「伴奏って、目立たないけど大事だから」
――そういうところ。
たぶん、このあいだ神田に聞かれたことへ、言葉で答えるなら。
そういうところなのだ。
目立つかどうかではなく、自分が大事だと思ったものを大事だと言える。
何でも自分のために考えない。
それでいて、譲りたくないところはちゃんと持っている。
*
目が覚めたときには、九時を少し回っていた。
カーテンの隙間から、もう十分すぎるほど明るい日差しが入っている。
「……暑そう」
タイマーで自動的に点いた冷房が効いた部屋の中にいるのに、窓の向こうを見ただけで分かる。
今日も暑い。
八月八日、土曜日。
夏休みに入ってから、曜日の感覚は少し薄くなった。
学校がないと、月曜も木曜も大差がない。
それでも土曜日だけは分かる。
もちろん夜十一時半から『君がいる夏』があるからだ。
佳澄はベッドから降りた。
顔を洗って、遅めの朝食を済ませる。
部屋に戻ると、机の上には昨日のまま開いていた数学の問題集。
「……やるか」
椅子に座った。
夏休みの宿題は、放っておいても減らない。
当たり前だが。
一ページ。
二ページ。
途中で一問止まる。
解答を見るか、もう少し考えるか。
しばらく粘って、結局もう一度式を組み直す。
先週ファミレスで村上に言われた通り、このまま後回しにすれば最後にまとめてやることになるのは目に見えていた。
それはさすがに面倒くさい。
ペンを動かしながら、佳澄は一度だけ顔を上げた。
机の向こう。
壁に一枚の絵が掛かっている。
銀座アリア。
漫画版の複製原画だった。
白い立派な額に、高精細なプリントがなされて収めてある。
昔、漫画十巻の発売にちなんで抽選応募で購入した限定商品だ。
セレナ、カノン、アリアと司のうち、一つに応募できた。
確か、限定二百枚。
シリアル番号もある。
もちろん迷いはなかった。
どのくらいの当選確率だったかはわからないが、とにかく嬉しかった。
まだアニメになる前。
漫画の中だけにいたころのアリア。
風に流れるプラチナブロンドの髪を片手で押さえ、少しだけこちらを振り返っている。
カラー原稿だから瞳の紫もちゃんと入っている。
今のアニメ版より、漫画版は線が細い。
第一印象も少し静かだ。
佳澄はその絵が好きだった。
だから飾っている。
別に、部屋中を『君夏』にしたいわけではない。
壁一面にポスターを貼ったり、タペストリーを何本も吊るしたりする趣味もなかった。
他のゲームのものもある。
ピアノもある。
本棚もある。
普通の自分の部屋だ。
その中に、気に入ったものだけがいくつか置いてある。
壁には複製原画。
電子ピアノの横の棚には、昔のイラストカードと、今年出たアニメ版のアクリルスタンド。
それで十分だった。
問題集へ視線を戻したところで、
ピンポーン。
家のインターホンが鳴った。
佳澄の手が止まる。
「来たかな」
椅子から立つ。
階段を下りる途中、母親が玄関へ向かっているところだった。
「佳澄、荷物」
「俺のだと思う」
「また何か買ったの?」
「前に予約してたやつ」
「そう」
それ以上は聞かれない。
宅配便の人から段ボールを受け取る。
箱は想像していたより小さかった。
自分の部屋へ戻る。
机の上の問題集を端へ寄せて、段ボールを置いた。
伝票の品名を一応見る。
四条佳澄様、雑貨。
当然、中身までは書いていない。
でも知っている。
通販サイトの発送通知も昨日届いていた。
佳澄はカッターでテープを切った。
箱を開く。
緩衝材。
その下に透明な袋。
「お」
出てきた。
銀座アリアのぬいぐるみ。
アニメ第一クールで使われたデザインをもとにした商品だった。
頭が大きく、身体は小さい。
手のひら二つ分くらいの、いかにもキャラクターぬいぐるみらしいデフォルメ。
プラチナブロンドの髪。
紫と金色の瞳。
黒いショートケープ風の制服。
金の刺繍も、かなり簡略化されているが入っている。
スカートの裾にも細い金色の線。
精密な造形ではない。
鼻なんてもはやない。
なのに。
ちゃんとアリアに見える。
佳澄は透明な袋から取り出した。
手の上に載せる。
軽い。
思っていたより柔らかい。
正面から見る。
「……かわいい」
声が出た。
誰もいないので問題ない。
佳澄はしばらくそのまま眺めた。
それから両手で持った。
少し力を入れる。
むに。
胴体がへこむ。
手を緩める。
戻る。
もう一度。
むに。
戻る。
佳澄は何も言わない。
もう一回。
むに。
「…………」
少しだけ口元が緩んだ。
髪の部分を指先で整える。
今度は頬を親指で軽く押した。
やっぱり柔らかい。
ネットの商品写真だけでは分からなかった。
佳澄はアリアを棚へ置いてみた。
アクリルスタンドのすぐ隣。
「近いな」
少し離す。
今度はカードが隠れる。
「んー」
カードを数センチ移動。
アクスタも少し右へ。
ぬいぐるみを中央。
一歩下がって見る。
「……まあ、ここか」
決まった。
机へ戻ろうとして、また一度ぬいぐるみを見る。
