秋が深まるにつれて、学校の空気は、少しずつ張りつめていった。
廊下には、大学の資料が積み重なり、教室の黒板には、『受験まであと何日』という数字が、毎朝書き換えられていく。進路指導室の前には、いつも列ができていて、ため息と小さな笑い声が、交互に聞こえてくる。
あかりは、その中で、少しずつ、自分の道を探していた。
天文学を学びたい。その思いは、ずっと変わっていない。けれど、その道の先に、どんな未来があるのかは、まだ見えなかった。大学の研究室で、星を見る仕事。それは、夢のように遠くて、現実味のないものに思えた。
「三浦、ちょっといいか」
放課後、部室へ向かう途中で、篠原先生に呼び止められた。先生は、いつもの白いシャツの袖をまくって、手に一枚の封筒を持っていた。
「宇野先生から、連絡があった。今度の学会で、高校生の観測発表の枠があるらしい。天文部から、お前たちの観測記録を出してみないか」
あかりは、息を呑んだ。学会。それは、大人の研究者たちが集まる、大きな場所だ。そこで、高校生が発表する。そんなことが、本当にあるのだろうか。
「私たちの記録を、ですか」
「そうだ。夏の合宿の観測データと、あの天文台で撮った写真。それと、お前たちが作った、展示の記録もな」
篠原先生は、封筒をあかりに差し出した。中には、宇野先生の手書きの手紙と、学会の要項が入っていた。
『君たちの観測は、素人の目で見た、新鮮な発見に満ちている。ぜひ、その目を、大人たちにも見せてあげてほしい』
手紙の最後には、こう書かれていた。
『藤原くんも、遠い国から、君たちの発表を楽しみにしているそうだ』
あかりは、その一行を、何度も読み返した。ハルが、この発表を知っている。そして、楽しみにしてくれている。それだけで、胸が熱くなった。
「先生、やります。やらせてください」
篠原先生は、ふっと笑った。
「そう言うと思った。ただし、発表は、お前たち自身でやるんだぞ。俺は、ただ、道を開けただけだからな」
「わかっています」
あかりは、深く頭を下げた。顔を上げると、先生の目が、少しだけ潤んでいるように見えた。
部室に戻ると、ユウマとサキが、大きな紙を広げていた。発表用のポスターの下書きだ。ユウマは、頭をかきながら、紙に書かれた文字を指差している。
「三浦先輩、これ、どうですか。『夜空の記録』って題名、ちょっとダサいっすかね」
「ダサくないよ。佐伯くん、いいと思う」
「まじっすか! よかった!」
ユウマは、ぱっと顔を輝かせた。その隣で、サキが、ポスターの端に、小さな星の絵を描き込んでいた。線は、どこまでも丁寧だった。
「小林さん、すごく綺麗」
「ありがとうございます。でも、まだ、もっと練習しないと」
サキは、そう言って、少しだけ照れくさそうに笑った。その笑顔は、もう、春に来たときの、怯えたような表情とは、まったく違っていた。
その日の帰り道、ケンが、珍しく早く校門に現れた。
「あかり、ちょっといいか」
ケンの声は、少しだけ硬かった。あかりは、頷いて、彼と並んで歩き出した。
「俺さ、進路、決めたんだ」
「どこにするの」
「大学、体育系じゃなくて、理系の学部にしようと思う」
あかりは、足を止めた。ケンは、少し照れくさそうに、頭をかいていた。
「理系って、どうして」
「お前が、星の話をするの、聞いてるうちにさ。なんか、俺も、もっと知りたくなったんだよ。空のこととか、宇宙のこととか。野球のことは、もう、ちゃんと区切りをつけたいんだ」
ケンの声は、まっすぐだった。その目は、遠くの夕焼けを見つめている。
「それに、俺、肩のことで、ずっと悩んでたけど、ようやく、そのことを、ちゃんと受け止められるようになったんだよ。だから、新しいことに、挑戦してみたい」
あかりは、胸がいっぱいになった。ケンが、こんなふうに自分の未来を語るのは、初めてだった。
「ケン、すごいね」
「すごくねえよ。まだ、何もできてない」
「それでも、すごいよ。ちゃんと、前を向いてる」
ケンは、少しだけ笑った。その笑顔は、夕日の中で、柔らかく光っていた。
「お前は、どうするんだよ」
あかりは、少しだけ迷ってから、答えた。
「私も、天文学を、学びたい。大学で、ちゃんと、星のことを研究したい」
ケンは、目を見開いた。それから、大きく頷いた。
「そっか。じゃあ、お互い、頑張らないとな」
「うん」
二人は、顔を見合わせて、笑った。その笑顔は、昔と同じだった。小学生の頃、神社の裏山で、夢を語り合った、あの夜のように。
その夜、あかりの携帯に、ハルからのメッセージが届いた。
『来月、日本に帰ります。学会の発表、聞きに行けると思います』
あかりは、息を止めた。携帯の画面が、涙でにじんで、見えなくなった。
『本当ですか。待ってます』
そう返信するのに、三回も書き直した。送信ボタンを押したとき、指先が、ほんの少しだけ震えていた。
翌週、学会の発表資料の準備が、部室で本格的に始まった。
あかりは、夏の観測記録を、一枚ずつ整理していった。木星の縞模様、土星の輪、火星の赤い表面。それぞれの写真には、日付と、天候と、観測者の名前が書き込まれている。
その中に、ハルの字で書かれた、古い観測ノートがあった。
ページをめくると、そこには、ハルの父親の字が、所々に書き込まれていた。『雲が多い。でも、見えないからこそ、見える星がある』。その一文の下には、小さな、丸い印が描かれていた。
あかりは、そのノートを、そっと閉じた。
見えないからこそ、見える星がある。その言葉は、あかりの心の中に、静かに灯をともした。
窓の外では、秋の風が、落ち葉を運んでいた。遠くの空に、一番星が、淡く光っていた。
発表の準備を始めてから、あかりは、家でもずっと、スライドの構成を考えていた。
夕食のときも、母に、「また星の話?」と笑われた。お風呂の中でも、頭の中で、原稿を繰り返し読み上げていた。寝る前には、机の上のノートに、言い回しのメモを書き加える。そんな毎日が、いつのまにか、当たり前になっていた。
ある夜、母が、部屋の扉を、そっと開けた。
「あかり、そろそろ寝なさいよ。明日、早いんでしょ」
「うん、もうちょっとだけ」
「ほどほどにね。それと、あんたの学会、お母さん、ちゃんと聞きに行くからね」
あかりは、驚いて振り返った。母は、少し照れくさそうに、廊下の方を向いていた。
「お母さん、仕事は?」
「なんとかするわよ。娘が、あんなに頑張ってるんだから」
その言葉に、あかりは、胸がいっぱいになった。小さい頃、天文の図鑑ばかり読んでいた自分を、いつも少し心配そうに見ていた母。その母が、今、こんなふうに、自分を応援してくれている。
「ありがとう、お母さん」
「いいから、早く寝なさい」
母は、そう言って、扉を閉めた。けれど、その足音が、廊下の向こうで、しばらく止まっていたのを、あかりは聞いていた。
発表の練習は、毎日遅くまで続いた。
部室の電気が消えたあとも、あかりたちは、校舎の廊下で、何度も原稿を読み上げた。最初は、声が震えてうまく言葉にならなかった。ユウマは、途中で「あ、やべ、次なんだっけ」と叫んで、みんなに笑われた。サキは、スライドの色使いを、何度も何度も直していた。
「もう、いいよ、小林さん。十分綺麗だよ」
あかりが言っても、サキは首を振った。
「まだ、星の色が、ちゃんと出てないんです。木星の縞の色も、本物の方が、もっと深いんです」
その真剣な目を見て、あかりは、何も言えなくなった。サキは、本当に、本物の星を描こうとしていた。その姿勢が、胸に強く響いた。
ケンは、夜の練習に、毎日付き合ってくれた。原稿を読み上げるあかりの前に座って、一つひとつの言葉に、真剣に耳を傾けている。
「ここ、ちょっと長いな。もっと短くできないか」
「うん、やってみる」
「あと、そこの『えっと』は、いらないぞ」
ケンは、容赦なく指摘した。けれど、その指摘は、いつも的確で、あかりの原稿は、少しずつ磨かれていった。
「ケン、なんでそんなに詳しいの」
「野球のインタビューの練習、いつもやってたからな。ヒーローインタビューは、結構、緊張するんだよ」
ケンは、そう言って笑った。その笑顔は、もう、肩の痛みに耐えていた頃の影は、どこにもなかった。
発表の前日、学校の屋上で、四人は最後の観測をした。
空は、澄み切っていた。町の灯りも、いつもより少し弱くて、空には、いくつもの星が、はっきりと見えていた。
ユウマが、望遠鏡の前で、大きく息を吸った。
「明日、絶対、成功させましょう!」
「佐伯くん、声、大きいよ」
あかりが笑うと、ユウマは、照れくさそうに頭をかいた。
「すみません。なんか、俺、興奮しちゃって」
「わかるよ。私も、ちょっと、どきどきしてる」
サキが、スケッチブックを抱えて、小さく言った。
「私、いつか、本物の星を、大きな舞台で描いてみたいです」
その言葉は、夜風に乗って、屋上に静かに広がっていった。
ケンが、フェンスにもたれかかりながら、空を見上げていた。
「なあ、あかり。お前、明日、緊張しても、俺たちがいるからな」
「うん、ありがとう」
「お前は、一人じゃない。それだけ、覚えとけよ」
あかりは、胸の奥が、じんわりと温かくなった。ケンの言葉は、いつも真っ直ぐで、少し照れくさそうで、でも、確かな力があった。
当日の朝、会場となった大学のホールは、大人たちの熱気で満ちていた。白髪の研究者、スーツ姿の若い学生、大きな鞄を抱えた先生たち。その中に、高校の制服を着た四人が、少し緊張した顔で座っていた。
あかりは、会場の壁に貼られたプログラムを見つめていた。そこには、確かに、『天文部による観測記録の発表』と書かれていた。その文字が、現実のものとして、目の前にあった。
「三浦、お前、顔が真っ青だぞ」
篠原先生が、後ろから声をかけてきた。先生は、いつもより少しだけ、スーツを着込んでいた。
「大丈夫です。たぶん」
「たぶんか。それでいい。あとは、いつもどおり、星を見るときみたいに話せ」
篠原先生の言葉は、いつもどおり、少しだけぶっきらぼうだった。けれど、その中に、確かな信頼があった。
あかりは、頷いて、舞台へと向かった。
スポットライトが、まぶしく降り注いだ。会場の中の、たくさんの視線が、一斉にこちらを向いた。
あかりは、息を吸った。ケンの言葉を思い出した。『お前は、一人じゃない』。
「天文部の、三浦あかりです。私たちは、この町の、星の見えない空で、星を見続けてきました」
