そして私達は無事、ナースステーションから見えない場所へと辿り着いた。とは言え油断して足音を立てれればその音は瞬く間に廊下を駆け抜けここまでの頑張りが台無しだ。
だから春人君は何も言わずにんまりと浮かべた笑顔の斜め前へ手を上げた。私はこちらを見つめる掌とそっと触れる程度でハイタッチを交わした。
「じゃあ行こうか」
そう言って歩き出す春人君。そういえば誘われるがまま病室を抜け出してきたけど、一体どこに向かっているんだろう。そんな疑問を抱きながら私は、見慣れたはずなのにいつもと違う不思議な感覚の中、春人君の隣を静かに歩いていた。
注意を払っているつもりが少々気が抜けてしまっているのか足音は完全には身を潜め切れていない。それに加え辺りの静寂が些細な傷へ大袈裟な包帯を巻くかのように音を際立てている。
そんな潜むようで鮮明な音と共に階段を下り向かったのは見覚えのある場所だった。最もこの病棟で見覚えが無い場所は殆ど無いけど――でもそこは記憶に鮮明な場所。
「やっぱりここが好きだな」
照明の沈黙したそこは最近も訪れたあの休憩スペースだった。頭上から降り注ぐ人工太陽のないこの場所は薄暗く、昼間同様に寂寞としている。
でも私はそんな雰囲気も含めてお気に入りだった。
「意外と人が居なくて静かなとこがいいんだよね」
言葉と共に春人君は一番窓際の席へと歩き出した。
「少ない人と静けさがいい感じで」
少し遅れながら私も後に続いて前の席へ。偶然にもあの時と同じ場所に腰掛けた。でもあの時とは違う光景が眼前には広がっている。
手入れの行き届いたガラスから差し込む月光。端で身を潜める暗明のグラデーション。侘び寂びを体現するが如く煌びやかな着飾りを脱ぎ捨てた樹木。暗がりを照らす月明かりはまるで焼原に咲く一輪の花のようで。月光と薄暗さ、寂寞とした雰囲気を合わせたその光景は――たった一つの光でありながらも百万ドルの夜景をも凌駕してしまう美しさがあった。神々しさがあった。漣のように心へ沁み渡る優しさがあった。
そこに広がっていたのは、昼の時とはまた違った表情。私はより一層この場所が好きになっていた。
「桜が見れたらまた綺麗だったんだろうな」
これもまたこれで中々に捨て難い景色だとは思うけど、確かに夜に紛れるような桜を照らす月明かりという景色も想像するだけで恍惚としてしまいそうだ。
「いいねぇー。夜桜」
頑張れば目の前の景色に桜色を付け足して見れそうだ。でも挑戦する前に私はそっと眼前の景色に目をやった。
「でも花の咲いてない桜を見るのってあんまりないからね」
「確かに桜が咲いてる時は見ようと思うけど、春以外の季節ってあんまり見ないもんね」
私は時折風に揺れる桜の木をじぃっと眺めていた。彼ないし彼女は一体どんな気持ちなんだろうか? 春になれば大勢の人に囲まれ、見上げられ、足元では満開の花を更に彩るかのような賑わいが行われ毎日の様に人が集まる。けど、季節を過ぎれば用済みと言わんばかりに誰も――写真どころか集まりも見上げすらしない。それを彼はどう思っているのだろうか? それに対して彼女は悲観に暮れているのだろうか? それとも静けさを楽しんでいるんだろうか?
桜を身に纏ってないその姿を私達に眺められどう思っているのだろう。やっと見てくれたと喜色満面になっているのか、それともまるで素っぴんでも見られるように小っ恥ずかしく感じているんだろうか。
もしその声が聞けるのならそんな事を聞いてみたい。
「雪の中で咲いた桜も見てみたかったなぁ」
つい桜のあるか分からない心を考えじっと見つめていた私を春人君の声が我へと戻した。
「雪と桜ってそんな組み合わせ本当にあるのかな」
ピンクを覆い隠す様に広がる白銀世界。想像するだけで美景なそれは着込む寒さに相反して心を温かくしてくれそうだ。
「ネットで写真見たけど、幻想的と言うか綺麗だったよ。豪雪地で雪解け前に咲いたら? だったっけな?」
「へぇー。実際に見たらもっと綺麗なんだろうなぁ」
「花見とかもしてみたかったな」
その言葉に私の脳裏では一足先に春を迎えた。満開の桜の足元で春陽を浴びながら蒼穹を背景に舞い踊る花弁を眺める。美味しいご馳走と笑い声。絵に描いたような春の幸せが頭一杯に甘く広がった。
「先生とか菜月さんとか本条さんとかみんなで一緒に出来たら楽しいだろうね」
「それ絶対楽しいよね」
想像するだけで楽しかったんだろう春人君からは零れた笑い声が聞こえた。
「でもお昼を食べるとかちょっとした花見を桜良ちゃんと二人でしたいかな僕は。盛大な花見と比べたら盛り上がりには欠けるかもしれないけど……きっと、何にも代え難い素敵な時間になると思うんだよね」
うん、私も。そう思いはしたものの――でも何故かその言葉を私は口にする事が出来なかった。その代わりという訳じゃないけど、溢れ出す小っ恥ずかしさのようなものに口元が緩む。
「でも折角の花見だし大勢でワァーっとやりたいよね」
そして自分でも自分が分からぬまま気が付けば正反対の事を言っていた。心に対する口の反乱。そんな題名がピッタリな感覚だ。
でも同時に落胆というか出来る事なら今の一言をやり直したいというような気持ちがズシッと雪みたいに重く心に圧し掛かるのを感じた。素直に言えたら……そんな後悔みたいな気持ちな気がするけど、それが一体どういう感情なのかは良く分からない。
「そうだよね。いっその事、病院中の人が自由に参加出来るみたいな……盛大なのとかね」
盗み見るように横目で見た春人君は微笑んでいた。まるで私の内側まで全て見透かし、この不安を杞憂だと言うように。同時にその微笑みは私の僅かな後悔の念を完全に融解させてくれた。雪解けした陰から顔を見せたのは――この場合は桜が妥当なのかもしれない。
「でも……そうだね。静かな花見もいいかも」
遅咲きの桜は温かな春陽を浴び大きく花弁を広げ顔を上げた。
それから私達の間には少しだけ静寂が流れていた。気まずさも無い、重くも無い、ただの静かな時間。
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