それだけじゃ何て返事をしていいか分からなかった私は、その意味を問うように先生の言葉を待った。
「新たな命が誕生したかと思えば、命が失わていく。誰かの命が助かったかと思えば、誰かの死が決まってしまう。生と死が混じり合う交差点で、天使と悪魔の最前線。希望と絶望が混沌とした――あの世とこの世の狭間みたいな場所」
先生の双眸は、目の前の景色じゃなくてもっと遠いどこかを朧げに見つめていた。
「改めて考えてみれば、本当に不思議な……変な場所だよ。病院って」
すると先生は私の存在を思い出したと言うように小さくハッとした後、顔を私の方へ向けた。
「――もしかしたら普段廊下を歩いてる時にすれ違ってる人は、人間を模した天使か死神か、はたまた幽霊なのかもしれないね」
そして冗談だと言う笑みを見せた。
でもそれは強ち間違いじゃないのかもしれない。天使と幽霊は分からないけど、少なくとも死神とはすれ違ってる可能性は大いにある。実際、人間の姿をした死神を私は知ってるのだから。
そして先生の言葉を聞いていた私は同時に、春人君の事を思い出していた。確かに、簡単って言葉は間違ってるかもしれないけど、人の死がこんなにも不自然に思わない病院という場所は――変だ。人の死を思い出させるお墓とも違って、今正に死の瞬間が訪れる。病院で誰かが死んだと言われても特別不思議には思わない。悲しみやその類の感情はあれど、変じゃない。そう考えると先生の言う通り病院と言う場所は余りにも特殊なのかもしれない。
だけどその関連で言えば、人殺しが正当化される戦争なんていうのはハッキリ言ってイカれまくってる。まるですぐ隣でサイコ的な殺人が起きるぐらいの異常性を秘めていると思う。
でもそんな風に思考が拡大していく中、私は脳裏を過った一つの疑問を捕まえた。そして気が付けばそれを先生に投げつけていた。
「先生は沢山の患者さんとお別れをしてきたんですよね? それって辛くないんですか?」
私は質問を口にしながら春人君の死の後、自身に降り注いだ苦痛の雨を思い出していた。あれ程までとはいかなくとも、人の死に対して心が動かない訳ない。多少なりとも知った顔の患者さんが亡くなってしまうというのはそれなりに辛く、しかもそれが自分の患者さんとか処置中なんてことなったらより一層それは重く圧し掛かるはず。
だけど、言葉にしてから遅れてその質問が酷く配慮に欠けたものだと思った。
「……もちろん。辛いよ」
私が取り消すより一歩先に、先生は答えを口にした。その私に聞こえる程度の小さな声はこれまでの経験という膨大な感情が詰め込まれ、聞くだけで重々しさを感じてしまう――私なんかじゃ到底、その気持ちを理解出来そうにない声だった。いや、きっと私が想像し得る以上の苦痛の経験がそこには詰まっているんだろう。軽々しく理解なんて言葉を使っていいはずがない。少なくとも春人君とのお別れを思い出せば、そう思ってしまう。
それ程までに先生の横顔は複雑な表情だった。
「その人を救う為にいるはずなのに……。助かる為にここへ来たはずなのに……。目の前で失われていく。あれ程までに自分が無力に感じる時はないよ。医者という職業に就く為に費やした膨大な時間も、今日まで積み上げて来た知識と経験も。その全てが、無駄に思えて来る。恋人との今後を語る彼も、将来に希望を抱いてた彼女も、気難しいあの人だって……救えなかった。本来なら医者である自分が、救ってあげるはずなのにね」
一体私は何て言えばいんだろうか? 自ら持ち込んだ話題だけど、それは余りにも受け止められるものじゃない。私の発する言葉全てが不正解になってしまう程に、私には何も言えなかった。
「家族や恋人や友人。泣き崩れるその姿を見てると思いっきり殴られてる気分だよ。何度も、何度も、何度も。いや、もういっその事、本当に殴ってくれた方が少しは紛れるのかもしれない。それに、余命宣告するあの瞬間も耐え難いものだよ。貴方はもう死にます。私にはどうする事も出来ない。ただ死を待ってください。って言うんだ。余りにも無力で、情けなくすら思えて来るよ」
大きく溜息を零しながら先生は辛そうに目頭を押さえた。
「それにこれが人間の性ってやつなのかな。良くなって笑顔でここを後にする患者さんよりも、そうやってここから出て行けない人の方が良く覚えてるんだ。決して忘れられない。あの表情も、あの悲しみも、あの憤りも――その全てが。特にまだ未来の方が倍以上長いような子を救ってあげられないっていうのは、自分の存在意義さえ疑ってしまうよ」
「でもそれは。仕方ないんじゃ……」
そうじゃないと、先生のその言葉を否定するようにそう言うのが私には精一杯だった。でもそんな風に自分を責める先生を前に、黙ってられない。
「そうだね。僕もこの世の全ての病を治せるとは思ってない。もちろんそうだったらいいけど、現状そうじゃなくて少しでもそうなるように今も頑張ってくれてる人が沢山いる。それは分かってるよ」
先生は私の方へ顔を向けると優しい微笑みを浮かべた。
「分かってる。医者だって神じゃない。――でも人間なんだ」
「ごめんなさい」
私は堪える事が出来なかった。これから私は先生の新たな傷の一つとなってしまう。そう思うと……。先生に辛い思いをさせてしまうって思うと……。これだけ私の為に手を尽くしてくれた優しい先生に、私は恩を仇で返すのだから。
気が付けば言葉と共に頭を下げていた。謝った所で意味はないし、何も変わらない。ただの自己満だって分かってるけど、そうせずにはいられなかった。
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