その日の空は高く、皮肉なほどに透き通った秋晴れだった。
だが、村の広場に強制的に集められた人々のこころに、その澄み渡るような青さを愛でる余裕など微塵もない。
「『代官(ガバナー)』様のお入りだ!控えろッ!」
重苦しい空気を切り裂くような、代官の私兵による鋭い怒号。
それとともに、四輪駆動車が乾いた土煙を巻き上げながら広場の中央に止まった。
扉が開かれ、そこからゆっくりと現れたのは、この地の絶対的な支配者。
「代官(ガバナー)」佐藤・イーファン。
この数年間、村民たちの血を啜り、骨までしゃぶり尽くすことで、その富を我が物として肥え太ってきた、醜悪な中年男だ…
彼が身に纏う特注のシルクのスーツは、張り裂けんばかりに突き出たその醜い腹を包み込み。
呼吸のたびに、無理に止められたボタンが弾け飛ばんばかりに悲鳴を上げている。
太く短い、汚らしい毛の生えた指には、かつて誰かの宝であったろう宝石がただただその権勢を誇るためだけに無秩序にはめられ。
ごつごつと大きいルビー、ダイヤ、エメラルドが陽光を乱反射し、見るに堪えない下品な光を放っていた。
「外縁部(アウトサイド)」では、その地を統べる者が誰かによって、そこに住むすべてのいのちの命運が決まる、と言ってもいい。
良き領主ならば、その人生は平穏に。
そして、悪しき領主ならば…
それを、エンリケス・太一たち、この村の人間はここ数年で十二分に思い知っていた。
佐藤が四輪駆動車から一歩降り立つと、広場の空気は一瞬にして凍りついた。
彼が村民を見る目は、同じ人間を見るそれではない。
自らの地位を潤すための「家畜」か、あるいは足元を這い回る、言葉を持たぬ不潔な「虫」…
冷酷な蔑視、それ以外の何物でもなかった。
佐藤は、顔の肉に埋もれた小さな瞳を不快げに細めると、香水をたっぷりと染み込ませた絹のハンカチを鼻に当てた。
村特有の土の匂い、家畜の臭い、そして必死に生きる人間たちの労働の証である汗の臭いを、耐え難い汚物であるかのように遮りながら。
彼は、ゆっくりと、獲物を品定めするような足取りで歩を進めた。
「ふむ…相変わらず、泥臭い連中だ。
鼻につく、これだから未開の地は不愉快なのだ」
その口から漏れる言葉は、濁った毒液のようだった。
そして、非情なる「検分」が始まった…
佐藤は、広場に並べられた細々とした収穫物や、慎ましく整えられた村民の家々を巡り、まるで隠された財宝を探す飢えた獣のように目を光らせる。
その視線は、人々のプライバシーなど一切無視し、生活の細部までを蹂躙した。「おい、この屋根の葺き替えはどういうことだ?
新しい藁を使う余裕があるとは余分な金が余っているようだな。
報告になかった隠し資産とみなすべきか?」
「この納屋の広さは、事前に提出させた石高の報告と合わん。
ワシの目を盗んで、穀物を隠し持っているのではないか?
虚偽の報告は重罪であることを忘れたか?」
…些細な変化、わずかな豊かさの兆しさえも、彼は「横領」や「隠匿」として罵っていく。
どの家にも理不尽ないちゃもんをつけては、法外な罰金を上乗せし、彼らから最低限の糧すらを奪い去っていく。
その行為はもはや徴税ではなく、組織的な略奪そのものであった。
そして、ついにその順番が回ってきた。
エンリケス家の番だ…
彼らの前には、例年にないほどの見事な、黄金色に輝く収穫物が並べられていた。
太一と陽が、着流しの食客とともに泥にまみれ、懸命に働き抜いた、血と汗の結晶。
不作の不安を乗り越え、ようやく手にしたこの実り…
それこそが彼らの希望であり、当然納める税も過去最大のものとなって、村の窮地を救う一助となるはずだった。
だが、佐藤はその豊かな実りを前にしても、喜びの表情一つ見せなかった。
むしろ、その素晴らしい実りを、不吉な何かでも見るかのようにじろり、と睨みつける。
その眉間には、さらなる搾取の口実を探す深い皺が寄っていた。
そして、周囲にいた誰もが予測し得なかった、論理すら破綻した傲慢の極みとも言える言葉を吐き出したのだ──
「…ふん。
これほどまでに豊作なら、市場に出せばもっと高く売れただろうに。
貴様らの交渉力の無さと無能さゆえに、本来ワシが得られるはずだった利益を逃したというわけだ…
これは、重大な損失である!」
エンリケスの当主が、耳を疑ったように、あるいはあまりの理不尽さに正気を疑うように顔を上げた。
これほどの献身に対し、労いどころか「損失」呼ばわりされるとは?!
佐藤・イーファンは、脂ぎる肥え太った顔をさらに醜く歪め、喉の奥から絞り出すような、傲慢な声を広場中に響き渡らせた。
「そして、税として収めるのがこの程度だと?
