三人で駅へ向かう途中、最初に道が分かれたのはカノンだった。
「じゃ、私こっちだから」
カノンが足を止める。
「明日、遅刻しないでよ」
「誰に言ってるの?」
アリアが聞く。
「二人とも」
「オレも?」
「特に司」
「何でだよ」
「何となく」
カノンが笑った。
「じゃあ、また明日」
「うん。また明日」
「また明日」
アリアが軽く手を振る。
カノンも振り返した。
そのまま交差点を渡っていく。
信号の向こう側まで行ったところで、一度だけこちらを振り返った。
アリアはまだ手を振っていた。
司はポケットに手を入れたまま立っている。
カノンはもう一度だけ笑って、今度こそ歩いていった。
信号が変わる。
「行くか」
「うん」
二人はまた歩き始めた。
さっきまで三人だった道が、急に静かになった気がした。
実際には車も走っているし、人もいる。
帰宅途中の学生。
買い物袋を提げた人。
自転車のベル。
駅前の店から流れてくる音楽。
何も変わっていない。
ただ、一人いなくなっただけだ。
「…………」
「…………」
なのに、話しにくい。
アリアは前を見たまま歩いていた。
司も何も言わない。
数分前までなら、そんな沈黙はなかった。
帥嶺祭のこと。
明日の集合時間。
セレナへ送る動画。
話そうと思えば、いくらでも話すことはある。
けれど。
「……ねえ」
先に口を開いたのはアリアだった。
「ん?」
「さっきのことなんだけど」
司の歩幅が、ほんの少しだけ変わった。
「どれ」
「……分かってるでしょ」
「今日は色々あったからな」
「……っ、もうそういうのいいから」
「はい」
アリアが横目で睨む。
「はーほんと、そういうところ」
「何だよ」
「何でもない」
「言えよ」
「言わない」
「じゃあ言うなよ」
「司が変なことするからでしょ」
「……悪かったよ」
思っていたより素直な返事が返ってきた。
アリアが司を見る。
「謝るんだ」
「そりゃ謝るだろ」
「もっと『お前が悪い』とか言うかと思った」
「オレを何だと思ってんだよ」
「勝手な人」
「お前もだろ」
「私は勝手じゃない」
「どの口が言ってんだ」
「……ふふ」
それでようやく、さっきまでの妙な沈黙が少しだけ崩れた。
アリアは前へ向き直る。
「……でも」
「ん?」
「嫌だったわけじゃないよ」
司が止まりかけた。
アリアは歩き続けている。
「何が」
「だから」
「うん」
「近かったこと」
「…………」
「何か言ってよ」
「いや」
司が片手で眼鏡の位置を直した。
「それ、今言う?」
「今じゃないと無理」
「明日でもいいだろ」
「明日は明日」
「それはそうだけど」
アリアは少しだけ俯いた。
街灯の光が、長い髪の上を流れていく。
白にも金にも見える髪が、夜の中では淡い銀色になっていた。
司は少しの間、それを見ていた。
「……オレも」
「何?」
「嫌じゃなかった」
アリアが顔を上げる。
「何が?」
「……ちっ。分かってんだろ」
「舌打ちしない。ちゃんと言って」
「何でだよ」
「私は言ったから。ちゃんと言わないとわかんない」
「ずるいな」
「何が?」
「そういうところ」
「司にだけは言われたくない」
「口癖かよ」
ふーっと司は息を吐いた。
それから前を向いたまま言った。
「近かったの」
「うん」
「嫌じゃなかったよ」
アリアの口元が、わずかに緩んだ。
「満足?」
「ちょっと」
「ちょっとかよ」
「全部は無理」
「何だそれ」
「知らない」
二人の間にあった距離は、さっきよりわずかに近くなっていた。
歩いているうちに、アリアの手の甲が司の手に触れた。
一度。
すぐ離れる。
数歩。
また触れた。
今度は、どちらもすぐには離さなかった。
けれど、つないでもいない。
ただ指先がかすかに当たっている。
アリアがそこへ視線を落とした。
「…………」
「…………」
司も気づいている。
「さっきは」
アリアが言った。
「ん?」
「勝手に手、握ったのに」
「危なかったからだろ」
「そのあとも握ってたじゃん」
「…………」
「今は何もしないんだ?」
司がアリアを見る。
アリアは前を向いていた。
ただ、頬が少しだけ赤い。
「……してほしいのか?」
「そういう聞き方、嫌い」
「また嫌いって言った」
「そういうところが嫌いなの」
「じゃあどうしろってんだよ」