声は、思っていたよりも、しっかりと出た。会場の空気が、少しずつ、こちらへ傾いていくのがわかった。
発表は、順調に進んだ。ユウマは、夏の観測の失敗談を面白おかしく語り、会場中の笑いを誘った。サキは、スクリーンに映し出された自分の絵を、震える声で説明した。ケンは、観測機材の運搬の苦労を、冷静に、でも温かく伝えた。
そして、あかりは、最後のスライドを映した。
それは、あの天文台で撮った、土星の写真だった。輪をまとった黄色い星が、暗闇の中で、静かに輝いていた。
「この光は、何十億年も前に旅立った光かもしれません。でも、私たちが、今ここで見ることで、その光は、ちゃんと、誰かに届いています。それが、私たちの観測の意味だと、私は思っています」
会場が、静まり返った。そして、ひとつ、拍手が鳴った。その音は、少しずつ広がっていき、やがて、ホール全体を包み込んだ。
質疑応答の時間になると、白髪の研究者が、手を挙げた。
「君たちの観測は、素人のものとは思えない。どうやって、この精度を出したのかね」
あかりは、息を呑んだ。その質問に、どう答えればいいのか、一瞬、迷った。
そのとき、会場の後方から、小さな声が聞こえた。
「それは、いつも、三浦さんが、どんな小さな変化も、見逃さなかったからです」
あかりは、振り返った。
会場の一番後ろの扉の前に、ハルが立っていた。少し日に焼けた顔で、まっすぐに、こちらを見ていた。
その瞳が、懐かしい光で、きらりと輝いていた。
あかりは、言葉を失った。胸の奥から、何か温かいものが、一気にこみ上げてきた。
「……藤原くん」
その名前を呼んだ声は、かすかに震えていた。ハルは、少しだけ微笑んで、小さく頷いた。
発表のあと、会場のロビーは、大人たちの話し声で賑やかだった。
あかりたちは、壁際に並んで、一人ひとりの質問に答えていた。大学の教授が、サキの絵をじっくりと眺めている。若い研究者が、ユウマの観測ノートを覗き込んで、「この記録、すごく丁寧だね」と感心していた。ユウマは、顔を真っ赤にして、「いや、ほとんど失敗ばっかなんですけど」と言い訳をしていた。
その間、ハルは、少し離れた場所で、あかりを待っていた。
人の波が落ち着いたころ、あかりは、ようやく彼のもとへ歩いていった。
「藤原くん、いつ日本に戻ったの」
「昨日の夜です。宇野先生から、学会の話を聞いて、どうしても来たくなって」
ハルは、少し照れくさそうに笑った。その笑顔は、遠くにいたころよりも、ずっと大人びていた。背も、少し伸びたように見える。
「向こうは、どうだった?」
「大変でした。毎日、夜中まで観測して、研究室で寝ることもありました」
「寝てないの?」
「寝てましたよ。ちゃんと、少しは」
ハルは、笑いながら、鞄から一冊のノートを取り出した。表紙は、少し擦り切れていた。
「これ、向こうでずっとつけていた観測記録です。最初の頃は、字もめちゃくちゃでした。でも、三浦さんに教えてもらった、『小さな変化を見逃さない』っていうのを、ずっと意識してたんです」
あかりは、ノートを受け取って、ページをめくった。そこには、英語と日本語が入り混じった、丁寧な字が並んでいた。雲の動き、星の明るさ、そして、ところどころに、小さなスケッチが描かれている。
その一枚に、目が止まった。
それは、天文台で見た土星の絵だった。輪の一本一本まで、丁寧に描き込まれている。そして、その下には、小さな文字で、こう書かれていた。
『この景色を、三浦さんと一緒に見たかった』
あかりは、息を止めた。胸の奥が、じんと熱くなった。
「……藤原くん、これ」
「すみません、勝手に書いてしまって。でも、どうしても、言葉にしたかったんです」
ハルの声は、少しだけ震えていた。
あかりは、ノートを胸に抱いて、俯いた。涙がこぼれそうになるのを、必死にこらえた。
「ありがとう。大事にする」
「はい。ぜひ、そうしてください」
二人は、しばらく何も言わずに、ロビーの窓から見える空を眺めていた。冬が近いせいか、空は透き通るように青く、遠くの山並みが、くっきりと浮かび上がっていた。
「三浦さん、大学、どこに行くか、決まりましたか」
ハルの問いに、あかりは頷いた。
「うん。天文学科のある、県外の大学に行こうと思ってる。まだ、受験はこれからだけど」
「そうなんですか。すごいですね」
「藤原くんは?」
ハルは、少しだけ迷ってから、答えた。
「僕は、まだ、決めてないです。向こうの研究室から、もう一度、来てほしいって言われてて」
「そっか」
「でも、日本でも、やりたいことがあるんです。宇野先生の天文台で、父さんの観測記録を、ちゃんと整理したくて」
ハルの目は、遠くを見るように、まっすぐだった。その横顔には、父親の面影が、どこか重なって見えた。
あかりは、その姿に、少しだけ胸が締めつけられた。ハルは、ずっと、父親の夢を背負って生きている。その背中は、大きくて、でも、どこか寂しげだった。
「藤原くん、一人で背負わなくていいんだよ」
あかりの言葉に、ハルは、驚いたように目を見開いた。
「三浦さんも、同じこと、言うんですね」
「え?」
「篠原先生が、前に言ってたんです。『一人で全部背負うな』って。僕、それ、ずっと覚えてて」
ハルは、少しだけ笑った。その笑顔は、春の夜の、やわらかな光に似ていた。
「僕も、まだ、ちゃんと仲間に頼るのが、下手なんです」
「じゃあ、一緒に練習しよう」
あかりが言うと、ハルは、吹き出すように笑った。
「三浦さん、本当に、変わりませんね」
「藤原くんも、変わってないよ」
二人は、顔を見合わせて、声を上げて笑った。その笑い声が、ロビーの静かな空間に、軽やかに響いた。
そのとき、少し離れた場所から、ユウマの大声が聞こえてきた。
「藤原先輩! 戻ってきたんすか! 俺、写真、ずっと待ってたんですよ!」
ハルは、驚いたように振り返った。そして、ユウマに向かって、大きく手を振った。
「佐伯くん、元気そうですね」
「はい。あいつ、ずっと、藤原くんの写真、見てたんです」
あかりが言うと、ハルは、少しだけ照れくさそうに、頭をかいた。
その後ろから、サキが、スケッチブックを抱えて、小走りでやってきた。
「藤原先輩、この前の、木星の絵、ちゃんと飾ってくれてますか」
「はい。向こうの研究室の壁に、ずっと貼ってます」
「よかった。あの絵、少しだけ、自信があったんです」
サキは、嬉しそうに笑った。その笑顔は、春の桜のように、明るかった。
ケンは、少し離れた場所で、腕を組んで、みんなを見ていた。その顔には、穏やかな笑みが浮かんでいた。
あかりは、ケンの方へ振り返って、小さく手を振った。ケンは、いつものように、ぶっきらぼうに、でも確かに笑って、手を振り返してくれた。
その光景を見て、ハルは、そっと目を細めた。
「いいチームですね、天文部」
「うん。本当に、いいチームだと思う」
あかりは、胸を張って答えた。その声には、もう、迷いはなかった。
その日の夕方、学会の会場を出ると、冷たい風が頬を撫でた。
空は、夕焼けが終わって、深い藍色に変わり始めていた。ビルの間から、一番星が顔を出している。
宇野先生が、あかりたちの前に、ゆっくりと歩いてきた。白衣ではなく、スーツ姿の先生は、いつもより少しだけ、かしこまって見えた。
「君たち、よくやったな。本当に、よくやった」
先生の声は、いつもどおり、穏やかだった。けれど、その目が、少しだけ潤んでいた。
「先生、ありがとうございます。ここまで来られたのは、先生のおかげです」
あかりが頭を下げると、宇野先生は、首を横に振った。
「いや、俺は、ちょっと道を見せただけだ。歩いたのは、君たちだ」
先生は、そう言って、空を見上げた。その横顔は、昔の写真で見た、若い研究者の顔に、少しだけ似ていた。
「三浦、お前が、最後のスライドで言った言葉、覚えてるか」
「はい。『見えない場所にも、光は届いている』って」
「そうだ。あれは、俺が、ずっと昔、先輩から教わった言葉なんだ。研究が行き詰まったとき、この言葉で、何度も救われた」
あかりは、胸が熱くなった。その言葉が、自分の言葉で、誰かの心に届いていた。それが、信じられないくらい、嬉しかった。
ユウマが、横から大声を出した。
「先生、それ、すっげえ名言じゃないですか! 俺、メモしてもいいですか!」
「佐伯、お前は、まず、そのメモ帳を忘れないようにしろ」
宇野先生が笑うと、ユウマは、慌ててポケットを探った。その様子に、サキとケンが、声を上げて笑った。
その笑い声の中で、あかりは、ふと、空を見上げた。一番星は、ずっとそこにあった。見えにくくても、光は確かにそこにある。
宇野先生が、あかりの肩を、そっと叩いた。
「来月、大学の研究会で、もう一度、発表してくれないか。今度は、君たち自身の言葉で、話してほしい」
「私たちの言葉で、ですか」
「ああ。君たちの観測は、もう、ただの高校生の記録じゃない。立派な、研究の一部になりつつある」
あかりは、息を止めた。研究の一部。その言葉が、胸の中で、ゆっくりと広がっていく。
「やります」
答えたのは、あかりではなく、ケンだった。ケンは、真っ直ぐに、宇野先生を見ていた。
「俺たちは、ちゃんとやります。な、みんな」
ユウマが、大きく頷いた。サキが、スケッチブックを抱えて、強く頷いた。あかりも、胸を張って、頷いた。
宇野先生は、四人の顔を、一人ずつ見つめた。そして、満足そうに、微笑んだ。
「いい目だ。君たちは、本当に、いい目をしている」
その言葉は、夕暮れの風に乗って、静かに、みんなの胸に届いた。
それは、まるで、遠い国から届いた、一つの光のようだった。
第9話 観測記録の行方
その週末、あかりは、一人で大学の図書館へ行った。
受験の準備のために、天文学の専門書を借りるつもりだった。書架の間を歩いていると、天井まで届く本棚が、まるで森のように続いている。その奥に、古い星図の複製が、ガラスケースに入れて飾られていた。
あかりは、その前で、長いあいだ立ち止まっていた。昔の人が、手描きで描いた夜空。今よりずっと少ない道具で、それでも必死に星を見上げていた人たちの記録。
「きれい……」
思わず、声が漏れた。隣にいた司書の女性が、くすりと笑って、「そうでしょう」と答えた。
「この星図、今でも、研究者がよく見に来るんですよ」
「そうなんですか」
