昼食を食べて、また部屋へ戻る。
一時過ぎ。
外は相変わらず明るい。
数学を再開する気には、あまりならなかった。
ゲームを始めるほどでもない。
スマートフォンを眺める。
特に面白い通知もない。
佳澄は窓の外を見た。
「……歩くか」
財布とスマートフォン。
小さなボトルの水。
それだけ持って家を出た。
玄関の扉を開けた瞬間。
「暑……」
予想通りだった。
日差しが痛い。
家の前の道路は、午後の日光を正面から受けて白く光っている。
蝉の声。
室外機の熱風。
少し先を自転車で走っていく人。
住宅街の、普通の真夏。
佳澄は歩き始めた。
目的地までは数分。
途中から道が少し上りになる。
それほどきつい坂ではない。
ただ、この暑さだと数分歩くだけでも汗が出る。
角を曲がる。
大きな木々の向こうに、鳥居が見えた。
天代(あましろ)神社。
佳澄の家から一番近い神社だった。
小さな祠、というほどではない。
むしろこの辺りでは、そこそこ大きい方だ。
正月になれば、毎年初詣の人で参道に列ができる。
鳥居の外まで伸びることもある。
佳澄も子供のころから何度も来ていた。
でも、夏の午後は別だ。
人は少ない。
鳥居の前で佳澄はほんの少し頭を下げた。
別に深い意味はない。
昔からそうしている。
境内へ入る。
参道の両側には幹の太い大木が並んでいて、何十年なのか、何百年なのか佳澄には分からないが、少なくとも自分よりずっと長くここに立っている。枝葉を抜けた光が石畳にまだらな日向と日陰を落とし、境内へ入っただけで、直射日光の下にいたさっきまでより少し身体が楽になった。
涼しい、とまではいかない。普通に暑い。それでも、日差しを直接受けないだけでだいぶ違う。
社務所の前には誰もいない。
少し離れたところに、夫婦らしい二人。
拝殿の前には一人だけ参拝客がいた。
佳澄はその横を通る。
今日は参拝するつもりで来たわけではない。
いつもそうだ。
賽銭を入れてお願い事をする日もある。
初詣なら当然する。
でも散歩のたびにするわけではない。
近い。
緑が多い。
無料。
歩きやすい。
理由はそのくらいだった。
拝殿の横を抜け、裏手へ回る。
木々の間から水面が見えた。
池。
天代神社の裏には、そこそこ広い池がある。
日本庭園の小さな池というほど小さくない。
かといって湖と呼ぶほどでもない。
周囲には遊歩道が整備され、一周できるようになっている。
佳澄はその道へ入った。
池の水面に、木々の影が映っている。
日が差しているところだけ、白く強く光る。
風が少し吹いた。
枝が揺れる。
水面も揺れる。
「……こっちはマシだな」
独り言。
遊歩道の上には、大きな木の枝がところどころ張り出している。
木陰。
木陰。
たまに日向。
そして、また木陰。
真夏であることに変わりはない。
湿気もある。
額には汗が浮かぶ。
それでも住宅街を歩いているより、ずっと気持ちがいい。
蝉の鳴き声が、頭上から降ってくる。
遠くで鳥の声。
池のそばを小さな虫が飛ぶ。
佳澄は急がず歩いた。
スマートフォンも出さない。
こういうところを歩くときくらい、わざわざ画面を見る必要もない。
池を四分の一。
もう少し。
道の反対側から、帽子をかぶった年配の男性が歩いてきた。
何度か見たことがある気がする。
向こうもそう思ったのか、軽く頭を下げた。
佳澄も同じように返す。
それだけ。
さらに進む。
池の半分ほどまで来たところに、ひときわ大きな木がある。
枝が池側へも遊歩道側へも大きく伸びていて、かなり広い木陰を作っていた。
佳澄はそこで足を止めた。
「ふう」
ボトルを出す。
一口。
少しぬるくなっている。
それでも水は水だ。
もう一口飲む。
木の幹へ目をやる。
太い。
表面はでこぼこしていて、根の一部が地面を押し上げている。
その向こうには池。
風が来る。
葉がざわざわ鳴る。
ただ、それだけだった。
佳澄はしばらく立っていた。
別に何か考えていたわけでもない。
ただ日陰が気持ちよかった。
数分して、また歩き出す。
途中、小さな子供を連れた親子とすれ違う。
「お魚いる?」
「いるんじゃない?」
「どこ?」
「ほら、あっち」
そんな声。
佳澄はその横を通り過ぎる。
残り半周。
池の向こうに拝殿の屋根が少し見える。
歩いて。
曲がって。
また木陰。
やがて一周して、元の境内側へ戻った。
時計を見る。
思っていたよりゆっくり歩いていたらしい。
二十分近く経っている。
佳澄はそのまま参道を戻った。
本殿の前を一度見る。
今日はやっぱり参拝せず、そのまま鳥居へ。
出るときに軽く頭を下げる。
そして境内の木陰から外へ出た。
「……暑っ」
思った以上だった。
