傾きかけた太陽が、荒涼とした大地を赤い夕焼け色に染め上げる。
吹き抜ける風には、乾燥した土の匂い。
エンリケス・太一は、使い古された鍬を地面に突き立て…
大きく一つ、肺の奥に溜まった澱を吐き出すように、息をついた。
生きるためには、この土を穿ち続けなければならなかった。
その顔の左半分には、無骨な黒い眼帯──
あの、悪夢のような夜。
かつての「代官(ガバナー)」、佐藤・イーファン。
彼が、半ば娯楽混じりに振り下ろした残虐な鞭の記憶が、今も眼窩の奥で疼くようだった。
鋭い棘を孕んだ鞭が、眼球を、背を、そして一人の人間としての尊厳を無慈悲に引き裂いた瞬間の感触。
神経を逆撫でするような鋭利な熱、視界が真っ赤に染まり、やがて永遠の闇へと反転していった恐怖…
遠近感を欠いた不自由な世界は、時として太一の足元を狂わせ、目眩と嘔吐感を誘う。
日々の農作業でさえ、かつてよりも時間を要するようになった。
しかし、太一の魂がその闇に呑み込まれることはなかった。
喪失の痛みは、彼が何とか生き延びているという何よりの証左であり、愛する家族を守り抜いた、という誇りの裏返しでもあったからだ。
「…父ちゃん」
…と。
ふいに聞こえた、鈴を転がすような声に、太一は視線を向ける。
そこには、泥に汚れながらも懸命に手伝いをする、娘の陽。
その瞳は、失われた太一の左目とは対照的に、夕陽を反射して澄んだ琥珀色に輝いている…
その輝きを守るために、自分は光を差し出したのだ。
「何だ?」
「…あのお兄ちゃん、大丈夫かなあ?」
その問いかけは、静かな水面に投げ込まれた石のように、太一のこころに波紋を広げた。
ある日、突然自分たちの前に現れた、あの美青年。
記憶を失った、その喋る言葉も継ぎ接ぎで奇妙な、明るく笑う男。
彼は、自分が「代官(ガバナー)」に大怪我を負わされたあの夜、姿を消し。
そして、陽に、何処から手に入れたのか、大量の宝石や金を渡し…
自分の治療に使うようにと言い残して、闇に溶けていった、と言う。
そのすぐ後に、村を揺るがしたもの。
「代官の邸宅が、何者かによって破壊された」
その知らせは、村人たちの間を稲妻のように駆け巡った。
絶対的な支配者として君臨していた佐藤・イーファンも、その配下にあった冷酷な衛兵たちも。
彼らは皆、自らが振るってきた暴力の報いを受けるように、無残な骸となって転がっていたという…
生き残った者は誰ひとりいないという、圧倒的な殺戮。
邸宅の壁には返り血が飛び散り、人々は一刀のもとに両断されていた。
それは、かつて佐藤が踏みにじってきた者たちの無念を代弁するかのような、凄惨な「処刑」の風景…
しかし、そんなことをしでかした下手人は、ついぞ上がらなかった。
そして、「中央」からは新たな「代官」が派遣され、以前よりは幾分かましな統治が敷かれるようになった今、村人たちはあの惨劇を「天罰」あるいは「野盗の襲撃」として片付けようとしている。
だが、太一だけは知っていた。
血に染まった邸宅の広間で、誰がその暴虐の剣を振るったのかを。
――あの青年は、自分たちのために。
「…」
太一は、確信していた。だから、誰にも言えなかった。
あの紫の瞳の、着流しの青年は。
自分のような、「外縁部(アウトサイド)」農夫一人のために。
奪われた片目の仇を討つために。
青年は、自らの手を地獄の業火で焼くことも厭わず、あの悪鬼どもの巣窟へと足を踏み入れたのだ…
彼が持ってきた金塊は、ただの施しではなかった。
それは奪われた自分の光に相当するものを暴力によって強奪した、一種の正義の残滓。
それは、救済と呼ぶにはあまりに凄惨で、慈悲と呼ぶにはあまりに鮮烈。
その過程で彼がどれほどの闇を背負い、どれほどの返り血を浴びたのか…
今でも、まだ完全には信じられていないのだ。
自分のために動き、この家に莫大な富をもたらしたあの青年が。
あの、どこか世捨て人のような、それでいて人懐こい気の良さを見せていた奇矯な男が。
