三浦あかりが天文部の部室に入ったとき、窓際の机の上には一枚の紙が置いてあった。
朝の光が白くなる時間で、廊下にはまだ人の気配が少なかった。校舎の古い床板が、一歩ごとに小さくきしむ。あかりは鞄を肩から下ろし、その紙を手に取った。
『天文部 部員数規定未達のため、本年度末をもって廃部とする。 生徒会』
印刷された文字は、ところどころ掠れていた。たぶん何度も刷り直したのだろう。あかりはそれを、もう一度最初から読んだ。読み返すまでもなく内容は頭に入っていたけれど、紙の上の文字は、昨日よりもずっと重たく見えた。
掲示板の前で、何人かの生徒がこそこそ話していたのを、今朝あかりは見ていた。誰が、どんな顔で話していたのかまでは覚えていない。ただ、自分の名前が聞こえたような気がして、足が少し早くなったことだけは覚えている。
部室はとても狭い。四畳半ほどの空間に、古い望遠鏡が二台と、スチールの棚が一つ、それから折りたたみの机が三つ置かれている。壁には去年の先輩たちが貼っていった星座表が、日焼けして黄色くなった状態で残っていた。床の隅には段ボール箱が積まれ、その上に埃をかぶった天体写真の本が並んでいる。
あかりは窓を開けた。海風が入ってきて、カーテンがふわりと膨らんだ。遠くで波の音がしている。この町は海に面していて、夜になると街灯の少ない通りの向こうに、黒い海がどこまでも広がっているのが見える。夏の潮の匂いと、どこかの家の味噌汁の匂いが、一緒になって部屋に流れ込んできた。
けれど、空を見上げても星はあまり見えなかった。町の明かりが強すぎて、空の大半が薄い灰色にかすんでいるのだ。昔、中学の理科の先生が「このあたりは光害がひどい」と言っていたのを思い出す。意味はよくわからなかったけれど、なんとなく悲しい言葉だと思った。
「星の見えない町で、天文部なんて変だよな」
誰に言われたわけでもないのに、その言葉は時々あかりの頭に浮かぶ。去年の秋、クラスの男子がそう言って笑っていた。あかりは聞こえないふりをした。本当は、聞こえていた。聞こえていたから、余計に部室に通うようになったのかもしれない。
入学したばかりの頃、あかりは天文部に入るつもりなどなかった。中学のときに読んだ一冊の図鑑が好きだった。夜空の写真が何ページにもわたって載っていて、そのどれもが息を呑むほど美しかった。オリオン座の大星雲、天の川の裂け目、それから赤く燃える火星の表面。それらの写真を眺めている間だけは、教室の空気や、家の中のぎくしゃくした雰囲気を忘れられた。
だから高校でも、なにか星に関係する部に入りたいと思った。それだけの理由で、一年生の春、この部室の扉を叩いたのだ。
そのときの部長は、三年生の先輩だった。先輩は一人きりで、望遠鏡のレンズを布で磨いていた。あかりを見て、ほっとしたように笑った。
「入部してくれるの? ありがとう。本当にありがとう。もう誰も来ないんじゃないかと思ってた」
その先輩は受験を理由に、夏休み前には部活を引退してしまった。最後の日、先輩は望遠鏡の一台をあかりに託して、こう言った。
「三浦さんなら、ちゃんと星を見てくれると思う。ここはね、星を見るためにある場所だから」
その言葉を、あかりは今でも覚えている。残されたのはあかり一人だけになった。それでもあかりは、毎日放課後になると部室に来た。望遠鏡を組み立て、星座表を眺め、ノートに観測記録をつけた。夕方の雲の流れを見て、明日の天気を予想した。誰も来ない部室で、ひとりきりの時間を過ごすことが、いつの間にか好きになっていた。
けれど、部員が一人では規定の人数に届かない。学校はそれを理由に、部を廃止しようとしていた。
あかりは紙をそっと机に戻した。
「どうしようかな」
独り言が、狭い部室の中に小さく響いた。答えてくれる人はいない。窓の外では、野球部のかけ声が聞こえていた。校庭の向こうで、白いユニフォームの生徒たちが走り回っている。ボールを打つ乾いた音が、ここまで届いてくる。その中心にいるのが、幼なじみの高橋ケンだということを、あかりは知っていた。
ケンは小学校の頃からずっと一緒だった。近所に住んでいて、朝は一緒に登校し、夕方は一緒に帰った。小学生のとき、二人で近所の神社の裏山に秘密基地を作ったことがある。ケンが段ボールとブルーシートで屋根を作り、あかりが拾ってきた空き瓶で飾り付けをした。そこに寝転がって空を見上げた夜のことを、あかりは今も鮮明に思い出せる。
