肺が焼けるような感覚。
喉の奥に鉄錆びた血の味が混じり、呼吸のたびに胸が火を吹くように軋む。
それでも全身の筋肉を叱咤し、「山口・アンジェロ」は夜切り裂き、荒野を疾走する。
強盗団を先に殲滅しようと動いたが、迂闊なことに。
レオニートとルカ、トラックから離れたのと逆方向に、恐らく本隊がいたのだ。
拡がってしまったその距離を懸命に縮める…
やがて、視界の先。
深い闇に飲み込まれたその先に、不吉な硝煙の重苦しい匂いが、湿り気を帯びた不快な夜風に乗って漂ってくる…
一刻も早く、一秒でも早く――
その焦燥が彼の筋肉を限界まで引き絞る。
そうして、彼がようやくその戦場へと辿り着いた時。
彼の網膜に逆しまに映り込んだのは…
想像したくなかった、そうあってほしくなかった、凄惨極まりない光景。
「…あ、」
声にならない震えが「アンジェロ」の薄い唇から漏れ、夜の空気に溶けていく。
古びた幌付きトラックの傍ら、砂埃と泥にまみれて力なく倒れ伏しているのは、桂・レオニート…
その恰幅のいいの身体は、「都市(シティ)」の武器でだろう、数カ所を容赦なく穿たれ。
周囲の砂地はそこから流れ出た鮮血を吸い、月光を鈍く反射するどす黒い色を照らしている。
天を仰ぎ動かないその姿は、彼が死に刻一刻と近づいているのだ、ということを悟らせる。
…そして、「アンジェロ」の魂を凍りつかせ激しい嫌悪を呼び起こしたのは、そのすぐ傍らで繰り広げられていた蛮行。
そこでは、一人の男が――
章人・ダ・シルヴァが、逃げ場のない冷たい大地にルカを押し付け、その尊厳を執拗に、執念深く踏みにじり続けていた。
かつての栄光であったはずの「都市」の軍服を、汚辱と下卑た欲望で染めて。
抵抗もできぬまま四つん這いにさせられたルカは、延々と暴行され続けている…
何度も蹴り飛ばされるルカは、暴力的な衝撃と屈辱の血、そして絶望に染まり。
風に美しくなびいていた金糸の髪は、痛ましく乱れ。
その蹂躙は、単なる肉体的な損壊を超え、人間の魂そのものを削り取ろうとする悪意に満ちていた。
ルカの瞳からは、既に光が失われ。
ただ見開かれた瞳には、無機質な空虚だけが拡がっている…
「…やめやがれッ!」
それは、獣の咆哮のごとき怒号。
「アンジェロ」の喉から、激怒の感情がほとばしった。
その怒りに反応し、章人がゆっくりと…
愉悦と狂気でねっとりと濡れた顔を持ち上げる。
その瞳には、人間的な良心など微塵も存在せず。
ただ弱者をいたぶることで得られる浅ましい優越感と、支配欲だけが渦巻いている…
「どこから湧いてきやがった、てめぇ!」
章人が、ルカを弄んでいた時とは一変した、剥き出しの苛立ちが混じった声を上げた。
略奪と蹂躙という、彼にとって最も甘美で神聖な時間を邪魔された不快感が、その声をいっそう甲高く、耳を聾するほど不快に響かせる。
急に現れた邪魔者に意識を向けた章人が、ルカからようやく離れる。
精神的にも肉体的にも完全に破壊されたルカの身体は崩れ落ちる、糸の切れた操り人形のように。
やっと終わってくれた蹂躙に、彼はようやく意識を飛ばすことが出来た…
ふっ、と現実の全ては一旦深い闇の底へと遠のき、静かに目が閉じられる。
涙と土で汚れた顔をぐったり、と大地に預け、ルカは気絶してしまったようだ…
その無残な姿、そして汚された魂の残骸を目の当たりにした瞬間。
「アンジェロ」の瞳から、人間としての熱は、完全に消失した。
代わりに宿ったのは、全てを凍てつかせる絶対零度の殺意――
「山口・アンジェロ」という死神の、封印されていた本性。
周囲の強盗団の面々も、突如として砂塵の彼方から現れた不審な影に対し、口々に汚い罵声を投げかけながら、得物の銃口を一斉に向けた。