さっきまでの池の周りが、相対的にかなり快適だったらしい。
佳澄は目を細めた。
来た道を下る。
住宅街。
日差し。
蝉。
何も変わらない。
いつもの天代神社だった。
*
家に戻る。
「ただいま」
「おかえり。暑かったでしょ」
「暑かった」
同じような会話をして、冷蔵庫から麦茶を出した。
一杯飲む。
それからシャワー。
汗を流して、自分の部屋へ戻る。
冷房。
「生き返る……」
椅子へ座る。
視界の先。
今日届いたアリアがいる。
朝に自分で置いたばかりなのに、まだ少し見慣れない。
プラチナブロンドの髪。
紫の目。
ちょこんと座っている。
「…………」
佳澄は数秒見た。
触りには行かない。
朝、十分触った。
スマートフォンが震える。
グループチャット。
『村上:今日夜いる?』
早い。
佳澄は返信する。
『いる』
すぐに神田が入る。
『神田:二人とも宿題は?』
『村上:今その話必要?』
『神田:必要』
『俺:午前中やった』
『村上:裏切り者』
少し遅れて青山。
『青山:私も今日やったよ』
『村上:みんな敵』
『神田:村上がやれば全員味方になるよ』
『村上:正論やめて』
佳澄は笑った。
スマートフォンを机へ置く。
普通の土曜日の午後が、そのまま夕方へ進んでいった。
*
夕食。
風呂。
自室。
八時を過ぎてから少しゲーム。
十時前には村上から通話が飛んできた。
『おつ』
「おつ」
『何やる?』
「どっちでも」
『じゃあ昨日の続き』
「はいよ」
ログインする。
先週と同じゲーム。
同じキャラクター。
同じ村上。
敵の攻撃を避ける。
アイテムを拾う。
雑談する。
『そういや神田、宿題どんくらい進んでんだろ』
「聞けば」
『怖いからいい』
「何が怖いんだよ」
『進捗』
「知らんがな」
十一時を過ぎた。
もう少しだけ続ける。
十一時十五分。
「俺、これ終わったら抜ける」
『あいよ』
理由は聞かれない。
村上には分かっている。
ボスを倒す。
報酬画面。
「じゃ、おつ」
『おつ。また』
ボイスチャットを切る。
ログアウト。
佳澄は立ち上がった。
飲み物を取りに行く。
今日は炭酸水。
氷を少しいれてグラスに注ぐ。
部屋へ戻る。
テレビをつける。
まだ前の番組が流れていた。
録画予約はしてある。
ネット配信もある。
それでも、今日もリアルタイムで見る。
第一クールからずっとそうしてきた。
佳澄は机の上へグラスを置いた。
視界の端に、今日届いたばかりのぬいぐるみ。
「…………」
少しだけ見る。
昼間は漫画のアリア。
今はぬいぐるみのアリア。
このあとテレビにもアリアが出る。
今日はなんとなくアリアの日だな。
いやいつもか。
それくらいに思った。
先週の第十七話では、帥嶺祭前日のリハーサルが終わった。
アリアが《セレナーデ》を弾いた。
そのあと、自分も弾いた。
でも今日は弾いていない。
別に毎週弾く必要もない。
佳澄はスマートフォンを置く。
時計を見る。
十一時二十九分。
もうすぐ。
CM。
局の短いジングル。
時刻が変わる。
十一時三十分。
『君がいる夏』が始まった。
*
青空。
白い雲。
帥嶺学園の校門。
先週までの放課後とは、まるで違っていた。
門の上には帥嶺祭を知らせる大きな装飾。
その下を、制服姿の生徒だけでなく私服の来場者も次々とくぐっていく。
家族連れ。
他校の生徒。
近所の人。
「焼きそばいかがですかー!」
「二年三組、お化け屋敷やってまーす!」
呼び込みの声。
廊下には色紙。
風船。
案内板。
教室から笑い声が漏れている。
先週、段ボールと模造紙だらけだった校内が、完成していた。
画面が変わる。
講堂の前。
開場を待つ人が、すでに何人もいる。
スタッフの生徒たちが出入りしている。
「あと十五分で開場します!」
「パンフ足りてる?」
「追加持ってきます!」
舞台袖。
桃園司が進行表を確認している。
「司君、それこっちにも一部ちょうだい」
声がした。
司が振り返る。
「ああ、はい」
愛宕カノン。
そして、その奥。
ピアノの横で楽譜を確認している少女。
プラチナブロンドの長い髪。
黒と金の帥嶺学園の制服。
銀座アリア。
いつもと同じだった。
元気そうに立っている。
カノンが何か言う。
アリアが顔を上げる。
笑う。
司もそこへ混ざる。
三人の声が重なる。
佳澄はグラスへ手を伸ばした。
そのすぐ横。
今日届いたぬいぐるみのアリアが、棚からこちらを向いていた。
オープニングへ入る前に、画面が一度暗くなる。
白い文字が浮かんだ。
――『君がいる夏』
――第十八話。
『届かなかった一秒』

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