あの夜は、本当に星がたくさん見えた。ケンが「ほら、あれがオリオン座だぞ」と指差して、あかりは「違うよ、それは北斗七星だよ」と言い返した。二人で笑い合って、空が白むまで喋り続けた。
中学でもお互い別々の部活に入ったけれど、帰り道はいつも同じだった。ケンは野球部で汗まみれになり、あかりは本ばかり読んでいた。それでも、夕暮れの坂道で顔を合わせると、どちらからともなく「おつかれ」と言い合った。
高校に入ってからケンは野球部のエースになった。新入生の頃から注目されていて、春の大会では一年生ながらマウンドに上がったという噂が、学校中に広まった。あかりは、それを聞いて自分のことのように嬉しかった。
けれど、二人の時間は、少しずつ離れていった。ケンは練習で帰りが遅くなり、あかりは部室にこもるようになった。朝の登校も、時間が合わなくなった。すれ違ったときの挨拶も、いつの間にか短くなっていた。
それを寂しいと思う自分が、あかりは少しだけ嫌だった。ケンは頑張っている。自分も頑張っている。それでいいはずだった。
チャイムが鳴った。ホームルームの時間だ。あかりは紙を鞄にしまい、部室を出た。鍵をかけるとき、扉の向こうにいつもと違う気配を感じた。
廊下の先に、知らない男子生徒が立っていた。背が高く、少し猫背で、片手に大きな紙袋を抱えている。制服はまだ真新しく、ネクタイの結び目が少し緩んでいた。転校生だろう、とあかりは思った。学年の廊下で、そういう子を見かけたという話を、昨日誰かがしていた。
男子生徒は、あかりを見て、ぺこりと頭を下げた。
「あの、ここ、天文部の部室ですか?」
声は低くて、少しだけ緊張しているように聞こえた。
「そうですけど」
「よかった。僕、今日転校してきた藤原ハルといいます。天文部に入りたくて、職員室で場所を聞いてきました」
あかりは瞬きをした。廃部の通告が出ている部に、転校生が入りたいと言ってくるなど、想像もしていなかった。
「入部、ですか」
「はい。あの、もしまだ部が続いてるなら」
ハルは紙袋を床にそっと置いた。中を覗き込むと、新品同様の小型の望遠鏡が入っていた。細い鏡筒と、よく磨かれたレンズが、窓から差し込む光を受けて鈍く光った。ケースには、ほとんど傷がついていなかった。
「前の学校で使ってたものです。引っ越しで、持っていけなくなって。もう使わないから、良かったら」
あかりは何も言えなかった。胸の奥が、少しだけ熱くなった。誰かが自分のために、何かを持ってきてくれたことが、こんなにも嬉しいことだとは思わなかった。
「ありがとう。でも、今は」
そこまで言って、あかりは言葉を切った。廃部の話を、初対面の転校生にどう説明すればいいのか、わからなかった。
「今は、なんですか」
ハルは首をかしげた。その仕草は、少し子どもっぽく見えた。
「あの、今日、放課後に話せますか。ちょっと事情があって」
ハルはうなずいた。その表情は、どこか真剣だった。
放課後、部室に二人きりで座ったとき、あかりは初めて、天文部が廃部になるかもしれないことを誰かに話した。ハルは黙って聞いていた。途中で一度だけ、「そうなんですか」と小さくつぶやいた。話し終わるまで、彼は一度も口を挟まなかった。
話し終わると、ハルは窓の外の空を見上げた。空はもう夕焼けで、西の方が赤く染まっていた。
「この町、星がよく見えないんですね」
「うん。明るすぎるから」
「でも、見えないからこそ、見えたときに嬉しいんじゃないですか」
あかりはその言葉に、何も返せなかった。ハルは、まるで自分のためだけに呟いたように、小さく笑った。その笑い方が、あかりには少しだけ寂しそうに見えた。
「藤原くんは、どうして天文部に入りたいの」
ハルは少し考えてから、答えた。
「前の学校で、星を見るのが好きだった子がいたんです。その子が、転校するときに言ったんです。『あなたも空を見ててね』って。だから、ずっと見てたんです。でも、一人だと続かなくて」
「その子は、どうしてるの」
「さあ、わかりません。連絡、取ってないので」
ハルの声は、とても静かだった。あかりはそれ以上、聞けなかった。
