でも戦況が進むにつれ、春人君の手は時折止まるようになっていった。一手、一手、少し盤上を見つめてから手を伸ばす回数が増えていく。
一方で羽牛さんは、同時に心理的な攻撃をしてるのかと思う程にほぼ打ち返すように手を進めていった。実際に駒を手に取って指定された場所に置くのは私だから多少は遅いけど、自分の番が来たら扇子はほぼ止まる事がない。
――パチン。――パチン。
人の居ない待合室を包み込む静寂の海はプロの対局宛ら。その中を想く軽やかな音が遊泳してゆく。絶妙な緊張感の細糸が絡み付くのを感じながら私も見よう見真似、音だけは一丁前に――パチン、と。
これがプロの実力。そう語るかのように早打ちで返す羽牛さんだったが、その一手一手は全てミスのない完璧なモノだった――いや、将棋を知らない私にはそう見えるだけでもしかしたら何かあるのかもしれないけど……。
だけど私が見る限り盤上で行われてたそれは一種の劇だった。羽牛さんの脚本に従って全ての駒が動いているかの如く春人君が攻め込めはあっさり返り討ちにされ、終幕へとまた一歩近づいていくのがなんとなく分かった。当たり前だけど――春人君には悪いけど、この物語の結末は見える。私の最期が動かぬものであるように、この勝負の結末にもきっと抗う術は無いのかもしれない。素人目で見ても春人君が押されているのが分かるのだから。
「んー」
それを証明するかのように止まった春人君はより深く思考を巡らせていた。不動ながらもその脳内は今も忙しなく動き続けているのだろう。組んだ腕の片手の指を唇に添え、日本刀の如き精悍な目つきで盤上を見下ろしている。
それは今まで見たことないような真剣な表情だった。いつも春陽のような表情を浮かべている春人君の印象とは少し違った顔。だからか、じぃーっと盤上を見つめる彼を見ているのが楽しいのは。楽しい? 新鮮? よく分からないけど、日常で偶然出会った美景に心奪われつい魅入ってしまうような……。それもまた違う気がする。
でも私は彼が打つのを待つ間、ぼーっとその表情を見つめていた。将棋をしてる事も忘れながら景色でも見るみたいに、ぼーっと。春うららのような感覚に抱かれながら、じぃーっと。
それは心地好さすら感じずっと見つめていたいと思うとても……不思議な感覚だった。
「――ちゃん。桜良ちゃん?」
だけどずっと見てたはずなのに……気が付けば私の眼前の光景は変わってしまっていた。私の知らぬ間に世界が一足先へ行ってしまったように。
いつの間にか春人君は次の一手を打っていて――けど私は羽牛さんの扇子を他所に一人呆けてしまってたらしい。腑抜けた顔になってなかったらいいけど。
「え? あぁ。すみません」
自分の状況を理解した私は少し慌ててまず羽牛さんに謝った。そんな私へ微笑ましそうな表情を浮かべる羽牛さんからは、不機嫌や苛立ちの類は感じなくて(そんな人だとは思ってなかったけど)少しホッとした。
「ごめんね」
それから変にいい緊張感と集中を途切れさせてしまった事を春人君に謝る。
「大丈夫?」
「うん。ちょっとぼーっとしてただけ」
「それじゃあこれををこっちにね」
試合再開、と羽牛さんはもう一度駒と進める場所を扇子で教えてくれた。
「えっ!」
それを見た春人君が目を丸くして声を上げた。よく分からないけど予想外の――しかも嫌な場所に置かれたらしい。すぐにまた腕を組み考え始める。
「もしかしたら――」
その様子を今度はちゃんと我を保ったまま眺めていると、羽牛さんが春人君に聞こえないぐらいの小声で自分の予測を教えてくれた。幾つかの候補があってどの駒を使ってどんな一手をするか。何故そうなるのか私には分からないけどプロの視点ではそうなるらしい。
当然だけどやっぱりプロというか将棋をやってる人は何手先も予測してるんだ。そのまま焼き焦がしてしまいそうな視線は、時空をも越え無数の並行世界を見据えているらしい。一見すれば長考の沈黙の中、達人の間合いが如くその一瞬をただ只管に待っているように見えても、それぞれの双眸に映る盤上では、既に無数の勝敗が決しているのかもしれない。無限にも思える可能性の未来からたった一つを手に取り――打つ。鬱蒼とした草木を掻き分けて進み一本の花を探し出すように――無数の敗北の中からたった一人、勝利に歓喜する自分を見つけてはその道を辿る。シュレーディンガーの猫ならぬシュレーディンガーの自分だ。
もしかしたら将棋っていうのは、私が思っている以上に壮大なモノなのかもしれない。人生のように無数の未来からその一つを選択し今と成す。ただ人生と違って明確な勝敗がある将棋の正解は限定的だ。
いや、将棋もまたその人の人生という盤上にある駒の一つに過ぎないのかもしれない。日本が世界の、地球が太陽系の、太陽系が銀河の一部であるように――その銀河すら宇宙の一部であるように、比べるのはまた違うのかも。
でも私の人生を将棋で表すならもうそうそろ――。
「王手」
だが春人君は羽牛さんの予測に無かった一手を打った。視界端で小刻みに頷く羽牛さん。私に言わなかっただけで、それもまた彼の見た未来の一部だったのかもしれない。その証拠であるかのように、直ぐに扇子は横から伸びてきた。それに対抗するように春人君も余り間を置かずに一手。
「ん?」
すると、ここで初めて羽牛さんはそう声を漏らしては腕組みをしながら僅かに前屈みで盤上を覗き込んだ。少し真剣味を帯びた表情で見つめる盤上では今正に駒達が独りでに動き、ありとあらゆる世界線の勝負が繰り広げられているのかもしれない。
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