足りぬ分を誠意で補う、という知恵も回らんのか。
貴様らは、ワシを…
この地域の秩序と繁栄を守るワシを、舐めているのかッ!」
広場に、絶望的な、そして重苦しい静寂が広がった。
人々は目を見合わせることもできず、ただ地面の砂を見つめた。
「お、お言葉ですが、代官(ガバナー)様…!
これは、これは我らが、文字通りいのちを削って注ぎ込んだ、これ以上ない精一杯の成果でございます!
これ以上の税をと言われましても、もはや我らには出すべきものは何一つ…!
どうか、どうか慈悲の心を!」
太一は、地面に膝を突き、泥にまみれた手を震わせながらも、必死に抗弁の言葉を紡いだ。
だが、佐藤はその必死の訴えを、醜い顔を歪めてせせら笑いながら聞き流していた。
冷え切った広場の空気は、研ぎ澄まされた刃のように人々の肌を刺す。
その緊迫した光景の背後で、小さな拳を固く握りしめ、全身を震わせていた少女がいた。
…エンリケス家の娘、陽。
彼女の目には、朝から晩まで泥にまみれて働く父の背中が焼き付いている。
それを虫けらのように見下し、その尊い努力の結晶を自らの贅沢という名の火にくべて嘲笑うこの肥え太った男が、何よりも許しがたい悪鬼のように映っていた。
幼い正義感は恐怖を突き抜けて、純粋な怒りへと変貌していく…
「…うっさいんじゃ」
それは、冷たい風に吹かれれば、瞬く間に消えてしまうほどの小さな、小さな呟きだった。
だが、絶望によって墓場のように静まり返った広場では、その言葉はあまりに明瞭に、そしてあまりに尖った響きを持って、周囲の大人たちの鼓膜を震わせてしまった。
「自分では何も作れない…
ただ奪うだけのくせに!」
太一の顔から、一瞬にして血の気が引いた。
全身の毛穴が開き、心臓が爆発しそうなほどの衝撃が彼を襲う。
「陽!何を…!
口を慎みなさい!!」
父親の、悲鳴に近い制止の声。
だが、それはあまりに遅すぎた──
放たれた言葉は、取り返しのつかない矢となって代官へ突き刺さる。
…が。
その瞬間、佐藤・イーファンの肉に埋もれた口角が、ゆっくりと、邪悪な弧を描いて吊り上がった。
それは、怒りではなく。
待ち望んでいた獲物が自ら罠に飛び込んできたのを見届けた、捕食者の笑みだった…
佐藤にとってこの時間は、単なる公務ではない。
相手が絶望し、失言し、崩れ落ちる瞬間を、彼は何よりも愛していた。
そして、今日も。
自分が「それ」をするだけの隙を見せた馬鹿が、目の前に現れた。
「貴様ァ…!今、何と言った?!
聞き捨てならんなあァ…
ワシへの侮辱、ワシへの反逆にも等しい暴言だぞ!」
佐藤の声が、腹の底から響く雷鳴のごとく広場に轟き渡った。
「ひっ…」
己が犯した行為の、あまりに巨大すぎる代償に気づき、陽が本能的な恐怖で身をすくめる。
「…!」
着流しの男は、思わず飛び出そうとする。
彼女をかばい、抱きすくめようと。
だが、それより前に、彼の紫の瞳を射たのは──
「…」
「…?!」
…エンリケス・太一の、真っ直ぐな瞳。
彼は振り返り、真っ直ぐに男を見つめ、軽く首を振ったのだ…
すなわち、出てくるな、と。
お前も巻き込まれる、だから出てくるな、と。
太一の無言の制止。
その瞳の光が、あまりに強かったから。
男は遣る方無く立ち止まり、動きを止めるしかない…
そして太一は、なりふり構わず。
這いつくばるようにして、娘の前に躍り出た。
「お、お許し下さい代官(ガバナー)様!
こ、子どもの…ほんの子どもの戯言、分別のつかぬ子どもの戯言でございます!」
必死に冷たい地面に頭を擦り付け、額から血が滲み、土を噛むほどに平伏する太一。
その姿は痛々しく、村人たちの間からも押し殺したようなうめき声が漏れる。
だが、佐藤はその哀れなほどの親心を、さらに踏みにじるように…
氷のような冷酷さと、抑えきれない愉悦を巻き込んで、吐き捨てた。
「馬鹿が!
…子どもであるからこそ、その教育が腐っているという何よりの証拠!
ならば、親の貴様が報いを受けるがいいッ!」
佐藤の肥大した右手が、腰に提げた使い込まれた革鞭へと伸びる──
空気を切り裂く、鋭く不吉な音が広場に響き渡った。
佐藤が手にしたのは、もはや単なる懲罰用の道具ではない。
その重厚な革には、無数の鋭利な金属の棘が等間隔に編み込まれており、一度振るわれるたびに、対象の肉を深々と抉り取る。
「死ねッ!
