その海は、切りのない潮騒と海鳥の鳴き声だけが、やけに耳に付く場所だった。
文明の喧騒から切り離された、静謐な海岸。
「佐藤・イーファン」が辿り着いたのは、そんな海、そんな入り江だった。
視界の端から端までを支配するのは、見事なまでに純粋な群青のグラデーション…
空の青を吸い込み、自らを染めたかのような海面が、陽光を乱反射させて無数の銀鱗を躍らせている。
「…ふう」
息をつけば肺の奥底まで、潮の香りが染み渡る。
湿り気を帯びた風が、旅塵に汚れた彼の頬を撫でて通り過ぎていった。
あれから、ずっと歩き詰めで。
山道はやがて街道となり、そこを延々と歩いてきた…
つもりが、何処かで道を違えてしまったらしい。
胃袋はとうに空の音を立て、苛烈な空腹は内側から彼を責め続ける。
「イーファン」は目を細め、波打ち際を見つめた。
透明度の高い水面の下、落ちる光の合間を縫うようにして泳ぐ魚群の影が見える。
それは生命の輝きそのものの美しさ…
彼は迷わなかった。
誰に見られる懸念もないこの静寂の中で、彼は身に纏った着物を解いた。
潮風にさらされた指先が帯を解き、放り出された布地が砂浜の上に静かに重なる。
剥き出しになった彼の肉体は、苦難を乗り越えてきたことを示す証のようで…
彼は惜しみもなく、無駄のない、美しい筋肉の隆起を陽光の下に晒した。
腰に巻いた白い褌一つの姿になる「イーファン」。
足の裏に感じる、砂の熱。
波打ち際で不意に襲ってくる冷たい海水が、白い砂浜を濡らしていく。
「…」
「イーファン」は、大きく息を吸い込み。
次の瞬間、彼は青の深淵へとその身を躍らせた──
どぼん、と。
水飛沫が上がり、彼の世界から音が失せていく。
海中で彼の耳朶を打つのは、自身の鼓動、吐き出す空気が立てる音と、遠くで響く水流の囁きのみ。
海中の世界は、地上のそれとは全く異なる法則に支配されていた。揺らめく光のカーテンが海底へと降り注ぎ、白い砂地には網目のような影が刻まれている。
「イーファン」は力強く手足を動かし、水の抵抗を全身で受け止め流し、泳ぐ。
ひんやりとした水の感触が、火照った皮膚を鎮めていく…
やがて彼は、岩棚の陰に潜む大きな黒鯛の姿を捉えた。
(あいつだ…)
獲物との間合いを詰める。だが、水の中での格闘は容易ではない。
無手で魚を捕らえるなど、野性の鮫でもなければ不可能な所業に近い。
だが、やってみなければ結果はわからないし、それに空腹は彼に異常な集中力を与えていた。
肺に残された僅かな酸素を慈しむように使い、彼は水の流れと一体化しようと試みる…
そんな腹を減らした獣の気配を察してしまったのか、ぴゃ、と、獲物が岩棚から逃げる、彼は追う。
ごぼごぼ、と吐き出された気泡が彼の視界を掠め、青い階調が混濁する。
それでも彼は諦めず、岩の角を曲がり、さらに深く、光の届かぬ影へと踏み込んだその時──
彼の視界が、思いもかけないモノを捉えた。
泡の向こう側。揺らぐ水の向こう側。
射し込む光の天幕が割れた先に、それはいた──
自分と同じ、白い褌を纏った肉体。
だが、その曲線は彼自身のものとは決定的に異なっていた。
なめらかで、しなやかな四肢。
すらり、と腰から伸びたその脚は肉感的で、引き締まっていながら適度に肉がつき、白く艶めかしく海中で輝いている。
揺らめく水の中で光を浴びながら、まるでこちらを誘うかのように。
射し込む陽光は、彼女の肢体を幻想的な輪郭で縁取っていた。
泡が弾けるたびに、銀色の火花が舞う。
水の屈折は、彼女のしなやかな脚をいっそう長く、非現実的なほど美しく歪ませ…
まるで、伝説の海獣が人の形を模しているかのような、そんな錯覚をイーファンに抱かせる。
そして、水の中、ふわり、と海藻のように泳ぐ、長い髪。
くびれたその腰の上には、丸く柔らかそうな胸乳。
目鼻立ちのはっきりした、軽く日に焼けた、大きな瞳が印象的な──
それは、一人の若い女だった。
女もまた、突然現れた「異物」に気づいたらしい…
なおさらに大きく見開かれた瞳が、「イーファン」を射抜く。
水中で視線が交差した瞬間、時間の流れが凝固した。
彼女の背後で、銀色の小魚の群れが星屑のように散っていく。
「…!」
驚愕が、呼吸の限界を突き破った。
「イーファン」は、反射的に水面を目指して蹴りを入れた。
女もまた、魚のような俊敏さで、上方へと身を躍らせる。
「…ぷはっ!」
水面を割り、荒い息を吐き出す。
同時に、すぐ数メートルの距離で女も顔を出した。
慌てて、脚のつく浅瀬まで泳いでいく、女もそれについてくる。
とうとう砂地が爪先に容易につくところまでたどり着く、ざばり、と水音を立てて立ち上がる。
すると、女も同様に、彼の背後で立ち上がった…
濡れた髪が彼女の顔に張り付き、その大きな瞳は、隠しようのない怒りと困惑を湛えて「イーファン」を凝視している。
「あんた…!