「ええ。昔の人の目って、今の私たちには見えないものを、見ていたりするんです」
その言葉は、あかりの胸に、深く残った。見えないものを、見ようとする目。それは、ハルが、ずっと持ち続けていたものだった。
秋の放課後は、驚くほど早く暗くなった。
部室の窓から見える空は、夕方の五時を過ぎると、もう藍色に沈んでいく。その色は、夏とは違って、どこか冷たく、澄んでいた。あかりは、窓の外が暗くなるたびに、胸の奥が、少しだけざわめくのを感じた。
秋は、物事が終わっていく季節だと、昔、誰かが言っていた。木の葉が散り、虫の声が途切れ、夏の光が遠ざかっていく。それでも、あかりは、この季節が嫌いではなかった。空気が澄んでいるから、星が、よく見えるのだ。
部室の机の上には、観測記録の束が積まれていた。夏の天体写真、ユウマの観測ノート、サキの描いた星の下絵。どれも、一年かけて集めた、大切な宝物だった。
「三浦先輩、このノート、ちょっと見てください!」
ユウマが、大きな声で呼んだ。あかりが覗き込むと、そこには、ユウマの書いた星座の図が、びっしりと描かれていた。ところどころ、間違えて消した跡が残っている。
「すごい。ちゃんと、覚えてきたんだね」
「はい! 夜中に、ベッドの中で、星座の名前を唱えてたんすよ。そしたら、寝られなくなっちゃって」
ユウマは、照れくさそうに笑った。その笑顔は、夏の頃よりも、少しだけ大人びて見えた。
秋が深まるにつれて、学校の空気は、少しずつ張りつめていった。
廊下には、大学の資料が積み重なり、教室の黒板には、『受験まであと何日』という数字が、毎朝書き換えられていく。進路指導室の前には、いつも列ができていて、ため息と小さな笑い声が、交互に聞こえてくる。
あかりは、その中で、少しずつ、自分の道を探していた。
天文学を学びたい。その思いは、ずっと変わっていない。けれど、その道の先に、どんな未来があるのかは、まだ見えなかった。大学の研究室で、星を見る仕事。それは、夢のように遠くて、現実味のないものに思えた。
「三浦、ちょっといいか」
放課後、部室へ向かう途中で、篠原先生に呼び止められた。先生は、いつもの白いシャツの袖をまくって、手に一枚の封筒を持っていた。
「宇野先生から、連絡があった。今度の学会で、高校生の観測発表の枠があるらしい。天文部から、お前たちの観測記録を出してみないか」
あかりは、息を呑んだ。学会。それは、大人の研究者たちが集まる、大きな場所だ。そこで、高校生が発表する。そんなことが、本当にあるのだろうか。
「私たちの記録を、ですか」
「そうだ。夏の合宿の観測データと、あの天文台で撮った写真。それと、お前たちが作った、展示の記録もな」
篠原先生は、封筒をあかりに差し出した。中には、宇野先生の手書きの手紙と、学会の要項が入っていた。
『君たちの観測は、素人の目で見た、新鮮な発見に満ちている。ぜひ、その目を、大人たちにも見せてあげてほしい』
手紙の最後には、こう書かれていた。
『藤原くんも、遠い国から、君たちの発表を楽しみにしているそうだ』
あかりは、その一行を、何度も読み返した。ハルが、この発表を知っている。そして、楽しみにしてくれている。それだけで、胸が熱くなった。
「先生、やります。やらせてください」
篠原先生は、ふっと笑った。
「そう言うと思った。ただし、発表は、お前たち自身でやるんだぞ。俺は、ただ、道を開けただけだからな」
「わかっています」
あかりは、深く頭を下げた。顔を上げると、先生の目が、少しだけ潤んでいるように見えた。
部室に戻ると、ユウマとサキが、大きな紙を広げていた。発表用のポスターの下書きだ。ユウマは、頭をかきながら、紙に書かれた文字を指差している。
「三浦先輩、これ、どうですか。『夜空の記録』って題名、ちょっとダサいっすかね」
「ダサくないよ。佐伯くん、いいと思う」
「まじっすか! よかった!」
ユウマは、ぱっと顔を輝かせた。その隣で、サキが、ポスターの端に、小さな星の絵を描き込んでいた。線は、どこまでも丁寧だった。
「小林さん、すごく綺麗」
「ありがとうございます。でも、まだ、もっと練習しないと」
サキは、そう言って、少しだけ照れくさそうに笑った。その笑顔は、もう、春に来たときの、怯えたような表情とは、まったく違っていた。
その日の帰り道、ケンが、珍しく早く校門に現れた。
「あかり、ちょっといいか」
ケンの声は、少しだけ硬かった。あかりは、頷いて、彼と並んで歩き出した。
「俺さ、進路、決めたんだ」
「どこにするの」
「大学、体育系じゃなくて、理系の学部にしようと思う」
あかりは、足を止めた。ケンは、少し照れくさそうに、頭をかいていた。
「理系って、どうして」
「お前が、星の話をするの、聞いてるうちにさ。なんか、俺も、もっと知りたくなったんだよ。空のこととか、宇宙のこととか。野球のことは、もう、ちゃんと区切りをつけたいんだ」
ケンの声は、まっすぐだった。その目は、遠くの夕焼けを見つめている。
「それに、俺、肩のことで、ずっと悩んでたけど、ようやく、そのことを、ちゃんと受け止められるようになったんだよ。だから、新しいことに、挑戦してみたい」
あかりは、胸がいっぱいになった。ケンが、こんなふうに自分の未来を語るのは、初めてだった。
「ケン、すごいね」
「すごくねえよ。まだ、何もできてない」
「それでも、すごいよ。ちゃんと、前を向いてる」
ケンは、少しだけ笑った。その笑顔は、夕日の中で、柔らかく光っていた。
「お前は、どうするんだよ」
あかりは、少しだけ迷ってから、答えた。
「私も、天文学を、学びたい。大学で、ちゃんと、星のことを研究したい」
ケンは、目を見開いた。それから、大きく頷いた。
「そっか。じゃあ、お互い、頑張らないとな」
「うん」
二人は、顔を見合わせて、笑った。その笑顔は、昔と同じだった。小学生の頃、神社の裏山で、夢を語り合った、あの夜のように。
その夜、あかりの携帯に、ハルからのメッセージが届いた。
『来月、日本に帰ります。学会の発表、聞きに行けると思います』
あかりは、息を止めた。携帯の画面が、涙でにじんで、見えなくなった。
『本当ですか。待ってます』
そう返信するのに、三回も書き直した。送信ボタンを押したとき、指先が、ほんの少しだけ震えていた。
翌週、学会の発表資料の準備が、部室で本格的に始まった。
あかりは、夏の観測記録を、一枚ずつ整理していった。木星の縞模様、土星の輪、火星の赤い表面。それぞれの写真には、日付と、天候と、観測者の名前が書き込まれている。
その中に、ハルの字で書かれた、古い観測ノートがあった。
ページをめくると、そこには、ハルの父親の字が、所々に書き込まれていた。『雲が多い。でも、見えないからこそ、見える星がある』。その一文の下には、小さな、丸い印が描かれていた。
あかりは、そのノートを、そっと閉じた。
見えないからこそ、見える星がある。その言葉は、あかりの心の中に、静かに灯をともした。
窓の外では、秋の風が、落ち葉を運んでいた。遠くの空に、一番星が、淡く光っていた。
発表の準備を始めてから、あかりは、家でもずっと、スライドの構成を考えていた。
夕食のときも、母に、「また星の話?」と笑われた。お風呂の中でも、頭の中で、原稿を繰り返し読み上げていた。寝る前には、机の上のノートに、言い回しのメモを書き加える。そんな毎日が、いつのまにか、当たり前になっていた。
ある夜、母が、部屋の扉を、そっと開けた。
「あかり、そろそろ寝なさいよ。明日、早いんでしょ」
「うん、もうちょっとだけ」
「ほどほどにね。それと、あんたの学会、お母さん、ちゃんと聞きに行くからね」
あかりは、驚いて振り返った。母は、少し照れくさそうに、廊下の方を向いていた。
「お母さん、仕事は?」
「なんとかするわよ。娘が、あんなに頑張ってるんだから」
その言葉に、あかりは、胸がいっぱいになった。小さい頃、天文の図鑑ばかり読んでいた自分を、いつも少し心配そうに見ていた母。その母が、今、こんなふうに、自分を応援してくれている。
「ありがとう、お母さん」
「いいから、早く寝なさい」
母は、そう言って、扉を閉めた。けれど、その足音が、廊下の向こうで、しばらく止まっていたのを、あかりは聞いていた。
発表の練習は、毎日遅くまで続いた。
部室の電気が消えたあとも、あかりたちは、校舎の廊下で、何度も原稿を読み上げた。最初は、声が震えてうまく言葉にならなかった。ユウマは、途中で「あ、やべ、次なんだっけ」と叫んで、みんなに笑われた。サキは、スライドの色使いを、何度も何度も直していた。
「もう、いいよ、小林さん。十分綺麗だよ」
あかりが言っても、サキは首を振った。
「まだ、星の色が、ちゃんと出てないんです。木星の縞の色も、本物の方が、もっと深いんです」
その真剣な目を見て、あかりは、何も言えなくなった。サキは、本当に、本物の星を描こうとしていた。その姿勢が、胸に強く響いた。
ケンは、夜の練習に、毎日付き合ってくれた。原稿を読み上げるあかりの前に座って、一つひとつの言葉に、真剣に耳を傾けている。
「ここ、ちょっと長いな。もっと短くできないか」
「うん、やってみる」
「あと、そこの『えっと』は、いらないぞ」
ケンは、容赦なく指摘した。けれど、その指摘は、いつも的確で、あかりの原稿は、少しずつ磨かれていった。
「ケン、なんでそんなに詳しいの」
「野球のインタビューの練習、いつもやってたからな。ヒーローインタビューは、結構、緊張するんだよ」
ケンは、そう言って笑った。その笑顔は、もう、肩の痛みに耐えていた頃の影は、どこにもなかった。
発表の前日、学校の屋上で、四人は最後の観測をした。
空は、澄み切っていた。町の灯りも、いつもより少し弱くて、空には、いくつもの星が、はっきりと見えていた。
ユウマが、望遠鏡の前で、大きく息を吸った。
「明日、絶対、成功させましょう!」
「佐伯くん、声、大きいよ」
あかりが笑うと、ユウマは、照れくさそうに頭をかいた。
「すみません。なんか、俺、興奮しちゃって」
「わかるよ。私も、ちょっと、どきどきしてる」
サキが、スケッチブックを抱えて、小さく言った。
「私、いつか、本物の星を、大きな舞台で描いてみたいです」
その言葉は、夜風に乗って、屋上に静かに広がっていった。
ケンが、フェンスにもたれかかりながら、空を見上げていた。
