第三場。
――届いたもの。
庭園は同じだった。
けれど、照明が違う。
第二場より少し柔らかい光。
秋。
最初と同じ季節。
でも、一年なのか、二年なのか。
舞台では明言されない。
庭師が落ち葉を掃いている。
そこへ一人の青年が入ってきた。
旅支度の衣装。
第一場より少しくたびれている。
「ここで合ってる?」
庭師が顔を上げる。
「はい?」
「この庭」
「そうですけど」
青年は周囲を見る。
背景。
小道。
そしてベンチ。
「……まだあったんだ」
「ありますよ」
「ずっと?」
「ずっとです」
青年がベンチへ近づく。
手で背もたれに触れる。
「前よりきれいになってる」
「直しましたから」
「君が?」
「僕もやりましたけど」
「けど?」
「ここ、ずっと気にしてる人がいるんですよ」
青年の動きが止まる。
そこへ、王女が現れる。
二人とも何も言わない。
客席も静かだった。
王女は青年を見る。
青年も王女を見る。
最初に口を開いたのは青年だった。
「戻りました」
「……うん」
「遅くなりました」
「うん」
「怒ってます?」
「少し」
「やっぱり」
「約束したのに」
「はい」
「いつ戻るか分からないくせに、約束するから」
「すみません」
「ほんとにね」
それだけ。
抱き合わない。
駆け寄らない。
音楽も急に盛り上がらない。
二人の間に数歩の距離がある。
青年が庭を見る。
「ずっと、ここに来てたんですか」
王女は少しだけ庭師を見る。
「……誰が言ったの」
「誰とは」
「言ったんでしょ」
「聞かれたので」
「もう」
王女はため息をつく。
青年が笑った。
「手紙……」
そこで、王女が止まった。
「え?」
「旅先で、何度か待ってました」
「……送ってないよ」
「知ってます」
「じゃあ何で」
「何となく」
青年はベンチへ手を置く。
「でも、帰ってきたら、ここが残ってた」
王女は黙る。
「前と同じだった」
「同じじゃないよ」
「そうですか?」
「ベンチ、塗り直したし。花も変えたし。木も一本切った」
「そういう意味じゃなくて」
「……分かってる」
王女が視線を逸らす。
青年はベンチに座った。
隣を空ける。
「座ります?」
「何で敬語なの」
「久しぶりなので」
「変なの」
王女は少し迷ってから、隣へ座る。
間には、人一人分まではない。
でも肩が触れるほど近くもない。
青年が正面を向いたまま言う。
「帰ってきてもいいって、思ってました?」
王女の横顔。
ピアノ。
アリアの指が、一度止まりかける。
ほんの短い間。
王女は答える。
「……うん」
それだけ。
青年が小さく息を吐いた。
「よかった」
舞台がゆっくり暗くなっていく。
朗読。
『渡されなかった手紙は、最後まで彼の手には届かなかった』
王女の部屋。
机の引き出し。
折られた紙が、一瞬だけ照明の中へ浮かぶ。
『そこに書けなかった言葉も、きっと全部は届かなかった』
庭の二人。
『それでも』
アリアのピアノ。
『言葉にならなかったもののいくつかは、季節を越えて、別の形で残っていた』
ヴァイオリン。
チェロ。
小さな声。
『帰る場所を残したこと』
ベンチ。
『忘れなかったこと』
少女の横顔。
『待っていると、最後まで言えなかったこと』
青年が少女を見る。
少女も見る。
今度は目を逸らさない。
『それでも、届いていたものがあった』
朗読が終わる。
音楽だけになる。
王女と青年は立ち上がる。
二人でゆっくりと庭の奥へ歩いていく。
手はつながない。
少し離れて。
でも同じ方向へ。
舞台の光が細くなっていく。
最後まで残ったのは、アリアのピアノだった。
一音。
もう一音。
音がほどけるように小さくなる。
最後の和音。
アリアの指が鍵盤から離れた。
静寂。
一秒。
二秒。
客席から拍手が起きた。
最初は前方。
すぐに後ろへ広がる。
大きくなる。
舞台に立っていた生徒たちが一列に並ぶ。
王女。
青年。
侍女。
庭師。
朗読。
弦の演奏者。
歌唱の生徒。
アリアもピアノから立つ。
頭を下げる。
プラチナブロンドの髪が肩から前へ落ちる。
顔を上げる。
笑っていた。
舞台袖にいたカノンも、ほんの少しだけ目を細める。
司は進行表を胸に抱えたまま、息を吐いた。
「……よし」
誰にも聞こえないくらいの声だった。
*
「終わったぁ……」
舞台袖へ戻った途端、カノンが壁に背中をつけた。
