外が暗くなった。
昼は晴れていた。
帥嶺祭の校庭には、青空があった。
夕方を過ぎてから雲が増えた。
そして夜。
雨が降り始めた。
救命病棟の個室。
大きな窓の外に街の灯りが見える。
赤。
白。
遠くのビル。
道路を流れる車の光。
窓ガラスに雨粒が当たる。
一つ。
また一つ。
やがて細い筋になって下へ流れた。
その向こうの夜景が、少し歪む。
室内は明るい。
白い壁。
ベッド。
点滴。
モニター。
規則的な音。
アリアはベッドに横たわっている。
顔色が悪い。
呼吸は浅い。
目は閉じている。
肩から胸の周囲には処置の跡があり、普段の制服姿とはまったく違う。
母親はベッド脇の椅子に座っていた。
ずっとアリアの手を握っている。
父親は窓側。
医師から渡された説明書類を持ったまま、もう何分も同じページを見ていた。
読んでいるわけではない。
カノンと司も、少し離れたところにいる。
本来なら、友人がいつまでもいられる場所ではない。
それでも家族が望んだ。
娘がよく話していた二人だから。
少しだけ。
会わせてほしいと。
雨音は聞こえない。
窓が厚いのかもしれない。
見えるだけ。
水が流れている。
*
アリアの指が動いた。
母親がすぐに気づく。
「アリア?」
まぶたが少し開く。
「アリア。お母さんいるよ」
焦点が定まらない。
天井。
母親。
父親。
ゆっくり。
視線が動く。
「……おか……」
「いる。いるよ」
母親の手が震える。
「お父さんもいるよ」
父親がベッドへ近づく。
「ここにいる」
アリアが少しだけ目を動かした。
父親を見る。
ほんのわずかに口元が動く。
笑おうとしたのかもしれない。
でもうまくいかない。
また視線が動く。
カノン。
「アリア」
カノンが近づく。
「私もいる」
アリアの目が、カノンのところで少し止まった。
「……かのん」
「うん」
「……平気……?」
一瞬、誰も意味が分からなかった。
アリアが一番傷ついているのに。
「うん……」
小さく。
アリアの目が動く。
肯定。
「だいじょうぶ」
カノンの声が震える。
「みんな無事だよ」
アリアは目を閉じる。
ほんの少し。
安心したように見えた。
「アリア」
カノンが続ける。
「ピアノも。みんな、よかったって」
「……そっか」
弱い声。
それだけ。
目がまた開く。
その先。
司。
司は動けなかった。
アリアが見ている。
「……司」
司の喉が動く。
ベッドの近くへ来る。
「いる」
声がかすれる。
「ここにいる」
アリアは彼の顔をしばらく見た。
何かを確かめるように。
司の頬。
額。
肩。
腕。
「……怪我」
「してない」
司はすぐ答えた。
「オレは大丈夫」
アリアの眉が少しだけ緩む。
「ほんとに」
「ほんと」
「……うん」
息。
短く。
また目が閉じそうになる。
司が手を伸ばしかける。
止める。
その手を、アリアの母親が見た。
何も言わない。
司はゆっくりアリアの手の近くへ置く。
触れていいのか分からない。
アリアの指が少し動いた。
司の指先へ触れる。
ほんの一瞬。
「……よかった……」
アリアが言った。
小さい。
息に混ざるくらい。
司の顔が歪んだ。
「アリア」
返事はない。
「アリア」
呼ぶ。
アリアの目は閉じている。
呼吸は続いている。
まだ。
母親が額に触れる。
「ごめんね、疲れたよね……」
声を震わせながら言う。
「もう喋らなくていいからね……」
アリアは眠るように動かなくなる。
*
時間が過ぎる。
何分なのか。
画面には出ない。
モニターの音。
廊下を行く足音。
ドアが開く。
看護師。
若い女性だった。
髪を後ろでまとめている。
ベッドの横で数値を確認する。
表情は変えない。
点滴を見る。
アリアを見る。
一度だけ眉が動く。
「先生を呼びます」
母親が顔を上げる。
「何か」
「少し状態を確認しますね」
看護師は落ち着いた声で言う。
でも部屋を出る足が、入ってきたときより早い。
すぐに医師が来る。
さっき両親へ説明していた医師。
もう一人。
看護師が増える。
空気が変わった。
「銀座さん」
医師が呼ぶ。
反応がない。
モニター。
「血圧下がっています」
「先生」
「ご家族、少し後ろへお願いします」
母親が立つ。
「え」
「少しだけ下がってください」
「でも」
「お願いします」
「……下がろう」
父親が母親の肩を抱く。
一歩。
後ろへ。
司とカノンも壁際へ下がる。
医師の声。
看護師の返事。
器具。
薬剤。
速くなる動き。
母親は何も言わず見ている。
両手を胸の前で握っている。
強く。
指の関節が白くなるほど。
「アリア」
小さく呼ぶ。
誰にも届かないくらい。
「アリア」
もう一度。
医師たちは止まらない。
モニター。
確認。
短い指示。
看護師の一人が何かを取りに出る。
別の看護師が戻る。
司は壁際で立っている。
カノンは口元を両手で押さえている。
父親は母親を支えたまま、一度も目を逸らさない。
時間が伸びる。
雨が窓を流れる。
街の光が滲む。
部屋の中だけが明るい。
*
やがて。
医師の動きが止まった。
完全にではない。
一つずつ。
確認する。
看護師を見る。
時計を見る。
アリアを見る。
その顔に、それまでとは違う表情が浮かんだ。
冷静さを崩したわけではない。
ただ。