分不相応な言葉を吐く不忠の輩めが!!」
佐藤の喉を掻き切るような咆哮とともに、棘付きの鞭がしなりを上げて空を割り、一直線に振り下ろされた。
「ぐあッ…?!」
鈍い衝撃音と、肉が裂ける不快な音が重なり、太一の短い悲鳴が上がる。
鞭の先端は、地面に跪き、必死に許しを請うていた太一の顔面を無残に横切った。
鋭い棘が彼の左目を深い谷底のように引き裂き、そこから噴き出した鮮血が、火花のような軌跡を描いて乾いた土の上に飛び散る。
太一は断裂した視界と、脳を焼くような激痛に悶え、そのままなす術もなく土の上に転げ落ちた。
傷口からはどくどくと血が溢れ、瞬く間に彼の顔の半分を赤黒く染め上げていく。
父の叫びが、陽の鼓膜に突き刺さる──
「父ちゃん!父ちゃん!?
いやあああ!!」
陽が絶叫し、血の海に沈もうとする父のもとへ狂ったように駆け寄る。
パニックに陥った少女は、その震える細い腕で父を激しく揺さぶり、ただ叫ぶことしかできなかった。
その痛切な悲鳴が、広場の重苦しい沈黙を切り裂き、人々の良心を鋭く突き刺していく…
「まだだ…まだ足りん!
その不遜な根性を、ワシが根こそぎ叩き直してやる!」
佐藤は、陶酔した表情で再び鞭を高く振り上げた。
今度は、血にまみれた父に縋り付いて泣き叫ぶ、無防備な陽の背中に向けて。
反射的に、太一の身体が動いた。
左目を失った衝撃と、出血による急激な意識の混濁。
太一は陽の小さな身体を力いっぱい抱きしめ、自らの背中を、何物も通さぬ絶壁のような盾にすべく、彼女に覆いかぶさる。
「…ッ、陽…!」
掠れた声で娘に囁く。
だが、その声すら非情な一撃にかき消された。
直後、断続的に振り下ろされる、苛烈を極める鞭の雨。
太一は奥歯が砕けるほどに歯を喰いしばり、娘をこれ以上の恐怖に陥らせまいと、喉を焼くような呻きを必死に飲み込み続ける…
それでも、彼は決して娘を離さなかった。
その腕は、絶望の淵にあっても娘を守り抜くという、唯一無二の意思の象徴。
広場を埋め尽くす村人たちは、まるで呪いにかけられた石像のように、その場に釘付けにされていた…
ある者は堪えきれずに目を背け、ある者は子供の視界を手で塞ぎ、ただこの地獄のような嵐が過ぎ去るのを待つように身を縮める。
太一への同情や代官に対する義憤がそのこころにあったとしても。
次に、あの殺意に満ちた鞭が自分や、我が子に向かうかもしれないことを思えば…
そう、この数年は、ずっとそうなのだ。
彼らの沈黙は、佐藤の振るう鞭の音をさらに残酷に響かせる、不吉な共犯者。
毎月の検分のたびに、誰かが犠牲になる。
「ははははッ!
どうだ、どうだ、身に沁みてわかったか己の愚かさをッ!」
佐藤はもはや正気をかなぐり捨てたかのように、歓喜の笑声を上げながら鞭を振るい続けている…
その、この世のものとは思えぬ惨劇のすべてを。
陽の喉を枯らす絶叫を、
太一の命を賭した決死の抱擁を、
そして佐藤がまき散らす醜悪な法悦を。
着流しの男は、一歩も、一寸も動かずに見つめていた。
ただ、あまりにも救いようのない人間の醜い業を、
あるいはこの世界に遍在する理不尽という名の真理を、
そのままの形でこころに焼き付けているかのような──
呆然とした、そして恐ろしいほどに虚無な眼差し。
だが、その静謐は、嵐の前のそれであった。
紫の瞳はひたすらに見つめている、
陽を、太一を、佐藤を──
揺らがないその瞳の奥に、闇が灯った。
その夜、エンリケス家は、静寂よりも重苦しい闇に包まれていた。
「…」
粗末なベッドの上、太一はうつ伏せに横たわったまま…
ただ、途切れそうな呼吸を繰り返している。
背中の肉は無惨に裂け、止血のために巻かれたぼろ布は、すぐに新しい血で赤黒く染まっていく。
その傍らで、陽は膝を抱え、虚空を凝視していた。
硬く唇を閉ざし、震わせ。
その瞳からは、昼間の烈火のような怒りは完全に消え失せ。
代わりに、底なしの沼のような、真っ暗な絶望と後悔が居座っている。
「父ちゃん、ごめんよ…
私があんなこと言わなきゃ、父ちゃん、こんな…
ごめん、父ちゃん…」
謝罪の言葉が、乾いた唇から幾度となく零れ落ちる。
それは詫びというよりは、最早自分自身を切り刻む呪文のようだった。
彼らには医者を呼ぶ金もなければ、傷を癒やすための清潔な寝床さえない。
少女の小さな背中は、負いきれないほどの重荷に押し潰され、今にも折れてしまいそうだった…
がらり、と、戸が開く。
そんな絶望の淵にある家の中に、男が戻ってきた。
