屋根の軒先から、向こうの空が見えていた。
佳澄は柱の間へ視線を向けた。
……なんだか、遠い。
色だけを言えば、現世の夏空と大きく違うわけではない。けれど、何かが違って見えた。雲の輪郭が妙にはっきりしていて、遠くの建物のさらに向こうまで、空が深く透き通っているように感じる。
しかし、その空の広い一角を、白金色の巨大な円盤が占めている。
一つだけではなかった。
空の高いところ、斜め上の一角に、白金色の巨大な塊が広がっていた。
雲ではない。よく見れば、それは薄く平たい何かが、いくつも間隔を空けて浮かんでいる姿だった。ひとつひとつの細部までは分からない。ただ、上の方ほど広く、下へいくほど数を減らしながら、全体として逆円錐のような輪郭を形づくっている。
それは、巨大な葡萄の房をそのまま空へ吊るしたようにも見えた。
佳澄は顔を上げたまま、半歩だけ位置をずらした。
白い柱の向こうに隠れていた輪郭が、わずかに見え方を変える。ひとつの柱の間に収まるような大きさではない。隣の柱の向こうへ、そのさらに先へと、白金色の群れはなお続いていた。
その下方に見える高層ビル群が、まるで地平の目盛りのように小さく見えた。
……浮いてる。
頭ではそう分かるのに、目が受け入れない。あれほどのものが頭上の遠くにある。その重さを想像しただけで、足の裏が石床を強く踏んでいた。円盤は少しも揺れず、空の中に留まっている。
頬には風が当たっていた。
天代神社の部屋で感じていた冷房の風ではない。柱の間を吹き抜ける、さらりと乾いた風だった。夏の陽射しはあるのに、現世のような蒸し暑さはない。
佳澄はようやく視線を下ろす。
立っている。
足の裏には硬い石床の感触がある。
周囲には太い柱が等間隔に並び、その向こうには小さな庭があった。白い砂利と背の低い木。庭のさらに先は開けていて、遠くに建物の群れが見える。
少なくとも、佳澄の知っている東京のどこでもなかった。
「……来た」
自分でも、何を確かめるように言ったのか分からなかった。
「はい」
すぐ横から声がする。
此乃だった。
さっきと同じ服装。同じ顔。
ただ、天代神社の薄暗い部屋にいたはずの此乃が、今は知らない空の下に立っている。
「大丈夫ですか、佳澄さん」
「はい……」
佳澄は自分の手を見る。
握る。
開く。
ちゃんと動く。
腕も脚もある。服も、靴もそのままだ。
「変な感じですね」
「最初はそうだと思います」
「俺、向こうでは寝てるんですよね」
「はい。今頃は横になっています」
「なのに、こっちでは立ってる」
常世と言われて、もっと何か、現実離れした景色を想像していたのかもしれない。雲の上。鳥居ばかりが立つ場所。あるいは古い神殿のようなもの。空に浮かぶ円盤群は、そのどれとも違っていた。
けれど、そこから地上へ目を戻せば、遠くには近代的な高層建築が見える。アスファルトのように舗装された道路もあり、車が普通に走っていた。
その高層建築の間には、古い日本建築を思わせる屋根の線が混ざっている。ガラス張りの建物の低層部に深い軒が伸び、白い柱が規則正しく並んでいるところもあった。
古いものと新しいものが、最初から同じ街の中で育ってきたように馴染んでいる。
見ていれば、いくらでも気になるものはあった。
でも。
「……アリアは?」
結局、最初に聞いたのはそれだった。
「います。彼乃がそばについています」
「今から会えるんですか?」
「これからご案内します。お会いすることは、先に彼乃がアリアさんに確認していますから」
此乃は答えた。
「ただ、お部屋へ上がる前には、もう一度声をかけることになっています。少し待っていただくかもしれません」
「はい」
会うと決めてくれた。そのことに、少し息がつけた。
「ここから遠いんですか?」
「車でここから三十分くらいです。ちょうど近くにうちの車両がありましたので手配しました」
此乃が先に歩き出した。
佳澄もついていこうとして、一度だけ立ち止まる。
ここへ来る前、あれだけ現実感のなかった話が、少しずつ形を持ちはじめていた。
この世界のどこかにアリアがいる。
佳澄は柱の向こうに見える空へもう一度だけ目を向け、それから此乃の後を追った。
*
建物の外には、黒い大型のセダンが停まっていた。
四枚ドアの落ち着いた車体で、磨かれた黒い塗装に周囲の景色が薄く映り込んでいる。派手な装飾はないのに、街中で見かければ自然と目に留まりそうな佇まいだった。
運転席にはすでに男性が座っている。
此乃は左側の後部ドアを開けた。
「どうぞ」
「あ、はい」
佳澄が後席へ身体を入れる。
此乃は佳澄がきちんと乗り込むのを待ってから、静かにドアを閉めた。
それから反対側へ回って後席へ入り、佳澄の隣に座った。
運転席は右側だった。
道路を走る車の流れも、先ほど遠くから見た限りでは左側通行らしい。
そこは現世の日本と変わらない。
車が静かに走り出した。
「アリアはどこにいるんですか」
佳澄が聞く。
「斉明タワーというところです。そこでアリアさんを保護しています」
「タワー?」
「はい。高いビルです」
「それって、あれですか?」
佳澄は先ほどから窓の外に見えていた、ひときわ高いビルを指さした。
街の建物の向こうに、ガラス張りのオフィスビルのような超高層棟が抜きん出ている。空を映す外壁が、車の進む角度に合わせて淡く色を変えていた。
