白い文字が消える。
短い間を置いて、オープニングテーマが始まった。
見慣れた映像。
司が走っている。
カノンが振り返る。
セレナが笑う。
アリアがピアノの前に座る。
毎週見ているはずなのに、今日だけは、その一つ一つが少し新しく見えた。
帥嶺祭。
昨日まで三人が準備していたものが、ようやく本番になる。
佳澄はグラスを一口含んだ。
*
当日。
帥嶺学園の空は、晴れていた。
雲はある。
けれど、青空の方がずっと広い。
校門の上には色鮮やかな帥嶺祭の看板。
その下を、生徒と来場者が次々に通っていく。
「二年一組、焼きそばやってまーす!」
「パンフレットどうぞ!」
「午後一時から体育館でダンス部です!」
あちこちから声が飛ぶ。
普段の学校にはない匂いもする。
やきそばとソース。
たこやき。
クレープ。
中庭には簡易テントが並び、エプロン姿の生徒が紙コップを運んでいる。
廊下には装飾。
教室の入口には手書きの看板。
昨日まで作りかけだったものが、今日はちゃんと完成していた。
「晴れたね」
校舎と講堂をつなぐ渡り廊下で、アリアが言った。
少し先を歩いていたカノンが振り返る。
「昨日の予報、当たったね」
「うん」
アリアは外を見る。
日差しの中で、プラチナブロンドの髪が少し明るく見えた。
昨日、学校を出るとき。
曇った空を見上げながら、
『晴れたら、もっといいけどね』
そう言っていた。
ちゃんと晴れた。
「アリア、楽譜持った?」
「持った」
「鉛筆」
「持った」
「ハンカチ」
「それいる?」
「いるでしょ」
「持ってる」
「水」
「持ってるって」
「じゃあ大丈夫」
カノンが満足そうに頷く。
横を歩いていた司が笑った。
「お母さんみたい」
「何でよ」
「全部聞いてるから」
「だってこの人、昨日ペンケース忘れて帰りかけたんだよ?」
「取りに戻ったじゃん」
「私が言ったからでしょ」
「はいはい、ありがと」
アリアは笑う。
「司は?」
「何が」
「進行表」
司が手に持っている紙を見せた。
「ある」
「昨日ずっと見てたやつ」
「今日も見るやつ」
「まだ見るんだ」
「本番だから見るんだよ」
三人で講堂へ向かう。
今日は、昨日より校内のどこも騒がしい。
だから三人の声も、すぐに人の話し声や音楽へ混ざって消えた。
渡り廊下を抜けたところで、正面から来た来場者の列が三人の間へ入り込んだ。
カノンが半歩先へ出る。アリアが人を避けて少し遅れた、そのときだった。
「こっち」
司が振り返り、アリアの手を取った。
「え」
引かれた勢いで一歩近づく。
昨日の帰り道にもつないだ手だった。けれど今日は、司の方からだった。
アリアが何か言うより先に、司の指がわずかに動く。重なっただけだった指先が、そのまま指と指の間へ入ってきた。
「ちょっと、司」
「人多いから」
「これ、普通につなぐのでよくない?」
「嫌なら離せば」
「……そういう言い方」
アリアは眉を寄せた。
それでも、すぐには離さない。
つながれた手を一度見て、司の横顔を見て、もう一度手元へ視線を落とす。
少し迷ってから、アリアの指も静かに重なった。
司が何も言わず前を向く。
アリアも、そのまま歩き出す。
「今日、終わったらだからね」
「分かってる」
「忘れないでよ」
「忘れない」
前を歩いていたカノンが振り返るより少し前に、二人の手は自然に離れた。
ほんの短い時間だった。
それでも、昨日の続きを確かめるには十分だった。
*
講堂の中には、まだ客は入っていなかった。
舞台上だけが明るい。
「上手、ケーブル通ります!」
「はい!」
「背景、今は下ろさないでください!」
「了解です!」
スタッフの生徒たちが、最後の確認をしている。
客席中央では、教師が何人か話していた。
アリアは舞台の下手へ向かった。
グランドピアノ。
昨日と同じ位置。
椅子を引く。
座る。
鍵盤の蓋を開ける。
何音か、小さく鳴らした。
ぽん。
ぽん。
音が講堂へ広がる。
昨日のように、《セレナーデ》を弾き始めたりはしない。
今日は本番だ。
譜面台には《ロザムンデ》。
何度もめくった楽譜の端が、少し柔らかくなっている。
アリアはページを確認した。
「緊張してる?」
声に顔を上げる。
カノンだった。
「ちょっと」
「アリアでもするんだ」
「するよ」
「昨日平気そうだったから」
「昨日は昨日でしょ。本番は本番」
「本番、頑張ってね」
「うん、ありがと」
カノンが舞台の端に腰を掛ける。
客席を見渡した。
「結構入るかな」
「分かんない」
「講堂の前、もう人いたよ」
「ほんと?」
「うん」
「じゃあ間違えられないね」
「そこなの?」
「そこ」
アリアは譜面へ目を戻す。
