目を覚ましたとき、最初に見えたのは、昨日までと何も変わらない自分の部屋の天井だった。
カーテンの隙間から朝の光が入り、昨夜のうちに切れた冷房のせいで、室内にはすでに夏らしい生ぬるさが戻り始めている。窓の向こうでは、朝から蝉が遠慮なく鳴いていた。
佳澄は仰向けのまま、しばらく天井を眺めていた。
何か夢を見ていたような気がする。けれど、内容は思い出せない。
代わりに、一つの声だけが妙にはっきり残っていた。
『……よかった』
「…………」
枕元のスマートフォンへ手を伸ばす。
八時十二分。
グループチャットにニュースアプリ、『君がいる夏』の公式動画配信サービス、それからSNS。夜のあいだに溜まった通知が画面に並んでいた。
佳澄は中身を開かず、スマートフォンを伏せた。
昨夜、番組が終わったあと、自分が何をしていたのかはところどころ曖昧だった。しばらくテレビの前から動けなかったのは覚えている。そのあと水を飲んで、歯を磨いて、ベッドへ入った。たぶん、それだけだ。
泣いたのかと聞かれれば、よく分からない。
泣かなかったような気もする。
ただ、眠る直前まで、昨日見たものを何度も思い返していた。
帥嶺祭の朝。司に手を取られたアリアが、驚いて、それでも最後には自分の指を重ねたこと。
舞台袖で、司が自分の好みを覚えていてくれたことを知って、少し嬉しそうに飲み物を受け取ったこと。
帥嶺祭が終わったら話すという、昨日からの約束をもう一度確かめたこと。
《ロザムンデ》を弾いたこと。
公演が成功したこと。
拍手。
落下する背景。
司を押したアリア。
病院。
そして。
『……よかった』
司に大きな怪我がないと知って、それだけを確かめるように安堵したあと。
アリアは死んだ。
佳澄はゆっくり身体を起こした。
そのまま何となく棚へ視線を向けると、昨日届いたばかりのぬいぐるみが、昨日と同じ場所に座っていた。
プラチナブロンドの髪。紫の瞳。黒い制服。
当然、何も変わっていない。
「……おはよ」
口にしてから、自分でも少しおかしくなった。
「何やってんだ、俺」
返事がないのも当然だ。
昨日までなら、それで終わった。
今日は、その当然のことが少しだけ重く感じられた。
*
朝食は、いつもとまったく変わらなかった。
「今日どっか行くの?」
母親がトーストを皿に置きながら聞く。
「まだ決めてない」
「宿題は?」
「やるよ」
「昨日も聞いた気がする」
「夏休みまだ長いじゃん」
「そう言ってると急に短くなるんだからね」
向かいでは父親がタブレットを見ていて、天気予報の画面を眺めながら、「今日も相当暑いみたいだぞ。出るなら水持ってけ」と言った。
「うん」
それだけだった。
テレビでは日曜朝の情報番組が流れている。天気、交通情報、どこかの観光地の特集。画面の端には今日の最高気温が表示されていて、昨日の夜とは何一つつながっていない。
もちろん、それで正しい。
現実では誰も死んでいない。
事故も起きていない。
ニュースになることもない。
銀座アリアはアニメの登場人物で、しかも漫画の方では今も生きている。
佳澄はトーストを一口かじった。
昨夜から何度か、頭の中に「好きな人が死んだ」という言葉が浮かんでいた。
けれど、その言い方には少し違和感があった。
アリアをずっと特別に見てきた。それは間違いない。
ただ、その気持ちと、現実で誰かを好きになることが、今まで本当に同じものだったかと聞かれれば、たぶん違う。
では何が違うのか。
そこまで考えて、佳澄はやめた。
朝食の席で考えるようなことでもない気がした。
*
部屋へ戻ると、机の横に置いた電子ピアノが目に入った。
譜面台には、シューベルト《セレナーデ》の楽譜が置いたままになっている。
少し迷ったあと、佳澄は椅子に座って電源を入れた。
鍵盤へ指を置く。
最初の音を鳴らす。
続いて左手。
この曲は、まだ十分に弾き込めていない。指がもたつく場所もあるし、考えながら弾いている部分も多い。
それでも、前よりはずっと自分の中で曲になっている。
ゆっくり旋律を進めていくうちに、やがて例の場所が近づいてきた。
第十七話。
帥嶺祭前日の講堂で、アリアが一年ぶりに《セレナーデ》を弾いたとき、カノンから「前ずっとやり直してたよね」と言われたところ。
去年は何度も止まっていたのに、その日はもう止まらなかった。
『今は、これでいいかな』
そう言って、その先へ進んだ。
佳澄の指も同じ場所へ入る。
少しだけ音が前へ出て、そこから静かに着地する。
「――ここ、アリアも」
口から出た。
同時に、指が止まった。
しばらく鍵盤の上へ置いたまま、動かせなかった。
一週間前にも、似たようなことを言った。
『ここ、アリアも苦手だったな』
あのときは、少し嬉しかった。
自分が引っかかるところで、好きなキャラクターも何度も弾き直していた。その程度の、ささやかな親近感だった。
今は、同じ言葉なのにまるで違って聞こえる。