誰だ、何者だ!」
女の声が、静かな海を切り裂いた。
鈴を転がすような響きの中に、刃物のような鋭利さが混じっている。
彼女は立ち泳ぎをしながら、片手を上げて「イーファン」を指差す。
「何故、勝手にここで漁をしている?!
ここはあたいたちの村の海だ、余所者が勝手に荒らしてんじゃないよ!」
その女は、こうして見れば…大分と愛らしい顔つきをしているのだが。
口から出る言葉は、案外蓮っ葉で乱暴なものだった。
…が。
「…」
「イーファン」は呆然としたまま、言葉を失っていた。
怒声の内容が頭に入るよりも先に、彼の視線は…
水面から露出した彼女の姿に、釘付けになっていた。
濡れて肌に張り付いた白い褌は、水気を吸ってわずかに透け。
彼女の若々しく強靭な、だが蠱惑的な肉体の造形を容赦なく浮き彫りにしていた。
腰に括られた紐には、小刀と網が光り。
陽光を浴びて真珠のような光沢を放つ肩のライン、
水を弾くしなやかな腹筋、
海水をはじく珠のような肌、くびれた腰、
そこまで大きくはないものの、綺麗な形を見せつけ、ピンク色の飾りも愛らしい乳房。
…そして、何よりも。
すっく、と地面を踏む、その二本の脚。
海中で優雅に揺らめき水を蹴っていた、軽く日焼けした、健康的な美しさを誇る脚。
しなやかなラインを描く太ももは、静かに、だが確実に獲物を狙う野生動物のしなやかさを彷彿とさせて。
きゅっと引き締まった足首から、滑らかな曲線を描いて膨らむふくらはぎの、その絶妙な肉付き…
海水が滴り落ちる肌が、太陽の光を乱反射し、まるで計算し尽くされた彫刻作品のような、健康的な艶めきを放っている…
それは、決して見る者に媚びるための美しさではない。
海の中で生きる者、そう、人魚がもしも人間の脚を手に入れたのなら…きっと、こんなふうに美しい脚を持つことだろう。
海神の寵愛を一身に受けたかのようなその肢体は…
彼の目には、どんな贅沢な馳走よりも強烈な毒として映った。
「あ、いや、俺はただ、」
「…どこ見てんだい、この変態が!」
「イーファン」の視線の先に、気づいた途端。
女の顔が、怒気で一気に朱に染まった。
彼女は片手で自身の胸元を隠すような仕草をしながら、もう一方の手で、思い切り「イーファン」に平手打ちをかましてくる。
「その目、叩き潰してやろうか!」
「待て、悪気はなかったんですよ?
あ、あまりに突然のことで…!」
それを辛くも避け、言い訳を紡ごうとする「イーファン」。
と…その耳に、別の水音が届いた。
一つ、二つ。
それだけではない。
入り江のあちこちから、次々と頭が突き出され。
「どうした、ナギサ!何かあったのかえ?」
「…おや、妙な野郎がいるじゃないか」
ざばり、ざばり、と。
また同じように、海中から現れたのは…彼女と同じ程の若い、もしくは年嵩の女たち。
誰もが、娘と同じく褌一つという、無防備にして潔い姿。
だがその手には、使い込まれた銛や、獲物を入れるための網が握られている…
彼女たちの体躯には、長年の労働で鍛え上げられた逞しさが刻まれていた。
塩気と陽光に焼かれた肌は深い褐色を帯び、その眼差しには海と共に生きる者特有の、峻厳なまでの力強さが宿っている。
「お豊さん!
この男、勝手に入り江に入り込んで漁をしていたんです」
「ナギサ」と呼ばれた娘が、憤りを込めて年嵩の女に訴える。
「イーファン」は、自分を取り囲むように集まってきた女たちの圧力に、ただ立ち尽くすしかなかった。
波の音に混じって、女たちの低い笑い声が響く。
目の前に並ぶ女たち──
海水に濡れ、陽光を受けて黄金色に輝く肌。
波の飛沫に濡れて輝く、彼女たちの荒々しくも美しい肉体の輪郭。
厳しい自然と対峙し、日々海と共に生きる者たち。
彼女たちは、海女(あま)なのだ。
「へえ…
見れば、なかなかの男前じゃないか?