ぐるりを取り囲む十数人の武装強盗団が、「アンジェロ」にその胡乱な目線を投げる。
彼らは拳銃や自動小銃、ライフルを一斉に構え、獲物を逃がさないよう威圧する…
だが、その喧騒の中心に立つ着流しの男の姿を、改めて見やった瞬間。
章人の瞳にねっとりとした、濁った光が宿った。
獲物を冷徹に定める捕食者のそれであり、同時に異常な性癖を抱える倒錯者が極上の「玩具」を見つけた際の色でもあった。
…月光の下、漆黒の長髪を無造作に一つに結い、時代錯誤な着物に身を包んだその長身の男。
あたかも、電子映像の中から抜け出してきた古の役者のようだった。
荒野の砂埃にまみれ、死の匂いと鉄錆の香りが立ち込めるこの凄惨な現場においてすら、彼の佇まいは汚れを知らぬ高潔さめいたものを漂わせている。
ゆったりとした着物の上からでも容易に見て取れる、無駄な脂肪を一切削ぎ落として、極限まで引き締まっているだろう、筋肉質の身体。
そして何より、その整いすぎた美貌…
涼やかな目元に宿る冷徹な光は、暴力と略奪に明け暮れるこの荒野においてはあまりに場違いで、むしろ官能的なまでに異彩を放っていた。
圧倒的に、徹底的に蹂躙してやれば。
この誇り高そうな顔を、ぐちゃぐちゃにして、絶望に染め上げれば。
さぞかし、こいつも…この金髪のガキと同じように、あるいはそれ以上に、楽しい鳴き声を上げるだろう。
こう言った上玉をめちゃくちゃに汚す、その自尊心を粉々に砕く快感は、どんな略奪や殺戮よりも甘美に違いない──
章人の脳内に、新たな「最高の獲物」を壊し、汚し、絶望に染め上げる快楽の青写真が鮮明に描かれる。
その下卑た思考を裏付けるように、彼は唇を歪めてはん、と嘲笑い。
自らの部下たちに、狂気と加虐に満ちた指示を飛ばした。
「おい、お前らァ!
殺すんじゃねえぞ、急所は外せ!
手や足を狙って、這いつくばらせろ!」
「は、はい!」
「立ち上がれなくなるまで、徹底的に可愛がってやれ…
いいか、殺すなよ!…俺が愉しむまでは、なァ!」
「!…へぇ」
自分に注がれる、粘つくような邪悪な視線の意味を、「アンジェロ」はすぐに理解した。
その種の人間の浅ましい欲望や、歪んだ支配欲、そして弱者をいたぶることでしか己の価値を証明できない小物の思考は、よくある類のものだから。
「アンジェロ」の口元に、氷のように冷たく…それでいて挑発的な微かな笑み。
「できるもんなら、やってみなァ」
「アンジェロ」は腰に佩いた二振りの武器に、手をかける。
右手に西洋片手剣。
左手に日本刀。
銃器が支配し、火力が正義とされるこの時代において…それは、あまりに時代錯誤な武具。
指先一つ、その動きだけで相手を殺せる武器を持つ悪党どもは、だから、舐めてかかった。
自動小銃やマシンピストルで武装した十数人の男どもは、激しく嘲笑。
「剣だと?…正気かよ!」
「あったまおかしいんじゃねえか?!」
男たちの指は、一斉に冷たい引き金にかけられる。
そして、ボスの命令通り、この奇矯な男の腕や脚、肩を狙って撃とうとした──
その刹那。
「アンジェロ」の身体が、力強い踏み込みとともに、躍動した。
その速度で、空間を一気に切り裂く。
彼はまず、背後にいるレオニートとルカを射線から外すため、あえて大きく弧を描くようにして、敵の外縁へと疾走。
一瞬にして最高速に達した彼の足取りは、砂を噛む音すら置き去りにし、網膜に焼き付くのは残像のみ。
踏みしめた大地がきしり、巻き上がる砂塵が彼の軌跡を追いかける、男どもの放った弾丸は、そのさらに後ろの空虚を撃ち抜くのみ。
「な、何してやがる!ちゃんと狙えッ!」
章人の、焦燥と苛立ちの混じった怒号。
