「はぁ、はぁ、はぁ…」
肺腑を焦がすような熱い呼気が、冷え切った夜気に白く混じり、そして形を失って消える。
暗闇の中、長身の男が…ふら、ふら、と、舗装もされていない山道を歩いていく。
一歩進むごとに、蹴飛ばされた足元の小石が不吉な音を立てて転がり、その微かな衝撃さえもが、今の彼にとっては断崖から突き落とされるような衝撃となって全身を駆け巡る。
男の身に纏った着物は、もはやその本来の色を判別することすら難しい。
返り血と、自らの傷口から溢れ出したらしき血。
それらが幾重にも重なり合い、不吉なまでの汚らしい黒ずんだ斑紋を描いている。
男の腰には、二振りの得物。
右には、西欧情緒を漂わせる、冷徹な殺意を秘めた重厚な片手剣。
左には、反りの美しい、侍の誇りを体現したような日本刀…
相容れないその二種の武具を携えた男は、何処に向かうのか。
頭部を怪我しているのか、額を伝って流れる血。
夜の冷気に晒されて凝固し始めてはいたが、なおもその整った顔立ちを、無慈悲に赤く汚し続けている。
瞳に流れ込む血が視界を紅く染め、焦点は定まらない。
意識は、春先の薄氷を踏むように危うい。
一歩踏み出すごとに、視界がぐらり、と上下に揺らぐ。
男は何度もよろめき、ふらつきながらも、それでも歩みを止めはしない。
何かに憑りつかれたかのように、あるいは目に見えない呪縛に引きずられるかのように、ただひたすらに前へと足を運んだ。
止まれば最後、二度と立ち上がることはできない…と、本能にでも怒鳴りつけられているかのように。
──今宵は、上弦の月。
そのぼんやりとした光が深い木々の重なり合う枝葉、その合間から零れ落ち、男の孤独な歩みを冷ややかに照らし出す。
風にそよぐ葉の音も、羽ばたく鳥の気配も、ましてや季節を告げる虫の音すら聞こえない。
男の耳に聞こえるのは、ただ、自分の荒い呼吸と、引きずるような足音。
それがあたかも、世界のすべてであるかのように。
死を予感させるような、濃密で、肌にまとわりつくような静謐な静寂だけが、この一帯を支配している──
「…あぁ」
不意に、男の喉から、掠れた嘆息が漏れた。
荒い息をつきながら、男は…
ふと、ぜんまい仕掛けのおもちゃが、その動力が尽きたかのように。
その場に立ち止まり、ゆっくりと天を仰いだ。
…そこには、どこまでも深く、吸い込まれるような紺碧の闇。
鋭い刃物で切り取られたような半月、そして、無数に瞬く凍てついた星々。
それを見つめる、男の瞳――
紫の瞳に、人工物ではないその峻烈な光が、容赦なく突き刺さった。
その土地は、神に見捨てられたというよりは…
むしろ、神がその存在を忘却して久しい、といった風情を湛えていた。
カントウ地方の最周縁部。
かつては豊かな恵みを誇ったと言い伝えられるその地も、今や痩せ細った赤土が乾き、ひび割れているばかりである。
空はどこまでも高く、残酷なまでに青い。
その蒼穹から降り注ぐ陽光は、慈悲深い恵みなどではなく…
地を這う者たちの体力をじわじわと削り取る、静かな熱の暴力。
風が吹けば細かい砂塵が舞い上がり、農夫たちの肺を、そしてなけなしの希望を削り取っていく。
壮年の男、エンリケス・太一(たいち)は、長年の労働で節くれだった手を、さらに深く泥に汚しながら、激しい眩暈に襲われていた…
彼の視界の先には、乏しい肥料を仲間と分け合い、ようやく収穫の兆しを見せていたほうれん草の畝。
その豊かなはずの緑は、彼が幾度も遠くの川から水を運び、自らの血を分けるようにして守ってきた、大切な聖域であった。
…だが、そこにあるはずの緑の希望は、今や無残な姿に成り果てていた。
「…何てこった」
意味もなく吐き出された太一の呟きは乾いた風にさらわれ、力なく霧散する。
そこには、丁寧に育て上げた青菜が無造作に引きちぎられ、噛み砕かれた残骸が散乱していた…
土の上には、飢えた獣が貪り喰ったような生々しい痕が点在している。
中には、根こそぎ引き抜かれ、土を払う間もなく口に運ばれた形跡すらあった。
それは、空腹という本能に突き動かされただろう、徹底的な蹂躙の跡…
野党か、いやそれともこの有り様は野獣の仕業か…?
