なんて事を考えながらゆっくり立ち上がった私はフェンス際に立った。あと一歩、前へ踏み出せば私は空気に呑み込まれてしまう。まるで下では巨大な空気の怪物が大きな口を空けているかのようだ。
でもそんな事には臆せず、私は眼前の景色を数秒だけ眺めてみる。自分の呼吸すら聞こえてきそうな静けさの中で夜に包まれ、星に見守られながら。もし本当に最後だとしてもそれは中々に悪くない景色だ。意外な心地好さを感じ、自然と零れる笑み。
そして私は足元に気を着けながらくるり後ろを振り返った。夜景を背にヘリポートに座る真さんと目を合わせる。まるで私が飛び降りようとしてるなんて思ってないような柔らかい表情がそこにはあった。
私はその顔を見ながら両腕を翼のように広げた。それから双眸を星の無い夜で包み込み、一度大きく息を吸う。このまま夜に溶けてしまいそうなぐらい、体の重さを感じるぐらい力は抜けている。
そして再び目を開けた私は――風に押されるようにそっと倒れていった。視界は撫でるように真さんから夜空へと変わり、背中が空を押し退け突き進む。終わりを悟ったかのように力の一切入ってない体は、落ちているのに飛んでいるような――それはとても不思議な感覚だった。好奇心と心地好さと少しの恐怖。形容し難い入り混じった初めての経験はちょっと冒険でもしてるような気分。
そんな事を悠長に感じてる私だったが、それは時間にすればほんの数秒の出来事。でも私の感覚の中では、味わうには十分過ぎる程の時間の流れだった。
そしてそれは丁度、私の体が星空と向き合い縁をなぞっていた足がフェンスから離れた瞬間。何の抵抗も無くそのまま落下していくはずだった私の体は、そこで優しく受け止められた。まるで雲が助けてくれたみたいに、もしくは私の体が浮遊能力を付与されたみたいにひゅわっと。
「いかがでしたか?」
期せずして人生初のお姫様抱っこをされた私は穏やかな高揚感に包み込まれていた。
「思ったより楽しかったかな」
それから真さんは(多分だけど)空を蹴ってヘリポートまで戻り、寝転がっていた場所へソファにでも座るように下ろしてくれた。
「バンジーもこんな感じなんだろうなぁ」
さっきの感覚を思い出しながらした事ないバンジーを思い浮かべてみる。
「でも私は落ちる瞬間だけか落ちていく部分だけで最後の跳ね返るのは嫌かな」
「どうしますか? もう一度飛んでみますか?」
「そうですねぇ……。あと一回だけ。次はこう、前から」
「では次はこう致しましょう」
そう言って真さんはパチンと指を鳴らした。
すると私の視界は稲光のようにでもそれとは真逆で暗闇が覆うと次の瞬間には、フェンス際に立っていた。ちょっと吃驚してそのまま落ちてしまいそうだったけど、何故か足は動かない。気持ちだけが一人焦ってた。
「今、貴方は夢の世界に居ます。正確には異なりますが分かり易く説明するのならこの言葉が適当でしょう」
真さんの声はどこか一方向から聞こえているという訳では無く、世界全体から鳴り響いているって感じだ。実際、辺りを見回してみてもその姿はどこにもない。
「ですので思いのままどうぞ。この場所での出来事は全て虚構となり消えていきますので」
説明を聞いた私は視線を正面に戻し眼前の景色を見てから、次は覗き込むように下を見た。やっぱりこうして見下ろしてみると高さを直接感じるようで少し怖い。
でも私は翼を横に大きく広げ、抵抗を止めた。足裏のフェンスを最後まで感じながら、私の体は完全な宙の中。どこにも触れる事なく、ただ水中にいるかのように空気を全身で浴びながら落ちてゆく。
途中、そうしようと思ったから出来たのか空中で体を翻し背中を地面へと向けた私は今もなお遠ざかる屋上を見つめていた。思ったよりも長くて、思ったよりも重力から解放されたみたいで自由な感じ。
そんな感覚の中、落ちていくのを拒むように気が付けば――手を伸ばしていた。
その瞬間世界が暗転すると、私はいつの間にかヘリポートの上で横になってた。朝と同じで体を起こすが、未だ先程の感覚が全身に残っているのを感じる。
「楽しめましたか?」
その言葉を聞きながら直ぐには消える事のない色濃い鼓動を感じていた。
「思った以上に楽しかった……かも」
色を変えた満足感が胸一杯に広がるのを感じながらもどこか不思議な感覚を抱えたまま私は後ろへ体を倒し、寝転がっては再び星空を眺め始めた。緩やかな時の流れの中、私の鼓動だけが流れ星のように駆けてゆく。
それから落ち着くまでの少しの間、私は夜風に肌を撫でられながら夜空と見つめ合っていた。
「今って何時?」
「――残り数分程で零時になります」
「もうそんな時間か。そろそろ戻ろうかな」
そんな独り言を呟きながら私は体を起こすとタオルを何度か振り少しでも綺麗にしてから真さんへ差し出した。
「あっそうだ。帰る前にちょっと春人君の病室に寄ろうかな」
「今からですか?」
てっきりいつも通り「どうぞ」なんて穏やかな返事が来るかと思ったけど、そんな私の予想をすり抜けどこか一驚に喫する真さん。微かに表情へもその心内は現れていた――って私がそう見えただけかもしれないが。
「ちょっと寄るだけだって」
だから私は思わず小首を傾げながら答えた。
「この時間だと、既に就寝してるかと思いますよ」
「流石に起きてるとは思わないけどね」
「でしたら明日の朝に行ってはいかがですか?」
確かに彼の言う通りこんな時間に他人の病室へ行くのは無意味と言うか無礼と言われても仕方ない。でも今日は体調が悪かったらしいし、心配だから少し様子を見たいだけだ。
それに私にはもう時間がないから――もしかしたらこれから顔を見る少しの時間が最後になるかもしれないし。
「まぁちょっと寄って大丈夫かなって顔見るだけだから」
私はそう言って先に歩き出し屋上を後にした。
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