その日は、結局どこへも出なかった。
母親には「まだ決めてない」と答えたけれど、午後になっても出かける気にはならなかった。ゲームを起動しても長く続かず、宿題を開いても同じ行を何度か読み直した。夕方には村上たちのグループチャットも動いていたが、短く返事をしただけで会話にはほとんど加わらなかった。
夜になっても、第十八話を見返そうとは思わなかった。
動画配信サービスを開けば、いつでも再生できる。
それでも指は動かなかった。
一晩眠れば、少しは違うかもしれない。
そう思って眠った。
けれど翌朝になっても、胸の奥に残ったものは、それほど変わっていなかった。
*
八月十日、月曜日。
朝食を食べ、午前中は家で過ごした。
宿題を少し進めて、途中でスマートフォンを見て、また机へ戻る。昨日より普通に動けている気はする。それでも、何かに集中していると、ふとした瞬間に病室のアリアが浮かんだ。
午後一時を少し回ったころ。
部屋にいるのが嫌になった。
ゲームをする気にもならないし、宿題を続けたところで集中できそうにない。
「ちょっと出てくる」
玄関で靴を履きながら言うと、リビングから母親の声がした。
「どこ行くの?」
「そのへん」
「暑いから気をつけてね」
「うん」
外へ出た瞬間、まとわりつくような熱気に身体を包まれた。
「暑……」
八月の日差しは今日も容赦がなく、住宅街のアスファルトからも熱が返ってくる。道沿いの植え込みからは蝉の声が降り、遠くでは室外機が低い音を立てていた。
佳澄は駅とは反対方向へ歩いた。
普段なら、暇になれば村上たちへ連絡したかもしれない。
今日は、一人でいたかった。
コンビニの前を通り、公園を横切り、住宅街を抜けていく。
目的地をはっきり決めた覚えはなかったが、気づけば足はいつもの方向へ向かっていた。
*
天代神社。
鳥居の前で、佳澄は昔からの癖でほんの少し頭を下げた。
二日前にも歩いた参道は、今日も同じように大きな木々の影に覆われていた。住宅街の熱を抜けて境内へ入ると、直射日光が遮られるだけで身体が少し楽になる。
拝殿の前には二、三人の参拝客がいたが、佳澄は二日前と同じようにそちらへは向かわなかった。何かを願いに来たわけではない。
そのまま脇を抜けて裏手へ回ると、木々の隙間から見慣れた池が現れる。佳澄は迷わず周囲の遊歩道へ入り、二日前とほとんど同じ道を歩き始めた。
景色は変わっていない。水面には枝葉の影が揺れ、日が差すところだけが白く光っている。けれど二日前はただ暑さを避けるために歩いていた道が、今日は少し違って感じられた。
「……こっちはマシだな」
口から出た言葉まであのときと同じで、佳澄はほんの少しだけ息を吐いた。
湿気はあるし、額にはすぐ汗が浮かぶ。それでも池から吹いてくる風にはわずかに水の匂いが混じっていて、住宅街よりは歩きやすい。
佳澄は急がず歩いた。スマートフォンも出さない。今は、画面を見るよりも、このまま何もせず歩いていたかった。
池を四分の一ほど回ったところで。
ふと。
佳澄は、自分の頭の中で音楽が鳴っていることに気づいた。
《セレナーデ》。
昨日の朝、途中で演奏を止めた曲。
夜の雨の中、病室の窓をたたく雨の曲。
そして、アリアを見送った曲。
意識して思い出したわけではない。
弾こうとしているわけでもない。
それでも、右手の旋律が静かに頭の中を流れていた。
自分の演奏なのか。
アリアが弾いた音なのか。
もうよく分からない。
ただ、曲だけが続いている。
佳澄はそのまま歩いた。
*
銀座アリアを、ずっと一番に見てきた。
それは今さら考えるまでもない。
では。
今まで、アリアに会いたいと思っていただろうか。
そこだけは、考えれば考えるほど、少し違うような気がした。
佳澄は水面を眺めながら歩く。
漫画を読む。アニメや映画やドラマを見る。ゲームをしたり、誰かの動画やSNSを眺めたりする。どれも佳澄にとっては、ごく普通のことだった。
画面の向こうに人がいて、物語があって、ときには何年も追いかけている誰かの人生のようなものがある。
けれど、そのたびに人は、
――これはフィクションだ。
などと確認しない。
漫画を読むたびに、紙に印刷された絵だとは考えない。
アニメを見るたびに、これは描かれた絵で、声優が台詞を読んでいるのだと意識しない。
ドラマを見ながら、今泣いているこの人は俳優で、撮影が終われば普通に家へ帰るのだ、と毎場面考える人もいないだろう。
それでは物語に入り込めない。
SNSだって似たようなものかもしれない。
写真。
文章。
動画。
そこに写っている人間が、画面の外では食事をして、眠って、仕事へ行き、自分の知らない時間を過ごしていることは知っている。
でも、投稿を見るたびにその全部を想像しているわけではない。
それでも、分かってはいる。
画面のこちら側と向こう側。自分と他人。現実と物語。毎回言葉にしなくても、人は自然にそれらを切り分けている。おそらく、意識しないほど当たり前に。