戸惑う太一の思考を切り裂いたのは、幼い娘の叫び声だった。
「お父ちゃん!お父ちゃん、大変だよ!
畑で、畑でケツが!」
畑の惨状を見つめ、農具を握りしめたまま硬直する太一のもとへ。
一人娘、そして彼にとっては最早唯一の家族である陽(ひなた)が血相を変えて駆け込んできた。
だが、彼女は何を言っているのか…
要領を得ない娘のセリフ、その下品な言葉に軽く笑いながら指導を入れる太一。
「こら、陽!
ケツなんて言うんじゃありません」
「でもお父ちゃん、ケツが!ケツが!」
しかし、彼女は何度も何度もその言葉をくり返す。
やれやれ困ったものだ、子どもはすぐにそう言った汚い言葉を喜んで使うのだから…!
困り顔の太一は、陽が指差す方向へと視線を転じた…
が、そこに。
彼は、奇妙なモノを見る。
それは…
確かに、「ケツ」だった。
いや、正確に言えば…男のケツ。
収穫間近だった最も立派なほうれん草の畝を寝床にし、文字通り頭から土に突っ伏して眠りこけている、一人の男の姿…
「…うわああああッ!本当にケツだあッ!」
「父ちゃんも言ってるゥ!」
太一の絶叫が、静かな村の端っこを震わせた。
ちょうど「くの字」になっている…と、でも言えばいいだろうか。
ほうれん草の残骸の真ん中で、男は着流しの裾をだらしなく割り。
両膝を土に付き、顔を土下座をするかのようにその近くに埋めて。
その褌姿の白い臀部を、天に向かって誇らしげに突き出していた。
それはあまりにも場違いで、無駄に肉感的で。
男は厚顔無知にも、そんな情けない格好のまま。
頬を地面に付けたまま、すやすやと眠っている…
夕闇が迫る中、その「尻」だけが夕日を弾き、奇妙な光を放っているようにさえ見えた。
「…」
「…」
二人は、数歩離れた場所からその異物を観察した。
太一は、愛用の鍬をまるで槍のように構え、万が一の反撃に備えている。
「生きて…るよな、これ?」
太一は、慎重に歩み寄る。
一歩近づくごとに、被害の甚大さがより鮮明になる…
食べ残されたほうれん草の根っ子、噛み砕かれた茎、そして男の口元に付着した青々とした証拠品。
男は、彼ら親子の生活の糧で自らの胃袋を満たすだけ満たし、その満腹感に襲われる睡魔に従順に従ったのだと思われた。
「…ねえ、お父ちゃん。
これ…どうするの?」
「う、う〜ん…」
「警察の人に突き出す?
それとも、肥料の代わりに埋めちゃう?」
娘の提案は率直で、それでいて幼さゆえの残酷さを孕んでいた。
…まあ、確かに。
この男がやったらしきことは、害獣のそれと変わりないわけだが。
しかし、少なくとも彼は「人間」なわけで…
飢えての仕業なら、そこまでキツく仕置する必要もないだろう。
エンリケス・太一は、生来からの温厚な男だ。
だから、娘の剣呑なアイデアを、苦笑して却下する。
「埋めるのはマズいだろう、陽…
見てみろ、この喰いっぷり。
奴さん、相当腹が減ってたんだろうよ」
太一はそう言いながら、やりきれなさが入り混じったため息をついた。
畑を荒らされたことに対して、怒りはしている、が。
同時に、この男が纏う奇妙な脱力感に、毒気を抜かれている自分もいた。
男は深い眠りの中、時折むにゃむにゃと、ほうれん草の味を反芻するかのような満足げな声を上げている。
その度に白い尻が微かに揺れ、太一からなおさら毒気を抜いてしまう。
…それに。
着流しの男の、腰の帯に挟み込まれているモノ…
黒い鞘。しかも、二振り。
…剣、あるいは刀?
