その日の夕暮れは、とりわけ静かだった。
昼間の喧騒が嘘のように、波音だけが岩場をやさしく撫でる。
ナギサは、一日の仕事を終えて、心地よい疲労感と共に腰を下ろした「イーファン」の横顔をじっと見つめていた。
彼は当初の頼りなさが消え、すっかりこの村の景色に馴染んでいるように見えた。
だが、その瞳に宿る光だけは…やはり、どこか遠い場所を見つめているようで。
「…なあ、あんた」
ナギサは、喉の奥までせり上がってくる焦燥感を押し殺し。
震える声をなんとか整えて、平然を装って呼びかけた。
「い、いつぐらいまでここにいるつもりだい?」
それは、彼女がここ数日、胸の奥で何度も繰り返しては、臆病さゆえに飲み込んできた問いだった。
…問いかけてしまえば、望まぬ答えが彼の口から返ってきそうで。
「そうですねえ」
彼は、少しだけ考える素振りを見せ。
いつもの穏やかな、しかし誰にも本当のこころには触れさせないような、掴みどころのない微笑を浮かべる。
「あまり長居をしても、お豊殿や村の皆様に申し訳ねえですし…
どこかで見切りをつけねばとは、毎日考えてはいるのですが」
「そ、…そんなことないよ!」
ナギサは、ぶんぶん、と弾かれたように首を振る。
その勢いで、海水で濡れた髪から、潮の香りが立ち上る。
「誰も、そんなこと思ってない!
お豊さんだって、あんたが来てから仕事が楽になったって喜んでるし、村の連中だって…
みんな、あんたがいてくれて助かってるんだ」
懸命にそう言い募るナギサに、「イーファン」は「おや、そうですかい?」とでも言いたげに、軽く微笑む。
紫の瞳が、笑んでこちらを見ている。
「あんたさえ、その、よければ…
あの…」
――あたいの家で、暮らせばいい。
そこまで出かかった言葉を、ナギサは必死に飲み込んだ。
嗚呼、けれど。
彼と、一緒に暮らす…?
そんなこと、ほんのちょっぴりその光景を想像しただけで…
心臓がうるさいほどに鼓動を刻み、耳の裏まで熱くなる。
言葉に詰まり、まったく要領を得ないナギサ。
その様子に、「イーファン」は…
少し、困ったような。
それでいて、彼女の不器用さを愛おしむような眼差しで微笑んだ。
「う〜ん…
ですが、この先も旅を続けるなら。
何処かでまとまった路銀を稼がねばなりませぬ。
一体、このあたりでは何をとれば、一番儲かるんですかねぇ?」
…と。
急に突きつけられた現実的、かつ打算的な金の話に、ナギサは少し拍子抜けする。
が、それでも…精一杯の知識を絞り出す。
「そりゃあ、このへんなら…真珠かな」
「真珠、ですか。それはまた、夢のある話だ」
「うん…
ほら、これを見てみなよ」
ナギサは、少し躊躇いながら、着物の胸元に手を差し入れる。
肌身離さず身につけている、小さな革袋を取り出す…
袋の口を開くと、そこから手のひらに転がり出たのは――
夕日の中でも自ら光を放っているかのような、見事な大粒の真珠だった。
「わあ!こいつぁ、でっかいですわね!」
「イーファン」が素直な感嘆の声を漏らし、まじまじと覗き込むように身を乗り出す。
ナギサはその真珠を手のひらの上で大切に転がし、そして何処か哀しげな瞳で、それを見やる。
「だろ?…母さんの形見、さ。
あたいがまだ小さかった頃、母さんがいのちがけで。
一番潮の流れが速い場所から獲ってきたんだ」
「ああ…だからいつも肌身離さず、大切に身につけていらっしゃるんだねぇ」
「そうさ。
…この輝きは、海神様の贈り物なんだ」
彼女は、またそれを大事に袋へしまい込み。
たもとの中、胸元、心臓に近い場所へと隠しながら。
照れ隠しなのか、ふん、と、わざとぶっきらぼうに鼻を鳴らした。
「…ま、あたいら熟練の海女でも、こんな一生モノの当たりを見つけるのは一生に一度あるかないかの奇跡さ。
あんたみたいな素人じゃ無理無理!」
「う〜ん、やっぱりそうですかぁ」
「イーファン」は、参ったというようにへらり、と苦笑しながら、再び高く遠い空を見上げた。
その横顔は、やはりどこか「ここではない何処か」を夢見ているようで…
なおさらに、ナギサの焦燥を煽る。
「…」
その時だった。
ナギサの瞳の奥に、ちかり、と。
小さな、しかし鋭い閃光が灯った。
それは、彼女の深淵で、抑えきれない情熱が瞬いた決意の光だった。
彼女はもう一度、着物の上から真珠袋を強く握りしめる。
その存在を、その誇りを確かめるように。
…もし。
もし、あたいが。
この母さんの形見を凌ぐような、それこそ海神様が嫉妬するほどの、最高の一粒を見つけ出したら。
そしてそれを、何も言わずにあんたの手にプレゼントしてやったら。