人の顔になった。
「……ご家族の方」
父親が顔を上げる。
母親は動かない。
医師が言葉を選ぶ。
短く。
ゆっくり。
何時何分。
その数字が告げられる。
続いて。
「お亡くなりになりました」
室内の音が消えたように感じた。
モニターも。
雨も。
街も。
母親が医師を見る。
理解できない顔。
「……え?」
医師は何も言わない。
母親がアリアを見る。
「アリア?」
ベッドへ近づく。
「アリア」
手を握る。
「ねえ」
返事はない。
「アリア」
少し声が大きくなる。
「ねえ、アリア」
身体を揺らしたりはしない。
ただ手を握る。
「お母さんいるよ」
返事がない。
「ねえ」
声が崩れた。
「アリア……」
膝から力が抜ける。
父親が支える。
けれど全部は支えられない。
二人とも、ベッドの横へ沈む。
「いや」
母親の声。
初めて。
「いや……」
アリアの手を両手で包む。
「まだ、十七歳なのに」
父親が目を閉じる。
唇を強く噛む。
「先月お誕生日で……」
「ああ……」
「帰ろうって」
母親が言う。
「帥嶺祭終わったら、帰ってきたら……」
言葉が続かない。
「アリア……」
泣き声。
それまでずっと堪えていたものが、一気に崩れる。
カノンも泣いていた。
声を出さず。
涙だけが落ちる。
司は。
まだ立っている。
アリアを見ている。
自分が押し出された瞬間。
アリアの手。
声。
『司!』
ほんの少し前。
『……よかった』
それが最後だった。
司は拳を握る。
何か言おうとする。
でも出ない。
アリアの母親が泣いている。
その横で。
自分が生きている。
それだけが、どうしても許せないような顔だった。
*
カメラがゆっくり窓へ向く。
夜の雨で濡れたガラス。
高い場所から見える街の灯り。
航空障害灯の赤い光が、水滴の中で細長く伸びる。
白い光が滲む。
一滴、また一滴。
ガラスの上を滑り、別の水滴と重なって下へ流れていく。
昼は晴れていた。
帥嶺祭の朝。
青空。
アリアが笑っていた。
『晴れたね』
同じ日の夜は、雨が降っていた。
*
シューベルトのセレナーデ。
カメラは窓から外の街の灯りに固定されたまま。
スタッフロールだけがゆっくりと流れていく。
佳澄は動かなかった。
グラスは机の上。
氷はほとんど溶けている。
テレビの光だけが部屋を照らす。
ピアノの音だけが、暗い部屋に響き渡る。
棚。
今日届いたばかりのアリアのぬいぐるみに視線を向ける。
プラチナブロンドの髪。
紫の瞳。
黒い制服。
そして、漫画を読んだ。
原作ではページの中でアリアが笑っている。
司と話して。
カノンと話して。
セレナと話して。
普通に次のページにもいる。
さっきまでテレビの中でも笑っていた。
帥嶺祭。
晴れた空。
ピアノ。
拍手。
公演はちゃんと成功した。
アリアは嬉しそうに笑っていた。
それから、たった少しの時間で――
佳澄は表情を変えずにテレビを見ている。
一通りスタッフロールが流れても、セレナーデは終わらない。
その暗い画面のまま、次回予告は、来ず。
来週の内容を告知する映像もなく。
代わりに、静かなエンドカード。
帥嶺祭前の四人の写真が、画面いっぱいに映し出された。
セレナもいる。
去年のものだ。
司。
カノン。
セレナ。
アリア。
四人とも笑っている。
その下に、小さく。
――第十八話 届かなかった一秒 完
数秒。
消える。
すぐに明るいCM。
大きな音。
別のアニメの宣伝。
明るい声。
佳澄はそれを見ていた。
「…………」
リモコンへ手を伸ばさない。
スマートフォンも見ない。
SNSを開けば、もう何か書かれているはずだ。
アリア。
死亡。
衝撃。
泣いた。
きっとそんな言葉が流れているだろう。
たぶん。
でも、見ない。
まだ。
佳澄はテレビから視線を外せなかった。
終わった。
いや、番組は、終わった。
それは分かる。
告知はなかったが来週には十九話があるだろう。
漫画では、アリアは生きている。
本棚を開けばいる。
複製原画も壁にある。
カードも。
アクスタも。
ぬいぐるみも。
全部、そこにある。
なのに。
「……え」
やっと出た声は、それだけだった。
くぐもっていて霞んでいて声にならなかったかもしれない。
何に対する「え」なのか、自分でも分からない。
自分が今、どういう表情をしているのかすらわからない。
ぼーっと口だけが中途半端に開いていて。
口の中の水分はとっくに蒸発していて。
なんだか目の焦点が合わない。
死んだ。
アリアが。
アニメの中で。
そう言えばいいだけなのに。
頭の中で言葉がつながらない。
事故。
司。
病院。
母親。
雨。
『……よかった』
病院での、最後のアリアの声。
佳澄は、棚のぬいぐるみを見る。
朝と同じ顔で微笑んでいる。
当たり前だ。
でも。
朝とは違って見えた。
手を伸ばしかける。
止める。
何をするつもりだったのか分からない。
抱くのか。
触るのか。
彼女を、確かめるのか。
そんなことをしても、何も変わらない。
テレビではもう別の番組が始まっていた。
知らない人たちが話している。
時間だけが、そのまま次へ進んでいる。
佳澄は、画面の前から動けなかった。
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