「銀座アリアさんのことで」
何を言われたのか、一瞬分からなかった。
佳澄は足を止めたまま、声のした方を見る。
少し離れたところに、巫女装束の女の子が立っていた。
天代神社の人だろうか。
自分より年下に見える。中学三年生か高校一年生くらいだろうか。神社の人間らしいことは何となく分かるが、少なくとも佳澄には見覚えがなかった。
「……え?」
「あ、すみません」
「え、なんですか」
我ながら間の抜けた返事だった。
そもそも人に話しかけられると思っていなかったのだ。
さっきまで考えていたのはアリアのことだった。一昨日の第十八話のこと。司のこと。病院で閉じた目のこと。そして、池の周りを歩きながらようやく認めた、自分でも少し恥ずかしくなるような気持ち。
会いたかった。
そこへ、知らない相手から突然その名前を出された。
「今、銀座アリアって言いました?」
「はい」
聞き間違いではないらしい。
「……何で、その名前を知ってるんですか」
女の子はすぐには答えなかった。
佳澄は相手の顔を見る。
君夏を見ているのだろうか。
それ自体なら不思議ではない。深夜アニメの中ではそれなりに知られている作品だし、一昨日の夜の放送はファンの間で相当騒ぎになっているはずだ。
けれど、それならなぜ自分に声をかける。
「俺のこと、知ってます?」
「顔は前から見たことがあります。ここ、よく来ますよね」
「ああ……はい」
それなら分かる。
天代神社には昔から時々来ている。自宅から歩ける距離だし、特に用事がなくても境内を歩くことがあった。
しかし、顔を覚えられていることと、銀座アリアは結びつかない。
「名前、聞いてもいいですか?」
「四条です。四条佳澄」
「佳澄さんですね。私は稲羽此乃です」
「此乃さん」
名前を交換しても、状況は少しも分かりやすくならない。
佳澄は考える。
「えっと……村上って知ってます?」
「え、知らないです」
「青山は? 神田とか」
「どちらも知らないです」
「ですよね」
なるほど。
そうだとすると、友人から自分のことを聞いたわけでもない。
佳澄はここ数日の自分をざっと振り返った。SNSで天代神社と結びつくようなことは書いていないし、アリアのグッズを鞄からぶら下げてもいない。境内でアリアの名前を大声で口にした記憶もなかった。
それでも此乃は、最初から佳澄がその名前に反応すると分かっていたように見えた。
さっき池のそばで考えていたことまで知られているような気がして、少し気味が悪い。
「……俺、何か言ってました? アリアのこと」
「いいえ」
「じゃあ、何で」
此乃は境内を一度見回した。
老夫婦が本殿の前で手を合わせている。石段の方では、小さな子どもを連れた家族が上がってきていた。
「ここではちょっと話しにくいので、中に来てもらってもいいですか」
「中?」
「社務所の奥です」
佳澄はわずかに迷った。
知らない女の子についていく。
普通なら、もう少し警戒するところかもしれない。
けれど。
「アリアの話なんですよね」
「はい」
「じゃあ、行きます」
*
社務所には何度か入ったことがある。
御守りを買ったことも、御朱印を頼んだこともあったので、受付のあたりまでは知っている。
その先へ入ったのは初めてだった。
「こっちです」
此乃が受付脇の扉を開ける。
関係者以外立入禁止という小さな札が掛かっていた。
その向こうには古い木の廊下が続いている。外から見た社務所より奥行きがあるように感じたが、考えてみれば神社の職員が使う部屋や倉庫があるのは当然だ。
冷房の音が遠くなり、代わりに板張りの廊下を歩く二人分の足音が聞こえる。
角を曲がると、小さな中庭があった。
大きな庭ではない。石と苔、その間に低い木が植えられ、真夏の日差しを受けた葉が白っぽく光っている。表の境内とは少し違う静けさがあった。
「こんなところあったんですね」
「表からは見えないですから」
「神社って、意外と奥あるんだ」
「一応、仕事するところも必要なので」
此乃は当たり前のように言った。
その返しが普通すぎて、佳澄は少しだけ力が抜けた。
案内されたのは八畳ほどの和室だった。
低い机と座布団。壁際に書類棚。神棚。
隅には小さな事務机があり、その上に閉じたノートパソコンが置いてある。
特別なものは何もない。
秘密の話をすると言われたせいで、無意識にもっと妙な場所を想像していたのかもしれない。
「どうぞ」
「失礼します」
二人で机を挟んで座る。
此乃が冷たい麦茶を出してくれた。
佳澄は一口だけ飲んでから、グラスを置いた。
