「――そんな感じで、私も昨日初めてアリアさんのことを知りました」
此乃の説明を聞き終えても、佳澄はすぐには言葉が出なかった。
「画像まで確認したんですよね」
「はい。向こうにいる彼乃が、実際に会って話しています」
「彼乃さん」
「はい、彼乃です。向こう側を担当しています」
佳澄は麦茶を少し飲んだ。
頭を冷やしたかった。
「……でも、それだけじゃ俺には」
「信じられないですよね」
「はい。アリアと同じ見た目で、同じ名前を名乗ってて、司たちを知ってる人がいる。そこまでは、ただ此乃さんがそう言ってるだけですから」
「今はそれでいいと思います」
「いいんですか」
「私も、佳澄さんに今ここで全部信じてもらおうとは思ってません」
此乃は落ち着いていた。
「私たちだって、何が起きているのか分かっていないので」
アリアが何者で、なぜ現れたのか。なぜ天代神社とつながったのか。
本当にわかっていなそうだった。
「アリアは今どういう状態なんですか?」
「安全な場所で保護しています」
「そうですか」
その返事に、自分でも分かるくらい安堵した。
まだ信じていないはずなのに。
佳澄はグラスについた水滴を指先で拭った。
考えたくないと思う部分と、もっと聞きたいと思う部分が同時にある。
「その人……アリアは、最後のことも覚えてるんですか」
「私は直接聞いていません。ただ、彼乃から聞いた限りでは、病院までの記憶があるみたいです」
佳澄の指が止まった。
あの病院。
司の声。
カノン。
両親。
弱くなっていった呼吸。
画面越しに見ていた光景が、急に近くなった。
もし。
本当にそこまで覚えているのなら。
あの少女は、自分が一度死んだことを知っているということなのだろうか。
気づいたら知らない場所にいたということだろうか。
「本人には……」
佳澄は言いよどむ。
「はい……?」
「……自分がアニメのキャラクターだって、もう言ったんですか」
「いえ、現時点ではまだのはずです」
「そうですか」
それでいい気がした。
佳澄にも、何が正しいのかは分からない。
ただ、目を覚ましたばかりの人へ、いきなり「あなたは現実には存在しないアニメの登場人物です」と伝えるのは、あまりにも混乱を招く気がした。
此乃は佳澄の顔をしばらく見ていた。
「佳澄さん」
「はい」
「アリアさんに会いたいですか」
「……え?」
佳澄は顔を上げた。
「会えるんですか」
考えるより先に出た。
その言葉だけは、自分の中へまっすぐ入ってきた。
会えるんですか。
今朝までなら、あり得ない質問だった。
アリアの声を聞くことはできる。
何度でも顔を見ることができる。
漫画を開けばそこにいるし、録画を再生すれば、あの夜までの彼女も戻ってくる。
それでも会うことだけはできない。
こちらが何を言っても届かないし、画面の向こうから佳澄を見ることもない。
それは当たり前のことで、佳澄自身もずっとそう理解していた。
だからこそ、さっき池のそばで出てきた言葉に、自分でも少し驚いたのだ。
――会いたかったな。
叶わないことだから言えた。
そう思っていた。
「常世へ行くことはできます」
此乃が答えた。
「ただ、行けば必ず会える、と私から約束はできません。アリアさん本人が会いたくないと言う可能性もありますから」
そこで初めて、佳澄は別の意味で言葉を失った。
そうだ。
アリアは自分を知らない。
こちらは何年も彼女を見てきた。漫画で、アニメで、ピアノを弾くときの癖も、好きなものも、司を好きになったことも、カノンに見せる表情も知っている。
けれど、それは全部こちら側から一方的に知ったことだ。
もし向こうにいる少女が本当に銀座アリアなら、彼女にとって四条佳澄は、今日初めて名前を聞く知らない男子でしかない。
「……そりゃそうか」
「はい」
「俺が会いたいからって、向こうも会わなきゃいけないわけじゃないですよね」
「そうですね」
此乃はそれ以上何も言わなかった。
その答え方が、佳澄にはありがたかった。
期待していいのか。
まだ分からない。
此乃の話が全部本当だったとしても、その少女が「自分の知っている銀座アリア」なのかは誰にも確かめられていない。
違ったら。
何かの偶然だったら。
自分の期待だけが大きくなって、もう一度落とされることになる。
一昨日の夜から昨日一日をかけて、ようやく少しだけ自分の中でアニメの展開を受け入れ始めたところだった。それでも、自分が好きだった時間は消えない。そこまで考えて、少しずつ日常へ戻ればいいと思い始めていた。
なのに今度は、知らない少女から「向こうにいる」と言われている。残酷なくらい都合のいい話だ。信じる方がどうかしている。
それでも。
「……行けるなら、確かめたいです」
此乃が静かにうなずく。
「分かりました。では、連絡を取ってみますね」
此乃は端末を手に取ってひとしきり入力した後、姿勢をわずかに正した。
「……本来、こういうことは勝手にはできないんですけど」
此乃は小さく咳払いする。
「今日、現世の人にこういう話をするにあたっては事前に聖上のお許しがあるので」
「聖上?」
此乃はわずかに姿勢を正した。
「……はい。今回のことに関心を持っておられます。アリアさんのような例が、向こうでも簡単に前例を見つけられるものではないので。こちらであなたのような方がいたら招いて良いと言われていたんです」