だけど、縄張りも知らず勝手するようじゃあいのちがいくつあっても足りないよ?」
先頭に立つ年増女が、手にした鋭い銛を弄びながら、「イーファン」を見やり不敵に目を細めた。
「…あ、えっと。
すみません、でした…」
「イーファン」はようやく、掠れた声を絞り出した。
と、同時に、彼の腹から、空腹を訴える情けない悲鳴。
「イーファン」は、自嘲気味に笑いながら、美貌をわずかに赤らめた。
その貴公子然とした顔立ちが濡れた髪の間から覗く様子に、女たちは思わず黄色い声を上げて喜んだ。
彼女たちの野性味あふれる笑みは、生気に満ち溢れている…
「ま、わかりゃあいいさ…
あんた、腹減ってんだろ?」
「へえ」
「来な、ちっとくらいなら施ししてやるよ」
「ええッ、いいんですかァ?!
ありがとうございますぅ!」
思いもしない幸運と温情に、大喜びの「イーファン」。
その紫の瞳が、きらきらと輝く…
美貌の男が、そんな表情をしてみせるものだから。
周りを取り囲む女たちは、にわかに照れたような、見とれたような顔をしだす…
が。
「…へっ!」
あの「ナギサ」と呼ばれた女だけは、苦虫を噛み潰したような顔をしているのだった。
「お前さん、紫の目をしているんだね。
人体改造…それとも、異国の血でも混じっているのかい?」
リーダー格と思われる女…四十路を越えたあたりだろうか、深い彫りの顔立ちに知性を湛えた女が、「イーファン」にそう問うた。
案内されたのは、入り江の端に建つ、木材と茅で組まれた簡素な海女小屋だった。
中に入ると、囲炉裏にくべられた流木の爆ぜる音が、凍えた身体へと心地よく響く。
小屋の隅には使い古された潜り道具が並び、潮の香りが染み付いた空気はどこか懐かしく、あたたかい。
女たちは風邪を引かぬよう着物をさっさと着込むと、慣れた手つきで獲物を捌き、手際よく処理していく。
その手つきは驚くほど速く、無駄がない。
「イーファン」も彼女たちに習って自分の着物を肩に羽織り、そして焼き魚を一匹恵んでもらってそれを喰らい終え、ようやくひと心地ついた。
彼女はエイミス・豊(とよ)…お豊、と名乗った。
お豊が差し出した湯気の立つ熱い白湯を啜りながら、「イーファン」は答えた。
「んー、それがだねぇ…
ワシ、なぁんも自分のことが思い出せませんで。
とりあえず、旅を続けている身なんだよなぁ」
「頭がどうかしちまった、ってことかい?
それにしても、随分変な喋り方をするんだね…」
小屋の中には、潮の香りと煙の匂い、そして女たちの肉体が発する独特の熱気が充満している。
焚き火の明かりに照らされた彼女たちの肌は、まるで青銅の鋳物のように力強く、逞しい曲線を描いている。
「災難だったね、こんな寂れた浜に迷い込むなんて」
お豊は囲炉裏の火を見つめながら、ぽつりと言った。
その声のトーンが、先ほどまでの明るさを失い、凪いだ海のような静けさを帯びる。
「このあたりの村じゃね、男たちは一年の半分以上を遠方の漁に出て過ごすのさ。一度船が出れば、二週間は戻らない…
その間、残された女たちが海女となってこの海の恵みを守り、子どもや老人を喰わせていく、ってわけさ」
「ははぁ、なるほど…
そんじゃあ、んじゃあわちきみたいなのが横取りしちゃあ、そりゃ怒るわけですね」
彼女たちの逞しい肉体、日焼けした肌、そして海中でのあの俊敏な動き。
それら全てが、生きるための切実な武器であることを「イーファン」は悟った。
しかし、その誇り高い生活にも、抗いがたい影が差し込んでいた。
「だがね…
海の神様はおやさしくても、人の世の主はそうじゃなくってね」
お豊の顔に、深い苦みの影が落ちる。
彼女たちは語った。
この土地を治める「代官(ガバナー)」からの、度重なる増税。
獲れたばかりの鮑や栄螺の多くが、彼らの懐を肥やすために奪われていく現状。
海女たちが骨身を削って海に潜り、自らの喰い扶持すら危うい中にもかかわらず、役人の贅沢を支えさせられているのだ。
潮が凪ごうと荒れようと、課せられた取り立ては容赦なく彼らの生活を圧迫する…
「…それに、」
お豊が、一際大きな流木を火に投げ込んだ。
火の粉が舞い、彼女の瞳を赤く照らす。
「面倒な奴が、ここ数年いついちまってね…
あいつが来てから、この浜は呪われちまった」
「面倒な奴、というと?」
「イーファン」の問いにナギサが悔しげに唇を噛み、銛の手入れをしたり網を繕っていた女たちもまた、手を止めて顔を伏せた。
