その夜、月は狂おしいほどに白く、そして冷たかった。
ナギサの寝息は、まるで己のいのちの灯火自体が弱りきっているかのように、細く、そして頼りない。
熱に浮かされた彼女の頬は熱く燃え、額に浮いた汗が枕元の明かり、微かな光を反射して、光っている…
「…あ…、…ぅ」
うわ言ともつかぬ熱い吐息が、軽く開いた唇の間から漏れ出しては、冷え切った夜気に溶けていく。
その刹那、影が揺らめく。
枕元に音もなく佇んでいた男――
「イーファン」は、彫像のように動かぬまま、その紫を帯びた瞳で少女を見つめていた。
彼の周囲だけ時が止まり、空気が氷結したかのように静まり返っている。
見つめる瞳の奥、網膜に映るには…苦しむナギサ、人魚姫の姿。
…彼は、ゆっくりと。
壊れ物を扱うような慎重な手つきで、ナギサの火照った頬に指を添える。
指先に伝わるのは、脈打ついのちの、あまりにも残酷で愛おしい熱…
それは、幾多の命を奪ってきた彼の指先にとって、痛いほどに熱く、そして切ない。
「…ゆっくり、お眠り」
掠れた呟きが、夜の静寂に波紋を広げる。
彼は、抗いがたい力に引き寄せられるように…
彼女の唇へと、ゆっくりと顔を寄せた。
それは、触れるか触れないかの境界線で、一度止まり。
永遠とも思える逡巡を経て、ようやく重なった。
愛撫というにはあまりに淡く、口づけというにはあまりに悲痛な、一瞬の接触。
ナギサの熱が、「イーファン」の冷え切った唇を灼く。
柔らかな女の唇の感触が、例えその一瞬であっても、彼のこころを灼く。
…離れ際の唇が、名残惜しげに彼女の吐息を追い、虚空をなぞる。
「おいらが…終わらせてあげますからね。
あんたをこんなにした、屑どもを…」
「イーファン」の薄い唇が、そんな風な言葉をかたちづくった。
鼓膜に届かぬほどの微かなささやきを残し…
彼は、静かに立ち上がる。
着流しの裾が、夜の闇を撫ぜるようにしてひるがえる。
扉はことさらに慎重に、音も立てずに閉じられた。
そこに残されたのは、わずかな男の残り香と…
遠くで鳴り響く、処刑の始まりを告げるような潮騒だけだった。
深夜。
この地の「代官(ガバナー)」居宅。
豪奢な石造りの壁が、権力の増長を誇示するように闇の中に聳え立っている…
そして、そのすぐ裏手に広がる海岸では。
夜の静けさを汚すような、やかましい下卑た笑い声が渦巻いていた。
「ひゃははは!見ろよ、この酒!
叔父上が大事に隠してたのをくすねてやったんだ!」
砂浜に無造作に突き立てられた松明が、潮風に煽られて赤黒い炎を上げ、ばちばち、と不吉な音を立てて爆ぜる。
その炎で、係留された最新鋭のモーターボードが、暗闇の中にその輪郭を映し出している。
明かりに照らされた砂浜では、酒瓶をいくつも転がしたならず者どもが、真っ赤な顔をしながら、なお飽きもせずになおべちゃべちゃと酒を舐っている…
その中心にふんぞり返っているのは、山口・アンジェロ。
代官の血縁という後ろ盾、ただそれだけを唯一の背骨として生きる、ひょろ長い下賤の塊のような男だ。
その双眸は安っぽい優越感とアルコールに濁り、傍らの荒くれ者たちと下品な気炎を上げている…
「アンジェロ様、こいつぁいい酒だ!
最高っすねえ〜!」
「明日もまた、『狩り』に出ますかァ?