そうすれば、あんたはこの浜を離れようなんて、もう思わなくなるだろうか。
路銀のことや、何処かへ行かなきゃいけない理由なんて、全部忘れて。
あたいの隣で、ずっと笑っていてくれるだろうか。
あたいで、あたいという繋がりで、あんたをこの場所に…
あたいの隣に、永遠に縛り付けておけるだろうか。
「…」
恋を知り、それと同時に湧き上がる自分勝手な独占欲。
甘い毒に灼かれた少女の瞳からは、突っ走る愚かな自分を留められる理性の輝きの代わりに、猛々しく純粋な炎が燃え盛っていた。
月が沈み、東の空が白み始める頃。
代官の居館の一角、厚いカーテンに閉ざされた部屋…
「へへ…見ろよ、これ。
出入りの商人から買い上げたんだ。
最新式を改造した、特別なやつだぜぇ?」
声を上げたのは、山口・アンジェロ。
この地を治める「代官(ガバナー)」の甥であり、叔父の権勢をあたかも自らの力であるかのように勘違いし、増長しきっている男だ。
また、この「代官(ガバナー)」も、この甥には甘く。
彼がこれまで散々起こしてきた騒動を、金と権力でなかったものにしてしまう…
そんなことが繰り返されてきたこの数年で、彼はすっかりと悪逆な遊びの常習者となっていた。
ひょろ長く、どこか病的なまでに貧相な体躯をしているが…その眼光には他者の苦痛を糧にする爬虫類のような冷酷さと、自らの地位に対する歪んだ選民意識が宿っている。
彼にとって漁村の人間たちは、「人間」ではなく…せいぜいおもちゃ、消耗品に過ぎなかった。
「お、何すかそれぇ?
また新しい玩具ですか?」
取り巻きの男が、安酒の匂いを撒き散らしながら、期待を込めた卑屈な笑みを浮かべて覗き込む。
彼らに向け山口が自慢げに突き出したのは、これまでの空気銃とは一線を画す、無機質な黒い光沢を放つ長大な筒。
それは…水中銃だ。
それは本来、巨大な回遊魚や、時に船を襲う鮫を仕留めるための、海の民が命を懸けて使う生業の道具だ。
しかし、山口が手にしているものは、標的に致命的な、かつ持続的な苦痛を与えるための残酷な改造が随所に施されていた。
「これまでの空気銃じゃあ、皮膚を赤く腫らして泣かせるのが精一杯でよぉ。
最近じゃあ、あの生意気な海女のクソ女どもも、痛みを知りながら平然と潜りやがる…
だが、こいつは違うぜ?」
「へぇ、こりゃ…銛を何本も装填できるんですか?」
「そうだ、一回撃った後でも、銛を回収しなくても…
また、次が撃てる。
運が良ければ、足の一本も動かなくしてやれるだろう」
「ははぁ!そいつぁすげえや!」
そう、それは狩りのためではなく、むしろ破壊のために改造された道具。
相手を冷徹に裂く鉄の矢が、何本も撃てる仕組みとなっていた。
「水中で足が動かなくなった女が、どんな風に溺れ死ぬか…
想像しただけで、興奮してくるじゃねぇか」
アンジェロは、汚れた指先で水中銃の引き金を執拗になぞる。
彼にとっての「狩り」は、生への敬意など微塵もなく。
ただ圧倒的な強者が弱者を屠るという、歪んだ遊戯に過ぎなかった。
「明日はこいつのお披露目だ…
早くしねぇと、漁に出てた男どもが帰ってきちまうからな!」
抵抗する術を持たない女や子どもを、安全なボートの上から一方的に狩る。
その卑劣極まりないハンティングに、彼は魂の底から暗い悦楽を見出していた。
山口・アンジェロにとっての「平和」とは、自分以外の人間が死の恐怖に怯えている状態、そのことに他ならなかった。
――早朝。
村の女たちが動きはじめるより一時間以上も早く、ナギサは一人で入り江の岩場に立っていた。
まだ夜の冷気が残る大気の中で、彼女の吐く息は白く、静かに消えていく。
「…よし。潮の流れは、悪くない」
短く、深く息を吐き。
ナギサは、羽織っていた使い古した着物を脱ぎ捨てる。
鍛え上げられた、しなやかで無駄のない肉体が、朝焼けの前の淡い光の中に露わになった。
…誰かに知られたら、間違いなく「一人で稼ぎを独占するつもりか」と揶揄われるだろう。
それでも、彼女はこの朝の海を一人占めにする必要があった。
…「イーファン」に贈るべき、最高の真珠。
あの不思議な流れ者の青年をこの浜に、そして何より自分のそばに繋ぎ止めるための対価。
それを、誰の手も借りず、誰の助言も受けず…自分だけの純粋な力で見つけ出したかったのだ。
「ふぅぅぅ…ッ」
肺いっぱいに、新鮮で冷たい朝の空気を吸い込み。
彼女はしなやかな肉体をしならせ、音もなく波間へと滑り込ませた。
魚のように滑らかに潜行していく、
群青のグラデーションの中を、一筋の銀光となって深く、さらに深く。
(…あるはずだ、きっと。
今のあたいなら、母さんよりもずっと深く、長く潜れる…!)