小屋の中に、重苦しい沈黙が広がる…
爆ぜる火の音だけが、彼女たちの無念を代弁するように響いていた。
「…『代官(ガバナー)』の、馬鹿な甥っ子さ。
『名前』も聞きたくないような、下衆野郎だよ」
お豊は冷徹な声で吐き捨てた。
その甥は、自堕落な悪党連中を引き連れ、モーターボートでこの入り江に度々現れる…
だが、彼らが目的とするのは、豊かな海の恵ではない。
「奴らは『狩り』をするのさ」
「狩り…?」
「…獲物は、魚じゃない。
海で働くあたしたち海女たちや、子どもたちさ」
狩りの獲物は、村人たちだ、と。
それを聞く「イーファン」の背筋に、冷たい戦慄が走る。
「ボートで追いかけ回し、逃げ惑う背中に向けて、空気銃を撃ち込む。
当たって怪我をすれば、それを指差して笑い転げるのさ…」
お豊の言葉は、熱を帯びた怒りと、どうしようもない無力感に満ちていた。
何の実利もない、ただの娯楽、ただの暴虐。
単なる嫌がらせや横暴といった言葉では片付けられない、底知れぬ悪意がそこにはあった。
彼らが操るボートは、村人の木造船とは根本から異なる。
鈍色に光る特殊合金の船体、高速移動を可能にする強力なタービン。
そして、彼らが手にする空気銃は、鳥を落とすためのものではない。
標的に正確に打ち当たり、その苦悶を楽しむために調整された、悪質な凶器。
「しかも、あいつらは狡猾だ。
男たちが漁に出て、この浜からいなくなる二週間あまり。
そこを見計らって現れる…
抵抗できる者がいないことを知っていて、一方的にいたぶるのさ」
それは、遊びだ。
彼らにとって、必死に生きる海女たちの苦悶の叫びは、退屈な日常を彩る最高の刺激に過ぎないのだ。
逃げ場のない海面で、獲物を抱え、体力の限界まで潜り続けて疲弊した女たちを、動力船と空気銃の暴力で追い詰め、弄ぶ。
気づけば、小屋の中の女たちは、皆同じ目をしていた。
その目には、怒りだけではなく、抗いきれない恐怖と絶望が滲んでいる…
法も、正義も、この入り江には届かない。
代官(ガバナー)という巨大な権力の影に守られた連中に対し、無力な女たちはただ嵐が過ぎるのを待つように耐え忍ぶしかないのだ…
「…それは、あまりにも非道」
「イーファン」の声は、確かに低く、怒りを含んでいた。
…が、その直後に浮かぶ、へらへらとした笑みを、ナギサは見逃さなかった。
(何なんだよ、こいつ…)
普通の男なら、怯えるか、あるいは虚勢を張って憤るはずだ。
だが、イーファンの瞳の奥にある紫の輝きは、まるで嵐の前の海のように凪いでいる…
怒っているのか、それとも楽しんでいるのか。
その掴みどころのない空虚さが、ナギサには何処か恐ろしく感じた。
しばらくの、空白。
囲炉裏の火で温められた干し魚の香ばしい匂いが、狭い小屋の中に濃密に立ち込めていた。
火にくべられた流木が時折ぱちり、と爆ぜ、煤けた屋根裏まで火の粉が舞い上がる。
小屋の中で、火が燃える音だけが、静かに会話の続きを促している。
「…旅の者。
行き先や事情があるなら、無理に止めはしないがね」
お豊が、「イーファン」の紫の瞳を見据え、切り出した。
「もし、お前さんが行く当てもなく、路銀に困っているっていうんなら…
少しばかり、ここで働いて金を少しばかり稼いでいくかい?
浜の男たちは二日ほど前、根こそぎ遠方の漁に出ていてね…
残された女たちだけじゃ持て余す力仕事は山積みなんだよ」
「えっ、本当でござるか?!」
「たいしたもてなしはできないが…
礼金の他に、飯と雨風をしのげる場所くらいは用意してやるよ」
「それは…ありがたいんだぜ!
このままでは砂でも噛んで飢えを凌ぐしかないかと覚悟していたのだ!」
「イーファン」は、ぱっ、と少年のように紫の瞳を輝かせ、へらり、と笑った。
その屈託のない笑顔は、彫刻のように整った美貌をいっそう際立たせ、人懐っこい愛嬌を振りまいている…
「お豊さん、あたしゃこう見えて体力には自信があります!
どんな仕事でも、喜んで引き受けまっせ!」
現金なほどに大喜びする「イーファン」の姿に、お豊や周りの年嵩の海女たちは「まあ、見かけによらずひょうきんな若者だねぇ」と、顔を見合わせて朗らかに笑い声を上げた。
張り詰めていた小屋の空気が、彼の放つ妙に抜けた空気感によって緩んでいく…
だが、その輪の中で一人だけ。
露骨に顔を歪め、不快感を隠そうともしない者がいた。
「…あたいは反対だよ!