人の道に外れた恐ろしい所業を、平然と行えるような「怪物」であったなどとは…
陽には、何も具体的には話してはいない。
だが、彼女はもう十歳を過ぎている…
母親を早くに亡くし、厳しい生活で父親を支えてきた彼女は、世界の不条理を察するに十分すぎるほど聡明に育っていた。
あの夜、青年が残していった金目の物…
あまりに不自然なまでに眩いそれらが、まともな商いや労働で得られたものではないことくらい、彼女の瞳はとっくに射抜いているはずだ。
…それでも。
彼は自分を、そして陽を助けようとした。
それは、おそらく事実なのだ。
…そして。
「…」
彼は自らの本当の「名前」を見つけられたのだろうか、と太一は思う。
ふと頭によぎる、あの時の光景。
呆然と、呟いていた台詞。
記憶を失い、「名前」を失い、空虚の中に放り込まれ、困惑していた彼。
「…あたしにも、ある、はずなんです。
俺だって、『人間』なんだから」
「あるはず、なんです。
…あたくしの、『名前』」
誰にも縛られず、何者にもなれず。
ただ荒野を吹き抜ける風のように去っていった、あの紫の瞳の男。
もし、彼にふさわしい「定義」を、この呪われた世界が与えるとするならば…
それは一体、どのような「名前」になるのだろうか。
「結局、あのお兄ちゃん、何て『名前』だったんだろう?」
不意に、陽が何の気なしに尋ねた。
鍬の泥を落としていた太一の手が、一瞬止まる。
「ん?」
「もしさあ、お父ちゃんだったら…
お父ちゃんが、あの兄ちゃんのお父ちゃんだったら」
陽は首を傾げ、琥珀色の瞳に夕陽を反射させながら、真剣な顔で続けた。
「あのお兄ちゃんに、何て『名前』をつける?」
太一は黙り込み、残された右目を細めた。
漁村の風景は、常に海鳴りの音と共にある。
かつてのこの村には、潮の香りに混じって、不吉な気配が常に漂っていた。
ほんの少し前まで、この平穏な村を地獄へと変えていたのは…支配者たる「代官(ガバナー)」の甥と、その取り巻きの悪たれ連中。
彼らは漁のために屈強な男衆が海へ出た隙を狙い、残された女子供を追い回しては尊厳を蹂躙する、下劣な「狩り」を娯楽としていたのだ。
獲物として扱われた女たちの悲鳴は潮騒に消され、助けを求める声は権力という壁に跳ね返されていた。
…だが、ある夜を境に。
すべては、唐突に終わった。
甥とその仲間たちは、一晩にして影も形もなく消え失せたのだ。
彼らが愛用していた高性能なモーターボートも同時に姿を消しており。
代官は必死に彼らの行方を追ってはいるが、いつまで経っても手がかりはなく。
どうやら、「深夜に酔った勢いで海へボートで出て、そのまま事故で沈没した」らしい…と。
しかし、村人たちにとって、それは天からの贈り物にも等しい幸運。
特に、彼らの「狩り」の標的とされ、恐怖に震えながら潜っていた海女たちにとっては。
ようやく安心して海へ入れるようになったと、朝な夕な大喜びで語り合っている・…
海は以前と同じ色をしているはずなのに、彼女たちの目には、かつての濁りが消え、真に清浄な青色が戻ってきたように映っている。
だが、その幸運の裏側にある…おそらくは血塗られた真相を、独り察している女がいた。
エイミス・豊――
この村の海女たちのリーダー格である「お豊」と呼ばれる彼女は、今日も村の外れに建つ古い家を訪ねていた。
そこは、幸村・ナギサの住処…
若くして親を失い、若い女一人で暮らすことを余儀なくされている、天涯孤独の女。
ナギサの家は村の他の家々から少し離れた場所にあり、まるで村、そして幸福そのものから疎外されているような寂しさを漂わせていり。
だん、だん、と重い音を立て、お豊は戸を叩く。
「ナギサ。
…ナギサ、いるかい?」
返事は、ない。
扉を開けると、家の中は静寂に包まれている。
女一人には、広すぎる空間。
使い込まれた道具類が整然と置かれているのが、むしろ住人のこころの虚脱を感じさせる。