それに応じ、十数挺の銃が一斉に火を噴く。
夜を埋め尽くす凄まじい銃声とともに、「アンジェロ」の背後で砂塵が激しく爆ぜ、鉛の雨が地面を執拗に叩く。
だが、火線を縫うように走る「アンジェロ」の姿は、まるで自在に形を変える不吉な夜風そのもののようで。
彼らが狙っているのは、常に「アンジェロ」が数瞬前にいた場所でしかなかった。最新の電子制御レーザーサイトも、この死神の予測不能な縮地を捉えることはできず、計算された放たれる銃弾は空虚に虚空を裂き、不毛な火花を散らすだけで。
「なっ…」
動揺が一挙に伝播する、強盗団の間に。
「アンジェロ」の影は、月光を背に鮮やかに踊った。
吸い込まれるような速度で目の前に迫った男に対し、「アンジェロ」の右腕が一切の躊躇なく振り下ろされる。
重厚な西洋片手剣が、男の鎖骨から肋骨にかけてを正確無比に叩き割る、
まるで、熱したナイフで冷えたバターを切るかのように強引に。
肺腑まで達し、心臓を直接粉砕する破壊的な一撃。
相手の絶命を確認するまでもなく、「アンジェロ」は迷いなく次の標的へと身を翻す。
その一連の動作には無駄な動作が欠片もなく、あたかもそれは流れるような舞踊の美しさ。
「ひ、あ、ああ…ッ!」
「くるな、くるなあああ!」
「ぎえッ!?が、は…」
一人、また一人。
断末魔が重なり合い、悲鳴と叫声が、鳴り止むことのない銃声を次第に上回っていく。
右手の西洋片手剣は、その重量と強烈な遠心力を最大限に活かした破壊の鉄槌。
斬り伏せられるたび、叩き伏せられるたびに、人間だったものは物言わぬ肉塊へと成り果てていく。
左手の日本刀は、氷のごとき鋭利さで死を振り撒いていく。
研ぎ澄まされた刃は、空を切る音さえ立てずに男たちを正確に裂き、
あるいは流れるような軌跡を描き、敵を紙を断つように次々と切り払っていく。
「ひ、ひいっ!く、来るなァ?!」
「アンジェロ」は、パニックに陥り四方八方に乱射する男の懐へ影のように滑り込む。
左手の日本刀を逆手に持ち替え、顎の下から脳天へと一気に突き通す。
刀を引き抜く勢いを利用して、「アンジェロ」は華麗に反転。
その遠心力を乗せ、右手の片手剣を水平に一閃。
背後から奇襲をかけようとした男を切り裂いて。
空を舞うのは、もはや鉄の薬莢ではない。
舞うのは、いのちの欠片。
「アンジェロ」の剣が、刀が閃くたびに、
いのちが散っていく、遺言すらも残せずに。
「アンジェロ」の動きには一片の淀みも、慈悲もなく。
むしろ、敵を屠るたびに、戦場を統べる無感情な死神としての純度と透明感を増していくようだった。
「ば、化け物かァ…?!」
誰かが失禁するように思わず漏らした言葉は、恐らく正解。
十数人いたはずの武装した悪党どもは、先ほどまでの余裕を完全に喪失し…今や、ただの標的へと成り下がっていた。
仲間の肉片が顔に飛び散り、自分たちの最新鋭の火器が無意味であるという現実に、彼らの戦意は急速に瓦解していく。
極限の恐怖に震える指では、まともに照準を合わせることすら叶わず。
虚空を撃ち抜く無駄弾だけが、虚しく夜空へと吸い込まれていく…
もはや彼らにできることは、迫りくる死神に怯え、それでもとにかく引き金を引き続けるという無意味な反復作業だけだった。
そこにあるのは、もはや戦闘でも抵抗でもなかった。
それは、ただ一方的な断罪の執行。
「アンジェロ」という疾風が駆け抜けた後には、かつて人間という形を保っていた物言わぬ肉の塊と、むせ返るような鉄錆びた死の臭いだけが不気味に沈殿していく…
そうして、やがて。
荒野を支配していた喧騒…
絶え間ない銃声と、肉を裂く鈍い音、そして響き渡る断末魔の合唱は、