絶対に認めないからね!」
叫んだのは、最初に海中で「イーファン」と遭遇した若い海女、幸村・ナギサだった。
彼女は濡れた長い髪を粗末な布で乱暴に拭きながら、「イーファン」を親の敵かと言わんばかりの形相で睨みつける。
その瞳には、まだ海の中での気まずい遭遇への苛立ちが色濃く残っていた。
「お豊さん、本気で言ってるの?!
どこの馬の骨かもわからない奴だよ。
それに見てよ、こんな、人のことじろじろ…
ねっとりやらしい目で見るような不届き者、仲間に入れるなんて嫌だよ!」
「…やらしい目?
人聞きが悪いねェ…
吾はただ、海の中から現れた貴女たちのあまりに力強く美しい姿に圧倒されて、つい目が離せなくなっただけだってェの」
「…ほら、またその顔だ!
その、何を言われてもどこ吹く風みたいな、へらへらした薄ら笑いが気に喰わないんだって言ってるの!」
ぎゃんぎゃんと「イーファン」に噛みつくナギサに、お豊が宥めにかかる。
「…けどね、ナギサ」
お豊が穏やかな、しかし拒絶を許さない重みのある声を出した。
「男手がいない今だからこそ、用心棒代わりがいるといいんじゃないかい?
見なよ、この男の身体を…
ただの美男子じゃない、服の上からでも分かるほど鍛え抜かれている」
「…」
「あんな、酒と暴力に溺れた、ひょろついた甥っ子どもがボートで乗り付けてきても…
こういう『本物』が一人控えてくれているだけで、奴らへのいい牽制になる。
そう思わないかい?」
「それは…確かに、そうかもしれないけど、」
ナギサは言葉を詰まらせた。
お豊の指摘はあまりに現実的で、正論だった。
だが、あんな出くわし方をしてしまった相手と、今日から共に生活する、という決定を、彼女の誇り高い自尊心がどうしても拒んでいた。
けれども、お豊の正しい決定には逆らうことは出来ず…
「…勝手にしなよ!あたいはもう何も言わない!
…その代わり、もし少しでも手癖の悪い真似をしたり、村の女に手を出そうとしたりしたら!
あたいがその自慢の綺麗な紫の目を、銛で根本から突っついてやるからね!
覚悟しときなよ!」
精一杯の捨て台詞を吐いて、ナギサは足音を荒立てて背を向けた。
そんな彼女の、怒りで震える逞しい背中に向けて。
「イーファン」は、へらへら、とした笑みを浮かべて、ひらひら、と手を振りながら。
「お手柔らかに、お嬢さん」などと言うものだから…
「…ああ、もう!
いらいらするッ!」
なおさらに、彼女の苛立ちを無駄に掻き立てるのだった。
その日から、「佐藤・イーファン」は宣言通り、海女たちの生活に深く入り込んだ。
日の出とともに浜へ出、女たちが潜る間は岸壁で重い網を引き上げ、獲物を運ぶ。
合間には小屋や網を修繕し、夜には薪を割る。
その働きぶりは、驚くほど正確で力強かった。
単なる肉体労働としてこなすのではなく、彼は道具の手入れから浜の掃除に至るまで、細やかな気遣いを持って取り組んでいた。
何より、あれほど反発していたナギサが驚いたのは、彼が海中でのサポートにおいても一流だったことだ。
潮の流れを読み、潜水する彼女たちの命綱を捌く彼の手つきには、一切の迷いも、邪な視線もなかった。
それどころか、彼女たちが海底で岩に足を挟まれそうになったり、想定外の急流に煽られたりした際、彼は誰よりも早くその異変を察知し、助力した…
だから、少しずつ、少しずつ。
彼女が「イーファン」に抱く悪感情も、小さく、小さくなっていく。
波が少しずつ、硬い岩をも削っていくように…
そして、数日が過ぎたある日の夕暮れ。
一日の漁が終わり、海女たちが獲物を抱えて村へ戻る中、一人だけ岩場に残った影があった。
ナギサは、波に削られた岩場に腰を下ろし、水平線から溶け出した黄金色が海を焼き尽くすような夕日を、じっと見つめていた。
仕事用の薄手の着物を羽織り、潮風に湿った髪をなびかせるその背中は、昼間の勇ましさが嘘のように寂しげで。
絶え間なく寄せては返す波の音に飲み込まれそうなほど、小さく見えた。
「…ナギサ殿?」
背後からかけられた穏やかな声に、ナギサの肩がわずかに跳ねた。
振り返らなくても、その独特の、少し抜けたような声の主は分かっていた。
「…何だよ。あんたもさっさと小屋に帰りなよ。
お豊さんが今日の分のご飯を作ってるはずだろ」
「ああ、そうなのですがね?
貴女が戻られないので、どうかしたのかな、と思ったもんで、さ」
「イーファン」は彼女の隣に歩み寄り、失礼のないよう、一歩引いた場所に腰を下ろした。
いつもの軽やかな、へらへらとした笑みを浮かべ、穏やかに問いかける。
「して、何を見ておられるので?」
「別に、何も見てないよ」
ナギサはぶっきらぼうに答え、視線を水平線の向こう…沈みゆく陽光の残滓に戻した。
「そうなのかい?
