火弦が諦めかけた……と、その時。
遠くから大きな声を上げながら走ってくる者がいた。
「すみませーんっ! そいつ、オラの弟なんでさぁ!」
鴉は男の方を向き、「なんだ? お前」と、問いただす。
「実は、人手が足りないとかで、オラが弟を連れてきたんでさ。だけんど、途中ではぐれちまって……。お前、こんなとこにいただかっ。方方探しちまったでねぇかっ」
男は火弦の頭をコツンと小突いた。
火弦は、その男を見た。
知らない。
見たこともない。
ガタイはいい。
顔は汚れていてよく分からない。
「お前ら、兄弟か? 弟にしちゃ、歳が離れすぎてねぇか?」
鴉の言葉に、何故か火弦の胸がドクンと脈打つ。
「へえ。恥ずかしながら、年の離れた弟でして。そりゃ、もう、可愛くて可愛くて」
(誰や……?)
火弦は男の声に注意を払うが、やはり聞き覚えがない。
「そうかー。そんな弟ならちゃんと見てやれよ?」
「へえ。すんません」
鴉は何故かあっさりと引き下がった。
「ほら、お前も頭下げろっ」
「す、すんませんでした」
得体の知れない男に、火弦は無理やり頭を下げさせられた。
そのまま手を引かれ、連れていかれる。
だが、不思議と嫌な気はしなかった。
火弦が何気なしに振り返ると、鴉はじっと、いつまでもこちらを見ている。
——あれ、ほしいな。
鴉がぽつりと呟いたのが、口の動きで読み取れた。
その執着とも言える言動に、火弦は心底気持ち悪さを覚え、そこから振り返ることはなかった。
大通りに出る手前の路地で、男はピタリと歩を止め、火弦に向き直る。
火弦はたじろぎながら、男にとりあえずの礼を言った。
「あ、あの。どこのどなたかは存じませんが……。危ないところを、ありがとうございました」
火弦が丁寧にお辞儀をすると、男は先程の声とは打って変わって、少し気が抜けた話し方をする。
「ほんっと、お前、気をつけろよな。あのまま連れて行かれでもしたら、何されてたか分かんねぇぞ」
「はい……。すんませんでした」
「俺が気ぃついたからよかったけどよ」
男は懐から取り出した手ぬぐいで顔を拭き、汚れを落とす。
「ふっ」と火弦に笑いかけると、その頭を撫でた。
火弦は、どこかで会ったことがあるような懐かしさを覚えた。
「お前、度胸あんのな? 赤坂に探りを入れようなんざ」
「探り……。何のことやろか」
火弦は惚けながら、相手の出方を探る。
男は今度は「くくっ」と笑いながら、そのまま火弦の頭を撫で回す。
火弦は男の手を跳ね除け、キッと目を吊り上げた。
「あー、すまん、すまん。ついな。俺の息子を思い出しちまったもんで」
「何のことかはよう分からんけど、とにかく助かりました。ほんま、おおきに……」
火弦は男の態度にどこか不貞腐れながら、再びお礼を言った。
「あ、おったっ! 市馬さんっ。こねぇな所で油売っちょったらいけんじゃろうがっ」
「あー、すまん弥一郎。すぐ行くっ」
男は別の男に声を掛けられ、手ぬぐいを懐に突っ込むと、くるりと踵を返した。
「じゃぁな」と、その場を立ち去ろうとした。
だが、その足を止め、再びくるりと向き直る。
火弦に歩み寄ったかと思うと、デコピンを一発繰り出し、ピシャリと言い放った。
「臨機応変に立ち回れんにゃ、忍びとは言えんぞ。まだまだ、修業が足りんな!」
『臨機応変に立ち回れんにゃ、忍びとは言えんぞ。まだまだ、修業が足りんな!』
一瞬、火弦の中で、男が何気なく言ったであろう言葉が、昔、玄瑞から言われた言葉と重なる。
「玄……瑞……」
男はそれだけ言い残し、にやりと笑うと、来た道を戻っていった。
「忍びやないですてっ!」
痛む額を擦りながら、すかさず火弦は否定したが、もう男の姿はどこにもなかった。
火弦の脳裏には、あの男の姿がはっきりと浮かんだ。
