第一章 川のある町
ぼくらの町は、川のまわりにへばりつくように広がっている。
川はゆるく蛇行しながら山から下りてきて、町の真ん中で一度大きく息をつき、それから海へ向かって消えていく。夏になると水は驚くほど透明になって、底に沈んだ丸い石や、よろこぶように揺れる水草がはっきり見えた。ぼくは小学五年生で、名前は小川コウという。川の名前とおなじ「コウ」だから、おじいちゃんは「お前は生まれたときから川の子だ」と言って、よく頭をなでてくれた。
おじいちゃんの名前は小川ゲンジロウという。町の人はみんな「ゲンじい」と呼ぶ。橋のたもとで小さな釣り具屋をやっていて、店の奥にはいつも古い魚網やウキの山があった。ゲンじいは無口な人だったけれど、川の話になると急に饒舌になった。
「川はな、生きてるんだ。昨日と今日で顔が違う。見ようとしなきゃ、見えないぞ」
そう言って、ゲンじいは水面をじっと見つめる。ぼくにはただの水に見えたけれど、ゲンじいの目には、もっといろいろなものが映っているようだった。
その夏の始まりに、ミナが転校してきた。
ミナは、家の事情で東京から祖母の家に身を寄せることになったのだと、先生が教室で紹介した。色の白い、髪の短い女の子だった。黒板の前で自己紹介をするとき、彼女はなぜか、ぼくの方をまっすぐ見て、少しだけ口の端を上げた。
「ミナです。川の近くに住むのは初めてです。よろしくお願いします」
教室がざわついた。ダイスケが隣で「川の近くって、みんな川の近くだろ」と小さく突っ込んだ。ぼくも同じことを思ったけれど、ミナの言い方には、どこか含みがあるように聞こえた。
昼休み、ミナが話しかけてきた。
「ねえ、コウくんでしょ。ゲンジロウさんのお孫さんの」
「うん。どうして知ってるの」
「ゲンジロウさんに、名前を教えてもらったの。ばあちゃんの家の隣が、あの釣り具屋さんなんだ」
ぼくは驚いた。ゲンじいが、いつの間にか新しい住人と仲良くなっていたなんて、知らなかった。
「ミナちゃんは、川に行くの?」
「行く。毎日。川に行かないと、落ち着かないの」
ミナはそう言って、窓の外の川を指さした。夏の光を受けて、水面がきらきらと光っていた。その光の中に、ぽつんと小さな影が動いたような気がして、ぼくは目を細めた。
放課後、ぼくとダイスケとミナの三人で、川原へ行った。ダイスケは、家で飼っている犬の話や、今年の夏休みの計画をずっとしゃべっていた。ミナは、ほとんど何も言わずに、川べりの石に腰を下ろして、水面を見ていた。
「ねえ、ミナ。何見てるの」
ダイスケが聞くと、ミナは、少しだけ首をかしげた。
「カワウソ」
ぼくらは、同時に笑った。この町の川に、カワウソがいるなんて話、聞いたことがなかったからだ。
けれど、ミナは笑わなかった。彼女は、水の中の一点を、じっと見つめていた。
そのとき、水しぶきが上がった。
大きな岩の陰から、何かが顔を出した。丸い頭に、短い耳。濡れた毛が、夕日の光をはじいて、茶色く光っている。小さな黒い目が、ぼくらを見て、それからすっと、水の中に消えていった。
「あ」
ダイスケが声を上げた。ぼくは、心臓がどきどきしていた。
「今の、なに」
「カワウソだよ」
ミナは、静かに言った。その声には、どこか、ほっとしたような響きがあった。
第二章 夜の川
その夜、ぼくは眠れなかった。
布団の中で目を閉じても、川原で見た茶色い頭が、まぶたの裏でゆらゆらと揺れた。窓の外からは、川の流れる音が聞こえてくる。いつもは心地よいその音が、今夜だけは、なにかをささやきかけているように聞こえた。
夜中の二時ごろ、ぼくはそっと布団を抜け出した。家の中は静まり返っていて、台所の冷蔵庫だけが、低くうなっている。玄関で靴を履き、音を立てないように戸を開けた。