その日の夜、あかりは自分の部屋の窓から空を見上げた。やはり、ほとんど星は見えなかった。それでも、ほんの一つだけ、明るく瞬く光があった。金星だ。あかりはそれを指差して、誰もいない部屋で小さく呟いた。
「まだ、諦めたくない」
その声は、自分でも驚くほど、はっきりとしていた。
翌朝、あかりは生徒会室の前に立っていた。手には、昨日の夜に書いた部員募集の企画書があった。画用紙に、星座を描いたイラストを添えた、拙い出来の紙だ。それでも、一生懸命書いた。ハルの入部届と、自分の決意を込めた一枚の紙。それを両手で握りしめて、扉をノックした。
「失礼します。天文部の三浦です。お話があります」
中から聞こえてきたのは、やや落ち着いた男子の声だった。扉が開き、生徒会副会長の眼鏡の男子が顔を出した。彼はあかりの持つ紙に目を落とし、少しだけ眉をひそめた。
「天文部? もう廃部が決まったはずだけど」
「まだ決まっていません。手続きは、三月末ですよね。それまでに、部員を集めます」
あかりの声は、思っていたよりもずっとまっすぐに出た。副会長は少し黙り、それから小さく息を吐いた。
「わかった。一か月だけ待つ。ただし、二人だけでは規定は満たせないぞ。最低五人だ」
「わかっています」
あかりは深く頭を下げた。顔を上げると、廊下の窓から差し込む朝日が、まぶしく目に入った。
五人。その数字は、あかりの前に高い壁のように立ちはだかっていた。けれど、不思議と怖くはなかった。隣には、ハルがいる。それに、ケンの顔が、ふと頭に浮かんだ。
空はまだ曇っていた。それでも、あかりの胸の中には、小さな星が一つ灯ったような気がした。
生徒会室を出ると、廊下にはもう何人もの生徒が行き交っていた。あかりは歩きながら、企画書の端をぎゅっと握った。紙の角がよれて、少しだけ湿っていた。手のひらが汗ばんでいたのだ。
教室に戻ると、ハルがもう席に着いていた。窓側の一番後ろの席だ。転校生の席としては、少し不自然なくらい端っこだった。たぶん先生が、事情を考えて配慮してくれたのだろう。
あかりが近づくと、ハルは顔を上げた。
「どうでした」
「一か月。それと、五人」
「五人ですか」
ハルは指を折って数えるような仕草をした。その指が、ひとつ、ふたつと折れていく。三本目で止まって、彼は苦笑いをした。
「僕と三浦さんで二人。あと三人ですね」
「そう。あと三人」
「簡単じゃないですね」
「うん、簡単じゃない」
それでも二人は、少しだけ笑った。笑うと、教室の重たい空気が、ほんの少し軽くなった気がした。
昼休み、あかりは職員室に寄った。天文部の顧問がいないことは、以前から気になっていた。規定上、部には顧問が必要なのだ。去年までは、地学の木村先生が名前だけ引き受けてくれていたらしい。けれど、木村先生は今年から授業の持ち時間が増え、部の顧問を降りると言っていた。
職員室の扉をそっと開けると、奥の机で木村先生が弁当を広げていた。白髪の混じった頭を掻きながら、先生は箸を止めた。
「おう、三浦か。どうした、また部室の話か」
「はい。部員を集めようと思って」
木村先生は、弁当の蓋をぱたんと閉じた。そして椅子を少し引いて、あかりに座るように促した。
「正直に言うとな、三浦。俺はもう顧問はできんのだ。すまんな」
「わかっています。でも、先生は昔、天文学者になりたかったって」
木村先生は、少しだけ目を細めた。
「誰から聞いた、そんなこと」
「去年の文化祭で、先生が話していたのを聞きました」
「ああ、あれか。恥ずかしい話だ。大学でもな、結局、望遠鏡より黒板の方が性に合ってたんだよ。笑える話だろう」
先生は自分で笑って、お茶をすすった。その笑い方は、少しだけ寂しかった。
「でもな、三浦。星を見たいっていう気持ちは、ちゃんと残ってるんだ。お前たちが部室であの望遠鏡を組み立ててるのを見るたび、昔を思い出すよ」
あかりは、木村先生の横顔を見た。先生の目は、遠いどこかを見ているようだった。
「先生、もう一度だけ、顧問を考え直してもらえませんか」
「三浦、俺はな、顧問じゃなくても、お前が星を見る手伝いならできる。夜の観測会の許可は、俺が取ってやる。ただし、名前は貸せん。そこは勘弁してくれ」
「それでも、ありがとうございます」
あかりは深く頭を下げた。先生は照れくさそうに手を振った。