こころを落ち着かせ、酸素の消費を極限まで抑えながら。
ナギサは、真珠貝の影を求めて、細かな隙間まで視線を走らせる…
だが、その時。
透明な水を通し、彼女の鼓膜を不吉な振動が激しく震わせた。
――どっどっどっどっ…
規則的でありながら、この神聖な早朝の海にはあまりに不釣り合いな重低音。
「…ッ!」
それは、村の女子どもの背中を標的にして弄び、恐怖と屈辱で支配した、あの「代官(ガバナー)」の甥っ子と悪党連中…
奴らのモーターボートのエンジン音!
ナギサの表情が、瞬時に硬直する。
(あの馬鹿甥っ子…!
何で、何で今日に限って!)
ナギサは反射的に海底の岩陰にしがみつき、海面に波紋や気泡を立てないよう、石のように息を潜めた。
水面近くでは、エンジンの振動が海をかき乱し、彼女の視界を揺らす。
しかし、無慈悲な音は容赦なく近づいてくる…
それも、ただ通り過ぎるのではない。
彼女が潜っているまさにこの地点を、執拗に旋回し。
隠れた獲物の気配を嗅ぎ取ろうとする猟犬のように、ゆっくりとその包囲網を狭めていた。
ナギサは、肺を圧迫するような息苦しさを必死に抑え込み。
海底の岩棚を、泥を巻き上げるほどの勢いで強く蹴った。
少しでも奴らの水中銃、その射程から逃れるため、死を予感させるあの不快なエンジン音を振り払うために、水の抵抗を切り裂くようにして腕をかく。
だがボートの速度はあまりにも速い、人間の必死の泳ぎなど無力なものとして嘲笑うかのように。
(…苦しい…ッ!)
限界まで酸素を使い果たした、肺が熱い。
視界の端が火花を散らすように明滅し始め、意識が泥水のように遠のき始める。
どうしようもなく、彼女は海面に浮上せざるを得ない…
ぷはっ、と水飛沫を上げて顔を出した瞬間。
「?!」
そこ待ち構えていたのは、冷たい朝日を背に受け…黒いシルエットとなって海を支配する、死神の影だった。
「見つけたぜ、一匹!」
モーターボートの舳先で仁王立ちになり、山口・アンジェロが歪んだ汚い三日月のような卑劣な笑みを浮かべていた。
彼の瞳には、いのちへの尊厳など微塵もあらず。
ただ、壊すべき玩具を見つけた喜びだけが、ぎらぎらと輝いていた。
「よっしゃ!やっと出てきたか…!」
「チャンスですよォ!アンジェロさんッ!」
「…ッ!」
山口の取り巻きの馬鹿どもが、濁った声で囃し立てる。
ナギサが必死にもう一度水中に潜って逃げようとしたのと、山口が愉悦に満ちた指先で水中銃の引き金を引くのは、残酷なまでに同時だった。
ばしゅっ、という空気を貫く鈍い、しかし重厚な発射音。
鋼の銛は意志もなくそして水の抵抗をものともせず、一瞬で海面を裂き滑るように水中を穿孔する──!
「?!うわあッ?!」
静寂に包まれていた早朝の入り江に、魂消るような、凄惨な悲鳴がこだまする。
放たれた冷たい鋼の銛は貫いた…
ナギサの右脚を、太ももの裏から前ももまで。
あの異邦人が、戯れかもしれないが、「人魚姫のようだ」と褒めてくれて。
彼にもっと見てほしくて、少しでも美しく、女らしく見えるように、と。
こころを砕いていたあの柔らかな太ももを、容赦なく深々と貫通した。
鋭い返しのある刃先が筋肉を容赦なく裂き、骨のすぐ傍を通り抜けて裏側まで突き抜ける。
これまでに経験したことのないとんでもない激痛が脳髄を直撃し、彼女の思考を真っ白に染め上げた。
声にならない悲鳴が、ナギサの喉から噴き上がる。
泳ぐことなどまともに出来ず、ばしゃばしゃとのたうつ…
その様を、山口と屑連中は指差してげらげらと嘲笑っているのだ。
「ぎしし!見ろよあのザマを!」
「ぎゃははは!死にかけのフカみてぇだ!」
激痛に顔を歪ませ、身体をくの字に曲げてのたうち回りながら、海面を激しく叩いて沈みかけるナギサ…
彼女の周囲の澄んだ海水が、見る間に鮮やかな…
そして、あまりに不吉な朱色に染まっていく。
「…!」
「ナギサ!何てことだい?!」
その時。
穏やかならぬ入り江、その異変を察知して駆けつけた海女たち…
そして、普段の穏やかさを欠片も残さず、顔を蒼白にした「イーファン」が岩場に現れた。
「?!あの甥っ子ども、なんて真似を…!」
「おかしい…ナギサ、溺れかけてる?!」
お豊が震える声で叫ぶ、彼女たちの目にも異常が見える。
見れば、ナギサのまわりの海水が、わずかに赤く染まっている!