「まだ片付けあるよ」
アリアが笑う。
「分かってる。でも一回終わらせてよ」
「そうだね」
「二人とも、お疲れ」
司が来る。
「お疲れ」
アリアが答える。
カノンは両手を上げた。
「司、褒めて」
「何でオレが」
「いいから」
「お疲れさまでした。大変よくできました」
「雑」
「要求が急なんだよ」
アリアが笑った。
「でも、ほんとよかったね」
カノンが顔を戻す。
「うん」
今度のアリアの返事は少し小さい。
嬉しそうだった。
「途中、第二場の照明ちょっと遅かった気がしたけど」
「気づいた?」
司が言う。
「分かるよ」
「客席からなら分かんなかったと思う」
「ならいいけど」
「ピアノもよかった」
「ほんと?」
「うん」
「じゃあよかった」
アリアは、昨日と同じように笑った。
舞台の反対側から、
「銀座さん!」
と呼ばれる。
演者の女子生徒。
「ピアノ、すごくよかった。ありがとう!」
「こちらこそ。台詞、昨日よりすごく聞きやすかったよ」
「ほんと?」
「うん」
「よかったー」
そのまま別の生徒にも声を掛けられる。
スタッフが笑う。
誰かが写真を撮ろうと言う。
カノンが、
「あとで! 先に片付け!」
と声を上げる。
講堂の中には、まだ拍手の余韻が残っているようだった。
公演は成功した。
ちゃんと。
昨日まで準備したものが。
みんなで作ったものが。
最後まで終わった。
*
観客が外へ出ていく。
客席の照明が明るくなる。
舞台では転換が始まった。
「椅子、下手から運びます!」
「ケーブル踏まないで!」
「マイク二本回収!」
「背景上げます!」
さっきまで物語の庭だった場所が、少しずつ普通の舞台へ戻っていく。
王女の机。
ベンチ。
小さな花。
役割を終えた大道具が運ばれていく。
アリアはピアノの譜面をまとめていた。
カノンは下手袖で衣装の一部を外しながら後輩と話している。
司は舞台中央から少し上手寄り。
進行表を片手に、次の利用団体との確認をしていた。
「これ、奥に持っていけばいいですか?」
男子の後輩が、細長い支柱を抱えて聞く。
「うん。そこ通ると危ないから、一回こっち」
「はい」
「ケーブルある。足元見て」
「あ、すみません」
「大丈夫」
司が後輩を少し手前へ誘導する。
そのときだった。
音。
小さい。
金属が擦れたような。
誰かが最初に聞いたかも分からない。
アリアが顔を上げた。
舞台の上。
秋の庭園。
さっきまで二人が歩いていた大きな背景。
上へ戻されかけたフレーム。
片側が。
ほんの少し。
傾いている。
「……え?」
次の瞬間。
大きな音がした。
誰かが叫ぶ。
「危ない!」
背景が斜めに落ちた。
まっすぐではない。
片側から崩れるように。
司のすぐ近くに、さっきの後輩。
司が反射的にその肩を押した。
「向こう!」
「えっ」
「早く!」
後輩が転ぶように外へ出る。
司は一歩遅れた。
上を見る。
その一瞬。
アリアには見えていた。
ピアノの横。
自分のいる位置なら、後ろへ下がればいい。
そこには落ちてこない。
でも。
司がいる。
「司!」
楽譜が落ちた。
アリアが走る。
カノンが振り返る。
「アリア?」
数歩。
ほんの数歩。
司も動こうとする。
でも遅い。
アリアが両手で司の身体を押した。
「っ!」
下手側から走り込んだ勢いのまま、司の身体が上手側へよろめく。
落下区域の外へ、一歩、二歩。
アリアも、そのまま抜けるはずだった。
けれど、司を押し切った反動で上体が前へ流れ、左足が一歩遅れる。
もう一歩。
届かない。
片側を失ったフレームが斜めに落ち、その下辺が背後から迫った。
鈍い音。
左の肩甲部から脇へかけて、重い下辺が胸部を斜めに打った。
アリアの身体が前へ崩れ、床へ落ちる。
画面が揺れる。
カノンの声。
「アリア!」
音楽はない。
何もない。
ほんの一瞬。
講堂の全部が止まったように見えた。
それから。
「先生!」
「救急車!」
「触らないで!」
「誰か、保健室!」
声が一気に戻った。
*
「アリア!」
司が床へ膝をつく。
腕に擦り傷がある。
それだけ。
アリアは横向きに倒れている。
動かない。
「アリア、聞こえる?」
カノンも駆け寄る。
「ちょっと、アリア」
返事がない。
「アリア!」
アリアのまぶたが、わずかに動いた。
息。
浅い。
「……つか……」
