乾いた砂塵が、熱を帯びた街道の先でかすかに渦を巻く。
着物姿の、長身の男――
今は「山口・アンジェロ」と名乗るその男は、一歩ごとに己の存在を大地に刻みつけるような、確かな足取りで歩を進めていた。
その容貌は、荒涼とした景色の中で異彩を放つ。
ヒトならぬ紫の瞳が瞬くその顔は、美しい彫刻のように整っていて。
鴉の濡れ羽色を思わせる艶やかな黒い長髪は、後頭部で無造作ながらきりり、と、一つに結ばれている。
着流しの裾が風に持て遊ばれ、歩みに合わせて不規則なリズムを空中で刻む。
その佇まいは、まるで古い絵画から抜け出してきた剣客の如く。
腰に差しているのは、二種類の戦意…
それぞれ鞘に収まった、西洋片手剣と日本刀。
それらは言葉を放つことなく、彼の持つ隠しきれない危うさをいっそう鋭いものにしていた。
「アンジェロ」は、ただただ淡々と…人気のない道を歩き続けていた。
が、緩やかな坂を下り、視界が開けたところで…
彼の歩みが、止まった。
…前方の路傍、斜めに傾いた巨大な影が横たわっている。
それは、古びた帆布がこんもりと覆って屋根を作っている、幌付きのトラック。
どうやら、車輪の一つが路肩の深い泥濘に足を取られたようで、無様に傾いている…
運転席から出て何事かを言い合っている、男性が二人。
周囲には、わずかに焦げ付いたオイルの臭い。
「…難儀しているようだな」
「アンジェロ」の唇から、涼やかな声がこぼれた。
その声に、途方に暮れたように立ち尽くしていた二人が、声の主に目をやる…
一人は、黒いサスペンダーを恰幅の良い腹に食い込ませた、熊のような体躯の中年男性。
もう一人は、対照的に…柳のようにしなやかで華奢な青年。
「あ…」
「…」
「お困りかい?
手が必要なら、貸さぬこともないのですよ?」
「アンジェロ」が歩み寄ると、中年男性の方が弾かれたように顔を上げた。
その顔には、困惑と…そして「アンジェロ」の浮世離れした姿に対する驚きが浮かんでいたが。
すぐに、人付き合いの良さを物語るような温和な笑みが、彼の顔に広がった。
「ああ、見ての通りですよ…
飛び出てきた野犬に驚いてハンドルを変に切ったら、運悪く地盤の緩いところに踏み込んじまってね」
「あらあら」
「おや、これは申し遅れました…
私、桂・レオニートと申します」
中年男性はにっこり、と笑って、軽く会釈。
「アンジェロ」も思わず、それに習う。
そしてその隣で、肩まで届く柔らかな金髪を揺らし、泥に汚れた手を拭っていた青年…
「こちらが私の息子、ルカです」
「桂・ルカです…よろしく」
父に習い、彼も軽く頭を下げた。
彼の顔を見やった「アンジェロ」は、おや、と思う。
父親の愛嬌のあるタイプの顔立ちとは、大分違っていて。
その顔立ちはあまりに整っており、一瞬、女が男装しているのではないかと錯覚させるほどの繊細で美麗な顔立ち。
しかし彼はそれなりに長身で、すらり、としている…
「手助け、しましょうかねェ?」
「アンジェロ」は歩み出、着流しの袖をまくり上げた。
剥き出しになった前腕には、数多の修羅場を潜り抜けてきた者にしか宿らぬだろう、鋼のような筋肉。
それは単に鍛えられた肉体というよりは、何か異質な工芸品のような、無機質な強靭さを感じさせるようなもので。
「え、手伝っていただけるんで?」
「けど、積み荷がめちゃくちゃ重いから…」
「まあまあ、やってみましょうよ!」
着流しの男がへらへら、と笑いながら、二人を促す。
三人揃って傾いた車、車体に手をやり。
「親父、腰やるなよッ?!」
「わ、わかっとる!」
「そんじゃあ、行こうぜ!…せえのッ!」
掛け声とともに、三人は力いっぱい両腕に力を込める…!