お豊はため息をつき、家の裏手へと回る…
…と、そこに、彼女はいた。
幸村・ナギサは、剥き出しの岸壁に立ち、遠い水平線をじっと見つめていた。
潮風に煽られ、黒い髪が乱れるのも構わず、ただ、ひたすらに海の彼方を。
その背中は、今にも風にさらわれて、そのまま海の中へと溶けてしまいそうなほどに危うく。
「…ナギサ」
お豊の声に、ナギサは振り返る。
「ああ…お豊さんか。
あたいに何か用?」
ナギサの言葉は、ぶっきらぼうなもので。
誰も頼るものがない、独りで生きていかねばならない、と言う気負いがそうさせているのか、彼女の態度は荒っぽく。
けれどもその強い響きは、彼女が自分自身の内側に抱える「何か」を、誰にも触れさせないための鎧のようでもあった。
「傷の具合はどうだい?」
お豊が、心配げにそう尋ねた…
あの日、あの悪魔のような連中に負わされた、身体とこころの生々しい傷跡。
よりにもよって、水中銃などというもので、あの甥どもは彼女を傷つけた。
彼女のいのちは何とか助かり、またこうして歩けるようになってはいる。
だが、その代償として…ナギサの肌には、あの暴力の痕跡が黒々と残っている。
けれども、お豊にはわかる…
同じ、女だから。
それ以上に深い傷は、彼女の記憶の奥底に刻まれているはずだ。
だが、ナギサは強気に言い放ち、笑って見せる。
「…別に。
今はもう、そんなに痛くない」
「そう…」
そんなふうに、彼女が強がるものだから。
お豊も、曖昧な返事をするしかない。
ナギサは、再び水平線に視線を戻す。
水平線の先には、「イーファン」が消えていった夜と同じ、深く冷たい藍色が広がっている…
風が吹き抜け、彼女の乱れた髪を優しく撫でる。
海を渡る風は、次第に冷たさを増していく。
「悪かぁないよ?本当に…
もうちょっとしたら、多分また潜れるようになる」
「…慌てなくていいんだよ、ナギサ」
お豊は、彼女の細い背中に向けて、祈るような声を絞り出した。
若い彼女が無理に強がっているのが、痛いほど伝わってくる。
震える肩を抱きしめてやりたい衝動に駆られたが…
海を見つめたままお豊を振り返らない、彼女の肩がそれを拒絶している。
「大丈夫…あたいは、大丈夫」
そう言って、ナギサは微かに微笑んで見せた。
お豊の視線は、無意識のうちにナギサの脚へと落ちる。
今、着物の裾で隠されている彼女の右腿…
そこには、あの凄惨な「狩り」の夜、水中銃の銛によって無慈悲に貫かれた傷跡がある。
銛を抜き、化膿を止めるために焼いたその跡は…若く美しいナギサの肌にはあまりに似つかわしくない醜い焦げ跡となって、一生消えることはない。
けれども、それでも彼女が死なずに済んだのは…
薬、それも本来なら貧しい漁村では到底手に入らないはずの、抗生剤などの高価な薬のおかげだった。
そして、その薬を買うための資金。
貧しい漁村に、そんなものがあるはずはなく。
では、ナギサを救ったそれが、何処からもたらされたのか、というと。
それはあの夜、あの紫の瞳の男が…お豊に押し付けていったモノ。
ずっしりと重みのある宝石などの貴金属、そして紙幣の束。
それは、村の者たちが一生をかけても拝むことのできない輝きを放っていたが…
お豊には、それが誰かのいのちを削って絞り出された、血の塊のようにも見えた。
お豊は直感し、そして確信している。
あの甥の一行を、この世から跡形もなく消し去り、海の藻屑へと変えたのは、おそらくはあの「佐藤・イーファン」と名乗った男なのだ、と。
あのおどけた笑い声の裏に、どれほど苛烈な狂気を隠していたのか。
彼は、自分たちの代わりに手を汚し。
その代償としてこの村から、そしてナギサの前から永遠に立ち去る道を選んだ…
「…ナギサ」
お豊の瞳に、哀しみが満ちる。
…ナギサは、あの男に恋をしていた。
それは、お豊や周りの海女たちが、時折顔を見合わせては「若いねぇ」と苦笑い混じりに見守ってしまうほど、隠しようのないほどに純粋なもので。
