帰ろ。私もう足痛い」
「ちょっとだけ待って」
アリアはそう言うと、閉じかけた鍵盤の蓋へ手をかけたまま止まった。
それから、もう一度開く。
カノンが首を傾げる。
「何か確認するところあった?」
「ううん。もう大丈夫なんだけど」
「じゃあ?」
「ごめんちょっと弾きたいだけ」
アリアは椅子へ浅く座り直した。深く息を吸うでもない。楽譜も開かない。
右手を鍵盤へ置いて、軽く一音鳴らした。
続いて、もう一音。
そこでカノンが「あ」と小さく声を上げた。
司も客席から顔を上げる。
リハーサルで何度も聞いた《ロザムンデ》ではない。
静かで、ゆったりした旋律。
シューベルトの《セレナーデ》。
一年前の帥嶺祭で、アリアが伴奏した曲だった。
静かな旋律が、広い講堂へ伸びていく。
けれど、誰かが「演奏が始まった」と声をかけたわけではなかった。
その間にも、講堂では明日の準備が続いている。
ガムテープを切る音。
椅子を重ねる音。
舞台袖で交わされる確認の声。
大道具をまとめていた男子生徒が、テープを貼りながら一度だけ舞台の方を見た。
床を這っていたケーブルを巻いている女子生徒は、手を動かしたまま少しだけ顔を上げる。
誰も作業を止めない。
誰もアリアの周りへ集まらない。
拍手をする人もいない。
でも、聞き覚えのある《セレナーデ》だと分かったころから、講堂に残っていた何人かの声が、いつの間にか少しだけ小さくなっていた。
明日のための片付けをしながら。
帰る支度をしながら。
みんな、同じ講堂の中で、そのピアノをなんとなく聞いていた。
講堂の二階にある窓から入るオレンジの日差しが、キラキラと舞い上がる埃を反射している。
「懐かしいね」
カノンが小さく言った。
アリアは鍵盤を見たまま、口元だけで笑う。
客席から近づいてきた司も、舞台袖の壁にもたれて耳を傾けた。
アリアの指がゆっくりと動く。プラチナブロンドの髪が頬の横へ落ち、鍵盤の白と黒の上へ淡い影を作る。
リハーサルのときとは違う。役者の歩幅にも、照明にも、舞台転換にも合わせなくていい。
自分の呼吸で弾いている。
旋律の音をそっと収め、伴奏の響きが残る中へ次の音を置く。去年はそこで何度も手を止めていた。今は、小さくした音の先にも流れが続いている。
カノンは口を開きかけて、やめた。
アリアはそのまま最後まで弾いた。低く残った響きが消えるのを待って、鍵盤から手を下ろす。
「今の、去年ずっとやり直してたところだよね」
カノンが言った。
「覚えてたんだ」
「何回聞いたと思ってるの」
アリアはさっきのつながりを短く弾いてみせた。
「弱くすると、そこで終わったみたいになっちゃって。次の音まで続いてる感じにしたかったの」
「今の方が好きかも」
「ほんと? じゃあよかった」
今度はすぐに手を離す。演奏の続きではなく、話している箇所を確かめるための音だった。
「あのときは急に頼まれたから、間に合うのかなって思ってた」
「そんなこと言ってた?」
「言ってないよ。余計心配するでしょ」
司が顔を上げた。
「オレ、これ聞くとあの頃思い出すな」
「司、途中まで全然手伝ってなかったけどね」
カノンが言う。
「途中からでも手伝っただろ」
そこは一年前と変わらない。アリアも笑った。
「でも、楽しかったよ。歌とかヴァイオリンとか、みんなで合わせるの。私の弾き方が変わると、向こうから返ってくる音も違うから」
「一人で弾くのとは違うんだ」
「うん。大変だったけど、またやりたいって思った」
司が腕時計へ目を落とす。
「じゃ、今日は帰るか。明日本番だし」
「司もね。進行表、さっきからずっと見てる」
「最後に一回確認したら帰るよ」
「それで最後だからね」
カノンが念を押すと、司は進行表を畳んだ。
講堂では、椅子を動かす音やマイクの電源を落とす音が、またいつもの大きさに戻っていた。
「……よし」
アリアは小さく言った。
「気分転換終了」
今度こそ鍵盤の蓋を閉じる。
ぱたん、と軽い音。
《ロザムンデ》の楽譜を胸に抱えて立ち上がった。
「帰ろう。明日早いし」
「賛成」
カノンも舞台から降りる。
司はまだ進行表を持っていた。
「オレ、あと五分」
「じゃあ先に行くよ」
「待って待って。帰るから」
「最初からそう言えばいいのに」
三人の声が重なる。
少し先では、生徒会の後輩が笑っていた。
「お疲れ様です」
「おう」
舞台の上では、大きな背景がゆっくりと元の位置へ戻されていく。
それも、明日のためのいつもの作業の一つだった。
*
学校を出るころには、空は曇っていた。
カノンがスマートフォンを見る。
「明日、雨は降らないみたい」
「じゃあよかったじゃん」
司が言う。
アリアは一度、空を見上げた。
「晴れたら、もっといいけどね」
三人はそのまま駅へ向かった。

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