どちらにせよ、一般市民が持ち歩くものではない。
舞台の小道具にしろ、…本物にしろ。
「…こいつ、どう見てもまともな人間じゃないぞ。
こんなところでケツを出して寝腐る奴が、真っ当な奴のはずがない」
「でも、お顔は結構綺麗だよ?
泥を拭いたら…物語に出てくる、国を追い出された王子様みたいになるかなぁ?
…陽、お水かけてあげようか?」
「馬鹿、王子様が人の畑の野菜を泥まみれで喰うか!」
娘の焦点がズレたセリフに、そんなふうに太一は言い返したものの。
だが、実際に…そのケツの持ち主は、大分と端整な男前だった。
半分土に頬ずりしているかのような格好、赤土で汚されてはいるが…
すうっと通った鼻筋、薄い唇は薔薇色、涼やかな目元を隠す黒髪は長く。
前髪が眠る彼の美麗な表情を縁取る。
(…?)
が、そこで、太一は気づく。
黒いストレートの髪は、後ろは一つに結わえられている。
けれども、前髪…その隙間に、赤黒い跡。
つまりは、…血液?
「こいつ…頭を怪我してやがる!」
「え?」
「…まいったな」
さすがに、怪我人に対しては強くは当たれない。
太一は、とりあえずこのほうれん草泥棒を責めることよりも、まずはその怪我を何とかしてやらねば、と強く感じた…
…何と言っても、彼は「人間」だから。
「陽!…ちょっと、これ持ってくれ」
「う、うん!」
娘に鍬を渡し、エンリケス・太一は男にそろそろと近寄り…
その血で汚れた黒髪、頭に手をやり、怪我の具合を探ろうとする。
「…?」
だが、不思議なことに。
男の髪、その結構な範囲に血液が固まった跡があるにもかかわらず…
傷のようなものは見受けられない、少なくとも太一が見た限りは。
切り傷ではなく打撲傷か、とも思ったが、たんこぶのようなものもなさそうで…
エンリケス・太一は、そのギャップを奇妙に思った。
思ったが、まあ、とりあえず…大きな怪我がないなら、何よりではある。
そう思った彼は身を折って、地面に突っ伏したままの男を背負い上げた。
「よいしょ、っと!」
「うへへ、もう喰えませぇん…」
「…何言ってるんだ、こいつ」
その途端、背中の荷物が理由のわからないことを呟いた、ので。
なおさらに、太一は脱力してしまうのだった。
その夜は、風がひときわ騒がしかった。
カントウの荒野を吹き抜ける乾いた突風は遮るもののない平原を荒れ狂い、エンリケス家の古びた木造家屋を容赦なく叩いている。
築年数すら定かではないその家は、風が吹き付けるたびにぎい、ぎいと屋台骨を軋ませるような不吉な悲鳴を上げ続ける。
建付けの悪い戸から侵入する隙間風は、囲炉裏の小さな火を小刻みに弄び、壁に映る親子の影を異様に長く、ゆらゆらと引き伸ばす…
だが、普段は二本しかないその長い影が、今日は三本。
不安定な光の中に、招いてもいない客が一人いたのだ。
「いやぁ…ホンマにごめんなさいでおじゃるよ。
面目次第もございません」
囲炉裏の特等席に、借りてきた猫のごとく大人しく陣取った着流しの青年は、殊勝な面持ちで、また深々と頭を下げた。
つい数時間前まで、収穫間近のほうれん草の畝を寝床にし、天に向かって臀部を晒して寝腐っていた男…
それとはおよそ同一人物とは思えないほど、その所作は洗練され、落ち着いている。
泥を拭い煤けた顔を洗った彼の素顔は、陽が口走った通り、見目麗しいものだった。
黒いストレートの髪を後頭部で無造作に一つに結ったその青年。