「なあ、あかり。お前、明日、緊張しても、俺たちがいるからな」
「うん、ありがとう」
「お前は、一人じゃない。それだけ、覚えとけよ」
あかりは、胸の奥が、じんわりと温かくなった。ケンの言葉は、いつも真っ直ぐで、少し照れくさそうで、でも、確かな力があった。
当日の朝、会場となった大学のホールは、大人たちの熱気で満ちていた。白髪の研究者、スーツ姿の若い学生、大きな鞄を抱えた先生たち。その中に、高校の制服を着た四人が、少し緊張した顔で座っていた。
あかりは、会場の壁に貼られたプログラムを見つめていた。そこには、確かに、『天文部による観測記録の発表』と書かれていた。その文字が、現実のものとして、目の前にあった。
「三浦、お前、顔が真っ青だぞ」
篠原先生が、後ろから声をかけてきた。先生は、いつもより少しだけ、スーツを着込んでいた。
「大丈夫です。たぶん」
「たぶんか。それでいい。あとは、いつもどおり、星を見るときみたいに話せ」
篠原先生の言葉は、いつもどおり、少しだけぶっきらぼうだった。けれど、その中に、確かな信頼があった。
あかりは、頷いて、舞台へと向かった。
スポットライトが、まぶしく降り注いだ。会場の中の、たくさんの視線が、一斉にこちらを向いた。
あかりは、息を吸った。ケンの言葉を思い出した。『お前は、一人じゃない』。
「天文部の、三浦あかりです。私たちは、この町の、星の見えない空で、星を見続けてきました」
声は、思っていたよりも、しっかりと出た。会場の空気が、少しずつ、こちらへ傾いていくのがわかった。
発表は、順調に進んだ。ユウマは、夏の観測の失敗談を面白おかしく語り、会場中の笑いを誘った。サキは、スクリーンに映し出された自分の絵を、震える声で説明した。ケンは、観測機材の運搬の苦労を、冷静に、でも温かく伝えた。
そして、あかりは、最後のスライドを映した。
それは、あの天文台で撮った、土星の写真だった。輪をまとった黄色い星が、暗闇の中で、静かに輝いていた。
「この光は、何十億年も前に旅立った光かもしれません。でも、私たちが、今ここで見ることで、その光は、ちゃんと、誰かに届いています。それが、私たちの観測の意味だと、私は思っています」
会場が、静まり返った。そして、ひとつ、拍手が鳴った。その音は、少しずつ広がっていき、やがて、ホール全体を包み込んだ。
質疑応答の時間になると、白髪の研究者が、手を挙げた。
「君たちの観測は、素人のものとは思えない。どうやって、この精度を出したのかね」
あかりは、息を呑んだ。その質問に、どう答えればいいのか、一瞬、迷った。
そのとき、会場の後方から、小さな声が聞こえた。
「それは、いつも、三浦さんが、どんな小さな変化も、見逃さなかったからです」
あかりは、振り返った。
会場の一番後ろの扉の前に、ハルが立っていた。少し日に焼けた顔で、まっすぐに、こちらを見ていた。
その瞳が、懐かしい光で、きらりと輝いていた。
あかりは、言葉を失った。胸の奥から、何か温かいものが、一気にこみ上げてきた。
「……藤原くん」
その名前を呼んだ声は、かすかに震えていた。ハルは、少しだけ微笑んで、小さく頷いた。
発表のあと、会場のロビーは、大人たちの話し声で賑やかだった。
あかりたちは、壁際に並んで、一人ひとりの質問に答えていた。大学の教授が、サキの絵をじっくりと眺めている。若い研究者が、ユウマの観測ノートを覗き込んで、「この記録、すごく丁寧だね」と感心していた。ユウマは、顔を真っ赤にして、「いや、ほとんど失敗ばっかなんですけど」と言い訳をしていた。
その間、ハルは、少し離れた場所で、あかりを待っていた。
人の波が落ち着いたころ、あかりは、ようやく彼のもとへ歩いていった。
「藤原くん、いつ日本に戻ったの」
「昨日の夜です。宇野先生から、学会の話を聞いて、どうしても来たくなって」
ハルは、少し照れくさそうに笑った。その笑顔は、遠くにいたころよりも、ずっと大人びていた。背も、少し伸びたように見える。
「向こうは、どうだった?」
「大変でした。毎日、夜中まで観測して、研究室で寝ることもありました」
「寝てないの?」
「寝てましたよ。ちゃんと、少しは」
ハルは、笑いながら、鞄から一冊のノートを取り出した。表紙は、少し擦り切れていた。
「これ、向こうでずっとつけていた観測記録です。最初の頃は、字もめちゃくちゃでした。でも、三浦さんに教えてもらった、『小さな変化を見逃さない』っていうのを、ずっと意識してたんです」
あかりは、ノートを受け取って、ページをめくった。そこには、英語と日本語が入り混じった、丁寧な字が並んでいた。雲の動き、星の明るさ、そして、ところどころに、小さなスケッチが描かれている。
その一枚に、目が止まった。
それは、天文台で見た土星の絵だった。輪の一本一本まで、丁寧に描き込まれている。そして、その下には、小さな文字で、こう書かれていた。
『この景色を、三浦さんと一緒に見たかった』
あかりは、息を止めた。胸の奥が、じんと熱くなった。
「……藤原くん、これ」
「すみません、勝手に書いてしまって。でも、どうしても、言葉にしたかったんです」
ハルの声は、少しだけ震えていた。
あかりは、ノートを胸に抱いて、俯いた。涙がこぼれそうになるのを、必死にこらえた。
「ありがとう。大事にする」
「はい。ぜひ、そうしてください」
二人は、しばらく何も言わずに、ロビーの窓から見える空を眺めていた。冬が近いせいか、空は透き通るように青く、遠くの山並みが、くっきりと浮かび上がっていた。
「三浦さん、大学、どこに行くか、決まりましたか」
ハルの問いに、あかりは頷いた。
「うん。天文学科のある、県外の大学に行こうと思ってる。まだ、受験はこれからだけど」
「そうなんですか。すごいですね」
「藤原くんは?」
ハルは、少しだけ迷ってから、答えた。
「僕は、まだ、決めてないです。向こうの研究室から、もう一度、来てほしいって言われてて」
「そっか」
「でも、日本でも、やりたいことがあるんです。宇野先生の天文台で、父さんの観測記録を、ちゃんと整理したくて」
ハルの目は、遠くを見るように、まっすぐだった。その横顔には、父親の面影が、どこか重なって見えた。
あかりは、その姿に、少しだけ胸が締めつけられた。ハルは、ずっと、父親の夢を背負って生きている。その背中は、大きくて、でも、どこか寂しげだった。
「藤原くん、一人で背負わなくていいんだよ」
あかりの言葉に、ハルは、驚いたように目を見開いた。
「三浦さんも、同じこと、言うんですね」
「え?」
「篠原先生が、前に言ってたんです。『一人で全部背負うな』って。僕、それ、ずっと覚えてて」
ハルは、少しだけ笑った。その笑顔は、春の夜の、やわらかな光に似ていた。
「僕も、まだ、ちゃんと仲間に頼るのが、下手なんです」
「じゃあ、一緒に練習しよう」
あかりが言うと、ハルは、吹き出すように笑った。
「三浦さん、本当に、変わりませんね」
「藤原くんも、変わってないよ」
二人は、顔を見合わせて、声を上げて笑った。その笑い声が、ロビーの静かな空間に、軽やかに響いた。
そのとき、少し離れた場所から、ユウマの大声が聞こえてきた。
「藤原先輩! 戻ってきたんすか! 俺、写真、ずっと待ってたんですよ!」
ハルは、驚いたように振り返った。そして、ユウマに向かって、大きく手を振った。
「佐伯くん、元気そうですね」
「はい。あいつ、ずっと、藤原くんの写真、見てたんです」
あかりが言うと、ハルは、少しだけ照れくさそうに、頭をかいた。
その後ろから、サキが、スケッチブックを抱えて、小走りでやってきた。
「藤原先輩、この前の、木星の絵、ちゃんと飾ってくれてますか」
「はい。向こうの研究室の壁に、ずっと貼ってます」
「よかった。あの絵、少しだけ、自信があったんです」
サキは、嬉しそうに笑った。その笑顔は、春の桜のように、明るかった。
ケンは、少し離れた場所で、腕を組んで、みんなを見ていた。その顔には、穏やかな笑みが浮かんでいた。
あかりは、ケンの方へ振り返って、小さく手を振った。ケンは、いつものように、ぶっきらぼうに、でも確かに笑って、手を振り返してくれた。
その光景を見て、ハルは、そっと目を細めた。
「いいチームですね、天文部」
「うん。本当に、いいチームだと思う」
あかりは、胸を張って答えた。その声には、もう、迷いはなかった。
その日の夕方、学会の会場を出ると、冷たい風が頬を撫でた。
空は、夕焼けが終わって、深い藍色に変わり始めていた。ビルの間から、一番星が顔を出している。
宇野先生が、あかりたちの前に、ゆっくりと歩いてきた。白衣ではなく、スーツ姿の先生は、いつもより少しだけ、かしこまって見えた。
「君たち、よくやったな。本当に、よくやった」
先生の声は、いつもどおり、穏やかだった。けれど、その目が、少しだけ潤んでいた。
「先生、ありがとうございます。ここまで来られたのは、先生のおかげです」
あかりが頭を下げると、宇野先生は、首を横に振った。
「いや、俺は、ちょっと道を見せただけだ。歩いたのは、君たちだ」
先生は、そう言って、空を見上げた。その横顔は、昔の写真で見た、若い研究者の顔に、少しだけ似ていた。
「三浦、お前が、最後のスライドで言った言葉、覚えてるか」
「はい。『見えない場所にも、光は届いている』って」
「そうだ。あれは、俺が、ずっと昔、先輩から教わった言葉なんだ。研究が行き詰まったとき、この言葉で、何度も救われた」
あかりは、胸が熱くなった。その言葉が、自分の言葉で、誰かの心に届いていた。それが、信じられないくらい、嬉しかった。
ユウマが、横から大声を出した。
「先生、それ、すっげえ名言じゃないですか! 俺、メモしてもいいですか!」
「佐伯、お前は、まず、そのメモ帳を忘れないようにしろ」
宇野先生が笑うと、ユウマは、慌ててポケットを探った。その様子に、サキとケンが、声を上げて笑った。
その笑い声の中で、あかりは、ふと、空を見上げた。一番星は、ずっとそこにあった。見えにくくても、光は確かにそこにある。
宇野先生が、あかりの肩を、そっと叩いた。
「来月、大学の研究会で、もう一度、発表してくれないか。今度は、君たち自身の言葉で、話してほしい」
「私たちの言葉で、ですか」
「ああ。君たちの観測は、もう、ただの高校生の記録じゃない。立派な、研究の一部になりつつある」