男の着物の裾は夜露に濡れ、泥に汚れ。
その手にはどこかから必死にかき集めてきたであろう、薬草が握られていた。
畑仕事の合間に太一から教わった、貧しい者たちの唯一の薬。
「…」
男は無言で囲炉裏の隅を借り、石で薬草を叩き潰し始めた。
ぎり、ぎり、と薬草をすりつぶす単調な音が、血の匂いのする空気に混ざり合う。そして、彼はその薬草のペーストを、丁寧に、慎重に、太一の背中の凄惨な裂傷へ塗りつけていく…
だが、彼にだってわかっている。
そんな間に合わせの民間療法に近いような手当では、深く抉れた肉を塞ぐにはあまりに心許ない。
そして…何よりも、残酷な事実。
あの強欲の代官(ガバナー)、佐藤・イーファンは…太一の左目、その光を永遠に奪い去った。
完全に眼球を潰されてしまった彼の左の視界は、二度とよみがえることはない。
たかが幼い子どもの感情に任せた悪口に対する罰としては、あまりに常軌を逸している…
「…陽殿」
男が、静かに。
しかし壊れ物を扱うかのようなやさしさで、少女に声をかけた。
陽は、だが、反応しない。
それでも、着流しの男は穏やかに呼びかける。
「拙者、ね?また薬草を取ってまいりますね」
「…」
男は、少女の絶望に寄り添うように、懸命に口角を上げた。
悲しいほどに不器用で、必死さに満ちた、痛々しい笑み。
「待っていてくれよな。
俺…必ず、太一のダンナと陽殿を助けるんだからね!」
その言葉に、陽の瞳が、ほんのわずかに震えた。
男は立ち上がり、軽く陽の頭をかき撫でて。
また戸を開き、闇の中に溶け込んでいく着流しの男…
彼の供は、その腰に佩いた二振りの武器…
日本刀と、片手剣。
その姿は、もはや単なる流れ者の浪人などではなかった。
闇を背負い理不尽を斬り裂く、研ぎ澄まされた、復讐の炎を宿した修羅のそれであった。
夜。
その日の夜は、月さえもこの地に降りかかる惨劇を見るのを拒んだかのような、暗く、底知れない闇に塗り潰された夜だった。
不吉なほどに重く湿った空気が、断罪の時の訪れを静かに告げていた。
風さえもその旅を止め、固唾を呑んで「報復」の訪れを待っているかのようだった──
村の喧騒から程よく離れた小高い丘に、その建物は傲然とそびえ立つ。
「代官(ガバナー)」、佐藤・イーファンが、村人から搾り取った血税と涙を惜しみなく投じて築き上げた、豪華絢爛な豪邸。
白壁は滑らかに磨かれ、柱には異国の緻密な彫刻が施されている。
だが、その煌びやかな装飾は、今…
この世の地獄を彩るための、皮肉なまでに豪奢な舞台装置へと成り果てていた。
屋敷の至る所に、かつてそこにあったいのちの残骸が散らばっている。
重厚な正門を守っていた屈強な門番たち、
主人の夜食を運び、細やかな世話をしていたであろう執事やメイドたち、
そして銃火器を携え、最新鋭の装備で身を固めた警備兵たち。
夜遅く、不審な来客が屋敷の門の前に立った、ほんの数十分前。
ほんの数十分前まで、彼らは確かにこの世界に存在し、各々の職務に真摯に当たり…
今日を乗り越えるために精を出し、明日のことを夢見て、息をしていた。
だが今、彼らがかつてそうやって生きていたことを証明しているのは…
切り刻まれた無残な肉体から溢れ出し、冷たい床を不規則な模様で塗りつぶす、まだ温かい赤だけだった。
「ひ、…ぐぅ、ッ…」
喉を潰された警備兵が、自らのいのちが指の間から砂のようにこぼれ落ちていくのを必死に止めようと、血の海の中で無様に身悶えている。
その絶望の呻きを、死神の足取りが冷酷に踏みにじっていく。
そこには同情も、慈悲も、一欠片の躊躇いも存在せず。
男の歩みは、ただ、淡々としていて。
…着流しの男は、赤く彩られた景色の中を、悠然と歩いている。
彼の右手に握られているのは、鈍く輝く鋼の片手剣。
そして左手には、光をはじく反りの美しい日本刀。
二振りの凶器を、まるで呼吸をするかのように無造作に、しかし一分の無駄もない洗練された動作で振るうその姿は、凄惨な殺戮の場を舞踏の舞台へと変える。
前を見つめる紫の瞳には、ただ冷たい、月光のような光だけ。
「ば…バケモノめえッ!
来るな、来るんじゃねえッ!!」
廊下の奥、装飾過多な扉の影から、一人の黒づくめの男が飛び出してくる。
…だが、今、彼は。
自身の経験が告げる抗いようのない「死」の予感に、その心臓を掴まれている。
しかしそれを無理矢理にでも振り払おうと、手に持った小型サブマシンガンの銃口を震わせながら、無造作に、狂ったように連射する!