そして、モーターボート上の代官の甥が持っているのは…
「あれは…水中銃?!」
「嘘だろ?!あんなものでヒトを射ったっていうのか?!」
どよめく海女たち。
これまでの空気銃とは違う…
あの鉄の銛を発射する武器は、元々は鮫などの大きい魚を撃つためのもの。
それだけに凶悪な威力を持つ…
そんなもので、ナギサは撃たれたというのか?!
動揺と激しい怒りに包まれる海女たちの中で、ただ一人。
「イーファン」が、動いた──
「…あんた、待ちな!
丸腰でなんか飛び込んだら…!」
お豊が制止のために腕を伸ばす間もなかった。
「イーファン」はすぐさま、着物を乱暴に脱ぎ捨て。
一切のためらい、一切の死への恐怖を見せることなく…仲間の血が混ざる海へと、真っ向から飛び込んだ!
「!…へぇ、勇気あるねェ!
新しい獲物の登場か…!」
山口が狂喜し、手早く再装填された水中銃を構え…その死を象徴する黒い銃口を、海中の「イーファン」へと向け直す。
だが、「イーファン」は入水した瞬間に、深く、そして鋭く潜行。
水そのものに溶け込むかのように、軌道を器用に自在に変えながら、水中銃が狙いをうまく付けられぬよう、確実な意志を持って躱していく。
海中深く、「イーファン」は水の抵抗を切り裂く一筋の矢となって突き進む。
再装填された水中銃の鋭い照準が、無機質な殺意の弾道を刻もうとするたび、彼は完璧に読み切り、紙一重の差でそれを回避し続ける。
やがて、彼は血の尾を引いて力なく沈みゆくナギサに接近し。
その腰を、その力強い腕で抱き寄せた…
まるで壊れやすい宝物を扱うような、繊細な優しさを込めて。
溺れそうなナギサはもはや限界を超え、意識の光は消えかかっている…
彼女を「イーファン」は懸命に抱き上げる。
そして、彼は一切のためらいもなく、自らの唇を彼女の震える唇に重ねた──
「…!」
驚きに、焦点の合わない瞳を微かに見開くナギサ。
その冷え切った唇に、「イーファン」が肺の深くに蓄えていた命の糧…
空気がゆっくりと、しかし確かな熱を持って彼女の体内へと流れ込んでいく。
それは酸素の供給であると同時に、彼自身の生命力を直接分け与えるかのような、深く、厳かな魂の接吻。
水の壁を超えて伝わる彼の鼓動が、ナギサの消えゆく意識を呼び戻す。
「!」
ナギサの霞んだ瞳に、水中で超然と、かつ情熱的に輝く「イーファン」の紫の双眸が映り込んだ。
彼は力強く一度だけ頷き、彼女の不安を打ち消すと、ナギサの身体をしっかりと腕の中に収める。
そして、そのまま爆発的な脚力で水を蹴り、逃げ惑う小魚たちを置き去りにして、一気に浜辺の方へと泳ぎ去る…
背後で弾ける水の音が、彼らの脱出を祝福するように響く。
山口たちが水中銃で彼を狙うも、不規則に変わる彼の軌道が、容易に狙いをつけさせない。
「…ちっ!面白くねぇ。
あの化け物め、魚より速ぇじゃねぇか」
ボートの舳先から、不快そうに唾を吐き捨て。
山口・アンジェロは忌々しげに舌打ちをした。
岩場にはすでに、騒ぎを聞きつけて古びた槍や銛を構えた海女たちが怒りに震えながら集結しているのが彼らにも見えている…
これ以上の追撃は、多勢に無勢。
また、叔父…「代官(ガバナー)」の立場からしても、大きすぎる醜聞になりかねない。
奴らはそんなふうに打算的に判断したのだろう、不機嫌そうにボートの舵を切り…
波間に下卑た嘲笑を残して、灰色の飛沫とともに沖へと逃げ去っていった。
逃げ去る船のエンジン音が、卑劣な余韻を波間に残していく。
ざばり、と、砂浜に大きな水音。
砂浜に駆け上がった「イーファン」は、ぐったりとして青白い顔のナギサを横抱きに抱え上げ、荒い息をつきながら叫ぶ。
その砂浜には、彼女の傷口から滴り落ちる鮮血が点々と赤い道を作っていた…
彼女の右腿を、黒い鉄の銛が無慈悲にも貫通している。
「早く…とにかく、できる限りの処置を!」
彼らは、砂と血にまみれたナギサを海女小屋へと飛び込んだ。
中央の囲炉裏の火がばちばち、と爆ぜ、ナギサの透き通るような白い肌を、残酷なまでに鮮やかな赤色に照らし出した。
お豊が、使い込まれた古い鉄の小刀を、囲炉裏の中で真っ赤に熱された炭の間に突き立てた。
彼女の表情は、まるで自分の娘を傷つけるかのように悲痛に歪んでいたが…
その瞳には、長年この過酷な海で荒波に揉まれ、多くのいのちのやり取りを見てきた者特有の、冷徹なまでの決意が宿っていた。
「いいかいナギサ、よく聞きな。
…今からこの銛を抜く。
その後…すぐにその傷口を、焼けた鉄で焼くよ」
「?!…い、嫌だ!」
迫りくる想像を絶する激痛の予感と恐怖に、ナギサの身体が激しく震える。
だが、ここは高度文明の恩恵から遠く取り残された、貧しく不便な辺境の漁村だ…
高度な外科手術を施せる医者など、遥か先までおらず。
たとえいたとしても、彼女たちが一年がかりで獲る恵み、それを全て投げ打っても足りないほどの高価な薬代など、到底払えるわけがない。
海水の雑菌による化膿、そしてその後に来るいのちを確実に奪う病を防ぐためには、傷口を熱で焼き、物理的に血管と細胞を封じ込める…
それが、この浜の人間たちが、医者に頼れない世界で受け継いできた、唯一にして、最も過酷で確実な延命の知恵であった。
「いや、いやなの、嫌だよ…!