あかりは、息を止めた。研究の一部。その言葉が、胸の中で、ゆっくりと広がっていく。
「やります」
答えたのは、あかりではなく、ケンだった。ケンは、真っ直ぐに、宇野先生を見ていた。
「俺たちは、ちゃんとやります。な、みんな」
ユウマが、大きく頷いた。サキが、スケッチブックを抱えて、強く頷いた。あかりも、胸を張って、頷いた。
宇野先生は、四人の顔を、一人ずつ見つめた。そして、満足そうに、微笑んだ。
「いい目だ。君たちは、本当に、いい目をしている」
その言葉は、夕暮れの風に乗って、静かに、みんなの胸に届いた。
それは、まるで、遠い国から届いた、一つの光のようだった。第9話 観測記録の行方
その週末、あかりは、一人で大学の図書館へ行った。
受験の準備のために、天文学の専門書を借りるつもりだった。書架の間を歩いていると、天井まで届く本棚が、まるで森のように続いている。その奥に、古い星図の複製が、ガラスケースに入れて飾られていた。
あかりは、その前で、長いあいだ立ち止まっていた。昔の人が、手描きで描いた夜空。今よりずっと少ない道具で、それでも必死に星を見上げていた人たちの記録。
「きれい……」
思わず、声が漏れた。隣にいた司書の女性が、くすりと笑って、「そうでしょう」と答えた。
「この星図、今でも、研究者がよく見に来るんですよ」
「そうなんですか」
「ええ。昔の人の目って、今の私たちには見えないものを、見ていたりするんです」
その言葉は、あかりの胸に、深く残った。見えないものを、見ようとする目。それは、ハルが、ずっと持ち続けていたものだった。
秋の放課後は、驚くほど早く暗くなった。
部室の窓から見える空は、夕方の五時を過ぎると、もう藍色に沈んでいく。その色は、夏とは違って、どこか冷たく、澄んでいた。あかりは、窓の外が暗くなるたびに、胸の奥が、少しだけざわめくのを感じた。
秋は、物事が終わっていく季節だと、昔、誰かが言っていた。木の葉が散り、虫の声が途切れ、夏の光が遠ざかっていく。それでも、あかりは、この季節が嫌いではなかった。空気が澄んでいるから、星が、よく見えるのだ。
部室の机の上には、観測記録の束が積まれていた。夏の天体写真、ユウマの観測ノート、サキの描いた星の下絵。どれも、一年かけて集めた、大切な宝物だった。
「三浦先輩、このノート、ちょっと見てください!」
ユウマが、大きな声で呼んだ。あかりが覗き込むと、そこには、ユウマの書いた星座の図が、びっしりと描かれていた。ところどころ、間違えて消した跡が残っている。
「すごい。ちゃんと、覚えてきたんだね」
「はい! 夜中に、ベッドの中で、星座の名前を唱えてたんすよ。そしたら、寝られなくなっちゃって」
ユウマは、照れくさそうに笑った。その笑顔は、夏の頃よりも、少しだけ大人びて見えた。
秋が深まるにつれて、学校の空気は、少しずつ張りつめていった。
廊下には、大学の資料が積み重なり、教室の黒板には、『受験まであと何日』という数字が、毎朝書き換えられていく。進路指導室の前には、いつも列ができていて、ため息と小さな笑い声が、交互に聞こえてくる。
あかりは、その中で、少しずつ、自分の道を探していた。
天文学を学びたい。その思いは、ずっと変わっていない。けれど、その道の先に、どんな未来があるのかは、まだ見えなかった。大学の研究室で、星を見る仕事。それは、夢のように遠くて、現実味のないものに思えた。
「三浦、ちょっといいか」
放課後、部室へ向かう途中で、篠原先生に呼び止められた。先生は、いつもの白いシャツの袖をまくって、手に一枚の封筒を持っていた。
「宇野先生から、連絡があった。今度の学会で、高校生の観測発表の枠があるらしい。天文部から、お前たちの観測記録を出してみないか」
あかりは、息を呑んだ。学会。それは、大人の研究者たちが集まる、大きな場所だ。そこで、高校生が発表する。そんなことが、本当にあるのだろうか。
「私たちの記録を、ですか」
「そうだ。夏の合宿の観測データと、あの天文台で撮った写真。それと、お前たちが作った、展示の記録もな」
篠原先生は、封筒をあかりに差し出した。中には、宇野先生の手書きの手紙と、学会の要項が入っていた。
『君たちの観測は、素人の目で見た、新鮮な発見に満ちている。ぜひ、その目を、大人たちにも見せてあげてほしい』
手紙の最後には、こう書かれていた。
『藤原くんも、遠い国から、君たちの発表を楽しみにしているそうだ』
あかりは、その一行を、何度も読み返した。ハルが、この発表を知っている。そして、楽しみにしてくれている。それだけで、胸が熱くなった。
「先生、やります。やらせてください」
篠原先生は、ふっと笑った。
「そう言うと思った。ただし、発表は、お前たち自身でやるんだぞ。俺は、ただ、道を開けただけだからな」
「わかっています」
あかりは、深く頭を下げた。顔を上げると、先生の目が、少しだけ潤んでいるように見えた。
部室に戻ると、ユウマとサキが、大きな紙を広げていた。発表用のポスターの下書きだ。ユウマは、頭をかきながら、紙に書かれた文字を指差している。
「三浦先輩、これ、どうですか。『夜空の記録』って題名、ちょっとダサいっすかね」
「ダサくないよ。佐伯くん、いいと思う」
「まじっすか! よかった!」
ユウマは、ぱっと顔を輝かせた。その隣で、サキが、ポスターの端に、小さな星の絵を描き込んでいた。線は、どこまでも丁寧だった。
「小林さん、すごく綺麗」
「ありがとうございます。でも、まだ、もっと練習しないと」
サキは、そう言って、少しだけ照れくさそうに笑った。その笑顔は、もう、春に来たときの、怯えたような表情とは、まったく違っていた。
その日の帰り道、ケンが、珍しく早く校門に現れた。
「あかり、ちょっといいか」
ケンの声は、少しだけ硬かった。あかりは、頷いて、彼と並んで歩き出した。
「俺さ、進路、決めたんだ」
「どこにするの」
「大学、体育系じゃなくて、理系の学部にしようと思う」
あかりは、足を止めた。ケンは、少し照れくさそうに、頭をかいていた。
「理系って、どうして」
「お前が、星の話をするの、聞いてるうちにさ。なんか、俺も、もっと知りたくなったんだよ。空のこととか、宇宙のこととか。野球のことは、もう、ちゃんと区切りをつけたいんだ」
ケンの声は、まっすぐだった。その目は、遠くの夕焼けを見つめている。
「それに、俺、肩のことで、ずっと悩んでたけど、ようやく、そのことを、ちゃんと受け止められるようになったんだよ。だから、新しいことに、挑戦してみたい」
あかりは、胸がいっぱいになった。ケンが、こんなふうに自分の未来を語るのは、初めてだった。
「ケン、すごいね」
「すごくねえよ。まだ、何もできてない」
「それでも、すごいよ。ちゃんと、前を向いてる」
ケンは、少しだけ笑った。その笑顔は、夕日の中で、柔らかく光っていた。
「お前は、どうするんだよ」
あかりは、少しだけ迷ってから、答えた。
「私も、天文学を、学びたい。大学で、ちゃんと、星のことを研究したい」
ケンは、目を見開いた。それから、大きく頷いた。
「そっか。じゃあ、お互い、頑張らないとな」
「うん」
二人は、顔を見合わせて、笑った。その笑顔は、昔と同じだった。小学生の頃、神社の裏山で、夢を語り合った、あの夜のように。
その夜、あかりの携帯に、ハルからのメッセージが届いた。
『来月、日本に帰ります。学会の発表、聞きに行けると思います』
あかりは、息を止めた。携帯の画面が、涙でにじんで、見えなくなった。
『本当ですか。待ってます』
そう返信するのに、三回も書き直した。送信ボタンを押したとき、指先が、ほんの少しだけ震えていた。
翌週、学会の発表資料の準備が、部室で本格的に始まった。
あかりは、夏の観測記録を、一枚ずつ整理していった。木星の縞模様、土星の輪、火星の赤い表面。それぞれの写真には、日付と、天候と、観測者の名前が書き込まれている。
その中に、ハルの字で書かれた、古い観測ノートがあった。
ページをめくると、そこには、ハルの父親の字が、所々に書き込まれていた。『雲が多い。でも、見えないからこそ、見える星がある』。その一文の下には、小さな、丸い印が描かれていた。
あかりは、そのノートを、そっと閉じた。
見えないからこそ、見える星がある。その言葉は、あかりの心の中に、静かに灯をともした。
窓の外では、秋の風が、落ち葉を運んでいた。遠くの空に、一番星が、淡く光っていた。
発表の準備を始めてから、あかりは、家でもずっと、スライドの構成を考えていた。
夕食のときも、母に、「また星の話?」と笑われた。お風呂の中でも、頭の中で、原稿を繰り返し読み上げていた。寝る前には、机の上のノートに、言い回しのメモを書き加える。そんな毎日が、いつのまにか、当たり前になっていた。
ある夜、母が、部屋の扉を、そっと開けた。
「あかり、そろそろ寝なさいよ。明日、早いんでしょ」
「うん、もうちょっとだけ」
「ほどほどにね。それと、あんたの学会、お母さん、ちゃんと聞きに行くからね」
あかりは、驚いて振り返った。母は、少し照れくさそうに、廊下の方を向いていた。
「お母さん、仕事は?」
「なんとかするわよ。娘が、あんなに頑張ってるんだから」
その言葉に、あかりは、胸がいっぱいになった。小さい頃、天文の図鑑ばかり読んでいた自分を、いつも少し心配そうに見ていた母。その母が、今、こんなふうに、自分を応援してくれている。
「ありがとう、お母さん」
「いいから、早く寝なさい」
母は、そう言って、扉を閉めた。けれど、その足音が、廊下の向こうで、しばらく止まっていたのを、あかりは聞いていた。
発表の練習は、毎日遅くまで続いた。
部室の電気が消えたあとも、あかりたちは、校舎の廊下で、何度も原稿を読み上げた。最初は、声が震えてうまく言葉にならなかった。ユウマは、途中で「あ、やべ、次なんだっけ」と叫んで、みんなに笑われた。サキは、スライドの色使いを、何度も何度も直していた。
「もう、いいよ、小林さん。十分綺麗だよ」
あかりが言っても、サキは首を振った。
「まだ、星の色が、ちゃんと出てないんです。木星の縞の色も、本物の方が、もっと深いんです」
その真剣な目を見て、あかりは、何も言えなくなった。サキは、本当に、本物の星を描こうとしていた。その姿勢が、胸に強く響いた。