次の瞬間、「アンジェロ」の全身の細胞が沸騰し。
爆発的な膂力が、トラックの車体へと伝わる…
「?!」
アンジェロが鼻歌まじりに力を込めた瞬間、レオニートは奇妙な光景を目にした。
トラックの巨体が浮き上がる際、アンジェロの足元――
乾いた硬い地面が、まるで巨大な圧力に押されたかのように、彼の足の形に深く沈み込んだのだ。
レオニートとレオの顔に、驚愕。
ずっしりと腕にかかっていた重量が、一挙に軽くなった。
見れば、掴んでいたはずのトラックのシャーシは…浮いているのだ、自分たちの手のひらよりもずっと上に。
いや違う、この男が軽々と泥濘から車を引き抜き持ち上げたのだ…ほぼ一人の力で!
みし、みしと軋む幌の木枠の音。
ルカが息を呑み、レオニートは慌てて車体を道側に押し。
「んじゃあ、そっちのほうに押しちゃうなりよォ?」
「アンジェロ」が、ふざけた口調のまま、トラックの重量をまるで意にも介さぬように。
ゆっくりと、車を持ち上げたまま、押し込んでいく…
みしり、と大地が悲鳴を上げる。
本来なら彼の背骨が自重と負荷で砕けてもおかしくない重量。
だが彼の表情は涼やかで、汗一つかいていない…
トラックは、無事に元の姿勢を取り戻した。
車体が安定したことを確認すると、「アンジェロ」は静かに身を起こし。
ぱん、ぱん、と埃を払い、軽く乱れた着衣を整えた。
にっこり、と微笑む「アンジェロ」に、レオニートが駆け寄った。
その瞳には、今や畏怖に近いような驚きが宿っている。
「信じられん…あなた、一体何者なんです?
とんでもない腕力だ」
「それがねェ…自分にも、まったくわかんないんすよ」
「わからない?」
「あー、記憶喪失、って奴っぽいんですよね、拙者」
「アンジェロ」は乱れた髪を指先で整えながら、そんなふうに言って、また微笑って見せる…
自分のことがわからないなど、とんでもなく恐ろしいことのはずにも関わらず。
だが、目の前の青年は、軽く眉根を下げて「困ったなぁ」といった顔をしているだけで…
「…」
「…」
その平然っぷりに、レオニートとルカは顔を見合わせる。
こいつは、随分と…変わった御仁のようだ。
だが、しかし…
この記憶喪失の美青年は、親切にも縁もゆかりも無い自分たちを助けてくれたわけで。
「あの…よかったら、礼をさせてくれませんか?」
「え?」
「もし良ければ、荷台に乗っていきませんか?
この先の道は、歩くには少々長すぎる。
…日没後の街道は、碌でもない連中がうろついているからね」
レオニートの申し出は誠実だった。
「アンジェロ」は目をぱちくり、と瞬かせた後、くすり、と微笑んだ。
「恩にきるですよ!
いやぁ、助かります…ホンマに!」
「じゃあこっちに乗ってくれよ、お兄さん」
「はぁい!」
「アンジェロ」はルカに促され、トラックへと乗り込んだ。
幌のついた荷台の中には様々な箱が積まれており、先程の脱輪の影響か、少し崩れかけている。
そして、傍らには様々な道具類…そこには旅の生活感が染み付いていた。
ルカは素早く目線を走らせ、そして手際よく崩れかけていた荷物をきれいに積み、固定して。
「親父!商品は大丈夫みたいだ、ちょっと箱が崩れただけ」
「おお、よかった…!