あの水中銃(スピアガン)で、海女っ子どもぉ、また撃って遊びましょうや!」
「おう!今度は逃げられねえよう…
ばっちり仕留めるぜ!」
げらげら、げたげた。
汚らしい下卑た笑い声が、寄せては返す波の音を掻き消していく…
だが、不意に。
その喧騒を裂いて、ひとつの足音がそこに混じり始めた。
ざっ、ざっ。
砂を踏みしめる、等間隔の…恐ろしいほどに正確なリズム。
ざっ、ざっ。
こちらに近づいてくる、影がある。
ざっ、ざっ。
それは、長い影法師。
ざっ、ざっ。
それは、死神の姿。
──彼らには、決してそれを予期することも、理解することも出来なかったのだけれども。
「…あぁん?誰だァ、てめえは?!」
「邪魔するんじゃねえぞ!」
荒くれ連中が、暗がりに向かって威嚇するように怒鳴り声を上げた。
松明の、ぼんやりした光が届く境界線。
そこに、ひとりの男が立っていた…
まるで、闇そのものが形を成したかのように、黒々と。
夜の海風に着流しをはためかせ、男は悠然と歩を進めてくる。
「浜にいてくださって、助かったんよなぁ」
その声は、涼やかに響く鈴の音のように澄んでいながら、墓穴の底から這い出してきたような冷気を孕んでいた。
長身の男――「イーファン」は、不敵な笑みを薄い口元に湛え、首を僅かに傾ける。
松明の光がその相貌を照らし出した瞬間、荒くれ者たちは先ほどまでの勢いを忘れ、一様に息を呑んだ…
その、瞳。
深い闇の中に灯る、妖しくも美しい、そして徹底的に温度を欠いた紫の輝き。
それは獲物の急所を冷徹に見定める狩人の目であり、人の世の理を超越した異能者の目であった。
「屋敷の…無関係の者を殺すのは、さすがの僕でも気が引けるんでありんすからねぇ…
ここでなら、おらァ…
てめぇらを心置きなく死体にして差し上げられる、ってもんだよなぁ?」
ぐちゃぐちゃの一人称。
艶めいた郭言葉に乱暴な男言葉が混ざる、継ぎ接ぎの言葉。
「イーファン」の右手には、硬質なブレードがぎらつく、確かな殺気を放つ片手剣。
そして左手には、波打つような刃紋を宿した日本刀…
二振りの凶器を手にしながらも、その立ち姿には微塵の気負いもない。
男はその美貌を、微笑みのかたちに歪めていた。
まるで、月光を浴びながら夜の庭園でも散策するかのような、不気味なまでの余裕…
何もかもがちぐはぐな、その男の佇まいに。
荒くれどもは理由もわからず気圧され、たじろいだ。
「なっ…なんだ、てめェ?!
誰に雇われた?!」
山口・アンジェロがひっくり返った声で挑発にもならない台詞を叫び、飲みかけの酒瓶を砂に投げ捨てる。
高価な液体が無駄に砂に吸い込まれ、強いアルコールの匂いを撒き散らす。
「や、野郎ども…やれ!ぶち殺せッ!」
「お…おおッ!」
「んだこらてめェ!死にやがれッ!」
飼い主の、悲鳴にも似た号令に応え。
その場にいた、十数人の男たちが一斉に色めき立った…
彼らは「代官(ガバナー)」、そしてその甥であるアンジェロの威光を背に、暴力こそが唯一の正義だと信じ込んでいる野犬の群れ。
「死ねえッ!」
先陣を切った大男が、ずっしりと重い鉄芯入りの警棒を振り上げ、「イーファン」の脳天をめがけて叩きつける…!