外の空気は、湿っていて、少しひんやりしていた。月は雲に隠れて、町灯りがぽつぽつと道を照らしている。ぼくは、橋の方へ向かって歩いた。
橋の上から見下ろすと、川は真っ黒な帯のように流れていた。水面には、町の灯りがにじんで、ゆらゆらと揺れている。
「来ると思ってた」
声がして、ぼくは飛び上がりそうになった。振り返ると、橋の欄干にもたれて、ミナが立っていた。パジャマの上に、薄い上着を羽織っている。
「ミナ……どうしてここに」
「なんとなく。コウくんも、来ると思ったから」
ミナは、そう言って、川の方へ顔を向けた。その横顔は、夜の光の中で、どこか遠くを見ているように見えた。
「ねえ、ミナ。昼間のカワウソって、本当にカワウソなの?」
ぼくが聞くと、ミナは少しだけ笑った。
「カワウソだよ。でも、ふつうのカワウソじゃない」
「どういうこと」
ミナは答えずに、橋の階段を下りていった。ぼくも慌てて後を追った。川原の石は、夜露で濡れていて、足を滑らせないように、一歩ずつ慎重に歩いた。
水際まで来ると、ミナは、靴を脱いで、足を水に入れた。
「冷たい! でも、気持ちいいよ」
ミナが笑う。その笑い声は、夜の川に、小さく響いた。
ぼくも、靴を脱いで、そっと水に足を入れた。ひんやりとした感触が、足の裏から、ふくらはぎまで一気に上ってくる。思わず、「わっ」と声が出た。
そのとき、水面が、ふっと盛り上がった。
黒い影が、ぼくの足のすぐそばを、すうっと通り過ぎていった。ひとつ、ふたつ。もっと多く。水の中で、なにかが、ぐるりと円を描くように泳いでいる。
「なに、これ」
ぼくの声は、かすれていた。
ミナは、静かに水の中を見つめていた。その目が、夜の光に照らされて、ほんの少し、金色に光って見えた。
「ほら、コウくん。見てごらん」
水面に、ひとつの顔が浮かび上がった。丸い頭、短い耳、小さな鼻。黒い目が、まっすぐにぼくを見つめていた。
それは、確かにカワウソだった。けれど、その目には、どこか人間の子どもと同じような、好奇心の光が宿っていた。
「こんばんは」
カワウソが、言った。
ぼくは、言葉を失った。声は、確かに、水の中から聞こえてきた。低くて、少しだけしわがれた、老人のような声だった。
「……しゃべった」
「しゃべるよ。ワシらはな」
カワウソは、ゆっくりと体を起こした。水の上に、胸のあたりまで顔を出している。その毛並みは、夜の光に照らされて、銀色に輝いていた。
「ゲンジロウの孫か。大きくなったな」
「おじいちゃんを、知ってるの」
「知ってるとも。毎日、橋の上から、ワシらの仲間を見ておった男じゃ」
カワウソは、そう言って、目を細めた。その表情は、どこか懐かしそうだった。
ミナが、そっと横から言った。
「この子、ゲンジロウさんのお友達なの。名前は、ヒロ」
「ヒロ。よろしく」
カワウソ――ヒロは、ぼくに向かって、小さく頭を下げた。その動きは、驚くほど、人間くさかった。
第三章 ゲンじいの秘密
次の日、ぼくは学校が終わると、まっすぐ釣り具屋へ向かった。
店の中は、いつものように、魚網と、ウキと、古い釣り竿の匂いがした。ゲンじいは、カウンターの奥で、糸を結んでいた。ぼくが入ってきても、顔を上げずに、「おう」とだけ言った。
「おじいちゃん、話があるんだ」
ゲンじいの手が、ぴたりと止まった。
「ヒロに会ったのか」
ぼくは、息を飲んだ。ゲンじいは、やっぱり知っていたのだ。
「どうして、わかったの」
「お前の顔に書いてある。昔から、嘘のつけねえ子じゃった」
ゲンじいは、ゆっくりと立ち上がった。店の奥の戸を開けて、ぼくを中へ招き入れる。そこは、小さな作業場だった。壁には、昔の写真がいくつも貼られている。どれも、川と、橋と、そして、水の中で笑う子どもたちの写真だった。
その中の一枚を、ゲンじいは指さした。