その横顔を、カノンが少しだけ見ていた。
「アリア」
「なに?」
「昨日の《セレナーデ》、よかったよ」
アリアが顔を上げる。
ほんの一瞬、何の話だったか考えるような顔。
それから笑った。
「急にどうしたの」
「別に。言ってなかったなと思って」
「昨日言ってたじゃん。前より好きって」
「それじゃなくて」
「じゃあ何?」
「……なんでもない」
「何それ」
「いいの」
カノンは立ち上がった。
「本番終わったら言う」
「変なの」
「そういう日もある」
「わかった」
そのとき舞台袖から、
「愛宕さん、立ち位置一回だけお願い!」
と呼ばれる。
「はーい!」
カノンが走っていく。
アリアは少しだけその背中を見てから、鍵盤へ指を置いた。
しばらくして、司が舞台袖から戻ってきた。
片手に進行表。もう片方の手には、冷えたペットボトルが二本ある。
「アリア」
「ん?」
「これ」
一本が差し出された。
アリアは受け取る前にラベルを見る。
「……私の?」
「そう」
「よくこれ選んだね」
「前も飲んでただろ」
アリアが一瞬だけ司を見る。
「覚えてたんだ」
「そのくらいは」
「ふーん」
言い方は何でもないのに、受け取ったアリアの口元が少しだけ緩んだ。
キャップを開け、一口飲む。
「ありがと」
「どういたしまして」
舞台袖の少し離れたところでは、立ち位置の確認を終えたカノンが二人に気づいていた。
司がアリアの好みを覚えていたことも、アリアがそれを嬉しそうに受け取ったことも。
カノンは声をかけなかった。
手元の進行表へ一度視線を落とし、そのまま次の確認へ戻っていく。
アリアはペットボトルをピアノの脇へ置いた。
「司」
「何」
「ありがと」
「……ああ」
それ以上は言わない。
講堂の入口から、人が入り始める気配がした。
*
開場。
客席が少しずつ埋まっていく。
前の方には家族らしい人たち。
制服の違う高校生。
帥嶺学園の生徒。
パンフレットを開いている人。
友達同士で話している人。
舞台袖。
司は進行表と腕時計を交互に見る。
「五分前です」
「はい」
「全員います?」
「います」
「ナレーション、マイク確認済み」
「弦も大丈夫です」
後輩の男子生徒が報告する。
「ありがとう。じゃあ、そのまま待機で」
「はい」
司は舞台の奥を見る。
アリアはもうピアノの前にいる。
カノンも衣装の一部を整えている。
目が合った。
司が親指を立てる。
カノンも同じように返した。
アリアは小さく手を振り、鍵盤の上で指を開いた。
客席の照明が落ちる。
ざわめきが小さくなる。
完全な暗闇にはならない。
舞台上にだけ、淡い光が残った。
最初の音。
アリアが弾いた。
短く。
静かに。
それに、ヴァイオリンが重なる。
もう一つ。
チェロ。
舞台の中央へ、細い光が落ちた。
*
第一場。
――書けなかった言葉。
そこは、王女の部屋だった。
小さな机。
椅子。
窓に見立てた縦長の枠。
机の上には便箋と羽根ペン。
豪華な王宮を再現した舞台ではない。
帥嶺祭の限られた舞台美術。
それでも照明と布と影だけで、そこが一人の少女の部屋に見える。
王女役の生徒が、机に座る。
便箋を一枚取った。
書く。
止まる。
紙を見つめる。
アリアのピアノは、その動きを追わない。
むしろ、書けずに残っている空白を埋めるように静かに流れている。
『あなたがいなくなったら――』
朗読の声。
王女の手が止まる。
紙には、そこまでしか書かれていない。
少し考えて、線を引く。
新しい紙。
『明日、あなたがここを発つと聞きました』
また止まる。
舞台の反対側。
旅支度をした青年が現れる。
王女は彼を見る。
青年は笑う。
「そんな顔をしないでください」
「どんな顔?」
「怒っているような」
「怒ってない」
「では、困っている?」
「それも違う」
「じゃあ、何です?」
王女は答えない。
青年も、それ以上は聞かない。
「戻ったら、またここへ来ます」
「いつ?」
「分かりません」
「分からないの?」
「分からないから、約束できません」
「そこは約束してよ」
客席から、少し笑いが漏れた。
青年も舞台の上で笑う。
「では、約束します」
「軽い」
「どちらです?」
「……もういい」
王女は顔を背ける。
その後ろで、青年が少し困ったように笑った。
ピアノ。
ヴァイオリン。
短い旋律が交わる。
青年は去っていく。
王女は追わない。
呼び止めない。
ただ、机へ戻る。
さっきの便箋。
ペンを取る。
『帰ってきて』
朗読が読む。
短い言葉。
王女の手は動いていない。
頭の中の言葉だった。
『行かないで』
書かれない。
『待っているから』
それも。
紙には残らない。
王女はペンを置いた。