それじゃ、出発するぞ!」
「あいよ!」
運転席に座った父と会話を交わし、「アンジェロ」の向かい側に腰を下ろす。
エンジンが再始動、振動が二人の乗る荷台を揺らす…
トラックは走り出す、少しずつ夕焼けが濃くなっていく道を。
「アンジェロ」は薄暗い荷台の隅で、揺れる帆布の隙間から流れる景色を見つめている…
「あんた…本当に記憶喪失なの?」
「はいなァ」
ルカが金髪を指で弄りながら、少し勘ぐるような顔でそう問いかける。
着流しの男は、相変わらず能天気に笑いながら答える…
「じゃあ、何処まで行くつもりなのさ?」
「わかんない、んだよなぁ。
とりあえず、何処かへ」
「ふうん…
何処か、行きたい『街(タウン)』とかないの?」
「たうん?」
要領を得ない男の返答に、ルカはなおも聞く。
が、「アンジェロ」は…その単語を鸚鵡返しにし、軽く首を傾げた。
「…え、っと。
そんなことも、わかんないの?」
「うん、わかんない」
この国に住んでいるものなら、当たり前に誰でも知っているはずの単語…
それすらも理解できない、思い出せないようだ。
どうやらこの男の記憶喪失、かなり度が深いようだ。
「…いいよ、教えてあげる。
いくら何でも、知っとかないとまずいよ…それくらいは」
「あっ、助かります!
あたいに色々教えて頂戴でございますわ!」
ため息を付きながらそう申し出たルカに、着流しの男はうれしそうにまた、へらへら、と笑う…
トラックの荷台は、時折跳ねるような不規則な振動とともに街道を往く。
帆布の継ぎ目から漏れ出す西日は、埃の舞う暗い車内に一筋の光の帯を投げかけ、ルカの金髪を黄金の糸のように輝かせている。
その美しさは、周囲の薄汚れた荷物や油の臭いとはあまりに不釣り合いで、どこか幻想的ですらある…
「俺達は、『街(タウン)』から『外縁部(アウトサイド)』へ色々なものを売って回る行商人…
ま、便利屋みたいなものだよ」
ルカは、積み上げられた古びた木箱の隅に腰を下ろし、慣れた手つきで在庫の帳面を確認しながらそう言った。
指先がページをめくるたび、かさり、という乾燥した音が車内に響く。
その見た目こそ、まるで貴族の息子であるかのように美しい形貌をしているものの。
白くほっそりした彼の手、指は、それでも表皮は荒れて軽くかさつき、爪の間には消えない汚れ…
つまりは、彼もまた、過酷な労働を必死で担う者であることを示す。
「へえ、行商…」
「アンジェロ」は、その言葉の響きを喉の奥で確かめるように繰り返した。
彼の脳裏に、ふと、断片的な映像がよぎる。
乾いた土を耕し、細い命を繋ぐ農民たち、潮の香りが染み付いた海女小屋の海女たち。
エンリケス家の村や、ナギサのいた海辺…
彼らが送っていたのはごく素朴で、しかし厳しい生活。
「『外縁部(アウトサイド)』は、まだ『大戦争』からの復興が全然できてないからね。
喰い物はあっても、それ以外が圧倒的に足りない。
…移動しようにも、簡単じゃないしね」
「はへぇ…」
なるほど、確かに。
「アンジェロ」が歩いてきた場所でも、皆、どこか慎ましく…
だが、「貧困」という言葉を拭い去れない、自分たちの不遇を騙し騙し暮らしをしていた気がする。
自給自足、と言えば聞こえはいい、が。
それは、圧政と権力によって選択肢を奪われた末の、取りうる唯一の生存戦略なのだ…
「アンジェロ」は感心したように、深く頷いた。
「…ったく、『大戦争』から大分経つってのに。
いい加減、もうちょい何とかなってもいいのになぁ?」
…と、ルカがさらりと口にしたある単語。
それに彼は、静かな波紋が広がるような違和感を覚えた。
「…『大戦争』?