暗闇を乱暴に切り裂くマズルフラッシュ、放たれた鉛弾は群れを為し、空気を貫いて、男へと殺到する──!
…が。
男の体躯が、ゆらり、と。
陽炎のように、揺らいだ。
狂乱の銃弾が穿ったのは、もはやそこにはいない男の残像…
空虚な影と、無残に砕け散る大理石の壁のみ。
物理的な速度を超越したその動きに、訓練されたボディガードの動態視力すら、追いつくことを許されない。
「…」
瞬き一つの間、あるいは心臓が一度拍動するよりも短い刹那。
彼は、男の懐へと深く、深く滑り込んでいた。
至近距離で対峙した時、男が目にしたのは…
恐怖で歪んだ自分の顔を映し出す、研ぎ澄まされた二振りの刃、その白銀。
左手の日本刀が、闇の中で音もなく一閃する。
それは抵抗すら、あるいは痛みを感じることすら許さぬ、絶対的な断罪の一太刀。一瞬の、静寂の後。
湿った音が遅れて響き、ボディガードの巨体が、まるでもともと二つの異なる物体であったかのように、左右へと綺麗に分かたれた。
飛び散る血肉を浴びることもなく、着流しの男は機械的な動作で刀を払い、さらに奥へと進む。
紫の瞳の男は、無表情のまま屋敷の奥へ、奥へと進む。
今まさに、歯を鳴らして震えながら隠れているであろう主…佐藤・イーファンのもとへと。
男の歩みの先には、救済は存在しない。
ただ、罪の重さに釣り合うだけの、純粋で絶対的な破滅だけが待っていた。
屋敷の奥から響くだろう佐藤の醜悪な絶叫だけを、闇は静かに待ち構えている…
そう。
残すは、あと一人。
豪華な装飾が施された寝室の最奥。
重厚な執務机の陰で、この屋敷の主――佐藤・イーファンは、自分自身の激しい鼓動の音だけを聞いていた。
どく、どく、とやたらとうるさく鳴り響くその音は、彼がこれまで多くの村人たちに味わわせてきた恐怖の残響のようでもあった。
贅を尽くした厚い絨毯も、今は彼の失禁した汚水を吸い込むだけの布切れに過ぎない。
扉はとうに、紙細工のように無残に切り裂かれている。
闖入者は、血濡れた草履でゆっくりと絨毯を踏みしめながら、近づいてくる。
「ひッ…あ、ああ、」
喉の奥から、言葉にならない音が漏れる。
目の前に立つ男は、薄暗い部屋の中、異様な存在感を放っている。
アンティークのライトスタンドの光が、男の輪郭を焔の色に縁取り、それがかえってこの世の者ならざる雰囲気を際立たせていた。
恐ろしかったのは、その男から放たれる刺すような鋭い殺気だけではない…
男の着流しも、剣を握る腕も、さらにはその顔に至るまで。
それまでに屠ってきたであろう屋敷の住人たちの返り血で染まっているというのに、その表情は…
驚くほどに、静止していた。
一切の怒りも、悦楽も、あるいは憐憫さえも浮かべない無表情。
それは感情の欠落ではなく、対象を「人間」として認識することを止めた、絶対的な断罪者の相だった。
ただ紫の瞳が、深淵のような空虚さを湛えて、こちらを見下している。
男は、二振りの武器――血を纏って赤く染まった鋼の剣と、研ぎ澄まされた日本刀の切っ先を、ただ真っ直ぐに佐藤へ向け、なおも近づいてくる。
己の漏らした小便で濡れた絨毯の上にべちゃり、と座り込んだまま、死神を仰ぎ見たまま後ずさることしか出来ない無様な肉塊は、それでも必死に囀った。
「き、貴様…誰に頼まれた?
いくらだ?いくらで頼まれた?」
金を積まれた暗殺者か、あるいは対立する組織が放った手飼いの刺客だと思い込んだのか。
佐藤はやにわに床を這いずり回りながら、震える声で男の機嫌を取ろうとしだした。
彼の歪んだ価値観においては、この世の全ては金で解決でき…
いのちの重ささえも、計算で測れるはずのものだったからだ。
「…」
「わ、ワシならもっと出せるぞ!
その雇い主が提示した額の倍…いや、十倍、いや百倍だ!
なあ、いくらだ?いくら欲しい?!」
「…」
「望むだけ!
金も、酒も、女も、地位も用意してやる!
この村の半分、半分を貴様にくれてやってもいい!」
「…」
「ほ、ほら!…す、好きなだけ持っていけばいいだろう?!
