森を吹き抜ける風が、香ばしい匂いを運んでくる。
街道沿いには、茅葺き屋根の団子茶屋が一軒あり、炭の煙と醤油を焦がす匂いが混じり合って、旅人たちはつい足を止めてしまう。
団子茶屋では、色々な噂話で賑わっていた。
主は、暖簾の向こうにいる。
縁台では、湯呑みを手にした客たちが静かに茶を啜りながら、旅土産の話をしていた。
誰かの笑い声と差し込む陽が、安心と不穏の境を曖昧に溶かしていた。
その一角で、紅梅は湯呑みを手にしたまま、耳だけをそちらへ向けている。
静かに茶を啜りながら、暖簾の向こうに立つ影へ声をかけた。
「……葵や。ここ最近、あまり良い情報が入らぬようじゃの。野盗やら山賊の後始末ばかりじゃ」
暖簾を押し上げて現れたのは、白い頭巾をきっちりかぶった若い男――団子屋の主、葵だった。
「ええ」
「最近この辺りも、とんと戦が減ってきたようにも思うんじゃが……」
「そうですね。名高い武将たちも、いよいよ天下統一に向けて、最終的な動きを見せ始めていますからね。じきに時代の流れも変わるやもしれません」
葵の言葉に、紅梅の湯呑を持つ手にわずかに力が入った。
「戦がなくなるのでは……との『噂』も、ちらほら耳にしますよ」
「そうなると、ワシらの懐も厳しくなるのぉ。じゃが子供らにとっては、それが一番ええ」
葵の指が、手に持った皿の上で団子の串をゆるやかに回す。
焦げた醤油だれがかすかに光り、その粘りが照りに残る。
紅梅の皿に「どうぞ」と、もうひと串追加で乗せた。
「ただ、あくまでも私らの『噂』の範疇ですので。確かなものかどうかは……。実は、ここだけの話……」
葵は半眼で笑みを含みながら、少し声を落とした。
「近隣領地内で大きな戦の『噂』があります。——国境でまた、兵が動いている気配がある、と……」
紅梅の視線がぴくりと揺れる。
「『気配がある』か。どこまで騒ぎになる?」
「まだ、村が巻き込まれるほどではないでしょう。ですが……戦支度がはじまるかもしれない、と」
その瞬間、紅梅の目の奥に火が灯る。
それを周りに悟られぬよう、平然を保ったまま団子にがぶりとかぶりつき、茶を飲み干すと静かに湯呑を盆に置いた。
「なるほどの。なら、物価の変動があるやもしれんの。……薬が動くじゃろうな」
葵は何も言わない。
ただ、目だけが語っていた。
「おーい、旦那ぁ。茶のおかわりくれ!」
「はーい、ただいま!」
葵は客からの声がけに、何事も無かったかのように返事を返す。
紅梅はゆっくりと立ち上がった。
「葵。礼はまた積む。うまくいきゃあ、倍にしてやるからの」
「楽しみにしております」
葵との会話を終え、紅梅はそそくさと団子茶屋を後にした。
――夕影が伸びる街道をしばし歩き、ふっと口元が勝手に吊り上がった。
「戦が……の。昔の血が騒ぐわい」
そう呟く声は、どこか老獪ですらあった。
かつて戦の裏で影として動いていた頃の感覚が、老いた身体の奥で静かに目を覚ましたのだ。
紅梅の足取りは軽い。
街道から外れて獣道へと入ると、湿り気を含んだ森の匂いが一気に濃くなる。
獣道の奥の奥、木々の隙間から庵の茅葺き屋根が覗き始めた。
森を抜けると大きく開けた場所があり、低い柵で囲われた中に庵と大棟が建っている。
紅梅は柵続きの門をくぐるなり、大棟のほうへ声を飛ばした。
「梓! 梓はおるか!」
井戸から大棟へ、水の入った桶を甕に運んでいた朔が、戸口からひょっこり顔を出す。
「あれ? ババ? 梓なら納屋のとこで藁の整理してるけど?」
「呼んでこい。大至急じゃ!」
紅梅の声音は高く、抑えきれない高揚感が隠せぬほどに表れていた。
朔は瞬時に察した。
(なんだろう……大きな戦でも始まるのかな?)