何ぞ、それ?」
「あんた、本当にそんなこともわからないの…?」
ルカが帳面をつける手を止め、呆れたように…あるいはその無垢なまでの無知を哀れむように眉を寄せた。
紫眼の男を見る彼の瞳には、この屈強な男が本当に記憶を根こそぎ奪われてこの世界に放り出されたのだ、という、事実への困惑と好奇心が混じっている。
ルカはため息をつき、「アンジェロ」を見やって。
改めて、説明してやる…
今この国、J国に住んでいるものなら、誰もが理解している前提を。
「この国も、かつては『黄金の国』なんて呼ばれてた頃があったらしいよ。
けど、それを台無しにしたのが、十数年にも及ぶ果てしない戦争…『大戦争』さ」
「ほぉ」
「国中が破壊され、人が大量に死んで。
その結果、殆どの場所が再起不能なまでに荒れ果て…十数年たった今ですら、こんなザマさ。
今も一応、『停戦中』、ってことにはなってる」
はあ、と、ルカが放ったため息が、暗闇の中に散っていく。
「この国が誇っていた高い科学力…
それこそ、魔法みたいな技術だけど。
それは今はもう…国内に十数個しかない、『高度都市(メガロポリス)』の中にだけあるのさ」
そう言い捨てるルカの美貌が、軽い嘲りと憎しみで歪んだ。
そこに、「アンジェロ」は感じる。
彼ら罪無き民が、どのような扱いを「彼ら」から受けているのか、と。
「厚い鋼鉄の壁で自分たちを囲い込んで、さ。
そこだけは、まるで戦争なんてなかったみたいに…
選ばれたお偉い連中が、清潔で安全な世界を愉しんでるらしいぜ」
「…『高度都市』」
「アンジェロ」は、その単語を噛み締めるように呟く。
帆布の隙間から見える荒野の向こう側、その果てにあるだろう…閉ざされた聖域。
「けどさ、そこに住む連中の贅沢を守るために、この国のリソースの大半が吸い込まれていきやがるんだ。
『街』から電気が奪われ、『外縁部』の子どもたちは飢えて死んでいく…
そのくせ『高度都市』の奴らは、何も生み出さないどころか。
この国のエネルギーや資源を、まるで巨大な寄生虫みたいに貪り喰っているのさ」
あたかもルカは反吐でも吐き捨てるかのように、激烈な物言いでそう評した。
「…そいつぁ確かに、不公平だァな」
「ああ。
だから都市を取り巻く『街(タウン)』や、食糧生産地である『外縁部(アウトサイド)』…
そこはだいたいモノがないのさ。
だから、俺達みたいな行商人が、その隙間を埋めるために必要…ってわけ」
ルカはどこか自虐的な笑みを浮かべ、近くの木箱をこんこん、と叩いた。
その中にはおそらく、そうそう「街」や「外縁部」では手に入らない、そこに住む住民たちにはとてつもなく貴重な品々が詰まっているのだろう…
会話は、そこで不意に途切れ。
トラックは再び大きく揺れ、夕陽のきらめきを反射して、美しくオレンジ色の輝きを放つ。
ぱたん、と帳面を閉じたルカが、ふと「アンジェロ」の顔を真正面から覗き込んできた。
西日の残光が地平線の彼方に沈み、薄暗い影が支配し始めた荷台の中で、「アンジェロ」の双眸は燐光を放つように奇妙な輝きを湛えている…
それは夜の深淵を凝縮したような、あるいは禁忌の果実の汁を滴らせたような、あまりに人工的で鮮やかな色彩。
「あんた、…えーと」
「名前」を、呼ぼうとして。
それを彼自身が知らないのかもしれない、と感じ、一瞬躊躇ったルカ。
彼に対し、男は微かに…だが優雅に口角を上げ、どこか人を喰ったような笑みを浮かべた。
「あは、…『山口・アンジェロ』。
アンジェロ、って呼んでくんなァ。
とりあえずかっぱらってきた、仮の『名前』でしてよ?」
おどけた口調の中、その声音にはどこか艶っぽい甘さ。
その捉えどころのない、幾重にも仮面を重ねたような佇まいに、ルカは眉をひそめながらも。
ふと、自身の好奇心のまま、不可思議な旅人に問いを投げかける。
「アンジェロ、あんた…
目の色が紫だけど、コンタクトでもしてるの?」
「こんたくと?いや、んなもんしてねぇんだなあ、これが?」
「アンジェロ」は、まるで自分の瞳の色なんぞには露ほどの興味もないかのように、小首をこてん、とひねる。
その仕草は無垢な子どものようでもあり、同時に観客の反応を楽しむ熟練の役者のようでもあった。
しかし、ルカの驚きには確かな根拠があった。
暗がりの中でも自ら微かな光を湛えるような、吸い込まれるほどに深い、危うげな紫紺。
それは、純粋な自然の摂理や突然変異の範疇で生み出される人間の色彩ではない。
ならば、その紫はおそらく、人工的な意志によって鋳造されたものだと考えられる…
「じゃあ…人体改造(アジャストメント)でも受けた、ってこと?」
遺伝子を書き換える、人体のパーツそのものを高機能なデバイスに置き換える…
そういう類の調整(アジャスト)。
この時代、そんな精密な芸当ができる施設は限られている…
もちろん、「高度都市」の人間、このJ国でもひとつまみの人間しか使えないような技術。
「…さあ?