筋の通った鼻梁と薄い唇が、静寂の中に凛とした高貴な香りを漂わせている。
はさり、とその顔を縁取る前髪は、さらりさらさら、と流れ。
かなりの長身で、さらに眉目秀麗という四文字熟語が似合いそうなその相貌は、まさに「美男」という描写が似合う。
率直に言えば、これほどまでに美しい男を太一は自分の目で見たことがなかった。
それこそ、電子映像の中の舞台役者のようで…
自分が年頃の娘であれば、真っ赤に頬を染めて見境もなく黄色い声を上げているだろう。
だがおかしなことに、その口から放たれる言葉選びは…どれもこれも珍妙だった。
何処かふざけているようにも、何処か演技がかっているようにも聞こえる。
その癖、浮かべている微笑は優美さがあって。
ともかく、その男の纏っている空気は…この周縁部の土着的な生活感とは、明らかに乖離していた。
それは、今は彼の傍らに置かれている、二振りの武具も同じであった。
西洋風の片手剣、そして日本刀…
持ち主の美丈夫と同じく、この空間に似つかわしくない、とてつもない違和感を放っている。
「もう、とにかく腹が減って腹が減って…
闇夜に浮かぶあの美しい緑の菜っ葉を見た瞬間、あっしの理性がぱちん!と弾けまして。
ついいくつか、いえ、結構な数…無断で頂いてしまいましたの。
どうもすみませんですぅ」
申し訳そうな表情を、作って見せながら。
己をあらわす一人称さえ、ぐちゃぐちゃで継ぎ接ぎな言葉を吐きながら。
男は、太一が差し出した温かい茶を、白く長い指先で器用に扱いながら、ずず、と音を立てて啜った。
その仕草一つをとっても、野良犬のような浮浪者とは明らかに一線を画している。
まるで高級なサロンで茶でも嗜んでいるかのような優雅さが、ぼろ屋の囲炉裏端に奇妙な違和感を生み出していた。
「あぁ…やっぱり、行き倒れかい」
「へい!」
太一がため息とともにそう吐き出すと、これまた変な応答が帰ってきた。
丹精込めた野菜を奪われたことに対しては、依然として腹の底で燻っているが…
これほどまでの美麗を目の前に突きつけられると、怒りの矛先がどこか鈍ってしまう。
そして何より、太一を激しく困惑させたのは…その「瞳」だった。
いろりの火に照らされた、男の瞳。
それは、奇妙なことに…深い「紫」の色を湛えていた。
囲炉裏の火にあぶられる薄暗闇の中で、妖しく、かつ気高く発光しているようにさえ見える…
(カラーコンタクト、か?
冗談だろう、こんな辺境の村で…
もしかして、高度都市の?)
太一の脳裏に、かつて耳にした噂が蘇る。
遥か遠く、選ばれた者のみが住まうという「高度都市」。
そこでは、美しさや健康を維持するために遺伝子を弄くり回し、瞳の色さえもファッションの一部として変える連中がいるという。
…だが、だとしたら。
そんな特権階級の象徴のような場所から来たとするならば、何故彼はカントウの痩せ果てた赤土の上で、ほうれん草を生で齧っていたのか。
高度都市から追放された落人なのか、
あるいは退屈な贅沢に飽きた金持ちの、いのちがけの悪趣味な奇行なのか…?
「あんた…一体、何て『名前』なんだ?
こんなところまで、何をしに来たんだ?」
太一が刺すような視線で、探るように問いかけた。
陽は、まるで見たこともない鳥でも観察するような目で、男を凝視している。
二人の視線に射すくめられて、男は軽く小首を傾げる。
「あっしですかい?