いつの間にか、唐突な静謐へと塗り替えられていた。
そこに立っているのは、アンジェロと…章人・ダ・シルヴァのみ。
月光さえも、この地に満ちた死の臭いに恐れをなしたかのように、薄い雲の影に隠れようとしている。
周囲の沈黙は、先ほどまでの虐殺が現実であったことを、かえって残酷に強調していた。
「…あ、う、お、っ」
章人・ダ・シルヴァは、その元軍人らしい大柄な図体を、がたがたと震わせていた。
…周囲に転がっているのは、かつて自分が絶対的な暴力装置として従えていたはずの部下たちの、無惨な残骸。
強力なはずの銃器の数々は、今や無価値な鉄屑として、死体と共に転がっている。
「て、てめぇ、…一体、何者だ!」
男は震える手で、マシンピストルの銃口を「アンジェロ」へ突きつけ、裏返った情けない声で怒鳴りつけた。
この時代に、しかも銃器を持った十数人を相手にして。
剣と刀などという古臭い武器を振り回し、あっという間に全員を斬り殺した…
…常人であるはずがない!
「さあねェ」
「アンジェロ」は、妖艶に、そして底冷えするような笑みを浮かべた。
その微笑みは、見る者の魂を凍りつかせるほどに冷たく、それでいて不吉なほどに美しい。
雲に隠れたやせ細っていく月光が、返り血を浴びて紅く濡れた彼の凄惨な笑顔を不気味に照らし出す。
その紫の瞳には、一切の慈悲も、あるいは復讐を果たすための高揚さえも宿っていない。
ただ、「無」。それだけだった。
駆け出す。
一瞬にして彼の輪郭がひずみ、超人的な加速が踏みにじられた地面を鳴かせる。
その動きはもはや目では追えず、ただ黒い影が網膜に焼き付くだけ。
「し、死ねッ、死んじまえッ!」
恐怖に駆られた章人は引き金を引く、マシンピストルはすぐさまに火を噴く。
至近距離からの掃射。銃身が焼けるほどの連射。空を切り裂く暴力的なマズルフラッシュ。
だが、「アンジェロ」はそれを紙一重で全て回避する。
彼は最早黒い影、弾幕を嘲笑うかのように、章人・ダ・シルヴァの懐へと肉薄。
弾丸が彼の着物をかすめ布地を裂くが、彼の踏み込みは一ミリも揺らがない。
銃弾の風圧が彼の髪を揺らしても、その瞳は瞬き一つせず、獲物の喉元だけを凝視している──
「そいつを探して、某は──」
その時。
「…う」
意識を失っていたルカが、悪夢から無理やり引き剥がされるようにして目を開けた。
朦朧とする意識の中で、彼の視界に飛び込んできたのは…
月夜の下で繰り広げられる残虐極まる死刑執行の光景。
「旅を続けなけりゃあ、いけないんだろうなぁ」
「アンジェロ」の低い呟きが、章人の耳元で響いた。
その声が酷く穏やかだったことが、むしろ章人を凍りつかせた。
連射される弾丸の嵐をすべて、超人的な身のこなしで回避し。
「アンジェロ」は、二振りの武器をもって、舞って見せた。
閃光。
左手の日本刀が、章人の右すねから下を薙ぎ払う。
「ぎあぁぁぁッ?!」
バランスを崩し、不格好にかしぐ章人の身体。
西洋片手剣が荒々しく振り下ろされ、マシンピストルを握っていた左腕を肩口から強引に切り裂く。
重厚な刃が骨を粉砕し、肉を断つ不快な衝撃が、章人の神経系を焼き切るほどの苦痛となって脳を蹂躙する。
がらん、と手から落ちるマシンピストル、それを拾い上げるだけの力はもう章人にはない。
「が、あ、…ッ!」
惨めな絶叫を上げる章人の腹部に、「アンジェロ」は容赦なく日本刀を突き刺す。
鋼が内臓を焼き焦がすような激痛が章人を襲う。
「アンジェロ」は刀を抜き放つ勢いをそのままに、鋭く身を翻し。
最後に、西洋片手剣を斜め上に力強く振り払った…
その一撃は、章人の胸を袈裟斬りに深く切り裂いた。
血の飛沫が、返り血で既に汚れていた「アンジェロ」の顔をさらに紅く染める。
