アレクシオスと別れ、エルは大講堂へ向かった。
廊下には新入生が溢れている。緊張した顔をしている者。友人と笑い合っている者。自分の得意分野について熱心に語っている者。
その誰もが、これから始まる学生生活に期待を抱いている。
エルは、その光景を眺めながら歩いた。自分も、あの中に入っていいのだろうか。
そんな考えが、どうしても頭をよぎる。けれど。
「……僕も、普通に」
小さな声が漏れる。
「普通に……」
友達を作って。授業を受けて。笑って。時には失敗して、それでもまた立ち上がる。
そんな四年間を過ごしてみたい。それが、今のエルにとって何よりも大切な願いだった。
大講堂の扉が見えてくる。
エルは一度だけ、深く息を吸った。
「大丈夫」
自分に言い聞かせる。
「知られなければ、いい」
その言葉を胸に、エルは扉を開いた。
*
大講堂の中は、新入生たちのざわめきで満ちていた。数え切れないほどの椅子が整然と並び、その一つひとつに様々な種族の学生たちが座っている。
エルは案内された席に腰を下ろし、周囲を見渡した。隣ではエルフの少女が友人と小声で話している。少し離れた場所では、獣人の少年たちが楽しそうに笑っていた。前方には竜人族の学生もいる。当たり前のように、違う種族が同じ場所に座っている。
その光景は、エルにとって少しだけ不思議だった。誰も、自分が魔族だとは知らない。そう思うと、胸の奥がわずかに重くなる。
やがて、大講堂のざわめきが静まっていく。壇上へ、一人の男が歩いてきた。
アレクシオス・ヴァン・エルディア。
エルディア学術院の学院長。そして、かつて魔王を討った勇者。先ほどまで廊下で学生たちに気さくな笑顔を向けていた姿とは違う。壇上に立った彼は、四十五年という歳月を重ねた男だけが纏える、静かな威厳を身にまとっていた。
アレクシオスは、新入生たちを見渡す。その視線が、一瞬だけエルの上で止まった。
だが、何事もなかったかのように前を向く。
「新入生諸君。入学おめでとう」
その声が、大講堂の隅々にまで響き渡る。
「今日から君たちは、このエルディア学術院の学生だ。これから四年間、様々なことを学ぶことになるだろう」
魔法。剣術。錬金術。魔導工学。
「自分が何を学び、何を目指すのか。それは君たち自身が決めればいい」
エルは黙って壇上を見つめていた。
「だが、一つだけ。この学術院で忘れないでほしいことがある」
アレクシオスの声が、わずかに低く沈む。
「人は、生まれた場所や種族だけで決まるものではない」
エルの指先が、膝の上でかすかに震えた。
「どのような家に生まれたのか。どのような血を引いているのか。どの種族として生まれたのか」
アレクシオスは、一度言葉を切った。
「それだけで、その者が何者なのかを決めつけてはいけない」
胸の奥が、かすかに震えた。
「この学術院には、人間も、エルフも、竜人も、獣人もいる。生まれも、育ちも、持っている才能も、それぞれに違う」
そして――ほんの僅かに、アレクシオスの目が細くなる。
彼の脳裏に、二十六年前の光景がよぎった。血に濡れた魔王城。傷ついた女。その腕に抱かれた、まだ生まれていない命。そして、最後に託された言葉。
――この子が、自分で選べるのなら。
アレクシオスは、その記憶を胸の奥へ押し込める。
「それでも、ここでは皆が一人の学生だ」
大講堂は静まり返っている。
「君たちが何者になるのかを決めるのは、君たち自身だ」
その言葉が、エルの胸にすとんと落ちた。
――何者になるのか。
その言葉だけが、妙に残った。
「失敗してもいい。間違えてもいい。途中で目標が変わってもいい」
アレクシオスの声には、押しつけるような強さはなかった。
「誰かと競ってもいい。誰かの手を取ってもいい」
そして、わずかに笑う。
「四年間という時間の中で、自分が何者なのかを探してほしい」
その言葉に、エルは小さく息を吐いた。
――自分が何者なのか。
これまで、何度も考えてきた。魔族であること。魔王の息子であること。
それを知っている自分。
けれど、それだけではない自分を見つけたい。そう思った。
「この学術院は、そのためにある」
アレクシオスが、新入生たちを見渡す。
「諸君の四年間が、実りあるものになることを願っている」
そう言って、アレクシオスは壇上を降りていった。大講堂に拍手が広がる。エルも周囲に合わせて手を叩いた。
けれど、その胸の内には別の言葉が残っていた。
――君たちが何者になるのかを決めるのは、君たち自身だ。
エルは、その言葉を心の中でもう一度繰り返す。
「……僕も」
小さく呟いた。
「僕も、自分で決めていいのかな」
誰にも聞こえない声だった。
けれど、その言葉を口にした瞬間。胸の奥にあった重さが、ほんの少しだけ軽くなった。それはまだ、ほんの小さな変化だった。
けれど――エルディアスにとっては、それで十分だった。
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