風を切る凶悪な音が、夜の静寂を乱暴に引き裂く。
だが。
「イーファン」の体躯は、まるではじめからそこに実体などなかったかのように…ふわり、と重力に抗って、横へ流れた。
「遅いぜ、ったく…
そんな腕じゃあ、あっちには触れもできないのですわよ?」
呟きと共に、左手の刀が逆光の中に銀色の弧を描く。
鈍い肉の断絶音。
続いて、大男の腕が不自然な方向に折れ曲がり…その口から獣のような絶叫が吹き出した。
激しく踊る返り血が、「イーファン」の陶器のように白い頬に…一点、鮮やかな紅を点じる。
彼はそれを拭おうともせず、薄い唇を吊り上げ。
次なる獲物へと、紫の視線を向ける。
その瞳に宿るのは、憐れみでも憎悪でもない。
ただ、淡々と不要な雑草を刈り取る、研ぎ澄まされた静けさだ。
「さあ、踊りましょうか?」
穏やかな挑発が、闇に散る。
悪党連中は、それでも己を叱咤し、男に対して果敢にも立ち向かっていく…
だが、所詮彼らは「イーファン」の敵ではない。
逃げ惑う背中に、容赦のない一閃が走る。
腕を、脚を、まるで紙細工でも扱うかのように容易く切り落とされ、男たちは無様な悲鳴を上げて砂浜に転がる。
断面から溢れ出す熱い生血が、冷たい夜の砂に吸い込まれ、不気味な湯気を立てた。
動けなくなったところを、確実に止めを刺される。
呼吸一つ乱すことなく、「イーファン」はただ無慈悲に、そして機械的な正確さで、そのいのちの灯火を一つずつ消していった。
その作業の合間に、彼は時折、得物に絡みつく血を忌々しそうに振り払う。
腕が飛ぶ。脚が断たれる。首が飛ぶ。
片手剣が空を薙ぐたび、日本刀が闇を滑るたび、そのたびにいのちが散っていく。
「く、くそッ?!」
銃を手にした男が、震える指で引き金に指をかけ、彼を狙う…
が、その指が動くよりも早く、「イーファン」の右手の片手剣が、月明かりを反射ながら、閃光となる。
一閃。
弾丸が放たれる音よりも早く、男の喉笛を冷たい鉄が軽やかに撫でていく。
「あ、が…あ…っ!」
赤が、夜闇の中で鮮やかな軌跡を描く。
数分前まで、下卑た気勢を上げていた荒くれ者たちは。
今や全員、物言わぬ肉塊か、あるいは…
己の欠損を抱えて砂にまみれ、のたうち回る惨めな獣へと成り下がっていた。
「ひ、ひいぃ…?!」
仲間たちが、次々と声もなく地に伏していく光景に、山口の顔から血の気が引いていく。
砂浜に突き立てられた松明の炎が、「イーファン」の背後で激しく揺らめいた。
その影は長く、異様に伸び。
まるで、男どもそのものを飲み込もうとする、巨大な魔物の腕のように見えた。
月光と血液を吸い込んだ刀身が、青白く…
それゆえに、死を予感させるほどに美しく煌めく。
「イーファン」は、まだ立ち上がろうとする荒くれ者たちの呻きを背景に。
静かに、一歩ずつ、恐怖に凍りつく山口へと歩み寄る。
その足音だけが、潮騒の合間に冷たく、そして死の宣告のように響き渡る。
「ひ、ひ…!
来るな、来るんじゃねえッ!この、化け物めッ!」
その地獄絵図を、腰を抜かした状態で目の当たりにしていた山口・アンジェロが、震える手で傍らの「獲物」を掴んだ。
それを見た「イーファン」の紫の瞳が、憎悪で濁る──
それは、あの大型水中銃だ…
本来、海の大物を一撃で仕留めるために造られたそれは、鋼鉄の銛をとんでもない速度で射出する、凶悪なまでの威力を秘めている。
「死ね!死んじまえッ!」
「!」
敵にその銛の切っ先を向け、山口が狂乱のままに引き金を引く──
と、ぎんっ、という金属音と共に、夜気を引き裂いて鋼鉄の銛が射出される…!