写真には、ぼくと同じくらいの年の男の子が写っていた。川原で、両手を広げて笑っている。その横には、一匹のカワウソが、ちょこんと座っていた。
「これ、おじいちゃん?」
「ああ。六十年前の夏じゃ」
ゲンじいは、写真をそっとなでた。その指先が、少しだけ震えていた。
「ワシはな、子どものころ、この川で、カワウソの仲間に育てられたんじゃ」
ぼくは、言葉が出なかった。
「親を亡くしてな。戦争の後で、町もめちゃくちゃじゃった。川にひとりで浸かっておったら、ヒロの祖父さんが、ワシを見つけて、川の中へ連れていってくれた」
ゲンじいの声は、穏やかだった。昔の話を、大事に取り出すように、ゆっくりと語っていく。
「水の中で、息ができるようになったのは、一週間もたってからじゃった。最初は怖かった。だが、慣れると、川の中は、どこよりも静かで、あたたかかった」
「それで、おじいちゃんは、カワウソになったの?」
「なったわけじゃない。ワシは、人間のままじゃ。でも、川の仲間たちと、同じ目で、川を見ることができるようになった」
ゲンじいは、窓の外を指さした。橋の下の川が、夕日に照らされて、金色に光っている。
「ワシが、この店をやっておるのはな、川を見張るためじゃ。釣りに来る人間が、無茶をしないように。ゴミを捨てる奴がいたら、叱るためじゃ」
「それだけ?」
ゲンじいは、少しだけ笑った。
「それだけじゃ。でも、それが一番、大事なことなんじゃよ」
そのとき、店の表で、ガラスの割れるような音がした。
ぼくとゲンじいは、同時に振り返った。
作業場を飛び出すと、店の前に、大きなトラックが停まっていた。作業服の男たちが、川の土手に、何かの機械を運び込んでいる。黄色いショベルカーが、土を掘り返し、コンクリートの杭が、次々と川に打ち込まれていく。
「何してるんだ」
ゲンじいの声は、低く、硬かった。
作業服の男が、こちらを振り返った。胸のネームプレートには、市の工事会社の名前が書いてある。
「川の護岸工事です。来月から、大雨の対策で、この区間を固めることになりまして」
「そんな話、聞いておらん」
「お知らせは、回覧板でまわっていると思いますが」
ゲンじいは、拳を握りしめた。ぼくは、その手が、震えているのに気づいた。
第四章 ぼくらの川
その夜、ぼくは、ダイスケとミナを橋の下に呼び出した。
ダイスケは、怪しい話を聞かされるのが苦手なくせに、必ずついてくる。ミナは、いつもの落ち着いた顔で、待ち合わせ場所に来ていた。ぼくは、昼間にあったことを、できるだけ正確に話した。
「護岸工事……」
ダイスケが、呆然とつぶやいた。
「それ、川がなくなっちゃうってこと?」
「なくなるわけじゃない。でも、コンクリートで固めたら、石も、水草も、ヒロたちが隠れていた岩も、全部なくなっちゃうんだって」
ぼくの声は、少しだけ震えていた。ミナは、黙って、水面を見ていた。
「ヒロが、言ってた」
ミナが、ぽつりと言った。
「この川にいる仲間は、もう十二匹しかいないんだって。昔は、もっとたくさんいたのに、川がどんどん汚れて、住めなくなっていったから」
ダイスケが、目を丸くした。
「カワウソって、本当に、数が少ないのか」
「うん。ヒロは、ずっと、それを心配してた。だから、ゲンジロウさんに、頼んでたんだって。川を守ってくれる人間を、探してほしいって」
ミナの言葉に、ぼくは、息をのんだ。
「それって、おじいちゃんのこと?」
ミナは、うなずいた。
「ゲンジロウさんは、もう年だから、自分ひとりじゃ限界だって言ってた。でも、コウくんがいるから、大丈夫だって」
ぼくは、胸がぎゅっと締めつけられた。ゲンじいは、そんな思いで、ずっと川を見守っていたのか。
「ぼくに、何ができるんだろう」
声に出すと、自分の弱さが、はっきりと見えた。ぼくは、まだ子どもで、工事会社の大人を止める力なんて、何ひとつ持っていない。