ケンは、夜の練習に、毎日付き合ってくれた。原稿を読み上げるあかりの前に座って、一つひとつの言葉に、真剣に耳を傾けている。
「ここ、ちょっと長いな。もっと短くできないか」
「うん、やってみる」
「あと、そこの『えっと』は、いらないぞ」
ケンは、容赦なく指摘した。けれど、その指摘は、いつも的確で、あかりの原稿は、少しずつ磨かれていった。
「ケン、なんでそんなに詳しいの」
「野球のインタビューの練習、いつもやってたからな。ヒーローインタビューは、結構、緊張するんだよ」
ケンは、そう言って笑った。その笑顔は、もう、肩の痛みに耐えていた頃の影は、どこにもなかった。
発表の前日、学校の屋上で、四人は最後の観測をした。
空は、澄み切っていた。町の灯りも、いつもより少し弱くて、空には、いくつもの星が、はっきりと見えていた。
ユウマが、望遠鏡の前で、大きく息を吸った。
「明日、絶対、成功させましょう!」
「佐伯くん、声、大きいよ」
あかりが笑うと、ユウマは、照れくさそうに頭をかいた。
「すみません。なんか、俺、興奮しちゃって」
「わかるよ。私も、ちょっと、どきどきしてる」
サキが、スケッチブックを抱えて、小さく言った。
「私、いつか、本物の星を、大きな舞台で描いてみたいです」
その言葉は、夜風に乗って、屋上に静かに広がっていった。
ケンが、フェンスにもたれかかりながら、空を見上げていた。
「なあ、あかり。お前、明日、緊張しても、俺たちがいるからな」
「うん、ありがとう」
「お前は、一人じゃない。それだけ、覚えとけよ」
あかりは、胸の奥が、じんわりと温かくなった。ケンの言葉は、いつも真っ直ぐで、少し照れくさそうで、でも、確かな力があった。
当日の朝、会場となった大学のホールは、大人たちの熱気で満ちていた。白髪の研究者、スーツ姿の若い学生、大きな鞄を抱えた先生たち。その中に、高校の制服を着た四人が、少し緊張した顔で座っていた。
あかりは、会場の壁に貼られたプログラムを見つめていた。そこには、確かに、『天文部による観測記録の発表』と書かれていた。その文字が、現実のものとして、目の前にあった。
「三浦、お前、顔が真っ青だぞ」
篠原先生が、後ろから声をかけてきた。先生は、いつもより少しだけ、スーツを着込んでいた。
「大丈夫です。たぶん」
「たぶんか。それでいい。あとは、いつもどおり、星を見るときみたいに話せ」
篠原先生の言葉は、いつもどおり、少しだけぶっきらぼうだった。けれど、その中に、確かな信頼があった。
あかりは、頷いて、舞台へと向かった。
スポットライトが、まぶしく降り注いだ。会場の中の、たくさんの視線が、一斉にこちらを向いた。
あかりは、息を吸った。ケンの言葉を思い出した。『お前は、一人じゃない』。
「天文部の、三浦あかりです。私たちは、この町の、星の見えない空で、星を見続けてきました」
声は、思っていたよりも、しっかりと出た。会場の空気が、少しずつ、こちらへ傾いていくのがわかった。
発表は、順調に進んだ。ユウマは、夏の観測の失敗談を面白おかしく語り、会場中の笑いを誘った。サキは、スクリーンに映し出された自分の絵を、震える声で説明した。ケンは、観測機材の運搬の苦労を、冷静に、でも温かく伝えた。
そして、あかりは、最後のスライドを映した。
それは、あの天文台で撮った、土星の写真だった。輪をまとった黄色い星が、暗闇の中で、静かに輝いていた。
「この光は、何十億年も前に旅立った光かもしれません。でも、私たちが、今ここで見ることで、その光は、ちゃんと、誰かに届いています。それが、私たちの観測の意味だと、私は思っています」
会場が、静まり返った。そして、ひとつ、拍手が鳴った。その音は、少しずつ広がっていき、やがて、ホール全体を包み込んだ。
質疑応答の時間になると、白髪の研究者が、手を挙げた。
「君たちの観測は、素人のものとは思えない。どうやって、この精度を出したのかね」
あかりは、息を呑んだ。その質問に、どう答えればいいのか、一瞬、迷った。
そのとき、会場の後方から、小さな声が聞こえた。
「それは、いつも、三浦さんが、どんな小さな変化も、見逃さなかったからです」
あかりは、振り返った。
会場の一番後ろの扉の前に、ハルが立っていた。少し日に焼けた顔で、まっすぐに、こちらを見ていた。
その瞳が、懐かしい光で、きらりと輝いていた。
あかりは、言葉を失った。胸の奥から、何か温かいものが、一気にこみ上げてきた。
「……藤原くん」
その名前を呼んだ声は、かすかに震えていた。ハルは、少しだけ微笑んで、小さく頷いた。
発表のあと、会場のロビーは、大人たちの話し声で賑やかだった。
あかりたちは、壁際に並んで、一人ひとりの質問に答えていた。大学の教授が、サキの絵をじっくりと眺めている。若い研究者が、ユウマの観測ノートを覗き込んで、「この記録、すごく丁寧だね」と感心していた。ユウマは、顔を真っ赤にして、「いや、ほとんど失敗ばっかなんですけど」と言い訳をしていた。
その間、ハルは、少し離れた場所で、あかりを待っていた。
人の波が落ち着いたころ、あかりは、ようやく彼のもとへ歩いていった。
「藤原くん、いつ日本に戻ったの」
「昨日の夜です。宇野先生から、学会の話を聞いて、どうしても来たくなって」
ハルは、少し照れくさそうに笑った。その笑顔は、遠くにいたころよりも、ずっと大人びていた。背も、少し伸びたように見える。
「向こうは、どうだった?」
「大変でした。毎日、夜中まで観測して、研究室で寝ることもありました」
「寝てないの?」
「寝てましたよ。ちゃんと、少しは」
ハルは、笑いながら、鞄から一冊のノートを取り出した。表紙は、少し擦り切れていた。
「これ、向こうでずっとつけていた観測記録です。最初の頃は、字もめちゃくちゃでした。でも、三浦さんに教えてもらった、『小さな変化を見逃さない』っていうのを、ずっと意識してたんです」
あかりは、ノートを受け取って、ページをめくった。そこには、英語と日本語が入り混じった、丁寧な字が並んでいた。雲の動き、星の明るさ、そして、ところどころに、小さなスケッチが描かれている。
その一枚に、目が止まった。
それは、天文台で見た土星の絵だった。輪の一本一本まで、丁寧に描き込まれている。そして、その下には、小さな文字で、こう書かれていた。
『この景色を、三浦さんと一緒に見たかった』
あかりは、息を止めた。胸の奥が、じんと熱くなった。
「……藤原くん、これ」
「すみません、勝手に書いてしまって。でも、どうしても、言葉にしたかったんです」
ハルの声は、少しだけ震えていた。
あかりは、ノートを胸に抱いて、俯いた。涙がこぼれそうになるのを、必死にこらえた。
「ありがとう。大事にする」
「はい。ぜひ、そうしてください」
二人は、しばらく何も言わずに、ロビーの窓から見える空を眺めていた。冬が近いせいか、空は透き通るように青く、遠くの山並みが、くっきりと浮かび上がっていた。
「三浦さん、大学、どこに行くか、決まりましたか」
ハルの問いに、あかりは頷いた。
「うん。天文学科のある、県外の大学に行こうと思ってる。まだ、受験はこれからだけど」
「そうなんですか。すごいですね」
「藤原くんは?」
ハルは、少しだけ迷ってから、答えた。
「僕は、まだ、決めてないです。向こうの研究室から、もう一度、来てほしいって言われてて」
「そっか」
「でも、日本でも、やりたいことがあるんです。宇野先生の天文台で、父さんの観測記録を、ちゃんと整理したくて」
ハルの目は、遠くを見るように、まっすぐだった。その横顔には、父親の面影が、どこか重なって見えた。
あかりは、その姿に、少しだけ胸が締めつけられた。ハルは、ずっと、父親の夢を背負って生きている。その背中は、大きくて、でも、どこか寂しげだった。
「藤原くん、一人で背負わなくていいんだよ」
あかりの言葉に、ハルは、驚いたように目を見開いた。
「三浦さんも、同じこと、言うんですね」
「え?」
「篠原先生が、前に言ってたんです。『一人で全部背負うな』って。僕、それ、ずっと覚えてて」
ハルは、少しだけ笑った。その笑顔は、春の夜の、やわらかな光に似ていた。
「僕も、まだ、ちゃんと仲間に頼るのが、下手なんです」
「じゃあ、一緒に練習しよう」
あかりが言うと、ハルは、吹き出すように笑った。
「三浦さん、本当に、変わりませんね」
「藤原くんも、変わってないよ」
二人は、顔を見合わせて、声を上げて笑った。その笑い声が、ロビーの静かな空間に、軽やかに響いた。
そのとき、少し離れた場所から、ユウマの大声が聞こえてきた。
「藤原先輩! 戻ってきたんすか! 俺、写真、ずっと待ってたんですよ!」
ハルは、驚いたように振り返った。そして、ユウマに向かって、大きく手を振った。
「佐伯くん、元気そうですね」
「はい。あいつ、ずっと、藤原くんの写真、見てたんです」
あかりが言うと、ハルは、少しだけ照れくさそうに、頭をかいた。
その後ろから、サキが、スケッチブックを抱えて、小走りでやってきた。
「藤原先輩、この前の、木星の絵、ちゃんと飾ってくれてますか」
「はい。向こうの研究室の壁に、ずっと貼ってます」
「よかった。あの絵、少しだけ、自信があったんです」
サキは、嬉しそうに笑った。その笑顔は、春の桜のように、明るかった。
ケンは、少し離れた場所で、腕を組んで、みんなを見ていた。その顔には、穏やかな笑みが浮かんでいた。
あかりは、ケンの方へ振り返って、小さく手を振った。ケンは、いつものように、ぶっきらぼうに、でも確かに笑って、手を振り返してくれた。
その光景を見て、ハルは、そっと目を細めた。
「いいチームですね、天文部」
「うん。本当に、いいチームだと思う」
あかりは、胸を張って答えた。その声には、もう、迷いはなかった。
その日の夕方、学会の会場を出ると、冷たい風が頬を撫でた。
空は、夕焼けが終わって、深い藍色に変わり始めていた。ビルの間から、一番星が顔を出している。
宇野先生が、あかりたちの前に、ゆっくりと歩いてきた。白衣ではなく、スーツ姿の先生は、いつもより少しだけ、かしこまって見えた。
「君たち、よくやったな。本当に、よくやった」
先生の声は、いつもどおり、穏やかだった。けれど、その目が、少しだけ潤んでいた。
「先生、ありがとうございます。ここまで来られたのは、先生のおかげです」