さっきまで何もなかった場所に、普通にアリアが座っている。
ちょっといい。
壁には漫画版。
棚にはアニメ版。
昔から持っているカード。
新しいアクスタ。
今日届いたぬいぐるみ。
少しずつ増えただけだ。
佳澄は壁の複製原画を見た。
そのまま視線を下へ。
本棚。
「久しぶりに読むか」
一冊抜いた。
*
ベッドへ背中を預けて、『君がいる夏』を開いた。
もう何度も読んだ巻だ。
ページをめくる。
桃園司。
愛宕カノン。
赤坂セレナ。
そして銀座アリア。
漫画版では、四人がまだ同じ時間を進んでいる。
アニメで今やっている高二の帥嶺祭の話はない。
漫画版ではそもそもセレナはバンクーバーへ行っていない。
カナダとの交換留学。
彼女は学内選考には通ったが、受け入れ先との調整が合わずに結局、日本にいたはずだった。
今期の君夏は十三話の途中からすでにアニメオリジナル展開だ。
大筋の人間関係は同じでも、話の流れはもうかなり違っている。
とりわけ帥嶺祭編から大きく変わり始めた。
そして、先週の十七話は、もはや。
「はぁ」
佳澄はページをめくる手を少し止めた。
漫画の中では、司とアリアの距離は確かに近い。
近いけれど。
先週見た二人ほどではない。
少なくとも、帥嶺祭の前日にあんな喧嘩をして、あんな距離まで近づいて、そのあと二人だけで手をつないで帰る話は漫画にはなかった。
「……攻めたなあ」
思わず口に出た。
誰に言うでもない。
アニメスタッフに、なのか。
原作者に、なのか。
それとも、桃園司に、なのか。
自分でも分からない。
佳澄は漫画へ視線を戻した。
ページの中では、アリアが司に何か言い返している。
その表情を見て、先週の場面を思い出す。
『そういうの、本当に嫌い』
アリアは本気で怒っていた。
司も引かなかった。
あれが、妙に残っている。
手をつないだところより。
顔が近づいたところより。
むしろ、あの言い争いの方が。
あそこまで相手に腹を立てて、それでも言葉をやめない。
嫌われるかもしれないところまで踏み込んで。
お互い、相手の嫌なところをちゃんと見て。
それでも最後には一緒に帰る。
「……すごいな」
佳澄は小さく言った。
羨ましい、と思った。
ほんの少し。
司そのものになりたいわけではない。
別に、アリアが司を好きなのが嫌なわけでもない。
むしろ先週の二人を見てしまえば、納得するところもあった。
司は格好いい。
少しキザで。
たまに勝手で。
アリアが怒るのも分かる。
でも、アリアが一人で抱えようとしたとき、あそこまで真正面から止められる。
アリアも、司には遠慮しない。
嫌なことは嫌だと言って。
嫌いだと言って怒って。
言い返して。
そのうえで。
『私だって、司のこと気になるよ』
そこまで言った。
「…………」
佳澄は漫画を少し持ち上げ、顔の前へ寄せた。
何となく。
誰も見ていないのに。
「いやー……」
ちょっと恥ずかしい。
先週リアルタイムで見ていたときも思ったが、改めて思い返すとなかなかである。
それに最後だ。
二人で帰って。
手をつないで。
帥嶺祭が終わったら、自分たちのことをちゃんと話そうと約束した。
もうほとんど答えは出ているのではないか、と佳澄は思う。
付き合っていない。
告白もしていない。
でも、あそこまで行けば。
少なくとも、何もない二人ではない。
漫画ではまだ、こんなふうには描かれていない。
アニメは明らかに、司とアリアの関係を前へ進めようとしている。
このまま行くのだろうか。
司とアリア。
そうなったら。
佳澄は、ページの中のアリアを見る。
「……まあ、それはそれで」
嫌ではなかった。
たぶん、少し寂しい。
いや。
寂しいというのも変か。
最初から自分がそこに入る余地なんてない。
漫画の登場人物と現実の自分を比べること自体、おかしい。
それくらいは分かっている。
でも。
「いいなあ、司」
今度は素直に言った。
アリアと手をつなげるから、だけではない。
あの子に、あそこまで本気で怒ってもらえて。
自分も本気で怒れて。
それでも次の日にまた会おうと言える。
そんな関係が。
少しだけ、羨ましかった。
佳澄はまたページをめくった。
そこには、漫画版のアリアがいる。
カノンと言い合って。
司に何か言われて。
セレナに巻き込まれて。
そして次のページでは、普通に別の話へ進む。
漫画には漫画の続きがある。
アニメにはアニメの続きがある。
どちらのアリアも好きだった。
だから。
今夜の十八話も、普通に楽しみだった。
しばらく読んで、区切りのいいところで本を閉じる。
時刻は十二時を少し過ぎていた。
下から声がした。
「佳澄ー、お昼ー」
「はーい」
返事をする。
単行本を本棚へ戻す。
棚のアリアが少し斜めを向いていた。
ぬいぐるみ。
佳澄は一度だけ向きを直してから、部屋を出た。

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