そのとき、ダイスケが、急に立ち上がった。
「おれたちでできることを、やろうぜ」
「ダイスケ……」
「だってさ、おれたちの川だろ。ずっと、ここで遊んできたんだから」
ダイスケは、照れくさそうに頭をかいた。その顔は、いつものぼんやりしたものとは違って、少しだけ、頼もしく見えた。
ミナも、立ち上がった。
「私も、手伝う。東京にいたときは、何もできなかったから」
ミナの声には、強い響きがあった。ぼくは、二人の顔を、交互に見た。
「そうだな。ぼくらでできることを、探そう」
そう言うと、ヒロが、水の中から顔を出した。ぼくらの話を、ずっと聞いていたのだろう。
「ワシらの仲間を、呼んでこよう」
ヒロの言葉に、ぼくらは、驚いて顔を見合わせた。
「仲間って」
「町の川の、すべての仲間じゃ。上流にも、下流にも、まだ何匹かおる。みんなで話せば、きっと、道が見つかる」
その夜、ぼくらは、初めて、カワウソたちの集会に加わった。
川の中州に、十二匹のカワウソが集まっていた。月明かりの下で、濡れた毛並みが、銀色に光っている。
それは、夢のような光景だった。
ヒロが、一匹ずつを紹介してくれた。年老いたカワウソは、ゲンじいの若いころを知っていた。小さな子カワウソは、ミナにすぐに懐いて、足元をくるくると回った。
「みんなで、川を守るための、作戦を考えよう」
ヒロの声に、カワウソたちが、一斉に水面を叩いた。その音が、夜の川に、大きく響いた。
第五章 ぼくらはみんなカワウソ
それから三週間、ぼくらは川に通い続けた。
朝の六時、まだ霧が川面に残っているころに、ぼくは起きた。ダイスケは、眠い目をこすりながら、自転車で迎えに来る。ミナは、いつも先に川原で待っていて、「遅いよ」と笑った。
ぼくらがまず始めたのは、川の記録だった。
ヒロたちの仲間が住んでいる場所、ごはんを取る岩、子どもたちが遊ぶ淵。それらを、一つずつ地図に書き込んだ。ミナが絵を描き、ダイスケが距離を測り、ぼくが写真を撮った。ゲンじいは、昔の地図を倉庫から引っぱり出してきて、古い道や橋の名前を教えてくれた。
「川はな、人間が思っているより、ずっと複雑にできておるんじゃ」
ゲンじいは、そう言って、地図の上の一点を指さした。
「ここの淵が、一番大事じゃ。カワウソの子どもは、ここで生まれて、ここで最初の魚を捕る。ここを壊されたら、この川に、カワウソは戻ってこなくなる」
ぼくらは、その言葉を、地図に赤い線で書き込んだ。
次に、町の人たちに話を聞いた。
橋の向こうの八百屋のおばさんは、子どものころ、川でカワウソを見たと言った。「あのころは、ほんとに、たくさんいたのよ」と、懐かしそうに目を細めた。駄菓子屋のおじいさんは、「工事は仕方ない。大雨で、去年、家が浸かったからな」と、少し申し訳なさそうに言った。
ぼくらは、それぞれの言葉を、ノートに書き留めた。どの人の話にも、川への思いが、確かにあった。
そして、ある日の夕方。
ミナが、大きな紙を、ぼくらの前に広げた。
「署名、集めたの」
紙には、たくさんの名前が並んでいた。八百屋のおばさん、駄菓子屋のおじいさん、学校の先生、ぼくらのクラスの友達。そして、ゲンじいの名前も、一番上に書かれていた。
「すごいな、ミナ」
「うちの、ばあちゃんが、手伝ってくれたの」
ミナは、照れくさそうに笑った。その笑顔は、もう転校してきたばかりのころの、少し緊張した顔ではなかった。
ゲンじいは、その紙をじっと見つめていた。それから、ふっと息を吐いた。
署名を集めている途中、ひとつの出来事があった。
その朝、工事の資材を運ぶトラックが、いつもより早く、川の土手に入ってきた。ぼくらが駆けつけたときには、作業員たちが、川の浅瀬に石を投げ込んでいるところだった。水がにごり、水草が千切れて流されていく。