おいらはてっきり、漁に出たご家族の男衆が心配なのかと」
それは、「イーファン」なりの、精一杯の気遣いの言葉だった。
だが、その言葉が投げかけられた瞬間、ナギサの横顔に、夕焼けよりも深い影が落ちる。
彼女は力なく首を振り、小さな掠れ声でぽつり、と呟いた。
「…あたい、もう家族はいないから」
「!…それは、失礼」
「イーファン」の顔からいつもの道化のような笑顔が消え、その紫の瞳に、夜の海のように深い謝罪と共鳴の色が宿った。
ナギサは軽く微笑んだ、寂しそうに。
「いいよ、別に。
お父は嵐に飲み込まれたし、お母も、病で死んじまった…
でも、お豊さんたち村の女が、あたいを育てて海女にしてくれたんだ」
「…」
少しの空白が、訪れた。
岩場に押し寄せる波の音と、遠くで鳴く海鳥の声だけが、二人の間に流れる重い空気を埋める。
座り込んだナギサはふと、自分の日焼けした手をじっと見つめる。
その手は、過酷な労働で節が立ち、乙女らしい柔らかさは失われていた。
「…でも、あんた。
割と、頑張るじゃないか…
最初はただの喰い詰め者か、お豊さんの温情に甘えるだけの軟弱者かと思ったけど。
重い網も文句一つ言わずに引き上げるし、屋根の修理だって、村の男たちがやるよりずっと丁寧で完璧だ」
「あははぁ、ありがとうなのです!」
「…少しだけ、ほんの少しだけだよ?
見直してやったよ」
「うふふ、そいつはとってもうれしいんだぜ?」
「イーファン」は再び、いつもの軽やかな、どこか抜けた調子に戻って、照れくさそうに頭をかいた。
先ほどの重苦しい空気などなかったかのように振る舞うその態度は、相手に気を遣わせまいとする彼なりの優しさなのかもしれない。
それを何となく察したからか、ナギサの口調も少しばかりやさしくなる。
「けど、あんた…
そんだけ綺麗な顔してるんだったら、何処かの街の金持ちにでも取り入って、楽な暮らしもできそうだけどね?」
「ん?」
「苦労して、こんな場所で必死になって働くより、そのほうがよっぽどあんたの器量にはお似合いだよ。
金持ちの婆連中に酒の一杯でも注いで笑ってりゃ、蔵が建つんじゃないのかい?」
ナギサは何となく、横目で彼の整った輪郭をなぞる。
夕闇の中でも、彼の鼻筋の通りや、睫毛の長さ、そして何よりその神秘的な紫の瞳は、どこか浮世離れした美しさを放っていた。
泥や潮風を浴びていても隠しきれない、優雅さを纏ったその美貌は、この荒々しい辺境の浜にはあまりにも不釣り合いなものだった。
「あたいが…?」
ナギサの言葉に、「イーファン」は少し意外そうに目を瞬かせた。
だが彼はすぐに、くすり、と苦笑。
そして、彼女の真正面から。
その宝石のような紫の瞳で、逃げ場を塞ぐように真っ直ぐナギサを見つめた。
「そんなことを言うなら、ナギサ殿。
余は…君のほうが、何倍も綺麗だと思うがな?」
「は、はあ?!
な、何…突然、馬鹿なこと言って…」
思いもかけない直球の言葉。
突如投げつけられた劇薬に、ナギサの心臓はどくん、と跳ね上がった。
全身の血が頭に昇り、呆気にとられたのも束の間…
ナギサはすぐに、この旅人が自分をからかっているのだと決めつけようとした。
「…あんた、あたいを馬鹿にしてるのかい!
潮焼けして、漁で手足も傷だらけのあたいが、そんな言葉に喜ぶとでも思ったのかい!」
乱暴な言葉で、叩きつけるように彼女は言うものの。
だが、「イーファン」は笑って誤魔化さなかった。
彼は真摯な、一点の曇りもない微笑みを湛えて、静かな、言い聞かせるような声で、言葉を継いだ。
「はじめに、海の中で見た時。
綺麗に泳ぐ、まるで…人魚みたいだ、って思ったんだぜ?」
「…っ、そんな、」
「うん、そうだな…
お姫(ひい)さんみたいだったから…人魚姫、だ」
「…」
ナギサの耳の奥で、血液が逆流するような音が鳴り響く。
西の空に残る燃えるような夕焼けの赤を、その肌にそのまま移したかのように。
彼女の顔は、みるみるうちに林檎のように朱に染まっていった。
…何で、この男は。
どうして、こんな胸が焦げるような恥ずかしげもない台詞を、平然と吐き出せるのか。
しかも、その絶世とも言える美しい顔で。
潤んだ瞳で自分を見つめながら、逃がさないと言わんばかりの熱を込めて。
「ば、か、…か、あ、あたいなんかの、何処が…」
「何故、そんな事を言うんです?
