真さんの力で堂々と階段を下り廊下を歩いても誰とも会わない私は、そのまま春人君の病室へと向かった。物音ひとつしない夜の病院。人によっては怖いかもしれないけど、私はこの静けさと薄暗さがどこか心地好かった。
そして私と真さんの足音だけを響かせた廊下の途中――私は春人君の病室前で足を止めた。それからドアノブへ手を伸ばそうとしたが、横から伸びてきた真さんの手が代わりに掴んだ。
「どうぞ」
私が彼の顔を見上げると少し控えめな笑みが添えられていた。
「ありがとう」
小声のお礼と会釈程度に下げた頭が上がるのとほぼ同時、ドアは静かに開いた。半分もいかないぐらい、でも私が通るには十分な間隔から見える病室は暗く静まり返っている――と思っていた。
でも私の双眸へまず入り込んできたのは、左手からの申し訳なさそうに灯る明かり。それに加え声も聞こえてくる――泣き声? 慟哭って言うには小さいけど、歔欷と言うには大きい。そこには声だけで分かる程に、押し殺された途轍もなく巨大な感情があった。
先行する情報の真意を確かめるように私は一歩だけ病室に入ると、視線で引っ張り体ごと左の方へ。その方向はいつも春人君に会う為に向かう場所。夜に来たことはない――ましてやこんな夜中は猶更だ。でも前に朝来た時、夜はいつも閉めてるって言ってたっけ。
そんな事を思い出しながら私は閉まってるカーテンを視線で撫でながら僅かに開いた隙間へ落とし入れた。同時に彼のベッドの方へ一歩足を踏み出そうとしていた私だったが――。
「春人……」
絞り出すような濡れた声を聞きながら――それは丁度、私の場所から隙間を通り直線上。
私の視線先では、人工呼吸器を着けた春人君が横たわっていた。目は閉じ眠ってる?
隙間から見えた光景に私は踏み出そうとしていた一歩を止め、その場に立ち尽くしてしまっていた。眼前の光景を否定するように双眸は見開き、息をすることすら忘れてしまう。病室唯一の光を見つめる視覚以外の感覚は闇に呑まれ、脳裏では悪夢が駆け巡る。
春人君が私と同じく病気で長い間入院しているって分かってたし、辛そうにしてる時も見てきた。でも実際に目にした初めてのその光景は余りにも生々しくて、心のどこかにあった楽観的な思考を晒しては見せつけるように打ち砕いた。普通の健康な人がいつか自分は死ぬと分かっていても実感は一切無く、まるで死を幻想世界のモノのように思っているのと同じで、私も春人君は大丈夫だって勝手に思ってた。特に自分が一週間後に死ぬと分かってからは……。
だからこそ突如突き付けられたこの現実が鋭利な硝子片のように心へと不意に突き刺さる。
すると息すらもままならない私を他所に春人君の双眸がゆっくりと……重々しく開き始めた。今にも閉じてしまいそうな瞼。目を開けていると言うには余りにもその隙間は狭い。
でも瞼をこじ開けるような弱々しい瞳は真っすぐ私の方を見ていた。今にも切れてしまいそうな髪の毛よりも細い糸、そう表現せざるを得ない状態だった。だけどその視線は確実に私へ届いてる。状況も状態も違えど、脳裏では昨夜のあの瞬間が過った。温かで柔和な春人君の視線が私を包み込んだあの瞬間。
「(春人君……)」
少しでも口を開けば歯止めが効かなそうで、心の中で一人呟くだけ。
すると春人君は私をじっと見つめたまま力の入っていない手を上げ始めた。でもそれは、彼にとって精一杯なんだろうがとんでもない錘がぶら下ってるみたいにそっと。
そしてベッドからほんの少しだけ浮くと、手を伸ばしているのか私の方へ向けられていた。
『最期まで僕が一緒にいるから』
その瞬間、酸素マスク越しから春人君の声が聞こえた――気がした。微かに口が動いているようにも見えたけど、それは聞こえたっていうには不思議な感覚。感じたって言った方が良いように思えるけど、幻聴もしくは昨日の言葉を想い出した可能性だってある。
でも私は確かにそう言われた気がした。
しかもその直後、もう心残りは無いとでも言いたげに春人君の手は落ち、彼のうっすら開いた目も閉じてしまった。まるで操り糸を失った傀儡のように……春人君から力が抜け落ちた。
その光景を前に私の中では、理解を置き去りにしたまま感情だけが独りでに渦巻き始める。同時にそこで私は途切れた。視界も記憶も全てが一瞬にして消え去り――。
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