僕は…ええっと、」
青年は、茶碗をつ、と、置いて、ぴたりと動きを止めた。
彼の表情が、何故か少し困惑したかのようなものに変わり。
その紫の瞳が、宙を泳ぐように囲炉裏の火の揺らめきを追う。
沈黙は一秒、二秒と長引き…家を軋ませる風の音だけが部屋の中に不気味に響き渡った。
ぱち、ぱち。
爆ぜる火の音に混ぜこんで、男はため息とともに言葉を紡いだ。
「じ、実はですねぇ…
お恥ずかしい話、今、私…とんと自分のことがわからないんでございますよ」
「えぇ…?!」
「えっ…『キオクソーシツ』、って奴?!」
太一と陽の驚愕の声が、隙間風の唸りをかき消した。
…記憶喪失。
あまりにもドラマチックな…それゆえに俄には信じがたい、疑わしい響きだ。
「う〜んと、何だかわからないまま。
吾輩、いつの間にか夜道を歩いていやして…はい」
男は、困ったように眉を下げ、大真面目な顔で首を傾げた。
男の困り果てたような、それでいてどこか他人事のように自分の不運を見ているかのような浮世離れした表情を見ていると、単純な嘘をついているようには思えなかった。
彼の紫の瞳は、嘘を隠すための濁りもなく、ただ透明に囲炉裏の火を反射している。
その瞳の色が、かえってこの男の背景にある底知れない闇や秘密を暗示しているようで、太一の背筋に冷たいものを走らせた。
会話がふと止まって、風の音。
そこに混じって、薪がぱちり、と爆ぜる音。
太一は沈黙の中で腕を組み、目の前で最後の一滴まで茶を啜り終えた正体不明の男を、射貫くような目で見据える。
紫の瞳、彫刻のように整った顔立ち、そして…記憶喪失。
普通であれば、こんな得体の知れない男は一刻も早く戸外へ叩き出すのが賢明な判断だ。
だが、このカントウの荒野…
一歩外に出れば、飢えた野生動物と容赦のない砂嵐が吹き荒れる不毛の地。
身元もわからぬまま記憶を失った人間を夜の闇に放り出すことは、間接的な死を宣告するのと同義である。
「じゃあ、自分の『名前』も、何もかもわからないんだな?」
「あい…」
太一の低い問いに、青年は空になった茶碗を見つめたまま、長いまつ毛を伏せた。
青年は情けないような、それでいてどこか他人事のような、ひどく間の抜けた返事をする。
しかしその声の響きには、形容しがたい不安感、そして剥き出しの孤独が混じっている。
「あんた、怪我してたみたいだけど」
「そうなんすか?
いや、今んとこ何処もちっとも痛くはないんだよなぁ、これが?」
それとなく気になっていたことを問うてみたが、返ってくるのは要領の得ない返事ばかり。
「…そうか、そりゃ難儀だな」
太一はまた深く吐息をつき、囲炉裏の火を火箸でいじった。
…仕方ない、か。
エンリケス・太一は、己の愚かな、利を考えない結論に…
またまた、ため息をついた。
けれども、そうするしかないだろう…
「人間」なら、そうしてやるべきだろう。
彼は、そう思ったのだ。
「あんた、本当に行く当てがないんなら…
しばらく、ここにいるかい?」
「えッ?!
…よ、よろしいんですか?!」
青年は、目を見開いた。
紫の瞳が、驚きで丸くなる。
端整な顔立ちがぱっとその様相を変える、まるで子どものような無垢な表情。
「なぁに、これから収穫シーズンだからなあ…
俺と陽だけじゃ、けっこう大変だからな!
あんたが俺達と働いてくれるなら、その分くらいの喰い扶持はなんとかするよ」
「ごはんだけなら、食べさせてあげられるよ!
…いっぱいは、無理だけど!」
父親の言葉に、娘も破顔。
何だかんだ言って、どうにも人がいいのだ…この親子は。
笑いながら、彼女は男にさらに言うのだ。
「ただし!
うちの家計は火の車なんだからね!
畑の野菜を勝手に盗み喰いするのは、もう絶対にダメ!なんだからね!」
小さな人差し指を突きつけ家計の危機を真剣に訴える陽の姿に、青年は一瞬呆気にとられたような顔をして。
しかし、すぐにその整った顔をくしゃくしゃにして、屈託なく笑う。
「あへへぇ、有難き幸せぇ!
拾う神とは、まさに皆様のことでおじゃるな!