佳澄も同じだった。
アリアを見て、かわいいと思った。いいなと思った。気づけば『君夏』の中で一番目で追う人になり、もっと出番が増えてほしいと思うようになっていた。
グッズが出れば嬉しかったし、ゲームに出れば欲しかった。新しいイラストが公開されれば保存したし、人気がもう少し上がればいいとも思っていた。
でも。
それと現実の恋愛は、別だった。
佳澄の中で明確な線を引いていたわけではない。
むしろ線があることすら、考えたことがなかった。
最初から混ざるものではなかったからだ。
アリアにはアリアの側がある。
佳澄には佳澄の側がある。
そのことに何の不満もなかった。
だから。
「会いたい」
などと、本気で考える必要もなかった。
会えないから諦めていたわけでもない。
そもそも。
会う、という発想の対象ではなかった。
好きなキャラクターとして、ずっと見ていられればそれで十分だった。
頭の中で《セレナーデ》は続いている。
まだ、昨日の朝に止まった場所までは来ていない。
佳澄は池の縁をゆっくり歩いた。
*
第十八話を見るまでは、それで何も困らなかった。
画面を見ればアリアがいて、本を開けば別の時間を生きているアリアがいる。声も聞けた。それだけで、自分の気持ちは十分に行き場を持っていた。
けれど、第十七話を見た夜に感じた司への羨ましさは、もう別の形を持ち始めている。
司はアリアの生活の中にいる。学校で会い、名前を呼ばれ、怒られ、触れられ、明日の約束をする。そして家へ帰ったあとでさえ、母親に話す相手の一人として彼女の日常に残っていた。
『あなたが桃園君?』
病院でのあの一言を、佳澄はまた思い出した。
佳澄は何年もアリアを見てきた。漫画を読み、アニメを見て、声や表情や服装まで覚えている。
でも、アリアの方は佳澄を知らない。
それは最初から分かっていたし、今まで寂しいと感じる必要すらなかった。見る側と見られる側は、最初から別の場所にいるものだったからだ。
それなのに、アリアが死んだあとになって初めて、画面の向こう側というものが、単なる区分ではなく距離として感じられた。
「…………」
佳澄は大きな木の下で足を止めた。
池の半分ほどまで来ている。
枝が遊歩道の上へ大きく張り出し、広い木陰を作っていた。
水面へ目を向ける。
風が吹く。
木の葉が揺れる。
今まで、アリアと付き合いたいなどと本気で考えたことはなかった。自分を好きになってほしい、自分を見てほしい――そういう現実で誰かへ向ける気持ちを、そのままアリアへ向けていたわけではない。そこは、考えるまでもなく自然に分かれていた。
だから、今感じているものをすぐに恋愛と呼ぶのも違う気がした。
ただ。
会ってみたかった。
第十八話のアリアに。
司と喧嘩するアリア。
カノンのことを大事だと言うアリア。
ピアノを弾くアリア。
飲み物をもらって少し嬉しそうにするアリア。
母親に。
学校のことを話すアリア。
そういう。
画面に映っている場面だけではなく。
その間にある時間。
何も起きていない時間。
物語の筋書きにはならないようなことも。
聞いてみたかった。
今日は暑い。
とか。
眠い。
とか。
ピアノ疲れた。
とか。
カノンにこんなこと言われた。
とか。
また司と喧嘩した。
とか。
そんな話を。
アリア本人から。
聞いてみたかった。
「……俺も」
小さく声が出た。
「話してみたかったのかな」
言葉にすると。
少しだけ。
分かった気がした。
会いたい、というのは。
画面の向こう側にいるものを、自分の側へ引っ張り出したいということではないのかもしれない。
自分が物語の中へ入り込んで、主人公になりたいということでもない。
ただ。
同じ場所にいて。
同じ時間を少し共有して。
こちらから話して。
相手から返事が返ってくる。
たぶん。
それだけのことなのだ。
そして、あの放送を見るまでは、アリアを一番に思い、画面の向こうから見ていられるだけで満足していた。それ以上を望む必要がなかった。
今になって初めて、それだけでは足りないと思った。
遅すぎる。
死んだあとになって。
頭の中の《セレナーデ》が強く駆け巡る。
佳澄は、水面を見ていた。
「……会いたかったな」
自分で思っていたより、静かな声だった。
風で水面が揺れている。
誰にも聞こえない。
佳澄にしか聞こえない。
しばらくその場に立ってから、また歩き始めた。
残り半分。
もう急ぐ理由はなかった。
*
池を一周し、佳澄は元の境内へ戻った。
拝殿の方には行かず、そのまま参道へ向かう。
さっきより少し参拝客が増えている。
社務所の前を通りかかったところで、後ろから女の子の声がした。
「すみません。銀座アリアさんのことで、お話を伺いたいんですけど」
佳澄は足を止めた。

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