「そうです」
「へえ……あそこに……」
思った以上に近代的で、東京にあってもおかしくないビルだった。
窓の外に見える景色も、道路も、不思議なくらい普通だった。舗装され、車線があり、信号に似たものもある。建物の一階には店らしい空間が並び、歩道を人が歩いていた。
佳澄は無意識に歩行者を目で追う。
スーツに近い服を着た男。買い物袋を持った女性。遠目には、現世の街とほとんど変わらない。
けれど、信号で車が止まったとき、横断歩道を渡っていく一人の男に目が留まった。
着物に近い服だった。それ自体は別にいい。
その隣を現代的な服装の人が歩き、さらに向こうには、歴史の教科書に登場するような古い装束の女性がいる。佳澄が目を留めたのは、そんな格好が同じ横断歩道に混ざっているのに、周囲の誰も気にしていないことだった。誰も、彼女を振り返らない。
佳澄だけが、後部座席の窓越しにその景色を眺めていた。
「……不思議ですね。いろんな服の人がいる」
「ここで暮らしている常世人です」
「常世人?」
「はい。皆さん、いろいろな背景をお持ちなんですよ」
「背景?」
「生まれた経緯も、馴染みのある時代も違いますから。詳しくは、こちらを知っていくうちにわかってくると思います」
此乃は微笑んだ。
信号機の色が変わり、車が再び走り出す。
少し走ったところで建物の間が開け、東屋から見えた巨大な円盤群が、再び空いっぱいに現れた。
佳澄は思わず身体を少し前へ寄せる。
窓枠に切り取られた白金色の円盤が、走るにつれて隣の建物の陰へ隠れ、また姿を見せる。こちらから見ると、円盤のあいだを抜ける空がいっそう広く見えた。
高層ビルとも、飛行機とも違う。横への広がりに比べると、縁は驚くほど薄い。それなのに、一枚の端から端まで目で追おうとすると、窓の外へ顔を向け直さなければならなかった。
距離があるせいで大きさの感覚がおかしい。街の高層建築よりさらに向こうにあるのに、それでも輪郭がはっきり分かる。
「あれ……何ですか」
佳澄の声に、隣の此乃が窓の外を見る。
「あれは、こちらの大事な施設です」
「施設?」
「はい。遠くから見ても、不思議ですよね」
あれほど巨大なものが、どうしてあんな高さに浮かんでいるのだろう。佳澄は改めて窓の外を見た。一枚の広がりだけで、いくつもの街区が収まってしまいそうだった。
「……何をするところなんですか」
「詳しいことは、また今度にしましょう」
「また今度?」
「説明すると長くなりますからね」
「……そうですか」
車が角を曲がると、円盤群は建物の陰に隠れた。
次第に、高い建物が増えていく。
東京のオフィス街に近いようでいて、同じではない。直線的なガラスの塔の隣に、深い庇を何層も重ねた建物がある。石造りに見える低層部の上へ、そのまま細い高層棟が伸びているものもあった。
ただの高層建築の集まりというだけではない。その多くが白を基調とした美しい外壁を持ち、高さも形も違うのに、ヨーロッパの古い街並みを思わせる統一感があった。
街路樹の緑の葉が陽射しに透け、その間に並ぶ街路灯には、月のような紋章を描いた旗が掲げられている。同じ旗が通りの奥まで続き、風を受けてはためいていた。建物のあいだを走っているだけで、一つの街の中へ入ってきたことが分かる。
けれど今は、空に浮かぶ巨大な構造物よりも、美しい街並みよりも、会ったことのない一人の少女の方が気になっていた。
「此乃さん」
「はい」
此乃が佳澄へ顔を向ける。
「アリア、どうしてます?」
「今?」
「というか……こっちに来たときから」
此乃は少し考えてから答えた。
「彼乃の話では、最初は泣いていたそうです」
佳澄の視線が止まった。
「……泣いてた?」
「はい。でも、ずっとではなくて、そのあとは質問ばかりだったと」
「質問?」
「ここはどこ。今日は何日。自分はどれくらい寝てた。司はどこ。司は無事なのか。病院じゃないのか」
佳澄は黙った。
想像してしまう。
一昨日、病院で意識を失っていったアリア。
その続きが、本当にあるのだとしたら。
「司のこと、一番聞いてたんですか」
「そう聞いています」
「……そうですか」
分かっていた。
それがアリアだ。
司を助けるために飛び込んだ。
最後まで司のことを見ていたから。
「アリアらしいな」
「……佳澄さん、アリアさんのことをよくご存じなんですね」
佳澄は返事に少し迷った。
「知ってる……とは思います」
「でも、逆にアリアさんは佳澄さんのことを知らないんですよね」
「はい」
「……難しいですね」
此乃はそれ以上何も言わなかった。
佳澄も窓の外へ視線を戻す。
此乃の言葉が少し残った。
知っている。
確かに、自分はアリアを知っている。
でも、それは画面の向こうから見てきたというだけだ。
今ここでアリアが何を考えているか。あの夜の出来事をどう受け止めているか。この知らない場所で何を怖がり、何を知りたいと思っているか。
それはもう、佳澄の知っている物語の中には書かれていない。
もし会えるなら。
初めて、自分の知らないアリアと話すことになる。
そう考えると、胸の奥がまた少し落ち着かなくなった。

この作品が気に入ったら

コメント
まだコメントはありません。
会員登録(無料)かログインをすると、コメントを書けます。