…だが。
「イーファン」は、それを実体のない陽炎のような動きで、紙一重のところで躱す…
巻き起こされた風が頬をかすめたが、それは彼の顔を縁取る髪を僅かに揺らしただけ。
その端正な表情には驚きも、ましてや恐怖の欠片もない。
ただ、射抜くような紫の瞳が、山口の汚濁に満ちた心臓を直接掴むかのような、絶対的な零度の静寂を湛えて光っている。
「…それで終わり、かな?」
「あ…ぐ、ううッ!」
恐怖のあまり、その手は完全に凍りつき。
山口・アンジェロは最早、再度水中銃を彼に向け撃つだけの冷静さも持てず。
ただ、がちがち、と歯を鳴らしながら、無様に水中銃を握りしめている…
その、絶望に歪みきった顔面を。
「イーファン」は、片手剣の柄頭で思い切り殴りつけた。
「…ぎゃあああああッ!?」
ごきゃっ、と言う、鈍く、確かな重みを伴った、鼻の骨が粉々に砕け散る音。
「はだ、はだだ、おれのはだがああぁッ!」
鮮血を顔中に撒き散らしながら、山口は砂浜を無様に転がり、激痛にもがいた。
さきほどまで他人のいのちを「狩る」ことをあそこまで楽しげに語っていたあの傲慢さは、今やどこにも見当たらない。
…残っているのは、ただ死を恐れるだけの、醜悪な肉の塊だ。
「痛ぇんすか?
鼻が折れた程度で、そんなに大きな声を出して…
お主らが今まで踏みにじってきた者たちの叫びは、もっと深く、重かったはずだと想いますよ?」
「イーファン」は、鼻から血を流しながらも這いずって逃げようとする山口の背中を、有無を言わさぬ暴力的な質量で踏みつけて。
つま先で蹴ってひっくり返し、その腹を…
五臓六腑をひしゃげさせ、脊椎を砕くほどの勢いで、容赦なく踏み潰す。
「が、ふ…ッ?!げ、ぼ…!」
肺の中の空気を、すべて強制的に吐き出させられ。
山口・アンジェロは、白目を剥いて痙攣する。
口の端からは、胃の腑から遡った酒と血が混じった汚物が溢れ出し、砂浜を汚していく。
最早、逃げ去ることすらできなくなった山口を…
月光を背負い、夜の支配者として君臨する紫の瞳が見下している。
潮騒は、断末魔の余韻を無慈悲にかき消していく。
「イーファン」は、抜き放ったままの二振りの得物――
その美しい刃紋に付着した、下卑た男どもの不浄な脂と血を、懐から取り出した布で丁寧に、そして執拗に拭い去った。
その動作は、周囲が血の海と化している凄惨な現場に立っているとは思えないほどに優雅で、どこか神聖な儀式のような静謐さすら湛えている。
…彼は、かちり、と澄んだ音とともに、剣と刀をそれぞれの鞘に納めた。
「…さて」
紫の瞳が、砂浜に無様に転がっている生き残りの屑に向けられる。
…山口・アンジェロ。
鼻の骨を砕かれ、顔面は自身の血で赤黒く汚れ、腹を踏みにじられた衝撃で内臓を痛めたのか、胎児のように丸まって震えている。
恐怖と屈痛にまみれたその姿は、もうただの哀れな負け犬に過ぎなかった。
「イーファン」は、波打ち際の砂に放り出されていた、大型水中銃を無造作に手に取った。
ずしり、と重い冷徹な金属の感触を、恋人の肌を愛でるように指先でゆっくりとなぞる。
「ひ、ひいッ…やめ、やめてくれ…」
「…」
男の意図がわかったのか、砂浜に倒れる山口の目を、真っ青な恐怖の色が塗りつぶした。
「金か?金ならいくらでも出す!