「俺みたいに、向こう……常世に行く人って結構いるんですか?」
此乃は少し考えた。
「どうでしょう、私の知る限りいないと思います。今回は特例中の特例との認識です」
「そうなんですね」
窓の外では、相変わらず蝉が鳴いている。遠くを車が通り過ぎる音がして、やがてまた静かになった。
此乃は卓袱台の上に置いていた小さな端末へ目を落とした。
「アリアさん、会っていただけるとのことです」
此乃は端末から顔を上げた。
「……よかった」
「じゃあ、準備しましょうか。こちらに来てください」
此乃が示したのは、同じ建物のさらに奥にある小さな部屋だった。
ここも畳敷きで、中央に横になれる程度の薄い寝具が置かれている。
大掛かりな機械はなかった。
壁際に小さな端末と、用途の分からない器具がいくつかあるくらいで、佳澄が勝手に想像していた「別世界への入口」とはずいぶん違う。
「ここから行くんですか」
「はい」
「鳥居くぐったりとかしないんですね」
「鳥居はさっきくぐりましたよね?」
「そういう意味じゃなくて」
「冗談です。じゃあ、横になってください」
言われた通り、佳澄は寝具へ身体を預けた。
見上げた天井は、ごく普通の白い板張りだった。
「先に必要なことだけ説明します」
「お願いします」
「佳澄さんの身体そのものが消えて向こうへ移るわけではありません。身体はこちらに残ります」
佳澄は天井を見たまま聞く。
「じゃあ、向こうに行くのは何なんですか?」
「佳澄さんの意識だけです。そう考えてもらって大丈夫です」
「俺の意識?」
「はい。この神社には、もともと向こう側につながる接続点があります。今日はそこを使って、佳澄さん自身を向こう側へつなぎます」
「俺自身を?」
「はい。向こうでは、今と同じように見たり、聞いたり、触れたり、歩いたりできます。細かい仕組みは、必要になったら説明します」
「分かりました」
「こちらから戻すこともできますし、佳澄さん自身が戻りたいと思えば戻れます。今日は一度だけ。戻ったあと、もう一度行くことはできません」
「危険は?」
「今の方法で接続する限り、身体に危険が出るようならこちらで切ります」
佳澄は一度息を吐いた。
「それと、もう一つだけ。向こうでは普通に物へ触れられますし、食べたり飲んだりもできます。ただし、こちらに残っている身体が食事をしたことにはなりません」
「向こうで腹いっぱいになっても?」
「こちらの身体には、何も入っていません。水分も同じです。今日はそこまで長い時間にはしませんが、覚えておいてください。寝ているようなものですが、長く向こうに居ればいるほどこちらの身体には栄養も水分も入っていない時間が続くので」
妙な話だった。
けれど、肉体そのものを向こうへ運ぶわけではないと言われれば、理屈としてはその方が自然なのかもしれない。
「……わかりました」
「そんなに不安にならなくて大丈夫です。今回は私も行きますから」
此乃が窓のカーテンを少し引いた。
真昼の光が弱まり、部屋が薄暗くなる。
「目を閉じてください」
「……はい」
佳澄は瞼を閉じた。
聞こえるのは冷房の低い音と、窓の向こうで鳴き続ける蝉。寝具へ触れている背中の感覚も、畳の匂いも、そのまま。
「佳澄さん」
「はい」
「力を入れなくて大丈夫です。何かしようとしなくていいので」
「分かりました」
返事をして、そのまま待つ。
何秒経ったか分からない。
最初に変わったのは、手足の感覚だった。
痺れているわけではない。引き摺られるような感覚。自分の身体の境界が急に曖昧になっていく。
指先へ意識を向ければそこにあるけれど、遠ざかっていく。
少し怖くなった。
目を開ければ、まだ此乃がいて、天井があるはずだ。
やめるなら今でも間に合う。
帰って、自分の部屋で漫画を開くこともできる。
そうすれば銀座アリアは、今まで通りそこにいる。
決められた台詞を話し、決められた表情で笑う。
あの夜に死んだアリアも、再生すればもう一度生きている時間まで戻せる。
それなら何も壊れない。
でも。
――会いたかった。
それが叶うかもしれないと言われて、ここまで来たのだから。
佳澄は目を閉じたまま動かなかった。
やがて。
窓の向こうの蝉が少し遠くなった。
音量が下がったというより、自分と音の間に薄い膜が一枚ずつ増えていくようだった。冷房の音も、衣服が寝具へ触れている感覚も、少しずつ距離を持ちはじめる。
息を吸う。
まだ自分の呼吸は分かる。
もう一度吐く。
その途中で、蝉の声が完全に消えた。
静かだった。
耳が聞こえなくなったのかと思うほど、何もない。
佳澄は反射的に息を止めた。
そして。
頬に風が触れた。
冷房の風ではない。
もっと広い場所を通ってきたような、少し冷たい風。
横になっていたはずの背中から寝具の感触が消え、代わりに、足の裏に硬いものが触れていた。
自分は今、立っているのだ。そのことに気づいた瞬間、心臓が大きく一度鳴った。
佳澄は、ゆっくりと目を開けた。
そこに、天代神社の白い天井はなかった。
代わりに頭上を覆っていたのは、見覚えのない屋根だった。白い柱がそれを支え、柱の間から差し込む光が、周囲を柔らかく照らしている。
佳澄は、東屋を思わせる、見知らぬ空間に立っていた。
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