わちきには、もう何もわからないんでありんすよ」
「アンジェロ」は淡々と、他人事のように答える。
そんな不思議な男に、ルカはこんなことを言った。
「あんた、もしかしたら…『高度都市』のひとだったのかもね」
「…僕が?」
「うん。
だって、そんな…
身体を自由にデザインして変えられる場所なんて、この国にはもう『高度都市』しかないからさ」
ルカの言葉に、「アンジェロ」は無意識に自らの手のひらを見つめた。
トラックの重量を易々と持ち上げたあの膂力。
この不自然な紫の、闇に輝く瞳。
そして…敵を切り裂く、残虐な剣術という技術。
それらはすべて、彼が泥を這って生きる「外縁部」の人間ではないことを、雄弁に、そして残酷に証明しているようだった。
「…もし、僕がその都市の住人だったとして」
紫の瞳の男の表情が、にわかに真剣なものになる。
「その、『高度都市』に行けば…何か、思い出せるだろうか?」
「アンジェロ」の、消え入りそうな呟き。
それを聞いたルカは、何かを決意したかのような表情で立ち上がる。
にっ、と、着流しの男に向けて笑いかける、笑うとなおさら美貌が引き立つ。
「…なら、俺達が手近な『高度都市』の近くまで連れてってやるよ!
どうせ、その近くの『都市』で次の仕入れもする予定だったしな…
運がよかったら、あんたのことを調べられるかもよ?」
「えっ、よろしいんで?!」
思いもかけないありがたい申し出に、飛び上がるように喜ぶ「アンジェロ」。
ルカはははっ、と軽く笑い、荷台と運転席を仕切る鉄板の小窓を激しく叩いた。
「いいよな、親父?!
…この人を、『ンナゴヤ』まで連れてってやっても!」
ルカの声に、ハンドルを握り前を睨みつけていた父レオニートが、豪快な笑い声とともに応える。
その声は、重厚なエンジンの振動を突き抜けて、荷台の二人まで跳ね返る。
「ああ、もちろん大歓迎だ!
なあに、これも何かの縁、って奴だろうからな!」
「ンナゴヤ…」
「アンジェロ」はその聞き慣れない、少なくとも今の彼の意識には初めて上がる響きの地名を、口の中で静かに転がした。
残念ながら、自分の中ではその固有名詞は何にも繋がらなかったけれども。
「高度都市」のひとつ、ンナゴヤ…
選ばれた者たちが住まう豊かさの局地、かつてのJ国の繁栄が今だ甘受され、高度な文明が今も脈動し続ける場所…
そこに行けば、未だにそのかけらも見いだせない自分の過去、自分の記憶につながる何かを見つけられるだろうか?
トラックは、暗闇に紛れるように砂塵を巻き上げ、黄昏から夜へと変わりゆく風景の中をひた走る。
がた、ごと、と、荷台の上で揺られながら。
「アンジェロ」は紫紺の瞳を細め…薄雲の向こう、遠い空にようやく輝き始めた一番星を見つめていた。
その瞳が映し出す未来は、果たして何色をしているのだろうか?