叔父上に言えば、お前を一生遊んで暮らせるように…ッ!」
「ふむ…」
「イーファン」の声は、春の陽だまりのように穏やかでやさしく。
それ故に、聞く者の心根を氷結させるような底知れぬ狂気を孕んでいた。
「あんたは随分、これでの『狩り』がお好きやったようですからねぇ?」
「イーファン」は、慣れた手つきで…水中銃の切っ先を、山口に向けた。
そして、撃つ。笑顔で。
…放たれた第一の銛が、獲物の右腕を正確に貫いた。
「ぎゃあああああああああああああッ?!」
静かな砂浜に、喉を引き裂くような絶望の絶叫が木霊する。
だが、「イーファン」はその悲鳴を、心地よい子守唄でも聞くかのように。
紫の瞳を細め、見つめている…
「まずは、右」
そして、間髪入れず発射。
逃げようと這いずるアンジェロの左脚の付け根が射抜かれ、彼は全身を弓なりにさせて悶絶する。
「左脚」
さらに、腹。そして左肩。
銛が肉を裂き、骨を砕いて突き刺さるたびに、山口・アンジェロの身体は生き魚のように砂の上で跳ね、ねじれ。
限界を超える激痛が、彼の精神を内側からがりがりと削り取っていく。
「イーファン」は致命傷となる急所…心臓を、わざと外して撃つ。
五本目の銛は、右脚に。
そして、最後の六本目は…
「…無様に泣き叫んでくんな、お兄さん?」
「イーファン」の端正な顔が、青白い月光の下で禍々しく歪んだ。
人魚姫の脚を傷つけ、そのいのちを蹂躙しようとした男への底なしの憎悪が、その歪な笑みを彩っていた。
最後の銛の切っ先が、アンジェロの両脚の付け根…股間に向けられた。
「やめろ、それだけは…
頼む、それだけは許して…許してくれェ!」
必死の懇願を、鼻先で笑い飛ばして。
冷徹な指は、引き金を絞った。
夜の海に、これまでのどの叫びよりも高く、鋭く、
そして、魂が完全に崩壊するような断末魔が響き渡った──
六本の鉄の銛が、そのひょろ長い男の身体のあちこちに突き刺さっている。
急所を銛に貫かれ、もはや人間としての尊厳も形も保つことすらできなくなった山口・アンジェロ…
その顔には死への底知れぬ恐怖と、全身を焼くような耐え難い苦痛からあふれ出した涙がぼろぼろとこぼれ落ち、夜の砂を無惨に濡らしている。
かつて他人の苦悶を肴に酒を食らい、その悲鳴を嘲笑った傲慢な瞳も。
今はただ、絶望に濁った光を湛えて、救いのない虚空を仰ぐばかりだ。
それを見つめる「イーファン」は…
彼の顔には、復讐を遂げた達成感も、ましてや哀れみや慈悲といった感情も一切なかった。
あるのは、ただ深く、暗く、冷徹なまでに透き通った底なしの虚無。
彼は無造作に、腰の鞘から再び片手剣を抜き放った。
月光を浴びて凍てつくような青白い輝きを放つ白刃が、残酷な処刑の再開を告げる。
そして、彼は斬った。
鋭い斬撃が、山口の脚の肉を深く、骨に達するまで正確に裂く。
斬る、斬る、斬りつける。
「イーファン」は、まるで舞台で舞を舞うかのような優雅な動きで、剣を振るう。
しかし、その剣に込められた殺意は、執拗なまでに…山口の脚へと集中していた。
何度も、何度も、何度も。
機械的な正確さで、同じ場所を、あるいはさらに深い場所を刻み続ける。
「…あんたのきったねぇ脚なんざ、何の価値もありやせんが、ね」
「イーファン」の低い声が、寄せては返す波の音に混じって響く。
ナギサが味わわされた、計り知れぬ哀しみを思えば。
目の前の醜悪な男にどれほどの苦痛を与え、その肉を細切れにしたところで…
天秤の皿が釣り合いを取ることなど、万に一つもありはしない。
──けれども。
冷徹な執念が宿る刃は、止まることを知らない。
何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、
そのうち、山口の脚、太ももからも脛からも肉が剥ぎ落とされ、まるで獣に喰われたかのような惨状を呈する。
それはすでに生物の器官としての体を成さず、ただの無残な、赤い肉の残骸へと変じ果てていった。