「やめてください!」
ミナが、大声で叫んだ。作業員が、驚いて顔を上げた。
「ここには、カワウソの子どもがいるんです。石を投げたら、けがをします」
作業員は、困ったように、頭をかいた。その横で、若い作業員が、ぼくらの後ろを指さした。
「あの子、川に入ってますよ」
ぼくは、振り返った。
浅瀬のまんなかに、小さな茶色いかたまりが、ぽつんと取り残されていた。カワウソの子どもだ。ふるえる体で、岩の陰に隠れようとしているけれど、水の流れが強くて、思うように動けない。
「ふく!」
ヒロが、水の中から叫んだ。その声に、子カワウソが、びくりと顔を上げた。
ぼくは、考えるより先に、靴を脱いで、川に飛び込んでいた。
水は、思っていたよりずっと冷たくて、流れも強かった。足が、石に取られて、何度もよろけた。それでも、ぼくは、一歩ずつ、子カワウソのいる方へ進んだ。
「コウ、無理だ!」
ダイスケの声が、後ろから聞こえた。でも、ぼくは、振り向かなかった。
子カワウソは、怯えた目で、ぼくを見ていた。その小さな体が、震えているのが、遠くからでもわかった。
ぼくは、ゆっくりと手を伸ばした。
「大丈夫。こわくないよ」
声が、かすれた。それでも、ぼくは、できるだけやさしく言った。
子カワウソは、しばらく、ぼくの手を見ていた。それから、おそるおそる、その濡れた鼻先を、ぼくの指先にそっと押しつけた。
冷たくて、やわらかい感触だった。
ぼくは、子カワウソを両手で抱き上げた。小さな体は、思っていたより、ずっと軽かった。
岸に戻ると、ミナが、タオルを広げて待っていた。ダイスケは、ぼくの肩を、ぎゅっとつかんで、震えていた。
「バカ。死んだらどうするんだ」
「ごめん。でも、助けなきゃって思ったんだ」
ダイスケは、しばらく黙っていた。それから、ふっと笑った。
「お前らしいな」
子カワウソを、ヒロのもとへ連れていくと、ヒロは、深く頭を下げた。
「ありがとう、コウ。この子は、ワシの孫じゃ」
ぼくは、びしょぬれのまま、笑った。ミナも、ダイスケも、笑っていた。
その様子を見ていた作業員の一人が、気まずそうに、帽子を脱いだ。
「すまなかったな。ここにカワウソがいるなんて、知らなかったんだ」
若い作業員は、子カワウソの方を見て、小さく頭を下げた。それから、仲間に向かって、大きな声で言った。
「ここの石、どけるのは、やめよう。写真、撮っとけ」
その言葉に、ぼくらは、顔を見合わせた。
大人たちの中にも、川を大事に思っている人がいる。それを知って、ぼくは、胸の奥がほっとあたたかくなった。
「よし。市役所へ行くぞ」
市役所の会議室には、工事会社の人と、市の担当者が、むすっとした顔で座っていた。
ゲンじいが、紙の束を机に置いた。地図と、写真と、子どもたちの絵。そして、署名の紙。
「この川には、まだ、カワウソがおる。十二匹じゃ。それを、消すことになるのか」
担当者は、紙を一枚ずつめくった。その手が、少しずつ、ゆっくりになっていった。
ぼくも、思い切って、話した。
「ぼくたちは、川で遊んで育ちました。川がなくなったら、ぼくたちの思い出もなくなります」
声は、震えていたけれど、言葉は、まっすぐに出た。
ダイスケも、ミナも、続けて話した。ぼくらの言葉は、拙くて、大人たちの言う専門用語には、ほど遠かった。それでも、会議室の空気が、少しずつ、やわらかくなっていくのがわかった。
三日後、市から連絡が来た。
工事は、いったん止められる。そして、コンクリートの護岸ではなく、石を組んで作る、昔ながらの護岸に変更されることになった。淵と中州は、そのまま残される。
ゲンじいは、電話の受話器を置いて、長いあいだ、黙っていた。
「おじいちゃん、よかったね」
ぼくが言うと、ゲンじいは、目を細めて、川の方を見た。