このご恩、身を粉にして返させていただきますですわぁ!」
そう言いながら、着流しの青年は畳に額がつくほど深く頭を下げる。
大げさな喜びようはやはりどこか芝居がかっていて、かつ奇妙な愛嬌がある…
「それじゃあ、これからよろしくおねげえしやす」
「ああ、よろしくな…
俺は、エンリケス・太一。
こっちが娘の陽だ」
「ええ!
よろしくお願い致します!」
美貌の食客はまた、へらり、と笑って。
己の「名前」を名乗ることもなく、いや名乗ることも出来ず、ぺこり、と頭を下げるのだった。
男は存外に、というか、客観的に見て、驚くほどに力持ちだった。
その細身のしなやかな身体の何処に、そんな膂力が隠されているのか…
太一が腰を痛めそうになりながら必死で運ぶような堆肥の重い袋を、彼は鼻歌交じりにひょいと両肩に担ぎ上げてしまう。
一歩踏み出すごとに、足元の赤土が沈み込むほどの重量があるはずなのに、彼の足取りは羽が生えたように軽やかで、重心は寸分も揺らがない。
どうやら、相当に地力、筋力体力があるようだ。
おまけに彼は、陽が教える農作業のコツを、乾いた砂が水を吸い込むように次々と吸収していった。
鍬の入れ方、土の返し方、種をまく際の指先の加減。
一度見せただけで完璧にトレースし、さらには「こうした方が土が喜びそうであろうよ」と、独自の…しかし理にかなった工夫さえ加えていく。
…それに、何より。
着流しの男は、愛想よくいつもにこにこと笑っている、のだ。
太一の言葉に笑い、陽の言葉に微笑み。
そんな男の様子に、彼らが持っていた疑いも自然とほぐされる…
数日も経つと、彼はエンリケス家の風景に奇妙なほど馴染んでいた。
「陽殿…次は何をさせていただきましょうか?
このあたりの雑草は、あらかた片付けたけどな!」
収穫を終えたばかりの畝の端で、男が泥だらけの顔を輝かせて叫んだ。
泥にまみれてもなお、彼の立ち姿には一筋の気品が宿っており…それが、平和な農村の風景に全くマッチングせず、かえって異様でもあった。
「え〜、でも…
ケツの兄ちゃんが頑張ってくれたから、もう今日は仕事ないよ?」
陽は、驚き半分、呆れ半分といった様子で腰に手を当てた。
実際、彼が加わってからというもの…
一、二週間かかるはずだった農地の整備が、たったの三日で終わってしまったのだ。
…と。
まだ十を過ぎた年の子供とは言え、陽に何度もその言葉で呼ばれた男が、困ったような表情をしてみせる。
「陽殿ォ〜…
せめてその『ケツの兄ちゃん』というのは止めてくんなんしよォ」
「う〜ん、けどさぁ」
彼の抗議に、陽も困った顔をしながら答える。
何しろ、あれからだいぶ経つと言うのに。
この男は、何も思い出しはしなかったのだ…
自分が何なのか、何処から来たのか、何をしていたのか。
そして…自分の「名前」すらも。
「…兄ちゃん、肝心の『名前』もまだ全然思い出せないんだよね?」
陽の何気ない、素直な問いかけ。
何のてらいもないはずのその言葉を聞いた時、男の紫の瞳が…ふと、曇った。
「…『名前』、」
「そう、なんです」
その単語が耳に届いた瞬間、男の流麗な顔からすべての表情が剥がれ落ちた。
先ほどまでの剽軽な明るさは一瞬で霧散。
代わりに、深い…底の見えない影が、その相貌に射す。
目を見開いたまま、彼は…石像のように立ち尽くす。
紫の瞳は、太一も陽も見てはおらず、
目の前の豊かな緑の畑を見ているのでもなく、
どこか遠い場所…
光さえ届かない、果てしなく暗い深淵を見つめているようで。
そして、彼は虚ろな目のままで、言葉を紡いだ。
太一にも陽にも向けていない、むしろ自分自身に言い聞かせるような言葉を。
喉の奥から絞り出すような、ひび割れた声が響いた──
「…あたしにも、ある、はずなんです。
俺だって、『人間』なんだから」
「あるはず、なんです。
…あたくしの、『名前』」
呆然と呟く、彼の姿。
太一と陽は、思わず息を飲み…
その、圧倒的な孤独の気配に気圧された。
茶化しようもないほど真剣で、むしろ…
見ているこちらがこころを動かされるほどに深刻な、祈りにも似た叫び。
──「名前」。
誰もが当たり前に、生誕時に親から与えられ。
そして、それとともに笑い、泣き、怒り、哀しみ…そして、ともに死ぬ。
けれども、今の彼にはそれがない…
「名前」を失うということは、過去を失い、未来を奪われ、現在という名の虚空に放り出されるということだ。
紫の瞳の男は、今。
半ば、真っ暗な空虚の中で、自分の輪郭を必死に手探りで探し求めているのかもしれない…
それは、何と寄る辺無く哀しいことだろう?