脚を焼くなんて!」
「馬鹿言ってるんじゃないよ、我慢しな!
焼かなきゃその傷口から身体が腐って、苦しみながら死んじまうんだよ…!」
「…うう〜ッ!」
お豊の魂を揺さぶるような怒鳴り声に、ナギサは言葉にならない悲鳴を上げ。
幼い子どものように、激しく泣きじゃくる。
しかし、彼女を本当の意味で追い詰め、精神の深淵まで苦しめているのは…傷を灼かれる激痛だけではない。
…「イーファン」が「綺麗だ」と、その神秘的な紫の瞳で、愛おしげに見つめてくれた、自慢の脚。
不器用な彼女が彼を振り向かせるための、
自分をただのがさつな海女ではなく、一人の女として意識させるための、
唯一の…しかし確かな自信の拠り所だった場所。
そこに、一生消えることのない、赤黒く醜く歪んだ火傷の痕が永遠に刻まれてしまう…
「嫌だよ…
嫌だあッ、ううッ…!」
ナギサの魂を削り取るような絶望的な叫びが、海女小屋の煤けた天井を震わせ、そして夕闇に包まれつつある潮騒の鳴り響く浜辺に虚しくこだまする。
だが、彼女の哀しみを癒やしてやれる者は、今この世の何処にもいない。
いないのだ、この残酷な世界には。
「…ナギサ、これをしっかり噛みな」
お豊が、厚手の布を、指先でナギサの口に押し込んだ。
ナギサは涙で濡れた瞳を弱々しく彷徨わせ、縋るように「イーファン」の姿を追う。
彼女は、その細い指で助けを求めるように彼の右手を強く握りしめる。
まるで、それだけがこの無慈悲な世界に自分を繋ぎ止める唯一の錨であるかのように執着する…
「イーファン」はその手を、自らの熱を分け与えるように両手で包み込む。
ナギサの両手両足を、お春たち数人の海女たちが全体重をかけて、冷たい土間へと抑え込む。
「覚悟を決めな…
みんな、離すんじゃないよ!抜くよ!」
お豊の鋭い、空気を切り裂く鞭のような号令。
二人の海女が、ナギサの右腿を無慈悲に貫通している銛の、鋭い返しの付いた矢先を、それぞれ滑り止めの布越しに力任せに掴んだ。
「せえ…のッ!」
一気に、一切の躊躇なく力が加えられ。
柔らかな肉を内側から無造作に、残酷に引き裂きながら。
ずるり、と嫌な粘り気を伴う音を立てて引き抜かれた。
「うぐうううううううううううううッ?!」
布越しに、肺の底から絞り出されたような、魂そのものを削り出すような絶叫が漏れる。
布をぎりぎり、と噛みしめる、そうでなければ彼女は苦痛の余り己の舌を噛み切っている。
常人の感覚が受け入れられる限界を遥かに超えた衝撃と激痛に、ナギサの肢体は狂ったように弓なりに反り、制御不能な激しい痙攣に襲われる。
「イーファン」の手に喰い込む彼女の爪は、彼の鍛え上げられた皮膚を無慈悲に破り、そこから鮮血を滲ませるほどだったが…
彼はこらえ、ただ彼女の絶叫と苦痛のすべてを自らの全身で受け止めるように、その手を折れんばかりに強く握り返し続けた。
銛が抜けた大きな穴からは、堰を切ったようにどす黒い、熱を持った血が溢れ出し、敷かれたむしろをどろり、と赤く染めていく。
だが、本当の地獄はまだ幕を開けたばかりだった。
海水の雑菌や砂、そして不浄な鉄の錆が入り込んだこの開放創をそのままにすれば、数日と経たずに傷口は黒く腐り果て…
高熱に浮かされながら、無残な腐臭の中でいのちを落とすことになる。
「…ごめんよ、ナギサ。
あたいを、死ぬまで恨み続けていいからね」
お豊は震える手で、囲炉裏から、真っ赤に…もはや白熱して光を放つほどに熱せられた鉄の小刀を取り出した。
その刃が近づくだけで、周囲の空気がじりじりと焼け、近寄る者の皮膚を刺すような、逃げ場のない熱波を放つ。
「総出で抑えて!」
海女たちが、なおさらに必死でナギサの四肢を押さえつける。
