夏の暑さを吹き飛ばすかのように、川からの風が庵を吹き抜ける。
庵では、梓が薬研でゴリゴリと薬草をすり潰していた。
先日、紅梅に薬作りを言い渡された梓は、休日返上で懸命に励んでいる。
紅梅は、近くの野山を散歩がてら追加の薬草摘みに出かけた。
この時期は、薬草だけじゃなく蛇やカエルまで捕れる。
紅梅にかかれば、なんでも薬になる。
庵には梓一人。
床には色々な種類の薬草が散らばっていた。
カサッ。
「ん?」
床に置いてあった薬草が、少し動いた気がした。
音のする方に目をやった……次の瞬間、梓は固まった。
「……っ!」
今まで気づかなかったが、『そいつ』は暫し梓の近くで様子を窺っていたのだ。
梓は、『そいつ』と目が合ったような気がした。
(こいつは危険だ!)と瞬時に脳が察知する。
やばい……身体が言うことをきかない。
早く逃げなければ!そう頭ではわかっているのに、体は金縛りにあったかのように動かない。
ほんの一寸の時が、永遠のように感じられた。
『そいつ』は間違いなくこちらを見ている。
まるで梓の事を、観察でもしているかのようだ。
そして、少しずつ梓との距離が、じわ……じわ……と詰まってくる。
っと、次の瞬間!
『そいつ』は、梓目掛けて飛びかかってきた!
「いゃぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁあああ!」
――刹は自室にて、本を読んでいた。
兵法書を片手に、気になった部分はサラサラと別の本に書き出していく。
窓から吹き込む風がほどよく、心地いい。
大きな欠伸をしながら、半分居眠りをしそうになる。
うとうとしたその時、梓の金切り声がはっきりと聞こえた。
「……! 梓っ!?」
今まで聞いた事のない声だった。
ただ事ではない。
ガタッ!
「い……ッ!?」
慌てて立ち上がった刹は、文机で膝を思い切りぶつけてしまった。
一瞬悶絶するが、それどころではない。
刹は裸足のまま、物凄い速さで部屋を飛び出していた。
突風のように走っていく刹。
今までこれほどまでに速く走ったことなどない。
その速さこそが非常事態を物語っていた。
梓の声は山々にも響き渡り、鳥たちが一斉に飛び立つ。
薬草を摘んでいた紅梅も、何事!? とばかりに急いで庵へ向かった。
刹が庵に入るやいなや、眼の前に黒い小さな物が飛んできた。
「ん?」
その黒い小さな物は、パタパタと高速で羽を動かしながら、刹の頭へ止まろうとする。
だが……。
そいつが止まるよりも早く、さらに大きな物が刹めがけて飛んできた。
ドガァッ!
「いぎゃぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁあああっ!」
「いやぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁッ!」
刹の悲鳴が響き渡る……と同時に、梓の叫び声が共鳴する。
「あ、あず、さ……」
フラフラと歩み寄る刹に、梓が追い打ちをかけた。
「来ないでぇッ!」
ぱちぃぃぃん!
「がはっ……」
思い切りひっぱたく音が響き渡り、刹の意識ははるか彼方へと葬り去られた。
「……ひっ!」
梓が短い悲鳴をあげ、何が恐ろしいものでも見たかのように顔が歪む。
刹の背中を、『そいつ』が這っている。
梓の顔は青ざめ、石のように固まり、身動きが取れない。
そこへ、ハァハァと息を切らした紅梅が入ってきた。
「何事じゃっ!?」
梓が恐る恐る、刹の背中を指さす。
紅梅は見るやいなや、「ふんっ!」と刹の背中にいた『そいつ』を素手で叩いた。
「いってぇぇぇぇぇっ!」
刹が、そのあまりの痛さに目を覚ました。
紅梅は『そいつ』をつまみ上げると、ぽいっと山の方へ投げ捨てた。
「まったく……、情けないのぉ! こんな虫一匹に何を大騒ぎしておるのか! あと片付けちゃんとしておけよ!」
散乱した部屋を見回すと、紅梅は井戸へ手を洗いにいってしまった。
「はい……」
梓は、申し訳なさそうに片づけを始める。
そこへ、町まで使いに出ていた火緒と火弦と朔が、荷物をいっぱい抱えて帰ってきた。
庵の惨状を見て、三人は目を丸くする。
「えっ? どうしたの!? なんか獣が入ってきた!? 狸っ!?」
朔が慌てふためく。
「猪かっ! 猪がでたんかっ!?」
「まだ近くにおるかもしれへんな」
火緒と火弦も辺りを警戒する。
刹はむくりと起き上がり、三人に告げた。
「いや、猪より凶暴だった……」
その頬は腫れ上がり、くっきりと手形が浮かび上がっていた。
刹はそれ以上何も言わず、無表情で背中を手で擦りながら、とぼとぼと大棟へ歩いて行く。
「ほんま……、何があったん?」
三人は顔を見合わせ、刹の背中を見送った。
――しばらくして。
大棟の縁側では、不貞腐れながら頬を濡れ手ぬぐいで冷やす刹の姿があった。
放心状態で、ただ無心に。
部屋を出るときに打ち付けて青いアザとなった膝を擦り、上着を脱いだ背中には、紅梅が付けた手形を梓が冷やしている。
その脇では、梓がひたすら謝っていた。
「ほんっとにごめん! 俺、『あいつ』だけはほんとに無理でさ。あのカサカサ動くアレが……」
思い出しただけでも鳥肌が立ち、両腕を掴んで竦み上がる。
「俺が子供の頃にね、後から食べようと思って、団子を葛籠の中に隠してたんだよ。それをすっかり忘れて、ある日、葛籠を開けたら……。その中にわさわさ『アイツ』がいてさ。それ以来無理になっちゃって……。他の虫なら平気なんだけどなぁ。ほんとごめんっ!」
梓が必死に手を合わせ謝る。
話を聞いた刹は、ふっと口元を引き攣らせたかと思うと、続けざまに緩め、ニヤリと笑う。
「いや、いいんだ。引き出しを投げつけられ、思い切り引っぱたかれた挙句、ばあさんには背中を思い切り叩かれ……俺の背中で『アレ』が潰れたことぐらい……なんてことない」
刹は何処か遠くを見ながら、皮肉る様に事の顛末を呟く。
「ごめんってば! でも、あの着物は二度と着ないで……ね」
刹は遠くを見ながら、黙って小さく頷いた。
――そのやり取りを遠くから見ていた三人。
『刹兄……』
双子は物陰から、切なげに呟いた。
そして、『そいつ』に遭遇した時の梓には、決して近づくまいと三人は固く心に誓った。
夏の蒸し暑いこの季節。
『そいつ』は土間の影から、皆を見ている。
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コメント 1件
星見人ネタバレ5日前
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