声にならない。
司が顔を近づける。
「いる。オレいるから」
アリアの眉がほんの少し動く。
また目が閉じる。
「アリア?」
「救急車もう呼んでます!」
教師が走ってくる。
「二人とも、少し下がって」
「でも」
「大丈夫。今、動かさないで」
カノンの手が震えている。
司は床に座ったまま動かない。
「オレが」
声。
「オレが、あそこに」
「司」
カノンが呼ぶ。
「オレが」
「今それ言わないで」
強い声だった。
でもカノンも泣きそうな顔をしている。
「今はアリア見て」
司は黙る。
床の上。
散らばった楽譜。
《ロザムンデ》。
一枚だけ、少し離れたところまで滑っていた。
*
サイレン。
赤い光。
校門前へ救急車が入る。
担架。
酸素マスク。
救急隊員の声。
「聞こえますか?」
「銀座さん、分かりますか?」
アリアの目が一度だけ開く。
焦点は合っていない。
プラチナブロンドの髪が、担架の白いシーツへ広がっている。
「血圧――」
「搬送します」
扉が閉じる。
司とカノンは、その場に残された。
救急車が走っていく。
帥嶺祭はまだ終わっていない。
遠くから、別の校舎の音楽が聞こえる。
笑い声も。
校内放送も。
講堂の前だけが、別の場所みたいに静かだった。
*
画面が変わる。
病院。
白い廊下。
時計。
夕方。
司は長椅子に座っていた。
帥嶺祭の服装のまま。
袖に汚れ。
腕には簡単な処置をした跡。
隣にカノン。
何も話していない。
医師が一度出てくる。
二人が同時に立つ。
「銀座さんのお友達ですか」
「はい」
「ご家族の方には連絡がついています。こちらへ向かっているそうです」
「アリアは」
司が聞く。
医師はすぐには答えない。
四十代くらい。
短い髪。
眼鏡。
表情は落ち着いている。
でも、その落ち着きがいい知らせを意味していないことは分かる。
「身体の損傷が大きいです。今、処置を続けています」
「助かりますか」
司が聞いた。
医師の目が一瞬だけ止まる。
「できることをしています」
それだけだった。
司が下を向く。
カノンは唇を噛んだ。
*
少しして、廊下の向こうから早い足音が聞こえた。
女性。
その後ろに男性。
「アリアは?」
声が廊下へ響く。
母親だった。
走ってきたのだろう。
普段ならきちんと整えられているはずの髪が、頬の横で少し崩れている。
薄い色のコート。
肩から掛けたバッグ。
片方の手にはスマートフォン。
もう片方は何も持っていないのに、指が固く握られている。
顔立ち。
目元。
少し細い輪郭。
アリアに似ていた。
特に、相手の顔をまっすぐ見るときの目が。
「銀座さんのご家族ですね」
看護師が来る。
「母です」
息が乱れている。
「母です。娘は」
「こちらへ」
父親も後ろから来た。
背の高い男性だった。
濃い色のジャケット。
襟元が少しずれている。
急いで来たことが分かる。
母親ほど取り乱した様子には見えない。
でも、顔からほとんど色が消えていた。
「先生から説明があります」
「分かりました」
父親が答える。
声が低い。
必要以上に落ち着こうとしている声だった。
母親がそこで初めて司とカノンを見る。
制服の司の腕には処置の跡。
そして、クラスで作成した帥嶺祭のシャツを着たまま駆け付けたカノンの泣き腫らした顔。
「あなたたち……」
カノンが身体を固くする。
「愛宕さん?」
「……はい」
母親の声が少し揺れた。
「あなたカノンちゃん?」
「はい」
「アリアから、聞いています」
その一言で、カノンの顔が崩れた。
「すみません」
「え?」
「私……」
「どうしてあなたが謝るの?」
母親が言う。
カノンは答えられない。
母親の視線が司へ移る。
司は立っている。
何も言えない。
「じゃあ、あなたが桃園君?」
司が目を上げた。
「……はい」
母親は、その顔を見た。
何か知っている顔だった。
娘から聞いた名前。
何度も。
そういう目だった。
でも何も言わない。
看護師に呼ばれ、両親は診察室へ入っていく。
扉が閉じる。
カノンが椅子へ座り込んだ。
「アリア、話してたんだ」
小さな声。
「オレたちのこと」
司も座る。
「……うん」
「当たり前なのに」
「うん」
二人とも、それ以上言えなかった。
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