「玄瑞っ! そうや! 玄瑞やっ! 今の奴、玄瑞に似とるんやっ!」
火弦の中で男の姿と玄瑞の姿が重なり、あの「にやり」と笑う顔が重なる。
(いや、仕草とか背格好とかはよう似とるけど、顔はぜんぜん違うやん……。よりによって、なんで玄瑞なん! でも、玄瑞とおんなじ事言うとった……)
「玄瑞とは全くの別人やった! さっきの人のが男前やっ! 玄瑞なんかとは似ても似つかんっ!」
火弦はブンブンと頭を振り、先程の男を玄瑞と重ねてしまったことになぜか腹を立てた。
気持ちを切り替え、大通りに出る。
市場の喧騒に混ざり、火弦はいつもの顔つきに戻った。
だが、胸の奥では小さな針が確かに深く刺さっている。
(動きは始まっとる——ただ、煙はまだ立ってへんだけやな)
火弦は影のように雑踏にまぎれ、宿への道を急いだ。
足取りは軽く見えるが、顔つきはおそらく険しかった。
宿のある通りでは、行き交う人々の提灯の灯が揺らめき始めていた。
――火緒は畳に寝転びながら足を放り出していた。
「……にしても、赤坂はなんや息が詰まるなぁ……」
短い沈黙のあと、火緒が寝返りを打つ。
しばらくして、火弦が部屋に戻ってきた。
「どこいっとったん?」
「ちょっと街並み見てきただけや」
「お前、なんかあったんか?」
どことなく様子がおかしい火弦に、火緒が訝しげに聞く。
その言葉を聞いて、火弦に安堵が戻った。
「いや、なんも。それよりな、玄瑞に似た人に会うたわ」
「玄瑞に? あいつに似た人なんておるんかいな」
「おったんやからしゃーないやん」
「そいつ、お気の毒様やなぁ。よりによって、あの髭面、酒飲み、助平オヤジに似とるらーて」
「やけど、その人のほうが男前やったで?」
「ふーん」
火緒は「ま、ええわ」と短く返事をすると、再び寝返りを打った。
火弦がふとちゃぶ台を見ると、食べたあとの団子の串が三本転がっていた。
火弦はその串を呆然と見つめる。
火緒が「どしたん?」と火弦に尋ねると、火弦は串を見詰めたまま低い声を出した。
「お前……先に団子食ったな。しかも俺の分まで一本食ったやろ……」
火緒が「うん!」と満足気に言う。
「でもちょっと硬かったなぁ? 昨日のうちに食べとけばよかったわ」
舌なめずりをしながら、満足げな顔つきで。
それを横目に、火弦は残された団子に勢いよくかぶりついた。
「火緒……団子の恨みは怖いからな。覚えときや」
「はー、今忘れたったわ」
食べ終わると、火弦は荷物を整理し、明日の帰路への準備をした。
外では再び雨の音がぽつりと始まり、灯がゆれる。
「なんや、ほんま天気悪いなぁ」
「せやな」
(天気がころころ変わりよる。まるで、戦模様みたいや……)
火弦はそっと、格子戸を下ろした。
――翌朝。
空はどんよりと曇っていた。
雨上がりの赤坂は、土の匂いが濃かった。
市井は昨日と変わらず賑わっていた。
帰る前に、二人はもう一度店を覗いて回る。
火緒は露店の食べ物に涎を垂らし、火弦は小間物屋や道具屋を見て回った。
そして、街を見尽くした後、調査終了といわんばかりに顔を見合わせ、「帰る」の合図を送り合う。
宿に帰ると早速荷をまとめ、赤坂城下を離れるときには、すでに日は真上を過ぎ、大分傾いていた。
城下街を背に、道を歩きながら火弦がつぶやく。
「戦の煙は、まだもう少し先やな。けど……火種はもうついとる。(毒……か)」
火緒は荷を背負い直す。
「赤坂……なんか好きになれんわ。あそこ、みんななんか『生きとるのに、目ぇが死んどる』感じや」
火緒はしばらく黙って歩いたあと、振り返ることなくぽつりと零した。
二人は重い荷を背負い、帰路についた。
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