「……それで、アリアがどうしたんですか」
此乃は少し考えてから口を開いた。
「先に一つ、確認していいですか」
「はい」
「銀座アリアさんって、一昨日の夜に亡くなったんですよね」
佳澄は眉を寄せた。
「……アニメで、です」
「はい」
「漫画では生きてますよ」
「それも確認しました」
妙な言い方だ。
「此乃さん、君夏見てるんですか」
「いいえ。昨日初めて知りました」
「昨日?」
「『君がいる夏』っていう作品があることも、それまで知りませんでした」
ますます分からない。
「どういう意味ですか」
「向こうから、名前について問い合わせが来たんです」
「向こう?」
此乃はそこで一度黙った。
「たぶん、順番に話すとかえって分かりにくいので、一番大事なところから言います」
佳澄は黙って待った。
「向こうに一人の女の子が現れまして、その子が銀座アリアだと名乗っているのです」
言葉そのものは難しくない。
なのに、意味が入ってこなかった。
「……どういうことですか」
言っている意味を理解しようとしたが、理解したところで余計に意味が分からなくなった。
「それ、アリアって名前の人がいるってことですか」
「名前だけじゃないです。見た目も、私たちが調べた銀座アリアさんの特徴と一致しています。本人から学校や家族、桃園司さん、愛宕カノンさん、赤坂セレナさんのことも聞いています」
司。
カノン。
セレナ。
何の脈絡もなく三人の名前が、この部屋で口にされた。
「……ええと。アニメキャラなんですけど」
「はい。本人はそう名乗っていますが、わからないことだらけです。向こうでも詳細について調査中です」
「その、さっきから言ってる向こうって何ですか」
「我々が『常世』と呼んでいるところです」
「常世……」
その言い方から、死後の世界が一瞬頭をよぎった。けれど、此乃の話し方はどうもそれだけではないらしい。
しかし、今知りたいのは世界の仕組みではなく、アリアがそこにいるのかどうかだ。
目の前の此乃は、ごく普通に話している。
だからこそ、この部屋で「銀座アリアという少女が別の場所にいる」と言われていることだけが、現実から浮いていた。
「……いたずらじゃないですよね」
「違います」
「俺、一昨日の話でそういうのやられたら、たぶん結構怒りますよ」
「分かっています」
「君夏、知らなかったんですよね」
「はい。だからいろいろ調べました。インターネットで」
此乃は少しだけ姿勢を直した。
「常世にいる銀座アリアさんのことを調べていて、さっき、あなたにたどり着きました」
「……俺に?」
「正確には、最初にここまで来て、それから佳澄さんに」
「ここって、天代神社?」
「はい」
佳澄は部屋の外へ一瞬視線を向けた。
「何でこの神社なんですか」
「そこはまだ、私にも全部は分かっていません。ただ、向こうにいるアリアさんが、こちらの何かと強くつながっていることは分かっています。それを辿っていったら、この辺りまで来たんです」
何を、どうやって辿ったのか。
聞きたいことはあった。
ただ、今ここでそこへ入ると、また知らない言葉が増えるだけだということも何となく分かる。
「それで、どうして俺だったんですか」
「以前から顔を覚えてたんです。佳澄さん、結構この神社に来ますよね」
「はい」
「昨日、向こうからアリアさんについて問い合わせがあったんです。それで今日、高校生くらいの男の子が一人、深刻そうな顔で境内を歩いているのを見かけて」
「……それで?」
「もしかしたら、って。だから名前を出してみました」
佳澄は此乃を見る。
「めちゃくちゃ、勘じゃないですか」
「かなり」
「違ってたら?」
「謝って、別の人を探してました」
「…………」
「でも、合ってたみたいなので」
此乃は微笑んで首を傾げた。
確かに。
銀座アリア。
その名前だけで、自分はここまでついてきたのだから。
*
――前日、八月九日の午前。
「ぎんざありあ?」
此乃は聞き返した。
『うん』
彼乃の返事が来る。
朝の天代神社。
まだ参拝客も多くない時間。
此乃は社務所奥の事務机に座り、片手で頬杖をついた。
「それは、人の名前ですか?」
『本人がそう言ってる』
「本人?」
『名前を聞いたら、銀座アリアって』
「銀座……アリア」
銀座なら知っている。
東京の地名だ。
現世の人間が広く知っているものは、常世の人々にも何となく共有される。東京、新宿、富士山。そういう、何百万人、何千万人という人間の認識に深く根を張ったものなら、誰かから説明されなくても意味だけは通じることが多い。
けれど。
銀座アリア。