放課後、あかりは教室を回って、部員募集のビラを配った。ハルも一緒についてきた。最初に声をかけた女子は、迷惑そうに首を横に振った。次の男子は「天文とか、興味ないし」と言って、そのまま行ってしまった。三人目の子は、ビラを受け取ってくれたけれど、すぐに丸めてゴミ箱に捨ててしまった。
廊下の隅で、あかりは深く息を吐いた。胸の中に、重たい石が沈んでいくような感覚があった。
「大丈夫ですか」
ハルが心配そうに覗き込んできた。あかりは慌てて笑顔を作った。
「うん、大丈夫。ちょっと、疲れただけ」
「三浦さん、そういうとき、無理しないでください」
その言葉に、あかりは少し驚いた。ハルは、ぶっきらぼうに、でもまっすぐに続けた。
「一人で全部やろうとしなくていいと思います。僕だって、いますから」
あかりは、その言葉を胸の中で何度か繰り返した。そして、小さくうなずいた。
「ありがとう。少し、頼ってもいい?」
「はい。そのために、ここに来たんですから」
その日の夜、あかりは自分の部屋で、ケンにメッセージを送るかどうか迷っていた。画面には、昔のやり取りがそのまま残っている。小学生のとき、一緒に撮った夜空の写真。中学のとき、「明日の天気どうなる?」と聞いた自分に、ケンが「晴れ! たぶん!」と返してきた記録。
指がなかなか動かなかった。送ったら、なにか変わってしまう気がした。でも、このままでは、もっと遠くなってしまう気もした。
あかりは、ケンに一言だけ送った。
『最近、部活忙しい? 少し話せたら嬉しいな』
既読はすぐにはつかなかった。しばらく画面を見つめてから、あかりは携帯を伏せて、窓の外の空を見た。やはり、星は少なかった。でも、遠くの電柱の上に、白く光る月が見えた。
翌日の昼休み、ケンから返信が届いた。
『明日の朝、いつもの坂で話そう。走りながらでいいなら』
あかりは、思わず画面に向かって笑ってしまった。昔と同じ、ぶっきらぼうで、でも優しい文章だった。
翌朝、坂道の途中で、ケンは本当に走ってきた。ユニフォームの上にジャージを羽織り、額に汗を浮かべている。
「おはよう、あかり。悪い、ちょっと遅れた」
「ううん、大丈夫。練習、大変なんだね」
「まあな。でも、お前が話したいって言うなんて、珍しいじゃん。なにかあった?」
あかりは少し迷ってから、廃部の話をした。ケンは黙って聞いていた。足を止めず、少し前を歩きながら、時々うなずいた。
話し終わると、ケンは急に足を止めた。振り返って、あかりの顔をまっすぐに見た。
「お前、そんな大事なこと、なんで俺に言わなかったんだよ」
「だって、ケン、いつも忙しそうだから」
「忙しくても、幼なじみの部活の危機くらい聞くわ、バカ」
その声は、少し怒っているようで、でも温かかった。あかりは、思わず目頭が熱くなった。
「ごめん」
「謝んなって。で、部員、あと何人足りないんだよ」
「三人」
ケンは、腕を組んで少し考えた。そして、にやりと笑った。
「三人か。じゃあ、野球部の連中に一人くらい声かけとくわ。天体観測ってのも、たまには悪くないだろ」
「それ、本当?」
「本当だよ。ただし、一人だけな。俺の仲間をみんな連れてったら、野球部が潰れる」
二人は顔を見合わせて、声を上げて笑った。坂道を通りかかった犬が、不思議そうにこちらを見ていた。
その日の放課後、部室に戻ったあかりの机の上に、一枚の入部届が置かれていた。
書いたのは、野球部の一年生の名前だった。名字の横に、小さな字で一言だけ添えられていた。
『星の写真、撮ってみたい』
あかりは、その紙を両手で抱えるようにして、窓際に立った。夕暮れの空はまだ明るかったけれど、西の端に、一つだけ白い光が見えた。たぶん金星だろう。
「あと二人」
声に出すと、思ったよりも力強く響いた。隣では、ハルが望遠鏡の調整をしていた。ふと顔を上げて、「どうしました」と聞いてくる。
「なんでもない。ちょっと、嬉しくて」
ハルは、少しだけ目を見開いて、それからほっとしたように笑った。
部室の窓から吹き込む海風が、古い星座表をふわりと揺らした。その揺れの中で、あかりは確かに、新しい季節が近づいてくるのを感じていた。
その週の金曜日、木村先生は約束どおり、夜の観測の許可を取ってくれた。場所は校舎の屋上だ。普段は鍵がかかっているけれど、先生が職員室から鍵を持ってきてくれた。