彼はそれを拭おうともせず、ただ冷ややかに崩れ落ちる男を見守る…
「ぐぎょ、うが、…おおおッ?!」
汚らしい悲鳴を上げながら、赤い血の霧を纏って章人の身体が地面へと転がる。ほんの少し前まで顔に貼り付けていた、暴虐の色は最早どこにもない…
「…」
ルカは、目を見開いたまま。
その凄惨な光景から、目を逸らすことができなかった。
驚愕、恐怖、嫌悪。
それらが渾然一体となって胸を突き上げ、喉の奥からは悲鳴さえ出てこない。
救われた安堵感よりも、目の前で行われた純粋な暴力の残虐さに、圧倒されていた。
ルカが震える瞳で見渡せば、そこには…
無惨な死体が、幾つも、幾つも、転がっていた。
…これを、あの「アンジェロ」がやったのか。
つい数時間前まで、自分たちの傍らで軽口を叩いていたあの男が。
つい先程まで自分たちが見ていた、どこか浮世離れした陽気な男…
その面影は、今自分が見つめている、返り血に染まったその背中からは微塵も感じられない。
充満する血の匂い、死の匂いに、思わず込み上げてきた強い嘔吐感。
ルカは口を手で覆い、無理やり胃の奥へと押し込める…
そしてたった今、「アンジェロ」は。
あの、高慢な軍服姿の男を、一切の迷いなく、冷酷に斬り裂いた。
勝手に、身体ががくがく、と震え出す。
理屈を超えた純然たる恐怖が、ルカを怖じさせる。
あの、ひょうきんに、やさしく笑っていた男は…
今、人間の皮を脱ぎ捨て、地獄の奥底から這い出してきた悪鬼となって、目の前の敵を滅しようとしている…
「ひ、お、おお…ッ、ぐ…」
肉を深く抉る斬撃を受けた箇所から、どくどくと生あたたかい血をこぼしながら、章人は獣のような呻きを漏らす。
何とか身を捩り、身体を起こそうとするも…
「…」
「ひぎッ?!」
が、「アンジェロ」は、章人の脇腹を無造作に蹴り飛ばす。
また無様に地面を舐める、抵抗もまともにできない章人を、冷徹に見下して。
「…」
彼は、流れるような所作で、右手にすなる西洋片手剣を鞘にしまい込む。
その後、「アンジェロ」はゆっくりと腰を落とし、砂の上に転がっていたマシンピストルを取り上げた。
章人がその暴力の象徴として、そして数多の命を奪うための道具として、愛用していた武器。
右手に銃を握ったまま、また「アンジェロ」は章人に向き直る。
そして。
「あんたは、『これ』がお好きなんでしょう?」
「アンジェロ」は、口角だけを僅かに吊り上げて、そう薄く笑った。
慈悲とは無縁の、底知れない狂気と蔑み。
「ま、でも…」
「ぎ、あ…ッ?!」
濁った、恐怖混じり悲鳴。
「アンジェロ」は手にしたマシンピストルの銃口を押し当てた、章人の後頭部に。
「?!…や、やべでぐでぇ?!」
耐え難い死の予感に、のたうつ章人。
その背を「アンジェロ」は無慈悲に踏みつけ、なおさらに…ぎりぎり、と、その冷酷な重火器の切っ先を突き立てる。
鉄の冷たい感触が、章人・ダ・シルヴァの精神を破壊していく。
章人の絶叫はもはや言語としての形を成さず、ただ荒野の虚無へと吸い込まれ霧散する…
泣きわめく章人とは対象的に、「アンジェロ」は平然としていて。
「そういうことでしたら、あんたの最期だって…
『これ』に看取ってもらえるってんなら、ま、ええんとちゃうかなァ?」
その口調こそ、様々なもののパッチワークで、何処かおどけているかのように響くが。
しかし、その声に宿る温度は絶対零度の冷たさで。
章人の眼球は、恐怖で裏返り。
迫りくるその決定的な断罪の瞬間に、章人は最早自制心を失った痙攣が止まらなくなっていた。
にじり寄ってくる死神の気配は、彼がこれまで他人に与えてきた絶望の写し鏡。
「待っ…!