初めこそ狂ったように砂を掻き、のたうち回っていた山口だったが…
やがて、過剰な苦痛に神経が焼き切れ、溢れ出す出血がいのちの限界をあっさりと超えた。
最後には、弱々しい痙攣が指先に一度だけ走り。
そして、不快なほど饒舌に虚飾を吐き散らしていたその口は…
二度と開くことなく、永遠の静寂の中に事切れた。
山口・アンジェロという男の身体が、ただの抜け殻になったことをその紫の瞳が確認するまで。
そこまで見て、ようやく…
「イーファン」はその苛烈な、そして狂おしいまでの攻撃を止めた。
切っ先から絶え間なく滴り落ちる汚れた血を、彼は一瞥もすることなく。
ただ、静かに…夜の海へと視線を向けた。
夜は、もうすぐ明けていく。
砂浜には、ただ潮騒だけが虚しく響いていた。
「イーファン」は、死体となって転がる男たちの元へ歩み寄る。
その足取りには微塵の迷いも、自身の行いに対する忌避感もない。
まるで、戦いの後にそうすることがあらかじめ組み込まれている精密なルーティーンであるかのように。
彼の身体は自然に、そして冷酷に動いていた。
手際よく、連中の懐を探り始める。
身分証明書、札で膨らんだ分厚い財布、指に嵌められた趣味の悪い成金趣味の貴金属――
金目のものを無表情に奪い取っていくその手つきは、恐ろしいほどに熟練していた。
奪った財布の中身を確認することすらしない。
それは強欲ゆえの略奪というよりは、有用な資源を効率的に回収するというような、ひどく事務的な作業だった。
…必要なものをすべて奪い終えてから、最後に。
「イーファン」は山口・アンジェロの冷たくなり始めた左手を掴み、自らの手元へと引き寄せた。
「…」
無言のまま、彼は懐から一振りの小刀を取り出す。
月光を受けてぎらり、と光るその刃先は、迷うことなく山口の左手薬指へと向けられた。
狙いは、その皮膚の下に深く埋め込まれているはずの…バイオメトリクスIDタグチップ。
特権階級に生きる者たちが、己の身分、銀行口座へのアクセス権…そして居住区のセキュリティをパスするために体内に埋め込む、機械の刻印。
「イーファン」は躊躇なしにそこへと刃を突き立てた。
苦痛に歪んだまま硬直した死体の指から、肉を裂き、鈍い音を立てて、生体チップをえぐり取る…
そして、ぽろり、と。
血まみれの小さな、しかし男のすべてが詰まったチップが、彼の手のひらに転がった。
「…」
何故か、自分は「ここ」にチップがあることを、最初から知っていた。
あの村の「代官(ガバナー)」、「佐藤・イーファン」の時もそうだった。
自分の年齢も、本当の故郷も、これまで何をしてきたのかすらも、
己にまつわることは何一つ、まともに思い出せないほどに記憶は無残に欠落しているというのに。
…自分の本当の「名前」すら、思い出せないと言うのに。
だが、何故か。
抗いようのない確信が、魂の奥底で脈打ち、こう告げているのだ。
『敵を倒し、無力化させたなら…
最後に相手の左手の薬指から、その人物のバイオメトリクスIDタグチップを奪わねばならない』
そう、頭のどこかにこびりついているのだ。
それは、おそらくは…自分の呪わしい過去、その何かにつながっている。
ぼんやりした、だが確信めいた感覚。
奪い、成り代わり、元の持ち主の痕跡をこの世から抹消する。
自分は、単なる流れ者などではない…おそらくは。
そのぼんやりとした、だが逃れようのない…冷徹で確信めいた感覚。
指先についた男の返り血が、夜の冷気で粘り気を帯び、不快な鉄錆の臭いを放つ。
「イーファン」は、手のひらの上の血まみれのチップを、まるで見知らぬ自分自身の断片を見るような目で見つめる…
そして、感情を排した声で。
静かに、誰に聞かせるでもなく、こう呟いた──
あたかも、それが自分が殺めた男への唯一の手向けであるかのごとく。
「僕の『名前』は…これから、『山口・アンジェロ』としましょうか」
潮風が、重苦しい鉄錆の臭いを孕んで夜の海へと抜けていく。