だ、だから、…頼む、助けてくれ!」
机から転げ落ちていた象牙の宝石箱をひっくり返し、眩いばかりの宝石や金貨を男の足元へぶちまけながら。
佐藤・イーファンは、狂ったように叫ぶ。
だが、男の瞳は揺らがない──
と、その視線がふと、佐藤の顔に向けられた。
いや、顔ではなく、彼が太一から奪ったものと同じ場所――
佐藤の目を、見据えていた。
でっぷりと肥えたその喉からほとばしる、卑屈で醜悪なその命乞いの言葉。
着流しの男は、ついに応じた。
言葉ではなく、ただ、一筋の閃光――
斬撃で。
その斬撃は、佐藤・イーファンの喉元を一気に断ち切るような、慈悲深い死を与えるものではなかった。
最も苦痛が長く、かつ逃れようのない屈辱を刻み込む軌道。
鋭利な刃は、佐藤の額の右上から斜めに走り、視界を司る左目、鼻の横、
そして醜悪な言葉を吐き散らしていた唇を、無残に裂いていった。
「ぎ、ぎゃあああああああああああ?!」
寝室の高い天井に、佐藤の絶叫が木霊する。
それはかつて彼が、娯楽のために村人を鞭打った際に楽しんでいた、あの悲鳴のように強烈な音だった。
「あ、あひ、ああがが…!」
佐藤は顔を両手で覆い、指の間から温かい鮮血が止めどなく溢れ出すのを必死に抑えようと、狂乱しながらのたうち回った。
その無様な様子を、着流しの男はただ黙って…凍りついた紫の瞳で見つめていた。
呼吸一つ乱さず、返り血を浴びたまま立ち尽くすその姿は、徹底した冷徹さに満ちていた。
男は返り血を浴びた日本刀をゆっくりと下ろし、納刀。
のたうつ肉塊を見下ろして、低い、地を這うような声でこう言った──
「貴様の汚い網膜が、ダンナのものと釣り合うとは思えんが…
それでも、てめぇはダンナの光を奪った」
吐き捨てる言葉が、佐藤の脳髄に直接突き刺さる。
男の声音には、怒りなど既に通り越した、当然の帰結を告げるような響き。
「だから、こうなるのは当然だよな?」
その台詞に、激痛の中で破断していた佐藤の思考が…はっ、と、記憶に思い当たる。
奪われた、光。
釣り合わない、網膜。
この理不尽なまでの暴力の理由を、彼は血に濡れた暗闇の中でようやく理解した。
目の前の怪物は…嗚呼、
あのゴミどもの代理人、なのか!
「き、貴様!…昼間の、あの不敬な親子の?!
たかが、あんな下賤な、虫けらのような奴らのために、
ワシを…こんな目にッ?!」
佐藤・イーファンが、震える声で叫ぶ。
男は、わずかに首を傾げた。
そして、ずっとその顔に貼り付けていた無表情が…突然、溶けた。
「ご明察」
夜空を覆う暗雲が、ふと切れ込む。
そこから差し込む青白い月光が窓を貫き、男の姿を冷ややかに照らし出した──
返り血で赤黒く染まった着流しの男は、笑っていた。
美貌を歪めた、狂気混じりの笑顔。
「もう片方も、置いていけ」
佐藤の網膜に映る、美しく、そして禍々しい笑み。
血の匂いに満ちた暗闇に包まれ、それでも佐藤は何とか生き延びようと、今度は相手を脅しにかかる。
「ひ、ひィ…ッ!
わ、ワシはこの地の代官(ガバナー)だぞ?!
逆らえば、どうなるか…分かっているのか?!」
彼は自分の地位を示す言葉を、それこそが自分の武器である、とばかりに言い放つ。
かつて彼がこの地位を手に入れるために積み上げた悪行や、他者を踏みにじってきた傲慢さは、今や彼を救う盾にはならず。
彼が縋りついているのは、もはや威嚇ですらなく…
自分が人生の全てを捧げて築き上げてきた唯一の蜘蛛の糸。
「権力」という名の虚像。
その虚像が剥がれ落ちた後に残ったのは、ただの臆病で醜悪な一人の中年男であった。
「…どうなるのでしょうか?」
着流しの男が、そう歌うように言い返した。
その声は冷たい大理石冷徹な殺意を孕みながらも、何処か舞台を演じているかのように甘く、涼やかに響いた。
そして、男は片手剣を構える。
振り上げる。
振り下ろす。
佐藤・イーファンの精神は、永遠の、そして絶対的な真っ暗闇に溶けた。
屋敷の主も、血まみれの絨毯の上に音もなく崩れ落ち、圧倒的な沈黙が部屋を支配する。
豪華な装飾品も、金貨の詰まった箱も、主の死を悼むことなく冷ややかにそこに鎮座していた。
男は汚れた剣を無造作に振り、その重みとなった血を払うと、鞘へと収めた。
深夜。
外界との境界である薄い壁一枚向こう側では、夜鳥が不吉な声を上げている。
背中を無残に裂かれ、苦痛の声をあげていたエンリケス・太一は、今は限界を超えた痛みから逃避するように、泥のような眠りに落ちている。
その浅く、途切れがちな呼吸の音だけが、冷え切った室内で静かに響く。
その傍らで、陽もまた…
土間に座り込んで、動けなくなっていた。
頬を伝った涙の跡はすでに乾き、白くこびりついている。
何もできない無力感が、彼女の幼い魂を少しずつ蝕んでいる…
と。
…ぱしゃん、ぱしゃん。
今にも割れそうな窓を、何かが軽く叩くような音がした。
誰かの指先が、戸惑いながらも懸命に合図を送るような、控えめな響き。
「…?」
陽は、鉛のように重い身体を引きずるようにして、不承不承、立ち上がる。
こんな夜中に訪ねてくる者など、いるはずがない。
泥棒が狙って入るような財産なども、あるわけがない。
だが…窓の外の闇から、聞き覚えのある、
しかしどこかひどく疲れたような声が、彼女の「名前」を呼びかけてきた。
「陽殿、…あたしです。
戻って、まいりました」
「!」
陽の濁った瞳に、一瞬だけ光が戻った。
軽薄な言葉の裏に隠された、不思議なほど確かな温もりを持つ、あの男の声。
「兄ちゃん?!