か、金ならいくらでも――」
「アンジェロ」は、章人の醜悪な命乞いの言葉を、最後まで聞くことはしなかった。
最後にこう嘲って、終わりにする。
「どうしたんだい?
『愉しむ』、んだろォ?…お兄さん」
引き金を、絞る。
至近距離で放たれた一連の銃声。
鈍く、重く響いた。
連射される銃弾は、章人・ダ・シルヴァの頭部をずたずたに引き裂き、
木っ端微塵に粉砕し、
絶叫と共に駆け抜ける…
それはあまりにも呆気なく、そして徹底的な、人としての尊厳の一切を排した崩壊だった。
ほんの少し前まで「支配」と「快楽」を謳歌し、他者を虫けらのように踏みにじっていた狂犬は。
自らの権力の象徴であった銃器によって、その存在を跡形もなく壊され、砂に塗れた物言わぬ肉の残骸へと成り果てた。
荒野は、とてつもなく静かになった。
吹き抜けていく風の音も、ようやく聞こえるほどに。
「アンジェロ」は、主を始末した銃を無造作に、その場に放り捨てる。
そして無言のまま、鈍く光る日本刀の切っ先を、転がっていた章人・ダ・シルヴァであった肉塊…その千切れた左腕、手の薬指へと突き立てた。
迷いのない動作で指の皮膚を裂き、肉の奥深くに埋め込まれていた小さな異物を抉り出す。
そうしなくてはならないからだ。
彼にはまだ、その理由を思い出せはしないのだけれど。
…そして、彼の手に残るのは、血肉にまみれたバイオメトリクスIDタグチップ。
表面に刻まれた極小の文字の刻印が、月の下に浮かび上がる。
【章人・ダ・シルヴァ/AKIHITO DA SILVA】
「…」
「アンジェロ」はその「名前」を見つめた後、チップを懐へと収めた。
彼の横顔には先ほどまでの狂気や殺意の残滓はなく、ただ深い、底知れない空虚だけが横たわっている…
その紫の瞳は、何も映しておらず。
まるで魂がその場に不在であるかのような、冷え切った静謐さ──
…と、その時。
彼の背後で小さく、物音。
「…!」
桂・ルカ。
少年は、目の前で繰り広げられたあまりに凄惨な、地獄の風景をそのまま形にしたような報復劇に、魂の底から凍りついていた。
がたがたと、歯の根も合わないほどの激しい震え。
目の前に立つ男は、一体何者なのか。
その正体、得体の知れない恐怖が、彼を完全に支配していた。
「ルカ殿」
気配を察し、「アンジェロ」が振り返る。
その瞬間、ルカが目にしたのは──
先ほどまで死神として無慈悲に命を刈り取っていた、冷酷な仮面ではなかった。
それは、レオニートとルカが見慣れた、あのどこか抜けていて、気の良い旅人の青年の表情。
心配げに眉を寄せ、自分を気遣っている…
真っ直ぐであたたかな、やさしい表情。
…だが。
だからこそ。
だからこそ、今のルカにとって、それは何よりも恐ろしく見えた。
だからこそ、彼を案じた「アンジェロ」が、駆け寄ろうとした時に…
「…ひっ!」
ルカは反射的に、全身を強張らせてわずかに後ずさる。
恐怖に歪んだ悲鳴が、口から勝手に吹き上がった。
喉の奥から絞り出されたその音は、悪漢どもから助けてくれたはずの相手から、全力で逃げ出したいという本能的な拒絶…
「…!」
「アンジェロ」は、その場で射抜かれたように足を止める。
伸ばしかけた手は、所在なく空を切り。
ルカの表情…自分を怪物として恐れ、嫌悪すら孕んだその瞳を見て。
「山口・アンジェロ」は一瞬、呆然とその紫の瞳を見開いて、硬直する。