もう一度弾けばいい。
指が動かないわけではない。震えているわけでもないし、続きを忘れたわけでもない。
ただ、今は進めたくなかった。
佳澄は鍵盤から手を離し、蓋を閉じた。
ぱたん、と少し強い音がした。
*
ピアノから離れたあと、本棚の前へ立った。
『君がいる夏』。
昨日も読んだ巻を抜いて、ベッドへ座る。
適当に開いたページには、アリアがいた。
司に何か言われて、少し嫌そうな顔をしている。次のページではカノンと話している。その先にはセレナもいる。
もう一枚めくる。
そこにもアリアがいる。
「……生きてるじゃん」
声にすると、それはやけに幼稚に聞こえた。
でも事実だ。
漫画ではアリアは死んでいない。昨夜の十八話はアニメオリジナルで、漫画の物語とは別の道を進んでいる。
なら、漫画を読めばいい。
アニメの続きにアリアが出なくても、ページを開けば会える。
「だから、別に……」
そこまで言って、佳澄は口を閉じた。
視線を落とす。
ページの中のアリアへの気持ちが消えたわけではない。
嫌いになる理由なんてない。
漫画のアリアが偽物になったわけでもない。
でも、昨夜自分が失ったと思ったアリアは、この本の中にはいない。
第十七話で司と本気でぶつかったアリア。
勝手に自分のことを決められるのが嫌で、司に怒って、それでも最後には相手から目を逸らさなかったアリア。
『私だって、司のこと気になるよ』
そう言ったアリア。
帰り道で自分から司の手を取って、カノンのことも大切なのだと苦しそうに話したアリア。
帥嶺祭が終わったら、自分たちのことをちゃんと話そうと約束したアリア。
その翌朝には、司の方から少し強引に恋人つなぎをされて、驚いたあともしばらく迷い、それでも最後には手を離さなかった。
『今日、終わったらだからね』
漫画を何ページめくっても、その一連の時間は出てこない。
「……違うんだよな」
佳澄は本を閉じた。
同じ名前で、同じ顔をしていて、根っこの性格も同じなのに、積み重ねた時間が違えば、やっぱり同じではない。
「面倒くさいな、俺」
そう言いながら、本を棚へ戻した。
でも、違うものは違う。
*
スマートフォンを手に取った。
今度はSNSを開く。
昨夜から避けていたものだった。
予想通りだった。
『君夏十八話やばい』
『アリア嘘だろ』
『司生きてアリア死亡はきつすぎ』
『来週どうすんのこれ』
『カノン無理だろ』
『原作では生きてるからまだ救い』
『アニオリで殺す必要あった?』
『あの病院の母親きつい』
感想が次々に流れていく。
画像。
スクリーンショット。
泣いているスタンプ。
怒っている人。
絶賛する人。
展開そのものを否定する人。
長い考察を書いている人。
その中に、昨日の朝、司とアリアが手をつないでいる場面の画像があった。
『ここから数時間後に死ぬの無理』
「…………」
佳澄はスクロールを止めた。
その通りだった。
俺がアリアの母親だったらどんな気持ちだろう。
数時間。
本当に、苦しい。
そして。
アリアと司は、帥嶺祭が終わったら話せると思っていた。
来週も、来月も、冬も来ると思っていた。
アリアが司と付き合うかもしれない。カノンが傷つくかもしれない。三人の関係がもっと面倒なことになるかもしれない。
それでも昨日の昼までは、その全部を含めて未来だった。
佳澄はスマートフォンを伏せた。
「はー」
司を嫌いになったわけではない。
むしろ、第十七話を見てから、前より少し好きになった気さえする。
あの夜、佳澄は司を羨ましいと思った。アリアと手をつなげることだけではない。嫌われるかもしれないところまで踏み込み、アリアもまた遠慮なく怒って言い返せる。そこまでぶつかっても関係が壊れず、最後には並んで帰れることが羨ましかった。
そして今は、その羨ましさの先にあったものが、昨日よりはっきり見える。
司は、アリアの生活の中にいたのだ。
学校で顔を合わせ、名前を呼び、言い合い、心配し、飲み物の好みを覚え、手をつないで明日の約束をする。そういう一つ一つが、画面に映る場面の外まで続いていた。
それだけではない。
病院で。
『あなたが桃園君?』
アリアの母親は司の名前を知っていた。
あの一言が、今になって妙に残っている。
たぶん、一度や二度ではなかったのだろう。
アリアが家へ帰って。
学校のことを話す中で。
司の名前を出していた。
今日こういうことがあった。
司がこんなことを言った。
また喧嘩した。
そんなふうに。
佳澄の知らない場所で、アリアは普通に生活していて、その生活の中に桃園司という人間がいた。
そこまで考えたとき、胸の奥に小さく引っかかるものがあった。
嫉妬、と言うほど大きくはない。
司と代わりたいとまで思っているわけでもない。
それでも。
羨ましかった。
昨日より、少しだけ強く。
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