そして、「名前」とは…適当に、手慰みに与えられるようなものでもない。
…彼が本心から求めているのは、己自身の証明。
その証明は、自分で見つけるしかないのだろう──
…ざくっ。
太一は、重く沈んだ空気を切り裂くように。
わざと大きな音を立てて鍬を置き、力強く言った。
「…なら、思い出すまで。
兄ちゃんの『名前』、本物が戻ってくるまで…
ずっと、うちに居なよ」
「!」
「そんでもって、俺達に教えてくれよ…
あんたの、本当の『名前』!」
「太一のダンナ…」
着流しの男が、ゆっくりと顔を上げて、こちらを見た。
その紫の瞳が、わずかに潤んでいるように見えたのは…西日の悪戯だろうか。
「そうそう!
…でも、早く思い出しなよ?」
そして、娘の陽も。
彼女は、わかっていながら、わざと少しだけ湿っぽくなった空気を壊してしまうかのように。
おどけて明るく、それでいてちょっぴりだけ、男をからかうように笑う。
「そうしないと、本当の本当に…
村中の人が、『ケツの兄ちゃん』って呼ぶようになっちゃうからね!」
「!…ははっ!」
その品のない冗談に、男はようやく笑った。
「…んもう、陽殿ったら〜!」
いつもの道化じみた明るい笑い顔を取り繕って、着流しの男はへらへらとしてみせる…
陽とげらげら笑い合う長身の男を見やりながら、太一はふと思う。
(…)
彼が立ち尽した瞬間に見せた、あの深い渇き、そして自分を証明しようとする狂気的なまでの切実さ。
あの空虚な、それでいて昏い熱情が燃えていたような紫の瞳が、太一のこころに消えない刺青のように深く刻まれていた。
…この男は、一体。
何から逃げ、何を奪われてここに辿り着いたのか…?
己の「名前」さえ、失ったままで。
「…」
だが、それは誰に問うても答えが返ってこない問いであり、
また答えるべき誰かなど、何処にもいない問いだ。
遠くでカラスが鳴いている。夕日はますます家路を急ぐ。
カントウの空は、もう。
鮮やかな茜色から、すべてを呑み込む深い藍色へと移り変わろうとしていた。
それから、しばらくの間。
記憶を失った着流しの青年は、エンリケス親子とともに農作業に精を出した。
彼の身体能力は相変わらず常軌を逸していた。
重い石を軽々と退け、土を掘り返すその働きぶりは、まるで最新鋭の農耕用ロボットのようでもあった。
もちろん彼は機械ではないのだから、そのぶんのおまんまも必要とするのだが(これまた、彼は結構大喰らいでもあったが)…
それでも、釣りが来るくらいの働きっぷりだった。
そんな日々が過ぎていき、そうこうしている間に、月末となる。
「…何とか、今月分も行けるか」
その日の夜。
太一はランプの心許ない光の下で、帳面と睨み合いながら、掠れた声で呟いた。その顔には、喜びの色など微塵もなく、ただ追い詰められた獲物のような、底知れぬ焦燥と疲労だけが深く刻まれている。
「…太一のダンナ、どうかされたのかい?」
不思議そうに首を傾げて問いかける青年に、太一は重い、重すぎるため息を吐き出した。
「あんた…そんなことも忘れちまったのかい?」
呆れながら太一は説明する、彼らの地獄を。
苦い泥を無理やり噛み潰すような、重苦しい口調で語る…
この世界の構造、
つまりは彼らにとっての、逃げ場のない地獄の有様を。
この国、J国は…
かつての栄華の残滓を喰いつぶしながら生き延びる、歪な島国だ。
国土の大部分を切り立った峻険な山岳地帯が占め、人間が住める平地は全体の数パーセントにも満たない。
