午前の授業が終わる頃には、エルはすでに少し疲れていた。授業そのものが難しかったわけではない。むしろ、内容だけなら理解できるもののほうが多かった。
疲れる理由は、別にある。
人が多い。教室には様々な種族の学生がいて、授業が終わるたびに話し声が一斉に弾ける。廊下へ出れば、また別の誰かとすれ違う。これほど多くの人に囲まれて過ごしたことは、これまで一度もなかった。
昼休みを告げる鐘が鳴る。途端に、教室の空気が動き出した。椅子を引く音。鞄を開く音。友人を呼ぶ声。
エルも鞄を手に取った。
リアはというと、授業が終わるなり別の女子学生に声を掛けられ、そのまま話し込んでいる。
昨日までなら、名前すら知らなかった相手だ。それでも今では、隣の席で何度か言葉を交わした。この学術院で、今のところ一番近くにいる相手。
――友達。そう呼んでもいいのかもしれない。
けれど、エルにはまだ、その言葉を口にする勇気がなかった。
それに。昼食くらい、一人でいい。
そう自分に言い聞かせながら、エルは教室を出た。
*
中庭へ続く通路に差し掛かったときだった。
「おい、もう一回やってみろよ」
「ほら。お前、こういうの得意なんだろ?」
「……やめてくれよ」
足が止まった。声のするほうへ目を向ける。
中庭の隅。そこには四人の学生がいた。
一人の獣人の少年を、三人の獣人が取り囲んでいる。殴り合いというほどではない。けれど、一方的なのは明らかだった。
肩を押される。腕を掴まれる。
そして、何度も地面へ転がされる。
「弱ぇな、お前」
「同じ獣人なのに、情けないよな」
「……」
獣人の少年は、何も言い返さなかった。
エルの胸の奥がざわつく。
――助けたほうがいい。頭では、分かっている。けれど。足が動かない。
もし魔力を使ったら。
もし正体を知られたら。
もし、ここで騒ぎになったら。
頭の中に、次々と考えが浮かんでは消えていく。魔族だと知られるわけにはいかない。
普通の学生として過ごす。それが、ここへ来た理由なのだから。
エルは拳を握った。爪が手のひらに食い込む。
――助けなきゃ。
そう思っているのに。身体は、そこから一歩も動かなかった。
「……」
その間にも、獣人の少年が再び地面へ倒される。
「ほら、立てよ」
一人が腕を振り上げた。
その瞬間だった。
「はいはい、そこまで」
明るい声が響いた。
エルが振り向く。
いつの間にか、そこに一人の少年が立っていた。赤みを帯びたダークブラウンの髪が無造作に跳ねている。緩めたネクタイの下から覗く青灰色の瞳は、人懐っこそうな印象を与えていた。
「なんだ、お前」
「いやいや。見てたら、ちょっと気になってさ」
少年は笑いながら近づいていく。
「お前ら、三人がかりはちょっと卑怯じゃね?」
「関係ないだろ」
「まあ、そうなんだけどさ」
少年は困ったように頭を掻いた。
そして――一歩、踏み込む。
「でも」
拳が飛んだ。
「痛いだろ?」
「ぐっ……!」
殴られた獣人がよろめき、そのまま尻餅をついた。
「なっ……!」
「殴られたら痛い。だったら、殴られる側がどう思うかくらい分かるだろ?」
声は明るい。
けれど、その目だけは笑っていなかった。
「別に喧嘩したいなら付き合うけど?」
三人の獣人が顔を見合わせる。
しばらく睨み合ったあと、一人が舌打ちした。
「……行こうぜ」
踵を返す。残った二人も、それに続いていった。
中庭に静けさが戻る。
「大丈夫か?」
少年が、倒れていた獣人へ手を差し出した。
「あ、ああ……」
「そっか。ならよかった」
少年はそれだけ言って立ち上がる。
そして、こちらを見た。
「ん?」
目が合った。
「……」
エルは反射的に視線を逸らした。
見られていた。最初から、ずっと。助けようとして――結局、何もできなかった自分を。
「なあ」
「……え?」
「お前さ」
少年が近づいてくる。
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