…そして。
「…あは、」
自嘲気味な、乾いた吐息。
「アンジェロ」は、凄惨な血の化粧を施された姿のまま。
切なそうに、哀しげに、微笑んだ。
「…そう、だよねェ」
その声には、彼らしい軽薄な響きは、一切なく。
ただ、自分という存在の業を、逃れられぬ運命として静かに受け入れる絶望が滲んでいた。
月光に照らされたその微笑みは、とても美しく、救いようがないほどに孤独。
空白。
少しだけ、間をおいて。
「アンジェロ」は、返り血を吸って重くなった着物の裾を無造作に翻し。
横たわったまま動かない、桂・レオニートの元へと歩み寄った。
彼は無言のまま、泥と血にまみれたレオニートの身体をそっと抱き起こす。
彼の顔色は、月光に照らされ、なお青白く見える。
レオニートの呼吸は浅く、胸を上下させるたびに苦しげな喘鳴が漏れている…
…だが、まだ生きている。生きているのだ。
そして、レオの方を見ないまま、「アンジェロ」は言う。
「…旦那の傷は、浅くはない」
「…」
ルカは、返事ができないでいる。
それにも構わず、「アンジェロ」は喋り続ける。
「…だから、今すぐあの村に戻って手当てするんだぜ。
あそこの村長(むらおさ)なら、事情を話せばきっと力になってくれるってばよ。
すぐに、医者を呼んでもらいなさいね?」
「…」
努めて、いつもの軽々しい、どこかふざけた口調を保とうとしてはいた。
だが、その声は、やはり少し震えており。
無理に作った明るさであることを、ルカにすら感じさせてしまう。
彼はレオニートを、そっ、と砂の上に横たえると。
懐に深く手を差し入れ、そこから何かを取り出す…
「これ、使いやがれよ」
がちゃり、と音を立てて、レオニートのそばに置かれたのは。
眩いばかりの輝きを放つ指輪、宝石などの貴金属、何十枚もの高額紙幣。
それは、略奪者たちが長年かけて、弱者から掠め取ってきた血と涙、そして数えきれないいのちの結晶。
「あんた、それ…一体?!」
ルカが驚愕に声を震わせる。
その一握りの富のカタマリは、治療はもちろん、ひと財産になりそうなくらいの量。
それは「外縁部(アウトサイド)」に生きる者たちは、一生手にすることはできないだろうものだった。
「治療代には、なると思うからさ」
「アンジェロ」は自嘲気味に、そう短く答えただけ。
それは、彼なりの、祈りにも似た…あまりにも凶暴な慈悲だった。
「アンジェロ」は、ゆっくりと、重い枷を引きずるように立ち上がる。
ルカの視線を避けるように、彼に背を向けたまま。
「ごめんね、守りきれなくて」
「…」
「でも、ありがとうね…
レオニートの旦那にも、自分がよろしくと言っていたと伝えてよね」
「…アンジェロさん」
ルカが、ぽつり、と、その「名前」を呼んだ。
去り際。
「アンジェロ」は、少しだけ。
ほんの少しだけ、首を巡らせてルカの方を顧みた。
彼を怖じさせないように、
彼を恐れさせないように、
目を、全く合わせずに。
それでも。
最後に、「山口・アンジェロ」は…
ルカに向かって、穏やかに微笑んだ。
それは血に汚れた凄惨な顔には不釣り合いなほど、やさしげな…
哀しそうな、微笑みだった。
「じゃあの、ルカ殿…!」
その言葉を最後に、「アンジェロ」は足を踏み出した。
そして、一度も振り返ることなく…
その影は荒野の深淵、闇の世界へと静かに溶け込んでいく。