日が暮れて、大地は急速にその熱を失い。
代わりに凍てつくような、そして底知れぬ静けさが支配し始めた。
昼間の熱気は嘘のように消え去り、夜風は肌を刺すような鋭利な冷たさを帯びている。
トラックを草原、わずかな風除けとなる巨大な岩陰に止め。
行商人親子は、手慣れた様子で石を囲んで小さな火を起こした。
爆ぜる薪の乾いた音と、煤けた鍋の中でことことと煮えるスープの香り。
湯気に混じるハーブと僅かなスパイスの香りが、かろうじてここにも人間が生きている、ということを主張していた。
火の粉が爆ぜるたび、夜の帳は一瞬だけ押し戻されるが、その外側には依然として底知れない暗黒が広がっている。
その暗闇の奥底では、光を嫌う何かが息を潜めてこちらの様子を伺っているような、不気味な気配が漂っている…
「…しかし、アンジェロさん」
レオニートは、使い古されて滑らかになった木さじで鍋の底を浚い、均一に熱が通るように混ぜながら…
人の良さそうな顔を少し訝しげにしかめて、「アンジェロ」を見やった。
焚き火の揺れる炎が、彼の商人らしいふくふくとした顔に、濃い陰影を落とす。
「何でまた、…剣なんて、時代錯誤なものを持ってるんです?
護身のためって言うんなら、拳銃一丁でも持ち歩くのが普通ですがね…」
レオニートの視線の先、焚き火の光を浴びる「アンジェロ」、その腰には…二振りの獲物。
ひとつは、重厚な造りで鍔の装飾がどこか古風な西洋式片手剣。
もうひとつは、吸い込まれるような反りの美しい日本刀…
「う〜ん、よくわかんない、ボク」
記憶喪失のせいなのか、あるいは脳のどこかが決定的に壊れているのか。
一人称も、語尾も、支離滅裂な喋り方をするこの美青年は、真顔で…
しかし、どこか幼い子どものように、おどけながらそう言った。
その瞳は焚き火の爆ぜる火花と、自らの瞳に宿る紫紺の影を複雑に混ぜ合わせ、得体の知れない深淵を覗かせている。
「あ、けれど、拙者…こいつで戦うことができますよ!
理屈じゃなくて、身体が勝手に動くんでござる!」
だが、彼には嘘をついている様子は一切無く。
こんなことまで、言ってのけるのだ。
「え、じゃあ、それ…本物、ってこと?
飾りじゃなくて」
「はい〜、ほら!」
「うわっ」
驚いたように身を乗り出したルカの疑問に、「アンジェロ」は…
自分の腰に佩いている日本刀を左手で鞘から抜き出し、ぎらり、とその刃の輝きを闇の中で照らしてみせた。
驚きの声を上げるレオニートとルカの目にも、それは明らかにおもちゃなどではなく…
ずしっ、とした重量感を感じさせる、研ぎ澄まされた刃金そのものに見えた。
親子は、思わず互いの顔を見合わせる…
確かに戦争で、このJ国の全体的な文明レベルは大いに後退した。
だが、それは「街」や「外縁部」が戦争以前の水準にまで回復していない、ということであって、戦前の粋を極めた高度技術がいまだ在る「都市」「高度都市」は別だ。
「武器」、と言えば、それこそ銃火器が当たり前で。
鋼鉄の刃を装備し、それを自在に操る技術を持つ者など…
それこそ電子映像の、前時代的な歴史ドラマでしか見られないもので。
後は、趣味でそういった絶滅しかけた古の流儀を偏執的なまでに継承する…
その手の武道家くらいだ。
…一体、この青年は何者なのか?
「あ、危ないなあ…しまってよ!」
「いや、本当に真剣、ですねえ…
模造刀ではないのですよね?」
「あいさ!」
ちょっぴり怖じるルカに、商人らしくまなじりを寄せ日本刀を見分するレオニート。
「アンジェロ」は、抜刀したその剣呑な輝きを再び鞘の中にしまい込みながら。
冬の終わりに唐突に咲く花のような、無邪気な笑顔で頷いた。
「あたくし、ちょっとした腕前だからよぉ…
もし、この先の道中で。
不埒な悪党が湧いて出たなら、身共に任せておくれよ!」
だが、まあ、しかしながら。
彼はどうやら、自分たちをその刃でどうこう、などとは考えてはいないようで。
むしろ、彼らを守ろうと申し出てくる。
「この刃で三枚におろして差し上げますわよ〜?