「三十分だけだぞ。終わったら必ず戻ってこい。それと、俺はここにはいないからな」
先生はそう言って、鍵をあかりの手に握らせた。そして、くるりと背を向けて、校舎の階段を下りていった。あかりは、その背中に小さく頭を下げた。
夜の屋上は、思っていたよりもずっと広かった。フェンスの向こうに、住宅街の灯りが海岸まで続いている。赤、白、オレンジ。小さな光が、夜の闇の中に点々と散らばっていた。
ハルは、ケースから望遠鏡を取り出して、三脚に慎重に据えつけた。手つきは驚くほど丁寧で、一つ一つのネジを確認するように締めていく。
「藤原くん、望遠鏡、慣れてるね」
「昔、よく父さんと見てたんです。父さんは星の名前をたくさん知ってて、僕はそれを覚えるのが嫌いで、いつも逃げてました」
ハルは、ネジを締めながら、少しだけ笑った。
「でも、今は、覚えておけばよかったと思ってます。もう、父さんに聞けないから」
あかりは、それ以上なにも聞かなかった。ハルの横顔は、夜の灯りに照らされて、いつもより少し大人びて見えた。
「三浦さん、まずは月を見ましょう。今日は上弦の月なので、クレーターがよく見えるはずです」
ハルが接眼レンズを覗き、位置を微調整する。それから、あかりに場所を譲った。あかりがそっと目を当てると、真っ暗な視界の中に、灰色の大地が浮かび上がった。
「……すごい」
思わず、声が漏れた。白く光る月の表面には、大小さまざまなクレーターが刻まれていた。影の線がくっきりと見えて、まるで凍った海の波のようにも見えた。
「ほら、あそこ。明るい点が、いくつも並んでるでしょう」
ハルが指差す先を、あかりは覗き込んだ。小さな岩がたくさん散らばっているような、不思議な地形だった。
「あれが、昔の噴火の跡なんです。何億年も前に、あそこから溶けた岩が流れ出したんですよ」
「なんで、そんなこと知ってるの」
「前の学校の図書室に、古い本があって。読んでたら、夢中になっちゃって」
ハルは照れくさそうに頭をかいた。その仕草は、教室では見せない素直さがあった。
それから、二人は交代で月を見て、火星を見て、最後に木星を見た。木星の周りには、小さな光の粒が四つ、一直線に並んでいた。ハルが「ガリレオ衛星です」と教えてくれた。ガリレオが初めて望遠鏡で見つけた、四つの月。四〇〇年以上も前に、同じ光を見た人がいたのだと思うと、あかりの胸は不思議な気持ちでいっぱいになった。
「昔の人も、こうやって、同じ星を見てたんだね」
「そうですね。今は、もっとたくさんの人が見てるかもしれないけど」
ハルは、夜空を見上げた。その目の奥には、どこか遠い場所を思う色があった。
十五分ほど経った頃、あかりは、ふと空の端に、細く流れる光を見た。
「あっ」
言葉を発するより先に、もう一本、光が走った。二つ、三つ。小さな流れ星が、夜の空に、白い糸を引いていく。
「流星群ですね。今日は、ふたご座流星群の極大日じゃなかったかな」
ハルの声は、少しだけ震えていた。あかりは、息をするのも忘れて空を見上げていた。流れ星は、次々と、音もなく空を横切っていく。ひとつ消えても、また次が現れる。
「三浦さん、願い事、しましたか」
「まだ。しようと思ったけど、見とれちゃって」
「僕もです。なんか、もったいなくて」
二人は、顔を見合わせて、笑った。笑い声が、夜の屋上に小さく響いた。
「じゃあ、今、一緒にしましょうか」
「うん。せーの、で」
あかりは、両手を胸の前で組んだ。ハルも、同じように手を組んだ。
「天文部が、なくなりませんように」
ハルの声と、あかりの声が、きれいに重なった。二人は同時に目を開けて、また笑った。
願い事は、叶うかどうかわからない。でも、この夜のことは、きっとずっと忘れないと、あかりは思った。
屋上の鍵を返しに、職員室へ向かう途中、あかりはハルに言った。
「ねえ、藤原くん。天文部、絶対に続けようね」
ハルは、少しだけ驚いたように目を見開いた。そして、静かにうなずいた。
「はい。続けましょう。三浦さんと一緒に」
その言葉は、夜の廊下に、まるで星のように静かに響いた。
これが、あかりと、ハルと、天文部の、長い青春の始まりだった。


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