あかりが頭を下げると、宇野先生は、首を横に振った。
「いや、俺は、ちょっと道を見せただけだ。歩いたのは、君たちだ」
先生は、そう言って、空を見上げた。その横顔は、昔の写真で見た、若い研究者の顔に、少しだけ似ていた。
「三浦、お前が、最後のスライドで言った言葉、覚えてるか」
「はい。『見えない場所にも、光は届いている』って」
「そうだ。あれは、俺が、ずっと昔、先輩から教わった言葉なんだ。研究が行き詰まったとき、この言葉で、何度も救われた」
あかりは、胸が熱くなった。その言葉が、自分の言葉で、誰かの心に届いていた。それが、信じられないくらい、嬉しかった。
ユウマが、横から大声を出した。
「先生、それ、すっげえ名言じゃないですか! 俺、メモしてもいいですか!」
「佐伯、お前は、まず、そのメモ帳を忘れないようにしろ」
宇野先生が笑うと、ユウマは、慌ててポケットを探った。その様子に、サキとケンが、声を上げて笑った。
その笑い声の中で、あかりは、ふと、空を見上げた。一番星は、ずっとそこにあった。見えにくくても、光は確かにそこにある。
宇野先生が、あかりの肩を、そっと叩いた。
「来月、大学の研究会で、もう一度、発表してくれないか。今度は、君たち自身の言葉で、話してほしい」
「私たちの言葉で、ですか」
「ああ。君たちの観測は、もう、ただの高校生の記録じゃない。立派な、研究の一部になりつつある」
あかりは、息を止めた。研究の一部。その言葉が、胸の中で、ゆっくりと広がっていく。
「やります」
答えたのは、あかりではなく、ケンだった。ケンは、真っ直ぐに、宇野先生を見ていた。
「俺たちは、ちゃんとやります。な、みんな」
ユウマが、大きく頷いた。サキが、スケッチブックを抱えて、強く頷いた。あかりも、胸を張って、頷いた。
宇野先生は、四人の顔を、一人ずつ見つめた。そして、満足そうに、微笑んだ。
「いい目だ。君たちは、本当に、いい目をしている」
その言葉は、夕暮れの風に乗って、静かに、みんなの胸に届いた。
それは、まるで、遠い国から届いた、一つの光のようだった。第9話 観測記録の行方
その週末、あかりは、一人で大学の図書館へ行った。
受験の準備のために、天文学の専門書を借りるつもりだった。書架の間を歩いていると、天井まで届く本棚が、まるで森のように続いている。その奥に、古い星図の複製が、ガラスケースに入れて飾られていた。
あかりは、その前で、長いあいだ立ち止まっていた。昔の人が、手描きで描いた夜空。今よりずっと少ない道具で、それでも必死に星を見上げていた人たちの記録。
「きれい……」
思わず、声が漏れた。隣にいた司書の女性が、くすりと笑って、「そうでしょう」と答えた。
「この星図、今でも、研究者がよく見に来るんですよ」
「そうなんですか」
「ええ。昔の人の目って、今の私たちには見えないものを、見ていたりするんです」
その言葉は、あかりの胸に、深く残った。見えないものを、見ようとする目。それは、ハルが、ずっと持ち続けていたものだった。
秋の放課後は、驚くほど早く暗くなった。
部室の窓から見える空は、夕方の五時を過ぎると、もう藍色に沈んでいく。その色は、夏とは違って、どこか冷たく、澄んでいた。あかりは、窓の外が暗くなるたびに、胸の奥が、少しだけざわめくのを感じた。
秋は、物事が終わっていく季節だと、昔、誰かが言っていた。木の葉が散り、虫の声が途切れ、夏の光が遠ざかっていく。それでも、あかりは、この季節が嫌いではなかった。空気が澄んでいるから、星が、よく見えるのだ。
部室の机の上には、観測記録の束が積まれていた。夏の天体写真、ユウマの観測ノート、サキの描いた星の下絵。どれも、一年かけて集めた、大切な宝物だった。
「三浦先輩、このノート、ちょっと見てください!」
ユウマが、大きな声で呼んだ。あかりが覗き込むと、そこには、ユウマの書いた星座の図が、びっしりと描かれていた。ところどころ、間違えて消した跡が残っている。
「すごい。ちゃんと、覚えてきたんだね」
「はい! 夜中に、ベッドの中で、星座の名前を唱えてたんすよ。そしたら、寝られなくなっちゃって」
ユウマは、照れくさそうに笑った。その笑顔は、夏の頃よりも、少しだけ大人びて見えた。
秋が深まるにつれて、学校の空気は、少しずつ張りつめていった。
廊下には、大学の資料が積み重なり、教室の黒板には、『受験まであと何日』という数字が、毎朝書き換えられていく。進路指導室の前には、いつも列ができていて、ため息と小さな笑い声が、交互に聞こえてくる。
あかりは、その中で、少しずつ、自分の道を探していた。
天文学を学びたい。その思いは、ずっと変わっていない。けれど、その道の先に、どんな未来があるのかは、まだ見えなかった。大学の研究室で、星を見る仕事。それは、夢のように遠くて、現実味のないものに思えた。
「三浦、ちょっといいか」
放課後、部室へ向かう途中で、篠原先生に呼び止められた。先生は、いつもの白いシャツの袖をまくって、手に一枚の封筒を持っていた。
「宇野先生から、連絡があった。今度の学会で、高校生の観測発表の枠があるらしい。天文部から、お前たちの観測記録を出してみないか」
あかりは、息を呑んだ。学会。それは、大人の研究者たちが集まる、大きな場所だ。そこで、高校生が発表する。そんなことが、本当にあるのだろうか。
「私たちの記録を、ですか」
「そうだ。夏の合宿の観測データと、あの天文台で撮った写真。それと、お前たちが作った、展示の記録もな」
篠原先生は、封筒をあかりに差し出した。中には、宇野先生の手書きの手紙と、学会の要項が入っていた。
『君たちの観測は、素人の目で見た、新鮮な発見に満ちている。ぜひ、その目を、大人たちにも見せてあげてほしい』
手紙の最後には、こう書かれていた。
『藤原くんも、遠い国から、君たちの発表を楽しみにしているそうだ』
あかりは、その一行を、何度も読み返した。ハルが、この発表を知っている。そして、楽しみにしてくれている。それだけで、胸が熱くなった。
「先生、やります。やらせてください」
篠原先生は、ふっと笑った。
「そう言うと思った。ただし、発表は、お前たち自身でやるんだぞ。俺は、ただ、道を開けただけだからな」
「わかっています」
あかりは、深く頭を下げた。顔を上げると、先生の目が、少しだけ潤んでいるように見えた。
部室に戻ると、ユウマとサキが、大きな紙を広げていた。発表用のポスターの下書きだ。ユウマは、頭をかきながら、紙に書かれた文字を指差している。
「三浦先輩、これ、どうですか。『夜空の記録』って題名、ちょっとダサいっすかね」
「ダサくないよ。佐伯くん、いいと思う」
「まじっすか! よかった!」
ユウマは、ぱっと顔を輝かせた。その隣で、サキが、ポスターの端に、小さな星の絵を描き込んでいた。線は、どこまでも丁寧だった。
「小林さん、すごく綺麗」
「ありがとうございます。でも、まだ、もっと練習しないと」
サキは、そう言って、少しだけ照れくさそうに笑った。その笑顔は、もう、春に来たときの、怯えたような表情とは、まったく違っていた。
その日の帰り道、ケンが、珍しく早く校門に現れた。
「あかり、ちょっといいか」
ケンの声は、少しだけ硬かった。あかりは、頷いて、彼と並んで歩き出した。
「俺さ、進路、決めたんだ」
「どこにするの」
「大学、体育系じゃなくて、理系の学部にしようと思う」
あかりは、足を止めた。ケンは、少し照れくさそうに、頭をかいていた。
「理系って、どうして」
「お前が、星の話をするの、聞いてるうちにさ。なんか、俺も、もっと知りたくなったんだよ。空のこととか、宇宙のこととか。野球のことは、もう、ちゃんと区切りをつけたいんだ」
ケンの声は、まっすぐだった。その目は、遠くの夕焼けを見つめている。
「それに、俺、肩のことで、ずっと悩んでたけど、ようやく、そのことを、ちゃんと受け止められるようになったんだよ。だから、新しいことに、挑戦してみたい」
あかりは、胸がいっぱいになった。ケンが、こんなふうに自分の未来を語るのは、初めてだった。
「ケン、すごいね」
「すごくねえよ。まだ、何もできてない」
「それでも、すごいよ。ちゃんと、前を向いてる」
ケンは、少しだけ笑った。その笑顔は、夕日の中で、柔らかく光っていた。
「お前は、どうするんだよ」
あかりは、少しだけ迷ってから、答えた。
「私も、天文学を、学びたい。大学で、ちゃんと、星のことを研究したい」
ケンは、目を見開いた。それから、大きく頷いた。
「そっか。じゃあ、お互い、頑張らないとな」
「うん」
二人は、顔を見合わせて、笑った。その笑顔は、昔と同じだった。小学生の頃、神社の裏山で、夢を語り合った、あの夜のように。
その夜、あかりの携帯に、ハルからのメッセージが届いた。
『来月、日本に帰ります。学会の発表、聞きに行けると思います』
あかりは、息を止めた。携帯の画面が、涙でにじんで、見えなくなった。
『本当ですか。待ってます』
そう返信するのに、三回も書き直した。送信ボタンを押したとき、指先が、ほんの少しだけ震えていた。
翌週、学会の発表資料の準備が、部室で本格的に始まった。
あかりは、夏の観測記録を、一枚ずつ整理していった。木星の縞模様、土星の輪、火星の赤い表面。それぞれの写真には、日付と、天候と、観測者の名前が書き込まれている。
その中に、ハルの字で書かれた、古い観測ノートがあった。
ページをめくると、そこには、ハルの父親の字が、所々に書き込まれていた。『雲が多い。でも、見えないからこそ、見える星がある』。その一文の下には、小さな、丸い印が描かれていた。
あかりは、そのノートを、そっと閉じた。
見えないからこそ、見える星がある。その言葉は、あかりの心の中に、静かに灯をともした。
窓の外では、秋の風が、落ち葉を運んでいた。遠くの空に、一番星が、淡く光っていた。
発表の準備を始めてから、あかりは、家でもずっと、スライドの構成を考えていた。
夕食のときも、母に、「また星の話?」と笑われた。お風呂の中でも、頭の中で、原稿を繰り返し読み上げていた。寝る前には、机の上のノートに、言い回しのメモを書き加える。そんな毎日が、いつのまにか、当たり前になっていた。
ある夜、母が、部屋の扉を、そっと開けた。
「あかり、そろそろ寝なさいよ。明日、早いんでしょ」