君たちの旅路を汚す不浄な連中は、僕が全部退治してあげるからね!」
「…はは、それは頼もしい!」
レオニートは、それを「アンジェロ」なりの風変わりな冗談だと思ったのか。
腹の底からからから、と豪快に笑って。
そうして、ふと…真顔になる。
焚き火の光に照らされた二振りの獲物を見て、レオニートが心配そうに声を潜めた。
「アンジェロさん、その…
『街』に入るときは、その獲物は布にでも包んでおいたほうがいい」
「あらあら、何でなんだぜ?」
アンジェロは、他人事のように首を振るも。
親子は心配そうな様子で、忠告する。
「銃ならまだしも、剣なんて骨董品…
そんなもん持ち歩いてたら、頭のおかしいやつだと思われるぜ?」
着流しの男は…へらへら、と笑みを深めるだけで。
「だが、まあ」
と、レオニートは、肩を竦める。
「こんな場所じゃ、ないよりはあったほうがいいかもしれませんけどね…
そういう武器は」
ため息をつきながら、商人が言う事には。
「確かに、時折そういった輩が出ますからね…
特にこの先…飢えた狼よりも質の悪い連中が潜んでいる」
「まったく、軍(アーミー)や警察(ポリス)なんてマジでいないからな、『外縁部』には!」
ルカが火に薪をくべながら、苦々しく付け加えた。
焚き火に照らされた青年の顔には、権力者たちの作り上げた不条理な社会構造に対する深い諦観が滲んでいた。
「高度都市」に隣接する「都市」や「街」であれば、治安を維持するための権力装置が形式上は機能している…
たとえそれが汚職に塗れ、腐敗しきっているとはいえ。
だが、そのさらに外側──
「外縁部」はひたすら無秩序な、そして徹底的に見捨てられた世界。
法律という言葉は死語となり、強者が弱者を踏みにじり、喰い荒らす。
行商を営む彼らも、これまでに何度も強奪目的の襲撃に遭い、文字通り死線を何度も潜り抜けてきたという。
その度に、彼らは世界の冷酷さと、自分たちの無力さを噛み締めてきたのだ。
けれども。
レオニートは、にわかに真剣な顔をして。
力強く、口にした。
自分の信念を、改めて確認するかのように。
「ですが、…それでも誰かがやらねばならないことですからね」
レオニートは、あたたかいスープの入った器を「アンジェロ」に差し出しながら。
瞳を、ひときわ眩い意志で輝かせた。
…商人としての誇り。
その輝きは、焚き火の揺らめく光よりも強く、揺るぎない熱を持っていた。
それは搾取と暴力に喘ぐ世界で、それでも気高く立ち上がる人間の矜持。
「こんな政府からも、神からも見捨てられた土地であっても。
懸命に土を耕し、細いいのちを繋いで生きている人々がいるんです。
村の皆さんは、何処だって…我々が運ぶ商品を首を長くして心待ちにしてくれていますから」
「…」
「皆さんを笑顔に、ちょっとでもできるなら。
…それが私の、そして先祖代々受け継いできた本当の『商い』ですよ」
「親父は、いつも」
ルカが、口添えする。
「『外縁部』の中でも、特に行くのが大変で見捨てられた村ばっかり選んで行こうとするもんな。
燃料やリスク、利益を考えれば…効率が悪いったらありゃしない」
息子のルカは、肩をすくめて呆れたように文句を言いながらも。
そんな父親の不器用で無垢な誠実さを、こころから誇りに思っているのか…
どこか眩しそうな、あたたかな笑顔で彼を見つめている。
ルカ自身も、その「非効率な、だが大切な商いの本道」こそが、自分たちの魂を摩耗から守り、誇りを繋ぎ止めていることを、深く理解している。
「当然のことだよ、ルカ。
待っている人がいるなら、商品を届ける。
それが我々にしかできない、大切な仕事だからね!」
父も胸を…恰幅の良いその腹ごと思い切り張って、ふふ、と満足げに笑う…
そんな親子が交わす会話。
強靭な精神に裏打ちされた、商人としての矜持…
猫舌なのか、あたたかいスープをなおさらに息で冷ましながら。
「アンジェロ」は、そのあたたかな光景を、眩しさに目を細めるように見つめている。
確かに、この国は、この世界は…残酷な場所のようだ。
けれども、まだ。
まだ確かに、やさしいひとたちがいる。
エンリケス家の父娘のように、ナギサたち海女のように、そして彼ら行商の親子のように。
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