あの男が冗談を言うたびに、ナギサは「あたいを馬鹿にして!」と声を荒げ。
逃げるように背を向けながらも、そのくせ…彼の方を盗み見ては、その頬を赤く染めていた。
彼の紫の瞳を見つめるたび、その瞳に見つめられるたび、彼女の世界がどれほど鮮やかに彩られたか…ナギサのぱっ、と色づく表情は、傍目にも明白だった。
けれど、勝ち気で素直になれないナギサは。
おそらく、最後まで…彼に、自分の想いを告げることはなかったのだろう。
強気だけれども、自分の恋心をどうしていいかもわからなかった彼女。
何をしていいのかも、何を言えばいいのかもわからず、結局は…その一歩先へ踏み出す勇気を持てなかった。
そして、あんな別れ方をしてしまった…
ナギサは、その美しい脚と、生まれて初めてこころを寄せた愛おしい男…
その両方を、いっぺんに失くしてしまったのだ。
彼女の心痛は、如何ばかりか──
…けれど。
そんなお豊の心配を、ナギサは見通しているのだろう。
彼女はふいにお豊に振り向き、いたずらっぽく、にこっ、と笑ってこう付け加えた。
「大丈夫、あたいは…海女だもん。
海の中でしか、生きられないんだ」
「ナギサ…」
お豊は、二の句が継げなくなる。
その言葉は、運命を呪うことをやめ、自らの生きる場所を定めた者の静かな誇りに満ちていて。
絶望を引きずりながらも、生きる希望が零れ落ちそうで。
(…それに、)
心の中だけで、ナギサは言葉を続ける。
(海でのあたいは、『人魚姫』なんだ)
そう。
あの夜、あの男が…「イーファン」が、そう言ってくれた。
それは、卑劣な暴力によって泥にまみれた彼女の自尊心を、一瞬にして洗い流してくれた。
この醜く焼けただれた火傷痕に口づけし、「綺麗だ」と、言ってくれたのだ。
たとえ、どんなにそれが痛ましくとも。
海の中でそのことを思い出す限り、彼女は誰よりも高貴な存在でいられる。
お豊は、薬の金の出どころをナギサだけに打ち明けていた。
「イーファン」が立ち去る際、お豊に託した眩いばかりの富。
お豊は薬を買い、その残りを全て、ナギサに握らせたのだ。
「あの人が…『イーファン』が、お前にこれをくれたんだよ」
その言葉を聞いた瞬間、ナギサの胸を埋め尽くしたのは、身体の芯から湧き上がるような確かな熱。
「イーファン」が、自分のために。
あの男が、自分のために手を汚し、そして明日を繋ぐための「糧」を遺してくれた。それだけで、ナギサには十分だった。
言葉にならなかった恋心の答えを、彼女はもう十分に受け取っていた。
それに、あの紫の瞳の男は。
何よりも輝き続ける光…
ずっと自分の中で響き続ける言葉を、もうくれている。
「変わりませんよ、あんたは」
「あんたは、綺麗な人魚姫さ」
たとえこの右腿に、二度と消えない醜い引きつれ跡が残っても。
その言葉があれば、彼女は暗い海の底へ何度でも飛び込んでいける。
「…」
ナギサの手は、無意識に胸元へ運ばれる。
そこに常にあったはずの、母の形見であった、一粒の真珠は…今はもう、無い。
あの男が去る前、ナギサはその唯一の宝物を、彼の手に握らせたのだ。
(…連れて行ってよ、あたいの代わりに)
彼は今も、あの真珠を持っていてくれているだろうか。
それとも、とっくに何処かへ捨ててしまっただろうか。
旅の途中で路銀に変えてしまったとしても構わない、とナギサは思っていた。
…その真珠が、彼の歩む過酷な道のりの、ほんのわずかな一助にでもなれるなら。
彼女の欠片もまた、彼の救いになれる気がしたから。
(あんたの胸のそばに、ずっといさせて)
それでも、祈る。
自分の魂の一部が、今もあの男と共に旅していることを。
彼が夜、独りで空を見上げる時。
指が触れるその真珠の冷たさが、ほんの一瞬でも…
この静かな漁村と、一人の不器用な海女のことを思い出させてくれるのなら――それ以上の幸福を、彼女は望まなかった。
「お豊さん」
「うん」
「あたいは、大丈夫だよ」