「知らない」
「はーお前なあ」
話が堂々巡りする。
司は一度、前を向いた。
それから。
右手を差し出した。
何も言わずに。
アリアがその手を見る。
「…………」
「何」
「ふーん」
「嫌ならいいけど」
司が手を戻そうとする。
「待って」
アリアの手が、その手を捕まえた。
指が重なる。
今度は、事故でも偶然でもなかった。
司が握る。
アリアも握り返した。
「…………」
「…………」
二人とも何も言わない。
歩く。
ただそれだけだった。
十一月の夜は、少し冷えている。
アリアの手は思ったより温かかった。
司の手も同じだった。
「司」
「ん?」
「これ、カノンに見られたらどうする?」
「……怒るかな」
「知らない」
「お前の友達だろ」
「司の友達でもあるでしょ。昔から一緒なんだから」
「そうだけど」
アリアは少し考えた。
「……それにカノン、たぶん気づいてるよ」
「何に」
アリアが司を見る。
「本当に分かんない?」
「…………」
「それとも分からないふりしてる?」
司は答えなかった。
アリアも、それ以上は聞かなかった。
握った手だけは、そのままだった。
「私ね」
「うん」
「カノンのこと、大事だよ」
「知ってる」
「だから、嫌なんだよね」
「何が」
「こういうの」
アリアがつないだ手をわずかに持ち上げる。
それでも離さない。
「嫌なら離す?」
「そういう意味じゃない」
「じゃあ」
「だから、困ってるの」
少しだけ強い声だった。
「司のこと気になるし」
司は黙った。
「カノンのことも大事だし」
「うん」
「どっちかがどうでもよかったら、もっと楽なのに」
その言葉には、さっきまでの軽さがなかった。
司は少し考えてから言った。
「オレも、楽じゃないよ」
「……そうなの?」
「そう見えない?」
「見えない」
「ひどいな」
「司、何でも余裕そうにするから」
「お前に言われたくない」
アリアが一度、司を見る。
それから小さく笑った。
「似てるのかな。私たち」
「最悪だな」
「はあ?何でよ」
「二人とも面倒くさいってことだろ」
「司ほどじゃない」
「お前も十分だよ」
「……ふふ」
横断歩道の信号が赤だった。
二人で止まる。
車が目の前を流れていく。
アリアがふと顔を上げた。
街灯の下。
司の眼鏡に白い光が映っている。
「ねえ」
「何」
「明日」
「うん」
「帥嶺祭、終わったら」
そこで言葉が止まった。
司は急かさなかった。
「……ちゃんと話さない?」
「何を」
アリアがむっとする。
「今、それ聞く?」
「確認」
「ほんと嫌い」
「今日何回目だよ」
アリアは少し笑った。
けれど、すぐに真面目な顔へ戻る。
「私たちのこと」
司の表情も変わった。
信号はまだ赤い。
「おう」
「カノンのことも含めて」
「……わかってる」
「逃げないでよ」
「逃げないよ」
「ほんと?」
「お前こそ」
「私は逃げない」
「知ってる」
信号が青へ変わった。
電子音が鳴る。
けれど二人とも、一瞬だけ動かなかった。
先にアリアが一歩踏み出す。
つないだ手に引かれ、司も歩き出した。
横断歩道を渡る。
白い線をいくつも越えていく。
駅が近づく。
人の数も増えてきた。
それでも二人は、手を離さなかった。
駅の入口まで来て、アリアがようやく足を止めた。
「私、こっち」
「ああ」
「司は?」
「反対」
知っていることだった。
何度も一緒に帰っている。
それなのに今夜だけは、その分かれ道が少し惜しかった。
アリアが手元を見る。
二人の手はまだつながっている。
「……そろそろ」
「うん」
言いながら、離れない。
「司」
「何」
「離して」
「お前も握ってるだろ」
「司から離してよ」
「何でオレからなんだよ」
「いいから」
「はいはい」
司が指を緩める。
アリアの手も離れた。
急にそこだけ、冷たくなった。
「じゃあ」
司が言う。
「また明日」
「うん」
アリアが一歩下がる。
それから思い出したように言った。
「明日、ちゃんとね」
「分かってる」
「忘れないでよ」
「忘れないよ」
「絶対?」
「絶対」
アリアは少しだけ安心したように笑った。
「じゃあ、また明日」
「また明日」
二人は別々の階段へ向かった。
アリアは途中で一度だけ振り返った。
司も、ちょうど振り返っていた。