可愛らしい顔が台無しだ」
「…」
「それに、すらっ、として、すごく綺麗な脚だ…素敵だよ、ナギサ殿」
「イーファン」の視線が、彼女の健康的な、着物の裾からのぞく脚へと向けられる。
そこに下劣な邪念はない、ただ純粋な、極上の芸術品を愛でるような賛辞。
だが、その純粋さこそが、自意識過剰な年頃のナギサにとっては、猛毒よりも鋭く急所を刺し貫いた。
「…〜〜〜〜ッ!!」
限界、という言葉では生ぬるかった。
頭のてっぺんから沸騰した湯気が立ちそうなほどの羞恥と、胸の奥を掻き乱す甘く切ない疼き。
これまでの人生で経験したことのない感情の嵐に、彼女の理性は完全に溶解し、思考回路は火花を散らして焼き切れた。
混乱に染まる視界の中で、「イーファン」の…自分を見る、その無防備でやさしい、端正な笑顔。
…ばんッ!
「わッ?!」
爆発した感情のままに、思いっきり両手で。
ナギサは、自分を見つめる「イーファン」の胸元を、思いっきり突き飛ばした。
不意を突かれた「イーファン」は驚きに目を見開いたまま、岩場から後ろ向きに、放物線を描いて転落する。
「ちょ、ナギサ殿、うわあああああああ?!」
どっぱあああああん!と、入り江に派手な水しぶきが上がり。
夕焼けの海面が、大きく揺れた。
「ば、ば…馬鹿なこと言ってんじゃないよ!
この、この…大馬鹿野郎!!」
海面に浮上して、むせながら波間をばたつく「イーファン」。
ナギサは彼の方を二度と振り返ることもせず、脱兎のごとく駆け出した。
顔どころか、首筋から指先までを火傷のように真っ赤に染め上げ、心臓の爆音から逃げ切るために。
背後で「冷たい!酷いじゃねえかナギサ殿ー!」という、どこか間の抜けた叫び声が潮風に乗って聞こえてきたが。
今の彼女には、全身に荒れ狂うこの異常な熱を冷ますことしか考えられなかった。
走り去るナギサの耳には、波の音に混じって。
まだ、「イーファン」の甘く、確信に満ちた「素敵だよ」という囁きが、呪文のようにいつまでも響き続けていた…
そして、次の日。
海女小屋の前に築かれた焚き火を囲み、一日の過酷な潜りを終えた女たちが冷えた体をあたためている。
ぱち、ぱち、と爆ぜる薪の音に混じって、時折…意味深な、くすくす、という忍び笑いが漏れ、潮風に乗って流れていく。
その笑いの向けられる先、視線の先にいるのは…他でもない、幸村・ナギサ。
「…」
「…」
海女たちは、互いに目配せをしながら、隠しきれないにやにや顔で、ナギサの一挙手一投足を観察している。
無理もない。
あれほど村の若い衆からは粉をかけられても、まったくに冷たく拒否してきた、男嫌いのナギサ。
その様子が、誰の目にも明らかにおかしいのだ…
その原因が、流れ者の青年「イーファン」であることは、海鳥ですら気づいているに違いない。
ナギサは、その頬をにわかに赤く染めている。
そして、それは焚き火の熱のせいだと言わんばかりに、しきりに手で顔を仰いでいる…
だが、その視線は火の向こう側で立ち働く「イーファン」の背中に、まるで吸い寄せられるように釘付けだった。
彼がふとこちらを振り返りそうになると、彼女はやにわに大慌てで視線を逸らし、乱れてもいないはずの髪をこれでもかというほど丁寧に整え直す。
海水で少しごわついた髪を指で梳き、こっそりと後れ毛を耳にかけるその仕草。
普段なら「邪魔だ」と乱暴に結び直すだけの彼女が、一筋の毛流れすら気にする姿は、見守る女たちに「恋」という文字を強烈に意識させた。
さらに、「イーファン」が他の若い海女と親しげに収穫物の話を始めたり、軽い冗談に笑い声を上げたりすると、ナギサの眉間には、深い溝のような皺が刻まれる。
遠巻きに、しかし獲物を狙う海猫のような鋭さで二人を見つめ、「何を話しているのか」「なぜあんなに楽しそうなのか」と、気が気でない様子で耳をそばだてている…
その嫉妬に燃える背中からは、隠しきれない殺気すら漂っていた。
「おや、ナギサ…
そんなに怖い顔をして。
持ってる串が折れてしまうよ?」
お豊がわざとらしく、周囲に聞こえるような声で揶揄うと、ナギサは「別に!魚を焼く火加減を見てるだけだよ!」と短く叫ぶ…
と。
おもむろに、焼き魚の串を囲炉裏に放置し、ナギサは行動に出た。
焚き火にあたりながら、黙々と道具の手入れをしている「イーファン」のすぐ隣。
隙間などそんなないはずの場所に、彼女は…さりげなく、しかし彼女なりの計算を尽くした動きで腰を下ろす。