ナギサは、にこり、と笑った。
彼女は、この海で生きる誇り高き「人魚姫」…
例え、醜い傷が彼女の尾を汚していたとしても。
彼女の魂は半分、水平線の彼方へ。
そして残りの半分は、愛するこの海と共に、明日へと向かって歩み始めていた。
乾いた風が、古いトラックの荷台を激しく揺らす。
砂が金属に当たる乾いた音が、ざらざら、ぱさぱさ、とやかましく幌を叩き続ける。
空は高く、どこまでも不透明な灰色で…
その空のもとで、人々は今日も生きている。
「うっ…」
「親父、無理すんなよ!」
行商人、桂・レオニートとルカの親子。
年季の入った重い木箱を荷台に引き上げようとしたレオニートは、脇腹に走った鋭い激痛に、思わず膝を突いて短い、苦悶のうめき声を漏らした。
「俺がやるって…親父はそこで座ってろよ」
息子のルカが、自分から進んで重い荷を担ぎ上げた。
まだまだ華奢な身体ではあるが、それでも彼は逃げず諦めず、その重さを担ってみせる。
その一連の所作には、いつの間にか一人の大人としての逞しさが宿りつつあった。
「すまんな…」
レオニートは、荒い息を整えながら、すり切れた服の上からそっと傷口をさすった。
あの時、非道な武装強盗団のボスによって容赦なく撃ち抜かれた、銃創。
しかし今はもうその怪我は、ありがたいことにもう無事にふさがっている…
何とか近場の村に運び込まれた後に医者に処置され、何とか大きな感染症も後遺症もないままに回復することが出来たのだ。
だが…こうして力を込めた拍子、不意に痛みは疼き出す。
けれども、それは今のレオニートにとっては、むしろ…「生きていられること」そのものの奇跡、その代償に思える。
時折痛みと共に、レオニートの脳裏には、あの悪夢のような夜の光景が鮮明にフラッシュバックする…
夜、生温い風の吹く荒野、自分たちを囲む悪党ども、そして…きらめく銃口の冷たい光。
強盗団のボスが撃ち放った短機関銃の弾丸は、自分の身体を貫いて…
激痛、地面に転がり這いつくばり、傷口から熱いものが溢れるのを感じたのが、自分が覚えている最後の瞬間だった…
そして、自分が次に目を覚ました時。
その時、自分は息子が運転するトラックの助手席にいたのだ。
何故自分たちは逃げられたのか、そう問うと。
息子は、答えた…
「…助けてくれたんだ」
「アンジェロさんが…俺達を」
思いもかけず出会い、自分たちを助けてくれた、あの風変わりな着物姿の青年。
彼が自分たちを救い、そして去っていった…と。
レオニートは、ふと砂埃の舞う空を見上げ。
空に向かって、深いため息をついた。
「しかし、アンジェロさん…
何でまた、何も言わずに行ってしまったんだろうなあ。
礼のひとつも言わせてもらえないなんて…」
「…さあ」
息子のルカは、最後の一箱を積み終えて留め具を締めると、曖昧な相槌で父の言葉を流した。
その表情は、どこか遠くを見ているようで。
「きっと、何処かでまた会えるよ。
…そうしたら、その時に礼は出来るさ」
ルカは、しつこく気にする父を安心させるように。
わざと、ぶっきらぼうな口調でそう付け加える。
自分にもそう言い聞かせるような響きが、そこには混じっていた。
「…そうかもな。
嗚呼、…どうか、無事でいてほしいもんだ」
「…ああ」
ルカは、トラックのエンジンをかける。
古びたディーゼルエンジンが唸りを上げ、黒い煙と共に、激しい振動が車体に伝わる。
行商人親子のトラックは、土煙を上げ、次なる目的地へと走り出す。
ルカは、父レオニートには多くを語らなかった。
何故、自分たちがあの絶望的な窮地を逃れられたのか。
あの執拗で残忍な武装強盗団の手から、どうやって逃げ延びることができたのか。
父のレオニートは知らない。
けれども、ルカは知っている──
あの、「山口・アンジェロ」が、恐るべき悪鬼の如き本性を剥き出しにして、あの武装強盗団を無惨極まりない方法で屠ったことを。
…自分と父を、助けるために。