それはつい先ほどまで繰り広げられていた、一方的な屠殺の余韻そのもので。
だが、砂浜にはもう、いのちの爆ぜる音も、慈悲を乞う無様な叫びも、何一つ響かない。
「イーファン」は、沈黙した山口・アンジェロと、その成れの果てとなった部下たちの死体を、海岸に留め置かれた大型のモーターボートへと次々に投げ込んだ。
かつては悪辣な遊びの道具であったはずのボートは、今や…
無残な肉塊、あるいはただの処理すべき廃棄物を運ぶ道具へと成り果てている。
彼は船底に無造作に転がしたそれらを、感情を排した瞳で見下ろした。
血に汚れた甲板に月光が反射し、どす黒い染みが不気味な模様を描いている。
最後に彼は、ボートの舳先を、沖に向け。
エンジンをかけ、最大出力で固定した。
「…」
咆哮のような重低音のエンジン音が、夜を切り裂き。
ボートは、生者を一人も乗せぬまま、白波を激しく海面に立てながら、黒い海上を疾走し始める──
このまま制御を失い、沖合の鋭い岩礁にでも激突して木端微塵になるのか。
あるいは燃料が尽きるまで広大な海を彷徨い続け、最後には静かに海の藻屑となるのか。
…そんなことは、もうどうでもいいのだ。
紫の瞳の男は、返り血を浴びた己を海で清めすらせぬままに、静かに漁村へと続く夜道を歩き始めた。
一歩、また一歩と村の境界へ近づくにつれ、波の音に混じって、どこか懐かしく、そして今の自分にはあまりにも眩しすぎる「人の生活」の気配が漂い始める。
「…!」
道の向こうから、暗闇を切り裂く一筋の灯火が揺れている。
遠目でも、わかった…エイミス・豊、お豊の姿だ。
彼女もまた、夜道に立つ自分に気づいたようで。
行方の知れなかった「イーファン」の無事を確信した安堵の色を浮かべながら、早足で近づいてくる。
「イーファン!どこへ行ってたんだい!
ナギサが…」
目覚めたよ、と言いかけて、お豊の言葉は飲み込まれた。
…言葉を失う、とはこのことだった。
お豊の持つ明かりが照らし出したのは、昨日まで自分たちと卓を囲み、穏やかに微笑んでいたあの青年ではなかった。
月光の下で、「イーファン」の全身は…明らかな血で染まっていた。
死の色彩に塗り潰された着物を纏いながら、平然と立っている。
…すなわち、それは彼の血ではない、ということ。
返り血は彼の端正な頬や首筋にも飛沫となって飛び散り、それはまるで鮮やかな紅を引いたような残酷な美しさと、背筋を凍らせるような禍々しい殺気を同時に放っていた…
「…」
何よりも、お豊を戦慄させたのは、その瞳。
あの、明るくやさしく笑っていた、何処か奇矯な青年のものでは、もはやなかった。
同じ、紫の瞳…
だが、今の彼の瞳は、底なしの深淵のように暗く、他者の介入を許さない冷徹な光を宿している。
「…」
重苦しい沈黙が、二人を隔てる。
お豊の持つ明かりが、彼女の腕の震えに呼応して、恐怖で細かく、激しく揺れていた。
目の前に立つ男が、自分たちの知る「イーファン」ではない別の何か…
あるいは、本来彼がそうであったはずの「怪物」に変貌を遂げてしまっていることを、彼女の直感は告げていた。
「お豊殿。
…我は、もうここには居られなくなったようなんだよね」
「イーファン」の声は、驚くほど静かで、凪いでいた。
それは先ほど男たちのいのちを冷徹に削いでいた時と同じ、平穏で、それゆえに逃れようのない非情な響き。
「あんた…一体、何をしたんだい…?」
「…これ、ナギサ殿の薬を買うのに使ってくんな。
それと、余った分は村のみんなで」
お豊の震える手に、彼は奪い取った金品の大半…ずっしりと重みの増した財布や、無理やり引きちぎった貴金属の束を、断る隙も与えず強引に押し付けた。
それは「イーファン」として過ごした束の間の平穏な日々への不器用な対価であり、同時に彼がその平穏を自ら汚したことへの贖罪でもあった。
その金の出処が死人の血に染まっていることを問い詰める余裕すら、お豊にはなかった。
「こんなに…?!