そして、お豊は…その灼熱の刃を、ナギサの大きく開いた傷口に、断腸の思いで押し当てた。
「〜〜〜〜〜〜ッ!!」
ナギサは声にならない絶叫を上げ、狂ったようにのたうち回る。
痙攣する身体、一瞬にして立ち込める、肉が焼け焦げる嫌な匂い…
「イーファン」と海女たちは必死で彼女の身体を押さえつけ、その苦痛による暴走を止める。
苦痛に涙がとめどなく溢れる、ナギサの瞳は白を剥き。
あまりの衝撃に意識が混濁し、その精神は救いを求めて暗黒の深淵へと滑り落ちていく…
傍らで見守り、薬草をすり潰していた若い海女たちは、あまりの惨劇に顔を背け、膝をついて声を殺して泣きじゃくっていた。
…何故、毎日を懸命に、健気に生きているだけの彼女が。
これほどまでに、過酷な目に合わなくてはならないのか。
何故、自分たちが愛し守ってきた美しい碧の海で、このような地獄絵図が繰り広げられなければならないのか…
…「イーファン」がかつて「綺麗だ」と、その紫の瞳を細めて慈しむように褒めた、ナギサの健康的でしなやかな、「人魚姫」の脚。
そこに今、赤黒く醜く歪んだ焼け焦げが…一生消えることのない残酷な、生存の呪印のように刻み込まれていく。
恋を知ったばかりの女が、こころから自信を持っていたその美しさは。
理不尽な暴力に対する、無惨な生存の代償として…無惨にも焼き焦がされる。
…地獄のような処置が、ようやく終わった時。
ナギサは、糸の切れた操り人形のように、全身の力を失い。
耐え難い現実から逃げるようにして、深く重い混濁へと落ちていった…
「イーファン」は、意識を失った彼女の髪を、そっと…壊れ物に触れるような手つきで、やさしく撫で続けた。
その紫の瞳の奥底には、暗く淀んだ、しかし烈火のごとき破壊の意志…
海女たちの前では見せなかった、これまで彼が隠し持っていた邪悪が、静かに、そして確固たる復讐の決意を伴って宿っていた。
漁村の外れ、潮騒が岸壁を叩く音がひときわ大きく、断続的に聞こえる場所。
そこに、ナギサの家はある。
荒波に家族を奪われた彼女が、たった一人で守り続けてきたその小さな家…
そこは今、主の死期を感じ取ったかのように静まり返り、冷たい沈黙に支配されていた。
地獄のような処置を終え、変わり果てた姿で運び込まれたナギサは…
今、薄い夜具の中で、激しい高熱の波に晒されていた。
灼熱の鉄で焼かれた腿の傷口は、無惨にも赤黒く腫れ上がり。
彼女の体温は今、皮膚に触れるだけで火傷をしそうなほどに上昇している…
「…イーファン。あんた、よかったら今夜はナギサと一緒にいてくれないかい」
お豊が煤けた天井を仰いで深く息を吐き、傍らに控えていた「イーファン」にそう声をかけた。
ナギサがこの素性の知れない風来坊に、どれほど無垢で、かつ不器用な想いを寄せていたか。
そして、死の淵にある彼女にとって、彼の存在がいかに大きな支えになるか。
お豊、そして海女たちは皆、それとなく…しかし、確信を持って察していたのだ。
「おう…」
「イーファン」は短く、重みのある声で了承した。
その整った表情には、普段の軽薄な笑みも、人を煙に巻くような余裕も一切なく。
お豊たちは、また明日の早朝様子を見に来る、容態が変わればすぐ呼びにこい、と彼に言い残して、去っていく…
古い板壁で囲まれた密室の中に、「イーファン」とナギサ、二人きりの時間が訪れる。
「イーファン」は桶から冷たい水を汲み、手ぬぐいを絞っては彼女の熱い額に当てる作業を、夜の静寂の中で黙々と繰り返した。
そうして、深夜。
丑三つ時を過ぎ、周囲のいのちが皆眠りに就く頃。
ナギサの固く閉ざされていた瞼が、微かに震え、ゆっくりと持ち上がった。
「う…あ…っ、熱い…」
「!ナギサ殿?