薬草を取りに行ったきり戻らないから…
一体、何処まで行ってたの?!」
陽は、弾かれたように戸へ向かう。
一刻も早く、彼を迎え入れようと。
けれど。
その動きを鋭く制するように、闇の向こうから、震える声が刺し貫く。
「開けないで!
…頼むから、そこから一歩も動かないでくだせぇ!」
あまりに強い拒絶に、陽は戸惑い…戸を開けようと伸ばした手を、途中で止めた。
薄い板戸一枚隔てた、向こう側。
姿の見えない彼の声だけが、夜の静寂を震わせながら、途切れ途切れに言葉を紡ぎ出す。
「開けないで…
今の小生を見られたくないんでありますよ。
…ちょっと、あまりにも、ひどい格好なもので」
「ひどい格好、って…
最初のケツが丸出しだった時に比べれば!
どうしたのさ、兄ちゃん!あたいは…」
「陽殿!
…お願いですから!」
また外に出ようとした陽を、魂を削り出すような強い語気が射抜いた。
陽は息を呑み、金縛りにあったように動けなくなる…
しばしの、空白。
窓の外から、幾分柔らかくなった、着流しの男の声。
「あのね…
オイラね、いいものをもってきたんだぜ」
…からり、と。
立て付けの悪い窓が、外側から慎重に開けられた。
そこからぬっ、と、入り込んできたのは、白く浮かび上がる男の腕。
その手が、握り込んだ重みのある何かをぼとぼと、と音を立てて落としていく。
何かを落として、また一度引っ込み、そしてまた手は掴んだ何かを家の中に落とす。
「兄ちゃん…?」
陽は、呆然とその光景を見つめていた。
暗がりのなか、それらは窓から差し込む薄い月光を反射して、鈍い輝きを放っている。
それは本来、このあばら屋にはおよそ似つかわしくない富の断片だった。
「それ、お金と…高く売れそうなものでやんす。
…当座の、いや、かなりの足しにはなるはずですわ」
男の声が、遥か離れた遠い場所から響いているように聞こえる。
いつもの軽薄さを必死に取り繕おうとしているが、その継ぎ接ぎから漏れ出してくる重さは、隠しようもない。
床に散らばったのは何十枚もの高額の紙幣、宝石類、そして歪にひしゃげた金のかけら。
それらは紛れもなく、先ほどまで佐藤・イーファンがその肥え太った体で独占し、他者を踏みにじってかき集めていた、略奪と強欲の成果そのものだった。
見慣れないお宝に、陽は目を丸くしていたが…
「え…これ、どうしたの?」
「とりあえずは、その金で。
太一のダンナを、すぐにお医者に見てもらうんだ」
「…」
「そんで、残りは…
本当に困ったときのために、どこか床下にでも深く隠しておくのですよ」
「兄ちゃん」
袖が捲れたその腕にある、赤い斑点。
それがおそらく血液であろうことを、陽はようやく察した。
「兄ちゃん、怪我してるの?」
「いいやァ?
ワシはまったく、元気なんだわさ!」
「兄ちゃん」
「あのね、陽殿?」
けれども、問おうとする陽の言葉を、強引なまでに鋭い声音で遮って。
男はべらべらと、いつものおどけた調子を無理やり引き絞って喋りだした。
「色々、本当にありがとうござった。
己は、もう…行かにゃあならねえんだってばよ!」
「…」
「でも、太一のダンナと陽殿の御恩を、妾は決して忘れやしないんだぜ!
自分、しっかり覚えてますから…
あっ、記憶はまだ戻らないんですけどねェ〜?ははっ」
窓の外の闇から、乾いた、どこか空虚な笑い声が漏れる。
だが、その笑みは決して窓の内側へは向けられない。
…彼は、自分の顔が今、どのような形に歪んでいるかを自覚しているから。
男の腕が、未練を断ち切るように、す、と、窓から引き抜かれる。
「待って、兄ちゃん!