冗談じゃないよ、あんた、一体どうしたんだい?!」
「…あは。
皆さんには、本当にお世話になったから」
ようやく、彼は弱々しく微笑んだ。
そこに、やっと…お豊たちが見慣れた、彼の笑顔がかすかに戻る。
「それじゃ…」
「イーファン!」
背を向け、闇の中へと消えようとする「イーファン」。
その背中に向かって、お豊がたまらず叫んだ。
その声は夜の静寂を震わせ、去りゆく男の足を、まるで見えない鎖のように力強く引き止める。
「…ナギサが、ナギサがあんたに会いたがってるんだ!」
「…」
耳朶を打つ、彼女の「名前」。
彼の足は、ぴたり、と止まった。
「最後に、最後でもいいから…一目だけでも会ってやっておくれよ」
「…それは、できません」
ゆっくりと、彼は振り向いた。
月光の下、その顔には。
これまでお豊が見たこともないほど、哀しく、そして透き通った微笑が浮かんでいた。
その微笑みは、この漁村で無垢な日々を過ごした「イーファン」が最後に見せた…消え入りそうな、灯火のような輝き。
「こんな姿を、ナギサ殿に見られたくないから」
「…」
お豊は最早彼をとどめる言葉を失い、立ち尽くす。
「あ、でも…これだけは伝えといてくれないかしら?」
そんな彼女に、彼はふと思い出したように。
かつての「イーファン」らしい、少しだけの悪戯っぽさを混じえながらも…その眼差しの奥に冷たい確信を込めて、こう言った。
「あの、『代官(ガバナー)』のクソ甥っ子は…もう二度とあらわれません、と」
「…」
お豊は悟らざるを得なかった、彼が何をしたのかを。
だから、そのまま…彼が去るのを、見届けるしかない。
「ありがとう、お豊殿。ナギサ殿にも、皆さんにも」
「…イーファン、あんたこそ」
様々な想いが、強く強く胸を締め付けたから。
彼女は、重いため息とともに、彼に向けてそういうのが精一杯だった。
「いいえ」
紫の瞳の男は、月光に溶けるように。
そして自身の存在を消し去るように、弱々しく微笑んで。
最後に、こう告げた──
「あたしの『名前』は、もう…『山口・アンジェロ』です」
男は再び前を向き、闇の奥へと歩み出す。
行く宛もなく、帰るべき場所も持たず。
ただ、鉄錆のような血の臭いのする、闇に塗り潰された孤独な道を…
短いが、あたたかい日々を過ごした漁村を去り。
男は歩く、ただ道を往く。
…ふと、彼は懐から、小さなものを取り出した。
それは…ナギサが彼に贈ってくれた、真珠の入った革袋。
「…」
彼は、それを慈しむように見つめ、指先でその柔らかな感触を丁寧に確かめる。
中に入った大粒の真珠が、かすかなあたたかみを伝えてくる。
それはまるで、遠い渚で彼を呼び続ける人魚姫の、切なくも美しい鼓動のようであった。
「イーファン」は…いや、「山口・アンジェロ」は。
その袋を、壊れ物を扱うようなやさしさで握りしめると、そっと…
己の、左胸に当てた。
瞼を閉じれば鮮明に、色褪せることなく蘇る。
あの愛おしい、海の中で真珠のように輝く人魚姫の姿が──
これから歩む、「山口・アンジェロ」としての地獄の道の中で。
この革袋に閉じ込められた真珠の輝きと、彼女の思い出が…
彼のこころをあたたかく照らす、導きになってくれることを祈る。
男は、暗闇の深淵へと、その姿を静かに消していった。
何処へ向かうのか、何処へ向かうべきなのか、己すらその答えを見いだせないままに。
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