「…………」
「…………」
二人とも少し笑った。
明日になれば、また会える。
帥嶺祭が終われば。
ちゃんと話せる。
二人とも、そう思っている。
*
夜。グループチャット。
『明日遅刻禁止』
カノン。
『それ自分にも言ってる?』
司。少し遅れて、
『そっちこそ』
アリア。
画面の中で、アリアがスマートフォンを伏せた。
するとスマートフォンがまた鳴る。
「え」
画面を確認すると、司からの個チャだった。
「おやすみ」
画面には、ただそれだけ。
絵文字もない。
窓の向こうには、雲の薄くかかった夜空。
「……司」
アリアはパジャマ姿のうさぎのスタンプだけを送った。
他に何か言葉を返すだけでもなく。
帥嶺祭前夜はそれ以上何かが起こることもなく、静かに終わった。
暗転。
エンディングテーマが流れ始める。
*
「…………」
佳澄はグラスを片手に、最後まで画面を見ていた。
いつもならエンディングの間にスマートフォンを見ることもある。
けれど今日は、なんとなくそのままだった。
さっきまで講堂に流れていたピアノの音が、まだ耳の奥に残っている。
《ロザムンデ》ではない。
リハーサルが終わったあと、アリアが気まぐれに弾き始めた曲。
朝、自分が弾いた曲。
エンディングが終わる。続けて次回予告。
帥嶺祭当日の校門、人でいっぱいの廊下、色とりどりの飾り。
舞台袖で誰かに呼ばれて振り返るカノン。
客席を確認する司。
ピアノの前へ座るアリア。
一秒にも満たない映像が、次々と切り替わる。
最後に画面が暗くなった。そして、白い文字。
――第十八話 『届かなかった一秒』
それもすぐに消える。明るいCMと賑やかな音楽。
見知らぬタレントが笑いながら何かを宣伝していた。
佳澄はそこでようやく、背もたれへ身体を預けた。いつのまにか、前のめりになっていたようだ。
「……はー」
大きなため息が出る。
「アニオリ展開やばいなまじで」
誰に聞かせるでもなく言う。
グラスを持ち上げたが氷はもうほとんど溶けている。
薄くなった飲み物を一口含む。
何がよかったのかと言われれば、いろいろある。
帥嶺祭前の学校。
遠くにいるセレナと話す四人。
司とカノン。
リハーサル。
終わったあとに何でもない顔でピアノへ戻ったアリア。
一年前と同じ曲。
同じところ。
なのに、少し違って聞こえた。
それに、何よりも。
「……」
司とアリアとの関係だ。
「はぁ」
何度かの、溜息。
もう、二人は止められないところまで来ている。
佳澄はテレビを消した。
さっきまで音で満ちていた部屋が、急に静かになる。
時計を見る。もう、かなり遅い。寝てもいい時間だった。
けれど。
佳澄の視線は、部屋の隅に置かれた電子ピアノへ向いていた。
「……あんなん原作になかったぞ」
グラスを机へ置き、椅子を引いて立ち上がった。
朝に開いた楽譜は、そのままピアノの脇に置いてある。
シューベルト。
椅子へ腰を下ろして電源を入れると小さく表示が灯った。
夜中にスピーカーから鳴らせば、さすがに家中に響く。
ちょっとだけ。
佳澄は脇に置いてあったヘッドホンを取った。
端子へ差す。
両耳を覆う。
外の音が少し遠くなる。
これで、佳澄が弾く音は誰にも聞こえない。
椅子の位置を直す。
鍵盤へ両手を置く。
朝にも、同じことをした。
そのとき思い出していたのは、一年前のアリアだった。
何度も同じところをやり直していたアリア。
でも、さっき画面の中にいた彼女は、そこをもう止まらなかった。
そして、司との関係も。
漫画では見たことがないアリア。
バチバチに司とやりあうアリア。
キラキラ輝く彼女と、言い合って。
「……はー。司はすげえな」
もう何度目かの、溜息。
いったいこれは何のため息なんだろう。
佳澄は楽譜へ目を落とした。
一度、深く息を吐く。
最初の音。
二音目。
三音目。
ヘッドホンの中だけに、柔らかなピアノの音が広がる。
聞き慣れた旋律が、少しずつ形になっていく。
アニメオリジナルでは、アリアは司と付き合うのだろうか。
「…………」
そして、そのまま弾き続けた。
誰にも聞こえない《セレナーデ》が、夜の奥へ静かに溶けていった。

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