行かないで!」
陽にはわかっていた。
彼が渡してくれたのは、きっとおそらくはただの富ではない。
彼が「何か」と引き換えにしてしまったその代償なのだと、幼い少女は本能的に悟っていた。
「兄ちゃん!」
「じゃあな、…ありがとう!」
「…兄ちゃん!兄ちゃん!」
窓が、閉じられた。
そして男の気配が、窓の外の闇へと急速に遠ざかっていく。
何度呼びかけても、返ってくるのは…湿った夜風が周囲の木々をざわめかせる音だけ。
とうとうたまらなくなって、陽は窓から離れ、家の戸へと駆け寄る。
重い木の閂をなりふり構わず力任せに外し、戸をがらり、と開いて外へ飛び出す。
「…!」
陽の瞳に映ったのは、もはや手の届かぬほど遠く駆け去っていく、一人の男の背中だけ。
「兄ちゃん…!待ってよ!」
陽の声は、夜の空気に吸い込まれ、彼には届かない。
男は一度も振り返らなかった。
あっという間に小さくなり、消えていってしまったその影に…
陽は、ぽつり、と、呟いた。
「兄ちゃんの『名前』も、まだ…聞いてないんだよ」
男が溶けていった夜闇を、その先をずっとずっと見つめながら。
どうしようもない別れに、陽はぽたり、と、涙を一粒こぼした──
「…」
着流しの男は、ただひたすらに走っていた。
彼は、一度も振り返ることはなかった。
肺が焼け付くような熱を帯び、夜風が頬を切り裂いても、その走りの速度を緩めることはない。
頭を支配していたのは、ただ…
陽に見られなかっただろうか、という一点のみだった。
月光の下で、あまりにも生々しく、どす黒く固まった「死」の色彩を。
彼女が慕ってくれた、無邪気な笑顔を向けてくれていた、「ケツの兄ちゃん」。
その皮を剥いだ下に隠されていた、救いようのない人殺しの本性を。
嗚呼、過去の自分が何であったか、何をしていたのか。
それすら思い出せないのに、あんなにも──
自分は、あんなにも簡単に、剣を刀を振るい、容易く人を殺すことが出来た。
嗚呼、おそらくは。
自分は、どうしようもない邪悪なのだ。
嗚呼、陽は。
醜いそれを、己の姿を、あの無垢な瞳に刻み込んでしまわなかっただろうか…?
彼らには、見られたくない。
彼らには、知られたくない。
こんな恐ろしく悪辣な、悍ましい自分の姿を。
もし、彼女がわずかにでも扉を開け、怪物へと変貌した自分の姿を目にしていたら――
想像が、男の脚をさらに加速させた。
強迫観念に追い立てられるようにして、男は草原を、夜の深淵を、風を裂いて駆け抜ける。
やがて、村を去り、かなりの距離を走った後。
銀色に波打つすすきの海がどこまでも続く平原の真ん中で、男は不意に足を止める…
周囲には遮るものもなく、ただ夜の静寂が重くのしかかっている。
「…」
空を見上げれば、そこには西へと走り去っていこうとする、青い月。
世界の業を見下ろすように、冴え冴えと輝いている。
その光は、男にこびりついた汚れを、白日の下にさらすかのように鮮明に照らし出した。
男は荒い息を整えながら、血に汚れた懐に手を差し入れた。
そこから取り出したのは、黄金でも宝石でもない…
それは、佐藤の亡骸から引きずり出した、親指の先ほどの小さなチップ――
バイオメトリクスIDタグチップ。
この高度に管理された世界の秩序を規定し、人間の価値と階級を証明する、唯一無二の電子の魂。
この小さいチップの上に、あの中年男の権力は成り立っていたのだ。
「…」
だが。
もう、あの醜悪な男はこの世のどこにもいない。
支配者として君臨し、他者を踏みにじってきた「佐藤・イーファン」という存在は、数刻前に男の刃によって永遠に消滅した。
今や、このIDチップの中にある情報だけが、佐藤という存在を定義する唯一の残滓。
そして。
「佐藤・イーファン」という「名前」も、最早その持ち主を失った。
…ならば。
自分が、本当の「名前」を思い出せるまで。
それまで、借りていても構わないだろう…
あの下賎で低俗で矮小で、それでいて残虐で無様な男の「名前」。
こんな血みどろの、汚らしい存在である自分には…
とても似合いの、仮の「名前」だ。
月光に照らし出しながら、男は血で赤く薄汚れたそれを見つめる。
男は、自身の紫の瞳にタグチップを映し込む。
誰もそれを聞くことがないにも関わらず、彼は。
空を仰ぎ、掠れた声で、静かに宣言した──
「此方の『名前』は…『佐藤・イーファン』、だ」
奪い取った「名前」。
仮初めのそれを纏って、男は歩き出す。
東の空には、もうすぐ新しい一日を告げる光が差し込もうとしていた。
この作品が気に入ったら

コメント
まだコメントはありません。
会員登録(無料)かログインをすると、コメントを書けます。