私だ、イーファンだ…ここにいるぞ」
視界は定まらず、瞳は高熱に浮かされて潤んでいたが。
その焦点は、紫の瞳を求めた…
枕元に座り、自分を案じ続ける「イーファン」を。
「水を…少し、飲めるか?」
「イーファン」は彼女の身体を、壊れ物を扱うようにやさししく支える。
そして、竹の筒に入れた冷水を、乾ききった唇に含ませた。
水が喉を通るたびに、ナギサは浅い呼吸を繰り返し、ようやく…ひと心地ついたように、深く息を吐いた。
だが、意識がだんだんと覚醒するに従って。
彼女の瞳には、熱病による朦朧とした色とは異なる、底知れない絶望の色がじわじわと、確実に染みこんでいく…
彼女の視線が、夜具に隠されその下にある、自らの右足へと落ちる。
しなやかで、力強かった自分の右腿…
あの醜く焼かれ、損なわれた傷跡へと向けられている。
「あのさ…助けてくれてありがとう」
「いや、某は…助けられなかった」
「…」
「イーファン」は自責の念を隠すことなく、重苦しい声で答えた。
だが、ナギサは力なく、しかし明確な拒絶を込めて、首を横に振った。
「…ううん。
あんたが来なかったら、あたいは今頃あの入り江の底で、魚のエサになってたはずだよ…
だから、いいんだ」
ナギサを襲う高熱は一向に下がる気配を見せず、彼女の吐息はまるで体内で火が燻っているかのように熱く、重苦しい。
その喘ぐような呼吸の合間に、堰を切ったように漏れ出したのは…
肉体の激痛よりもはるかに鋭く、彼女のこころを根底から削り取っている絶望。
「ははっ、あたいの脚…ぐちゃぐちゃになっちゃった」
ナギサは、自嘲気味に笑おうとしたが。
その震える唇は力なく歪み、溢れ出す悲しみを隠す術もなかった。
目尻からぽろり、と大粒の涙がこぼれ落ち、彼女の頬を濡らしていく。
彼女の指先が、夜具の上から…
今や、自分の身体の一部とは思えないほどに異質な感覚を放つ右腿を。
恐る恐る、穢れでも見るような仕草でなぞる。
「もう、あんたが褒めてくれた、人魚姫なんかじゃないんだ」
その言葉が、「イーファン」の胸の奥底に凍てつくような冷たい刃を突き立てる。
…だが。
彼は、静かに彼女の自らを貶める言葉を否定する。
「…そんなことはない、ナギサ殿」
「いいよ!
…そんな嘘、つかないでよ」
ナギサは激しく首を振り、拒絶するように固く目を閉じた。
だが、「イーファン」はなおも、彼女の絶望に満ちた拒絶を、静かに…しかし断固とした意志で受け止め、打ち消す。
「いいや」
そう言うと、「イーファン」は…
突如として、ナギサの熱を帯びた身体を覆う夜具を無造作に、迷いなく剥ぎ取った。
「?!な、何…?!」
ナギサが驚きと本能的な羞恥、そして恐怖に目を見開く中。
「イーファン」は無言のまま、彼女の着物の裾をゆっくりと捲り上げていった。
そこには、つい先日まで夕陽を浴びて黄金色に輝き、荒波の中でも魚のようにしなやかに躍動していた、あの眩いばかりの美しい脚。
だが、その腿には、今…
銛で無惨に貫かれた傷口を、延命という名目のもとに無理やり焼き潰した、どす黒く、痛々しくひきつった巨大な火傷痕。
「やめてよ!見ないでよ…
お願い、見ないで!」
ナギサは必死に彼に手を伸ばし、自らの醜い傷跡を覆い隠そうともがく。
羞恥心、そして何より…
かつて、自分を美しいと称えてくれた唯一の男に幻滅されることへの恐怖が、彼女を追い詰めていた。
彼女は子どものように激しく泣きじゃくり、身を震わせ…自分という存在を消してしまいたいと願うかのように、身体を丸めた。
…だが、「イーファン」はその震える両手を、自らの大きな掌で包み込むようにして優しく制し。
そして、彼女の涙に濡れた頬に、そっと…吸い付くような、柔らかな口づけを落とした。
「変わりませんよ、あんたは」
「イーファン」の声は、猛り狂う嵐が去った後の、どこまでも深く凪いだ海のように静かだった。
彼はそのまま、祈りを捧げる巡礼者のように跪き。
彼女が今この世で最も憎んでいるであろう、その変色した右腿へと顔を寄せた。
ナギサは、驚愕のあまり息を呑んで硬直する。
彼は…「イーファン」は。
その醜く灼かれ、未だに炎症の熱で燃えている火傷痕に。
何度も、何度も、丁寧に唇を寄せていった…
まるで、壊れやすい宝物を慈しむように。
「…っ、あ…
イー、ファン…」
熱い唇が、損なわれた皮膚に触れる。
その度に、ナギサの身体が、電流が走ったようにびくり、と跳ねる。
それは、性急な愛欲や卑俗な好奇心などでは断じてなく。
傷ついた魂をやさしく拾い上げ、浄化しようとする神聖な儀式そのものだった。
彼は自らの唇とあたたかな吐息で、慈しむように丁寧に愛していく…
そうして、「イーファン」は言う。
想いを込めて。
「あんたは、綺麗な人魚姫さ」
ナギサはもはや、拒絶の言葉を紡ぐことも、泣き叫ぶことも忘れ。