「…」
彼女は、もじもじ、と身をよじり。
仕事用の着物の裾を、ほんの少し…ほんのわずかに、はだけさせた。
爆ぜる炎の橙色に照らし出された、剥き出しの太もも。
「イーファン」がかつて、あの夕暮れの岩場で「素敵だ」と褒めそやし、彼女に意識させてしまった、人魚姫の脚。
日焼けした、健康的で弾力のある肌が露わになる…
ナギサが意図的に見せつけようとしている太ももには、昼間の名残である潮の微粒子が、薄い真珠の皮膜のように白く浮き上がっていた。
焚き火の爆ぜる熱が、彼女の肌に張り付いた僅かな水分を蒸発させ、彼女自身の香りと混ざって甘く、それでいて野生的な海の香りを立ち昇らせる。
しなやかな筋肉の起伏に沿って流れる汗の雫が、橙色の光を反射して、彼女の脚をいっそう瑞々しく、艶めかせている。
彼女は、わざとらしく足を組み替えたり、裾を整えるふりをしながら、そのしなやかなラインを強調する…
それは不器用な彼女なりの、精一杯の誘惑だった。
『ほら、あんたが綺麗だって言った場所だよ。
ちゃんと見てなよ、もっとよく見せてあげるからさ。
そんで、あの時みたいに、また…』
口に出せない言葉が、彼女の喉元までせり上がっては消えていく。
それは音にならない叫び。
「…?」
作業の手を止めた「イーファン」が、ようやく…
隣から漂う、異様な緊張感に気づいた。
彼は不思議そうに眉を寄せ、ナギサの落ち着かない挙動と、火に照らされた露わな脚、そして顔を茹で上がった蛸のように赤くして黙り込む彼女の横顔を、まじまじと見つめる。
周囲の海女たちは、もはや笑うことすら忘れて息を呑み、固唾を飲んでこの恋の駆け引き(?)の結末を見守る…
「…ナギサ殿」
「イーファン」が、いつになく真面目な、どこか深刻さすら感じさせるトーンで声をかけた。
ナギサの肩が、期待にびくりと震える。
ついに、彼は気づいたのか?
「な、…何だよ。あんまりじろじろ見るんじゃないよ」
期待と羞恥、そしてわずかな勝利への予感に震える声で、ナギサが答える。
期待感で胸がいっぱいになった彼女は、次の瞬間に彼から発せられる「愛の言葉」を確信していた。
…だが、「イーファン」は彼女の顔を覗き込むようにして、ひどく慈悲深い、そして心からの心配を込めた瞳で、静かに問いかけた。
「…そんなにもじもじして。
ナギサ殿、実はおしっこでもしたいんです?」
「…はあ?」
ナギサの思考が、一瞬停止した。
耳を疑うとはまさにこのことだ。
しかし、「イーファン」は畳みかけるように、さらに身を乗り出して的外れの助言をつらつらと続ける…
「いや、分かりますよ?
海から上がった後は身体が冷えるものなんだなあ、これが。
冷えは腎に悪い!
さっきからずっと落ち着きなく身体をよじって、顔もそんなに赤いのは、限界まで我慢している証拠でしょう?」
「…」
「我慢は万病の元、身体に良くないってもんだぜ?」
「…ッッ!!」
ナギサの脳内で、何かが決定的に粉砕される音がした。
この男は、本気だ。
一点の曇りもない、聖人のような善意で、自分の命がけの誘惑をそんなものだと断定している…!
「馬鹿、違うし!
死ねッ、あんたなんか海の底で鮑の餌にでもなっちまえ!」
ナギサの絶叫が、小屋中に鳴り渡り。
彼女ははだけていた裾を乱暴に、それこそ引きちぎるような勢いで直すと。
立ち上がって、思いっきり…「イーファン」の向こうずねを蹴飛ばした。
「痛っ?!
な、何しやがんでぃ!
やつがれは、貴女の体調を…」
「うるさい、黙れ!
この馬鹿ッ!」
顔どころか、耳の裏まで真っ赤に染め。
今にも涙がこぼれそうな形相で怒鳴り散らしながら、ナギサは脱兎のごとく闇の中へと走り去っていった…
それを見送りながら、堪えていた海女たちはついに、腹を抱えて爆笑の渦に身を投げ出した。
「あーははは!傑作だよ、あんた最高だよ!」
「ナギサのあんな真っ赤な顔、一生拝めないと思ってたのにねえ!」
海女たちの笑い声の中、腑に落ちないという顔で脛を抑える「イーファン」。
「…」
お豊は、そんな彼の姿を見ながら、そして去っていったナギサの顔を思い出しながら、ふっ、と笑う。
お豊だけではない、海女たちは皆、ナギサの気持ちがわかっている。
そして、あたたかく見守っている…
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