…後には、桂・レオニートと、桂・ルカの二人だけ。
荒野にはただ、澄み渡った夜風だけが、何事もなかったかのように吹き抜けていく…
全てを呑み込み、過去という彼方へと運び去るように。
がたがた、と揺れる車体の振動が、意識の底に沈んでいたレオニートの意識を揺さぶり起こした。
「…!」
古いトラックのサスペンションが悲鳴を上げるたび、その衝撃が貫かれた銃口に響き渡る。
「!…う、ぐッ」
「親父、気がついたか!」
隣から聞こえる、必死で涙を堪えたような息子の声。
レオニートが重い瞼を押し上げると、そこは見慣れたトラックの車内。
隣の運転席には、必死にハンドルを握りしめるルカの横顔。
どうやら、自分は助手席に寝かされていたらしい。
「動くなよ、もうすぐ村に着く…
そうしたら医者を呼んでもらって、手当てを」
「…」
レオニートは、意識が朦朧とする中で記憶の断片を懸命に繋ぎ合わせようとする。
あの武装強盗団ども、血生臭い略奪者たちの下卑た笑い声、自分に突きつけられた冷たい銃口、死を覚悟した瞬間の絶望、そして…
「ど、どうやって…」
あの絶望的な状況から、どうやってこの息子が自分を連れ出し、逃げおおせることができたのか。
地獄から生還した理由を問おうとした、父親の言葉を遮るように。
ルカは前を見つめたまま静かに、しかしきっぱりとこう告げた。
「…助けてくれたんだ」
「アンジェロさんが…俺達を」
ルカの脳裏には、今だに。
月光の下で返り血を浴び、人ならざる速さと冷徹さで命を刈り取っていたあの狂乱の姿が、鮮烈な恐怖と共に焼き付いている。
「正義」や「道徳」などといった美辞麗句とは完全に対極に位置する、
純粋で残虐な暴力まさにそのもの、その化身。
…だが。
例え、彼が慈悲を知らぬ恐ろしい悪魔だとしても。
あれだけの数の人間を正視に耐えない残虐なやり方で屠った、血塗られた悪鬼だとしても。
それでも、事実は一つしかなかった。
あの絶望の淵で、自分たちのために剣を振るい。
悪夢の運命、その泥沼から引き上げてくれたのは…
他でもない、短いけれども旅路を共にした、あのおどけた笑顔の風来坊だったのだから。
「アンジェロさんが…?」
レオニートの顔に、静かな驚きが走る。
ルカは、奥歯を噛み締めて、ハンドルをさらに強く握りしめた。
去り際の「アンジェロ」を、彼は思い出す。
何処までも寂しげで、孤独に満ちた背中を思い出す。
自分は、彼が「人殺しの化け物」であることを目の当たりにして、反射的に拒絶し。
恐怖と混乱のまま、震えて縮こまることしかできなかった。
…彼が独り、闇に帰っていく時。
その深い孤独に寄り添う言葉一つ、かけることができなかった。
今さら、夜の闇に消えてしまったあの影を追いかけても、その声はもう届かない。
伝えられなかった感謝の言葉は、そのまま消えていくしかない。
それでもルカは、こころの中で…
何度も、何度も繰り返し、その言葉を紡ぎ続けた。
(ありがとう…アンジェロさん!)
薄く曇った、フロントガラスの向こう。
果てしなく続く荒野の向こう側が、わずかに…だが、確実に白み始めている。
桂・ルカは村に向け、アクセルを力一杯踏み込む。
トラックは激しく砂塵を巻き上げながら、ただ道を突き進んでいった。
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