「ああ。よかった。でもな、コウ。本当に、大事なのは、これからじゃ」
「どうして」
「川を守るのは、一度きりの仕事じゃないからじゃ。毎年、毎日、見続けなきゃいかん。誰かが、川を見る目を持ち続けなきゃならんのじゃ」
ぼくは、ゲンじいの言葉を、胸の中でかみしめた。
その夜、ぼくらは、もう一度、川原に集まった。
月は、まんまるに近くて、川面に、まっすぐな光の道を作っていた。水の中では、ヒロたちが、ゆっくりと泳いでいる。その体が、銀色の光を、ちらちらと反射していた。
「ヒロ」
ぼくが呼ぶと、ヒロが、水から顔を出した。
「なんじゃ、コウ」
「ぼくら、カワウソになれないかな」
ダイスケが、横で吹き出した。ミナも、くすくすと笑っている。
ヒロは、少しだけ、目を細めた。
「なれるとも。カワウソになるのは、体じゃない。川を見て、川を大事にする目を持つことじゃ」
その言葉に、ぼくは、胸が熱くなった。
ヒロは、水の中で、くるりと回った。それから、ぼくらに向かって、ゆっくりと頭を下げた。
「ぼくらは、みんなカワウソじゃ」
ぼくらは、顔を見合わせて、笑った。その笑い声は、夜の川の上で、やさしく溶けていった。
夏休みの終わりが近づいたころ、ミナは、東京へ帰る日を決めた。
両親が、新しい家を見つけたのだという。ミナは、それを聞いたとき、少しだけ黙っていた。それから、ぼくに、ぽつりと言った。
「ここの川、大好きになっちゃった。帰るの、さびしい」
ぼくは、何と言えばいいのか、わからなかった。ただ、「また来てよ」とだけ言った。ミナは、涙をこらえるように笑って、うなずいた。
見送りの日、ぼくらは、川原で、ささやかな集まりを開いた。ゲンじいが、古い網で作った小さな旗を持ってきた。ダイスケが、おにぎりを大量に握ってきて、ミナに押しつけた。ミナは、それを、大事そうに抱えていた。
「ミナ、これ」
ヒロが、水の中から、小さな石を持ってきた。丸くて、灰色で、川の光をやわらかく反射している。
「淵の石じゃ。持っていきなさい。川を忘れないように」
ミナは、その石を両手で受け取った。指先が、かすかに震えていた。
「ありがとう、ヒロ。ずっと、忘れない」
ヒロは、水の中で、ゆっくりと体を回した。それから、ミナに向かって、頭を下げた。
電車の時間が近づくと、ミナは、橋の上まで歩いていった。ぼくらも、その後ろをついていった。
橋の欄干から、川を見下ろすと、水面に、夕日が映っていた。その光の中を、ヒロたちが、ゆったりと泳いでいる。
「コウくん」
ミナが、振り返った。
「川、ちゃんと見ててね。私の分まで」
「うん。ぼくら、ずっと見てるよ」
ぼくが答えると、ミナは、にっこりと笑った。その笑顔は、初めて会った日の、少し口の端を上げた表情に、よく似ていた。
ミナが乗った電車が、遠くの橋を渡っていくのが見えた。ぼくらは、いつまでも手を振り続けた。
その夜、ゲンじいが、店の奥から、古いノートを持ってきた。表紙には、『川の記録』と書かれている。ゲンじいの若いころの字で、びっしりと、観測の記録が書き込まれていた。
「これを、お前に渡す。今度は、コウが、書いていく番じゃ」
ぼくは、ノートを受け取った。ずっしりと重かった。その重みは、川の重みなのだと、ぼくは思った。
ページの最後に、まだ何も書かれていない白い行があった。
ぼくは、そこに、今日の日付を書いた。それから、こう書いた。
『川は、今日も、流れている。カワウソたちは、元気だ。ぼくらは、みんな、川の仲間だ』
川は、今日も、昨日とは少しだけ違う顔をして、流れていく。
ぼくらは、その顔を、これからもずっと、見続けていく。
――ぼくらはみんなカワウソ。
(了)

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