かつては超高度なテクノロジーによって全土がネットワークで繋がれ、すべての国民が等しく繁栄を享受して「いた」はずの国家…
だが、現在。
その富と権力、そしていのちを維持するための最先端バイオ技術やナノマシンの恩恵は…
すべて「中央」と、限られた「高度都市」にのみ、鉄の防壁とともに集中している。
「中央」の人間たちは、遺伝子レベルで病を克服し、ナノマシンによって細胞の劣化を抑制し、老化さえ遅らせた清潔な街で暮らしている。
彼らは飢えも苦しみも知らずに、永遠のような平穏を享受している(と言う)。
だが、その清潔な楽園の背後にあるのは…
太一たちが住む、「外縁部(アウトサイド)」に対する徹底的、かつ冷酷な搾取だ。
外縁部では、誰もが苦しい生活を強いられている。
そしてそれだけではなく、住民は中央政府から派遣された「代官(ガバナー)」とその私兵団に過酷な労働と理不尽な圧政を強いられているのだ。
高度都市の人間にとって、外縁部の人間は最早「家畜」や「リソース」に過ぎず。
役人が住民をなぶり殺しにするのは、もはや犯罪ではなく日常的な光景として正当化されてしまっている。
「中央」、そして高度都市の住人にとって、外縁部の人間はもはや同じレベルにある「人間」とは見なされていない…
太一が属するこの小さな村は、中央政府の肥え太った胃袋を満たすための「食糧生産地」として指定されている。
そして明日、月初めの日。
中央政府から派遣された「代官(ガバナー)」と私兵団が、調査という名の「強奪」にやってくるのだ…
吐き捨てる太一の声音に、黒い憎悪が混じり込む。
自分たちを圧し潰す、あの連中に対する怒りとともに。
「明日は…今月分の俺達の働きに対して、『代官(ガバナー)』が成果を査定する日だ。
もし定められたノルマに少しでも足りなければ、どうなることか…」
太一の嘆息に、万一の事態に怯える恐怖の色…
それを聞く青年の紫の瞳が、僅かに細まった。
その静かな瞳の奥で、何かが冷たく、鋭く明滅する。
だが、太一や陽、ただただ必死に生きてきた農民たちに、それがわかるはずもない。
心配気に自分を見やる男の視線に気づき、太一ははっ、とその顔を取り繕ってみせた。
「兄ちゃん、あんたのおかげでだいぶはかどったから大丈夫だよ…きっと」
「そうそう!
本当に働き者だよ、ケツの兄ちゃんは!」
「んもう陽殿ぉ恥ずかしおすわァ、ケツのことはもう忘れておくれやすぅ〜」
太一の言葉に、陽が笑って重ねる。
またその下品な言葉でいじられた青年が、困ったようにその美貌を赤らめる…
青年のいつもの道化たような返答が、重苦しかった空気を一瞬だけあたため、彼らの間に笑いがこぼれた。
搾取と絶望が支配する、この残酷な世界の片隅で。
囲炉裏の火に照らされた三人の姿は…そこだけが唯一の救いであるかのように、仲睦まじい本物の家族のように見えた。
だが、彼らが縋ろうとしたその微かな希望という幻想は、
翌朝、無慈悲に踏みにじられることになる。
地獄は、皮肉なほど美しい朝日とともにやってきた。
地響きを立てる装甲車の重低音と、平穏な農村の空気を切り裂く、冷たい暴力。
ささやかな安穏を終わらせる邪悪の影は、すぐそこまで…
無慈悲に、そしてそれが当然のことであるかのように、迫り来るのであった。
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