ただ、呆然と。
自分の醜い傷跡を、この世で最も愛おしいもののように慈しむ、この不思議な男を見つめていた。
激しく火照る身体の中で、これまでの不快な高熱とは異なる…こころの最深部をじわりと溶かしていくような、別の種類の温かな熱が広がっていくのを感じる。
「イーファン」のあたたかな唇がそこに触れるたびに、闇が光に溶かされるように、一つ、また一つと消え去っていくようだった…
「…イーファン。
あんたは…どうして、そんな風に…」
ナギサのつぶやきに、無言の微笑で応えて。
「イーファン」は一度小さく頷くと、溢れるほどの慈愛を込めて彼女の視線を受け止めた。
それから、冷たい隙間風から守るように静かに着物の裾を元の場所へ戻し、再び丁寧な手つきで、夜具をそっと掛け直してやった。
もう一度、ナギサの頬に口づけする。
そして、頬に伝っていた彼女の涙を、やわらかく上書きした。
外では潮騒が、傷ついた女のこころを優しく包み込む子守唄のように、いつまでも、寄り添うように鳴り響く。
「…」
「…」
二人は、しばらく無言のまま。
静かに、ただ過ぎゆく夜の中にいた。
…が、やがて。
「ん…」
「!…ナギサ殿」
ナギサは、何とか自分自身を叱咤し、鉛のように重い身体を無理やり起こす。
彼女は、傍らで静かに自分を見守っていた「イーファン」を、射抜くような眼差しで真っ直ぐに見つめた。
その瞳は、熱病の余韻で潤んではいたが、迷いという名の曇りは完全に消え去り、そこには決意を込めた光が宿っていた。
「あのね、イーファン」
ナギサが、震える声を喉の奥から絞り出した。
「これ…あげる。
あんたに、持っていてほしいんだ」
彼女が震える手で差し出したのは、あの…年月を経て黒ずんだ、年季の入った小さな革袋。
彼女の母親が残した、大粒の真珠。
「!…ナギサ殿、いけない」
「イーファン」は即座に首を振り、そのあまりの重みから逃れるように、差し出された手を押し返そうとした。
それは、ただ単なる高価な宝石ではない。
彼女にとっては、村のどんな財宝よりも価値を持つはずの…母の形見の粒真珠。
にもかかわらず、ナギサはこうも言うのだ。
「いいんだ、あんたに持っていてほしいんだよ」
「だけど!」
「お金に困ったら売ればいい、きっと大金になるはずさ。
そうすれば、遠いところまで行けるだろ?」
にもかかわらず、ナギサは売って金にしてもいい、とまで言うのだ。
「けどこれは、ナギサ殿の…」
「イーファン」
女は、熱情のこもった、そして今にも極限まで引き絞られた弓のように砕け散りそうな瞳で彼を射抜き。
彼の正しい、道理ある言葉を強引に遮った。
その視線からは、彼へのあふれんばかりの愛おしさが、最早隠しきれぬほどにこぼれ落ちる。
「女がさ、こうまで言ってるんだ。
頼むから…意地張らないで、受け取ってくれよ」
「…」
震えるその声音に、「イーファン」は感じた。
彼女の瞳の奥にある、恐らくは…自分へと向ける、熱情と恋慕。
…ためらい、戸惑い。
その果てに、彼は…
長い、永遠の静寂とも思える沈黙の後。
ゆっくりと、ナギサの震える手から。
「イーファン」は、革袋を包み込むようにして、その感情を重みごと受け取った。
「…承知した」
しばしの、空白。
隙間風に乗って流れ込む、夜の冷気と波の音。
それらが、二人の間に横たわる、決して埋められることのない断絶を冷酷に告げていた。
ナギサは彼の手が革袋をしっかりと握りしめるのを見届けると…
一瞬だけ、かつての彼女らしい、悪戯っぽく自信に満ちた微笑みを浮かべようとした。
だが、それは無理やり口角を吊り上げただけの、ひきつった、見るに堪えないほど哀しい笑みでしかなかった。
瞳にまた浮かんできた涙を殺そうとして、できなくて。
ナギサの弱々しい涙声が、愛おしげに彼の「名前」を呼んだ。
「…元気でね、イーファン」
「…」
「イーファン」は、何も答えず。
ただ、ナギサに渡されたその革袋を、自らの胸に押し当て強く、強く握りしめた。
彼女は夜具を頭から被り身を伏せ、拒絶を示すように…彼に、背を向ける。
「イーファン」の顔を、もっと見つめたい、
だがこれ以上、こんな自分をあの綺麗な瞳で見つめられたくはなかった。
暗闇の中で、こらえきれない涙が堰を切ったように溢れ出す。
その紫の瞳に、どんな感情が浮かんでいるのか…
ナギサには、もうそれを読み取るだけの勇気も気力も残されていなかった。
彼女は、彼に抱いていた甘く淡い恋心を、自らの手で、一点の容赦もなく殺した。
ひたすらに、惨めだった。
それでも、彼女は唇が切れるほど強く噛み締め…
決して弱々しい泣き声を漏らさなかったのだ。
この作品が気に入ったら

コメント
まだコメントはありません。
会員登録(無料)かログインをすると、コメントを書けます。