人名としては聞いたことがない。
『何か知ってる?』
「全然知りません」
此乃は机の端に置いてあるノートパソコンを引き寄せた。
「ちょっと待ってください」
蓋を開き、ブラウザを立ち上げる。
検索窓へ指を置いた。
ぎんざありあ。
「うーん……」
Enter。
検索結果が表示される。
此乃は一度、瞬きをした。
「……何でしょう、これは」
『分かった?』
「うーん……待ってください」
一番上に出てきたのは、現実の人物の写真ではなかった。
女の子の絵。
長いプラチナブロンドの髪。
黒い制服。
その横には、
『TVアニメ「君がいる夏」公式サイト 銀座アリア』
と書いてある。
下にも同じ名前が並んでいた。
『君がいる夏』
『銀座アリア』
『キャラクター紹介』
『第十八話』
「うーん……アニメーションって書いてあります」
『アニメ?』
「はい。漫画もあるみたいですね……」
此乃は画像検索を開いた。
同じ少女が何人も出てくる。
アニメの場面。公式イラスト。漫画らしい白黒の絵。ファンが上げたものらしい画像も混ざっている。
「彼乃。その人、髪は長いですか?」
『長い』
「明るい色で、目が紫っぽいですか?」
『うん』
此乃は画面を見直した。
「……ちょっとまってください」
公式サイトを開く。
キャラクター紹介。
制服姿の少女。
名前は間違いなく銀座アリア。
此乃はその画像を保存して隣の端末へ送った。必要な静止画をこちらから転写する。
数秒待つ。
「彼乃、今一枚送りました」
『来た』
「アリアって、この方ですか?」
返事が途切れた。
「彼乃?」
『……うん』
此乃は画面へ視線を戻した。
「本当ですか?」
『髪も、目も、服も同じ。間違いない』
「…………」
画面の中には、描かれた少女がいる。
人の想像から何かが生まれること自体があり得ないわけではない。
長く語られ、信じられ、祈られ、数え切れない人間の認識を重ねてきた存在が、こちら側で人格を持つことはある。
此乃が引っかかったのは、そこではなかった。
「これ、今やってるアニメみたいなんです」
『今?』
「はい」
検索結果へ戻る。
今度は作品名と銀座アリアを一緒に入れた。
昨夜の日付がやけに多い。
アニメ情報サイト。
感想記事。
検索エンジンに拾われた短い投稿。
『君夏十八話』
『アリア』
『嘘でしょ』
『アリア死亡』
『原作では生きてるのに』
『なんでアニオリで』
此乃の指が止まった。
「……待ってください」
『何?』
一つ開く。
別の記事も見る。
日付を確認する。
「彼乃、この女の子、昨日死んでいます」
『?』
「正しくは、昨日の夜の放送回で」
少しの間、彼乃から返事がなかった。
『……意味わかんない』
「私も、です」
此乃はさらに調べた。
「漫画だと生きてるみたいですけど」
『じゃあ死んでないの?』
「わかりません。アニメとは話が違うみたいです」
『でも、こっちにはいるよ』
「どういうことなんでしょう」
彼乃も黙った。
此乃はもう一度キャラクター紹介へ戻る。
銀座アリア。
帥嶺学園。
高校二年生。
ピアノ。
画面に並ぶ設定を見ながら、彼乃が聞き取った内容と照らし合わせていく。
「桃園司って人、そっちのアリアさんも言ってました?」
『言ってた』
「愛宕カノン」
『うん』
「赤坂セレナ」
『その名前も』
「……あってますね」
『同じ人たち?』
「少なくとも、名前は全部一致しています」
此乃は椅子の背へ身体を預けた。
これは昔から信仰されてきた神ではない。
歴史上の人物でも、長い年月をかけて物語が積み重なってきた英雄でもない。
現在放送されている深夜アニメの中にいる、一人の高校生。
しかも、向こうに現れたのとほとんど同じ時期に、現世では死亡したことになっている。
「何で今なんでしょう」
『分かんない』
「普通に話しているんですよね」
『話してるよ。むしろ本人も、ここがどこなのか分からなくて困ってる』
「そりゃそうですか……」
『それにしたって、早すぎる』
「はい……」
此乃は画面のアリアを見る。
笑っている。
作画された一枚の絵。
その少女と同じ顔をした人間が、今、彼乃の前で自分の置かれた状況を理解できずにいる。
考えれば考えるほど、気味が悪かった。
『此乃』
「はい」
『これ、どうしようね』
「彼乃、すでに少し首を突っ込んでますからね」
『大事になりそう』
「頑張ってください。私の方でももっと調べてみます」
『よろしく』

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