書きかけの紙を折る。
封筒には入れない。
机の引き出しを開ける。
そこへ入れる。
引き出しを閉じる音。
舞台が暗くなる。
最後に、アリアのピアノだけが数音残った。
*
客席は静かだった。
佳澄も、黙って見ている。
先週の通しリハーサルでは、もっと短く切り取られていた。
こうして本番として見ると、印象が違う。
別に、派手な話ではない。
王女も青年も、何か大きな運命と戦うわけではない。
好きだとも言わない。
手紙も渡さない。
ただ。
言えなかった。伝えたいことがあるのに伝えられない。
もっと近づきたいのに、近づけない。
それだけの話だ。
なのに、アリアのピアノが入ると、書かれていない言葉の方が気になった。
*
第二場。
――季節が変わっても。
暗かった舞台が、ゆっくり明るくなる。
その上から、大きな背景が降りてきた。
秋の庭園。
赤や黄に色づいた木々。
奥へ続く小道。
低い石壁。
古いベンチ。
昨日、何度もタイミングを確認していた吊り背景。
静かに。
まっすぐ。
決められた位置まで降りる。
舞台の床から数センチ上。
止まった。
照明が変わる。
平面の絵だった庭園に奥行きが生まれた。
王女が一人で歩いてくる。
手には籠。
庭師役の少年が、落ち葉を集めている。
「また来たんですか」
「来ちゃ悪い?」
「悪くはないですけど」
「じゃあいいでしょ」
「王女様が自分で葉っぱ拾わなくても」
「暇なの」
「暇なんですか」
「暇」
王女が落ち葉を一枚拾う。
「これ、こっちでいい?」
「そこです」
「じゃあやる」
庭師が肩をすくめる。
「本当に変な人だ」
「聞こえてる」
「聞こえるように言いました」
また客席に小さな笑い。
音楽は明るくなりすぎない。
軽く動く弦の下を、ピアノが支える。
朗読。
『秋が過ぎた』
王女が舞台の端へ歩く。
照明が薄くなる。
『冬が来た』
舞台美術が動き、背景が次々と変わる。
布の色。
光。
小道具。
舞台は一瞬だけ寒い色へ変わる。
『雪が溶けた』
歌唱役の二人が舞台奥で短い声を重ねる。
『春が来た』
庭園の一部へ、小さな花。
『それでも手紙は、引き出しの中に残っていた』
舞台の片側に、最初の部屋と同じ机が現れる。
王女が引き出しを開ける。
折った紙。
取り出す。
開かない。
見るだけ。
また戻す。
場面が変わる。
庭。
王女はベンチの表面を布で拭いている。
今度は侍女役の少女がやってくる。
「それ、まだやってるの?」
「何が?」
「ここのこと」
「汚れるから」
「誰も座ってないじゃない」
「私が座る」
「嘘」
「何でよ」
「王女様、ここに来ても大体立ってるもの」
「見てるの?」
「見えるから」
王女は布を動かす手を止めない。
「だったら何?」
「別に」
侍女も隣で落ち葉を拾う。
少しだけ間。
「帰ってくると思ってる?」
王女の手が止まる。
ピアノも、一瞬だけ薄くなる。
「……分からない」
「待ってる?」
「分からない」
「手紙は?」
「出してない」
「まだ?」
「うん」
「もう渡さなくていいの?」
王女は答えない。
その代わり、ベンチの端にあった小さな枯れ葉を指で払う。
「これ、塗り直した方がいいかな」
「話そらした」
「傷んでるでしょ」
「うん」
「じゃあ直す」
「はいはい」
侍女はそれ以上聞かない。
二人でベンチを見る。
照明がゆっくり変わった。
アリアのピアノが、舞台の会話から少し離れて前へ出る。
旋律を強く主張するわけではない。
ただ、舞台の上で言葉にならなかったものを受け取るように続いていく。
数音。
ヴァイオリンがそれを引き継ぐ。
さらにチェロ。
声。
時間が過ぎる。
王女は何度も同じ庭へ来る。
ある日は花を植える。
ある日はベンチの脚を確認する。
ある日は雨のあとに落ちた枝を拾う。
誰かに頼まれたからではない。
青年が戻る日を聞いているわけでもない。
ただ、その場所を残している。
昔、二人で座った場所。
もし帰ってきたとき。
同じように座れるように。
そんな説明は、誰もしなかった。
ナレーションにもない。
けれど、そう見えた。
佳澄は、いつの間にかグラスから手を離していた。
画面の端。
ピアノを弾くアリアの横顔が映る。
楽譜。
指。
鍵盤。
昨日、彼女は言っていた。
『伴奏って、目立たないけど大事だから』
今のアリアは、ほとんど舞台の中心には映らない。
それでもずっと音がある。
少女が黙ったとき。
誰かが返事をしなかったとき。
季節が飛んだとき。
その間に、ずっとアリアの音がある。
ああ……こういうことかと。
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