強盗団の連中が、その鋭い剣と刀によって、まるで紙細工のように簡単に…そして、冷酷に切り刻まれていく光景。
ルカの鼓膜を貫いたのは、救いを求めるというより、あまりの激痛に魂そのものが千切れるような凄惨な絶叫。
「アンジェロ」の振るう刃は、慈悲など微塵も介さず…ただ「暴力」という名の絶対的な理を執行していた。
そして…自分を汚し、尊厳を泥靴で踏みにじったあの強盗団のボスをも、「アンジェロ」は決して逃さなかった。
彼は冷酷極まりない方法で、男を「処刑」した。
その時の「アンジェロ」の瞳は、燃えるような正義感による怒りでもなく、復讐の悦楽に歪むのでもなく。
ただ、底の知れない深い穴のような、無機質な暗闇。
それはあたかも、人の情すべてを何処かへ捨て去ったかのような…
けれども、自分は。
そのあまりの残虐さに恐怖し、彼に礼の言葉すら言えなかった。
ルカは、その瞬間の記憶を、誰にも…実の父親にさえも、語るつもりはなかった。
思い出す。
あの深い紫の瞳が、最後に見せた…
何処か哀しげで、それでいてすべてを悟りきったような諦念。
嗚呼、彼は確かに、自分たちのために戦ってくれたのに。
けれども、剣と刀を振るい敵を殺すその様、それがあまりにも恐ろしすぎて──
「アンジェロ」は、それでも。
恩知らずにも、助けたはずの自分にそんな態度を取られて、怒りもせず。
ただ、それを受け入れ、去ったのだ…
誰かを殺すことで、誰かを救う。
それ自体が、それしか出来ない自分が、彼自身の罪であるかのように。
今でも、ルカはあの夜のことを悪夢として見ることがある。
自分が受けたひどい仕打ち、肌に残る不快な指の感触、耳元で残響する汚ならしい息遣い。
そして、それらすべてを凄惨な暴力という名の「救済」で塗りつぶしたあの地獄絵図。
救いと殺戮が表裏一体となって迫ってくるその記憶は、ルカの精神に消えない歪みを残していた。
時折、悪夢が呼び覚ます。
あの夜の記憶を、呼び覚ます…
其の度に、ルカは全身を恐怖に強張らせる。
…だけど。
それでも、彼は…自分たちを助けてくれたのだ。
アンジェロが去り際、最後に見せた…あの、哀しげな微笑み。
自らの血塗られた手を呪うような絶望と、それを受け入れざるを得ない苦悩が混ざり合っていた。
…どうして、あの時。
自分の喉元まで出かかっていた言葉を、飲み込んでしまったのか。
「助けてくれてありがとう」という、たったそれだけの、至極当たり前の言葉すら、何故伝えられなかったのか…
恐怖に腰を抜かし、ただ血にまみれた背中を見送るしかなかった、自分の弱さと臆病さ。
伝えられなかった感謝は、行き場を失った澱のように、彼の奥底に沈殿している。
「アンジェロ」はきっと、感謝の言葉などを求めてそうしたわけじゃなかっただろう。
それでも、伝えられなかったその想いは、ルカにとって残り続ける悔いとなっていた。
「いつか…また、何処かで会えるといいなあ!」
父がトラックの助手席で、のんびりと…霞んだ空を見上げながら、何気なく放った言葉。
その裏表のない明るさが、皮肉にも、今のルカを強く励ます。
そうだ。
もしお互いに、この乾いた世界の上で、どうにか生き長らえていけるのなら。
また、いつの日か…
思いもよらぬ場所で、不意に出会うこともあるかもしれない。
嗚呼、もしそうなら。
「…そうだな!」
ルカは、ハンドルを強く握り直し。
前を、前だけを見据えて、力強く答えた。
あの時伝えられなかった礼を、言葉を。
いつかはきっと、伝えられる時が来るだろう。
その日がいつか来ることを、祈りながら生きていく。
トラックのエンジン音が、荒野の深い静寂を切り裂いていく。
巻き上がる砂塵の向こう側に、いつか出会うはずのあの奇妙で哀しい、紫の影を追い求めながら。
ルカの瞳には、遠い再会を信じる強かな意志が宿っていた。
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