無言のまま、大棟の裏手にある納屋へ駆けていった。
間もなくして、納屋から朔と共に梓が姿を見せる。
衣に着いた藁を払いながら歩み寄ってくる途中、梓は紅梅の顔を見て一瞬足を止めた。
「……何か、ありましたか?」
飾り気のないその問いに、紅梅は堪えきれぬ声で言った。
「梓。薬を売るぞ」
その言葉だけで、梓の表情がわずかに動く。
「——戦、ですか」
「まだ、かもじゃ。……じゃが、誰よりも先に備えておくに越したことはない」
紅梅の顔は綻び、これから祭りが始まるかの様に浮き足立っている。
「薬草を今のうちに摘み、下準備をしておく。即座に調合して出せるように、前もって仕込んでおくのじゃ。他の連中にも声をかけろ。街道や町がざわつく前に先手を打つ。戦がなければないで、普通に売りゃぁよいだけのことよ」
梓は少しだけ目を伏せて考え——そして、静かに頷いた。
「……わかりました。準備しま……す」
梓のその応えを聞き終わらないうちに、紅梅は話を遮った。
「よし。まずは『薬を作る』前に、『どのような種類が必要なのか』を考えねばならん。一番売れる薬は……やはり、傷薬か。忙しくなりそうじゃな」
梓がさっそく準備に取り掛かろうとすると、紅梅がその背に念押しの声をかけた。
「梓。夜が開けたら、森の奥へ追加の薬草を採りに出よ。露をまとった草が一番よいからな」
「承知しました」
即座の応答。
その迷いのなさに、紅梅の口元が吊り上がる。
「なんの話してんのや? 面白い話やったら聞くでー!」
庵の入口から、大声が勢いよく聞こえてきた。
山での薪拾いから丁度帰ってきた火緒だった。
「火緒。耳がええのぉ。お前も手伝うんじゃぞ!」
「えっ? なにをっ!?」
話が全く分からぬまま、手伝わされる羽目になってしまった。
紅梅の顔を見て、(しまった……逃げそびれた)と思うも時既に遅し。
梓がため息をつくよりも前に、紅梅が指先だけで命じる。
「火弦も呼べい! 総出で作れば、いの一番に売りに出せる! 朔も、もちろん手伝うのじゃぞ!」
朔は紅梅の普段見せないような勢いに、ぽかんとした顔で「うん」と頷いた。
「いや、まったく話が読めんのやけど!?」
不服そうに「また、何させる気や……」と、ぶつぶつ文句を垂れながら、火緒は大棟の中にいる火弦を呼びに入った。
やがて火弦が加わり、梓、朔、火緒、火弦の四人が囲炉裏の前へと集まった。
紅梅はゆっくりと腰を下ろし、その指先で囲炉裏の縁を「トン」と叩いた。
「刹はどうした?」
刹の姿が見えない。
梓が応える。
「刹は、清瀬の子守り場へ仕事に行ってます」
「こんな時に……。悠長に子供相手に遊んどる場合ではないぞ」
「師匠。刹も、稼いでますから」
不機嫌そうにぼやく紅梅に対して、梓がピシャリと言い放つ。
気を取り直して、紅梅が告げた。
「おほん。――戦が、来るやもしれん」
その一言で、空気が落ちた。
皆は今一度きちんと座り直し、背筋を伸ばす。
「北の赤坂領と、東の白岩領じゃ」
先程までの高揚した様子とは打って変わり、紅梅は落ち着き払っていた。
「今回は、大きい戦になりそうですか?」
「そうじゃ。じゃが、下手をすればこれが最後の大きな戦になるやもしれん。ここで稼いでおかねば」
紅梅は「はぁ」とため息をつくも、すぐに気を取り直す。
「まだ確定はしておらん。じゃが、戦の噂が立つだけで、おそらく物が動く。金も、流れる」
皆、神妙な顔つきで、真剣に紅梅の話を受け入れる。
「ならば、速やかに。事の準備を急げ。ぬかるでないぞ」
紅梅は杖をドンと一突きし、目を光らせる。
(おぉぉ。血が騒ぐっ。後は、戦が終わるのを待つだけ。薬を売り、漁りを行う。一石二鳥とはまさにこのことっ。……ただ、戦が始まればの話じゃがのぉ)
紅梅は内心、戦が始まることに心躍らせた。
火緒、火弦、朔の三人は黙って顔を見合わせ、三人とも同じ言葉が脳裏を過ぎる。
(((長い夜になりそうだな……)))
その夜、三人の思惑通り、庵の灯は消えることなく静かに更けていった。
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