「うん、もうちょっとだけ」
「ほどほどにね。それと、あんたの学会、お母さん、ちゃんと聞きに行くからね」
あかりは、驚いて振り返った。母は、少し照れくさそうに、廊下の方を向いていた。
「お母さん、仕事は?」
「なんとかするわよ。娘が、あんなに頑張ってるんだから」
その言葉に、あかりは、胸がいっぱいになった。小さい頃、天文の図鑑ばかり読んでいた自分を、いつも少し心配そうに見ていた母。その母が、今、こんなふうに、自分を応援してくれている。
「ありがとう、お母さん」
「いいから、早く寝なさい」
母は、そう言って、扉を閉めた。けれど、その足音が、廊下の向こうで、しばらく止まっていたのを、あかりは聞いていた。
発表の練習は、毎日遅くまで続いた。
部室の電気が消えたあとも、あかりたちは、校舎の廊下で、何度も原稿を読み上げた。最初は、声が震えてうまく言葉にならなかった。ユウマは、途中で「あ、やべ、次なんだっけ」と叫んで、みんなに笑われた。サキは、スライドの色使いを、何度も何度も直していた。
「もう、いいよ、小林さん。十分綺麗だよ」
あかりが言っても、サキは首を振った。
「まだ、星の色が、ちゃんと出てないんです。木星の縞の色も、本物の方が、もっと深いんです」
その真剣な目を見て、あかりは、何も言えなくなった。サキは、本当に、本物の星を描こうとしていた。その姿勢が、胸に強く響いた。
ケンは、夜の練習に、毎日付き合ってくれた。原稿を読み上げるあかりの前に座って、一つひとつの言葉に、真剣に耳を傾けている。
「ここ、ちょっと長いな。もっと短くできないか」
「うん、やってみる」
「あと、そこの『えっと』は、いらないぞ」
ケンは、容赦なく指摘した。けれど、その指摘は、いつも的確で、あかりの原稿は、少しずつ磨かれていった。
「ケン、なんでそんなに詳しいの」
「野球のインタビューの練習、いつもやってたからな。ヒーローインタビューは、結構、緊張するんだよ」
ケンは、そう言って笑った。その笑顔は、もう、肩の痛みに耐えていた頃の影は、どこにもなかった。
発表の前日、学校の屋上で、四人は最後の観測をした。
空は、澄み切っていた。町の灯りも、いつもより少し弱くて、空には、いくつもの星が、はっきりと見えていた。
ユウマが、望遠鏡の前で、大きく息を吸った。
「明日、絶対、成功させましょう!」
「佐伯くん、声、大きいよ」
あかりが笑うと、ユウマは、照れくさそうに頭をかいた。
「すみません。なんか、俺、興奮しちゃって」
「わかるよ。私も、ちょっと、どきどきしてる」
サキが、スケッチブックを抱えて、小さく言った。
「私、いつか、本物の星を、大きな舞台で描いてみたいです」
その言葉は、夜風に乗って、屋上に静かに広がっていった。
ケンが、フェンスにもたれかかりながら、空を見上げていた。
「なあ、あかり。お前、明日、緊張しても、俺たちがいるからな」
「うん、ありがとう」
「お前は、一人じゃない。それだけ、覚えとけよ」
あかりは、胸の奥が、じんわりと温かくなった。ケンの言葉は、いつも真っ直ぐで、少し照れくさそうで、でも、確かな力があった。
当日の朝、会場となった大学のホールは、大人たちの熱気で満ちていた。白髪の研究者、スーツ姿の若い学生、大きな鞄を抱えた先生たち。その中に、高校の制服を着た四人が、少し緊張した顔で座っていた。
あかりは、会場の壁に貼られたプログラムを見つめていた。そこには、確かに、『天文部による観測記録の発表』と書かれていた。その文字が、現実のものとして、目の前にあった。
「三浦、お前、顔が真っ青だぞ」
篠原先生が、後ろから声をかけてきた。先生は、いつもより少しだけ、スーツを着込んでいた。
「大丈夫です。たぶん」
「たぶんか。それでいい。あとは、いつもどおり、星を見るときみたいに話せ」
篠原先生の言葉は、いつもどおり、少しだけぶっきらぼうだった。けれど、その中に、確かな信頼があった。
あかりは、頷いて、舞台へと向かった。
スポットライトが、まぶしく降り注いだ。会場の中の、たくさんの視線が、一斉にこちらを向いた。
あかりは、息を吸った。ケンの言葉を思い出した。『お前は、一人じゃない』。
「天文部の、三浦あかりです。私たちは、この町の、星の見えない空で、星を見続けてきました」
声は、思っていたよりも、しっかりと出た。会場の空気が、少しずつ、こちらへ傾いていくのがわかった。
発表は、順調に進んだ。ユウマは、夏の観測の失敗談を面白おかしく語り、会場中の笑いを誘った。サキは、スクリーンに映し出された自分の絵を、震える声で説明した。ケンは、観測機材の運搬の苦労を、冷静に、でも温かく伝えた。
そして、あかりは、最後のスライドを映した。
それは、あの天文台で撮った、土星の写真だった。輪をまとった黄色い星が、暗闇の中で、静かに輝いていた。
「この光は、何十億年も前に旅立った光かもしれません。でも、私たちが、今ここで見ることで、その光は、ちゃんと、誰かに届いています。それが、私たちの観測の意味だと、私は思っています」
会場が、静まり返った。そして、ひとつ、拍手が鳴った。その音は、少しずつ広がっていき、やがて、ホール全体を包み込んだ。
質疑応答の時間になると、白髪の研究者が、手を挙げた。
「君たちの観測は、素人のものとは思えない。どうやって、この精度を出したのかね」
あかりは、息を呑んだ。その質問に、どう答えればいいのか、一瞬、迷った。
そのとき、会場の後方から、小さな声が聞こえた。
「それは、いつも、三浦さんが、どんな小さな変化も、見逃さなかったからです」
あかりは、振り返った。
会場の一番後ろの扉の前に、ハルが立っていた。少し日に焼けた顔で、まっすぐに、こちらを見ていた。
その瞳が、懐かしい光で、きらりと輝いていた。
あかりは、言葉を失った。胸の奥から、何か温かいものが、一気にこみ上げてきた。
「……藤原くん」
その名前を呼んだ声は、かすかに震えていた。ハルは、少しだけ微笑んで、小さく頷いた。
発表のあと、会場のロビーは、大人たちの話し声で賑やかだった。
あかりたちは、壁際に並んで、一人ひとりの質問に答えていた。大学の教授が、サキの絵をじっくりと眺めている。若い研究者が、ユウマの観測ノートを覗き込んで、「この記録、すごく丁寧だね」と感心していた。ユウマは、顔を真っ赤にして、「いや、ほとんど失敗ばっかなんですけど」と言い訳をしていた。
その間、ハルは、少し離れた場所で、あかりを待っていた。
人の波が落ち着いたころ、あかりは、ようやく彼のもとへ歩いていった。
「藤原くん、いつ日本に戻ったの」
「昨日の夜です。宇野先生から、学会の話を聞いて、どうしても来たくなって」
ハルは、少し照れくさそうに笑った。その笑顔は、遠くにいたころよりも、ずっと大人びていた。背も、少し伸びたように見える。
「向こうは、どうだった?」
「大変でした。毎日、夜中まで観測して、研究室で寝ることもありました」
「寝てないの?」
「寝てましたよ。ちゃんと、少しは」
ハルは、笑いながら、鞄から一冊のノートを取り出した。表紙は、少し擦り切れていた。
「これ、向こうでずっとつけていた観測記録です。最初の頃は、字もめちゃくちゃでした。でも、三浦さんに教えてもらった、『小さな変化を見逃さない』っていうのを、ずっと意識してたんです」
あかりは、ノートを受け取って、ページをめくった。そこには、英語と日本語が入り混じった、丁寧な字が並んでいた。雲の動き、星の明るさ、そして、ところどころに、小さなスケッチが描かれている。
その一枚に、目が止まった。
それは、天文台で見た土星の絵だった。輪の一本一本まで、丁寧に描き込まれている。そして、その下には、小さな文字で、こう書かれていた。
『この景色を、三浦さんと一緒に見たかった』
あかりは、息を止めた。胸の奥が、じんと熱くなった。
「……藤原くん、これ」
「すみません、勝手に書いてしまって。でも、どうしても、言葉にしたかったんです」
ハルの声は、少しだけ震えていた。
あかりは、ノートを胸に抱いて、俯いた。涙がこぼれそうになるのを、必死にこらえた。
「ありがとう。大事にする」
「はい。ぜひ、そうしてください」
二人は、しばらく何も言わずに、ロビーの窓から見える空を眺めていた。冬が近いせいか、空は透き通るように青く、遠くの山並みが、くっきりと浮かび上がっていた。
「三浦さん、大学、どこに行くか、決まりましたか」
ハルの問いに、あかりは頷いた。
「うん。天文学科のある、県外の大学に行こうと思ってる。まだ、受験はこれからだけど」
「そうなんですか。すごいですね」
「藤原くんは?」
ハルは、少しだけ迷ってから、答えた。
「僕は、まだ、決めてないです。向こうの研究室から、もう一度、来てほしいって言われてて」
「そっか」
「でも、日本でも、やりたいことがあるんです。宇野先生の天文台で、父さんの観測記録を、ちゃんと整理したくて」
ハルの目は、遠くを見るように、まっすぐだった。その横顔には、父親の面影が、どこか重なって見えた。
あかりは、その姿に、少しだけ胸が締めつけられた。ハルは、ずっと、父親の夢を背負って生きている。その背中は、大きくて、でも、どこか寂しげだった。
「藤原くん、一人で背負わなくていいんだよ」
あかりの言葉に、ハルは、驚いたように目を見開いた。
「三浦さんも、同じこと、言うんですね」
「え?」
「篠原先生が、前に言ってたんです。『一人で全部背負うな』って。僕、それ、ずっと覚えてて」
ハルは、少しだけ笑った。その笑顔は、春の夜の、やわらかな光に似ていた。
「僕も、まだ、ちゃんと仲間に頼るのが、下手なんです」
「じゃあ、一緒に練習しよう」
あかりが言うと、ハルは、吹き出すように笑った。
「三浦さん、本当に、変わりませんね」
「藤原くんも、変わってないよ」
二人は、顔を見合わせて、声を上げて笑った。その笑い声が、ロビーの静かな空間に、軽やかに響いた。
そのとき、少し離れた場所から、ユウマの大声が聞こえてきた。
「藤原先輩! 戻ってきたんすか! 俺、写真、ずっと待ってたんですよ!」
ハルは、驚いたように振り返った。そして、ユウマに向かって、大きく手を振った。
「佐伯くん、元気そうですね」
「はい。あいつ、ずっと、藤原くんの写真、見てたんです」
あかりが言うと、ハルは、少しだけ照れくさそうに、頭をかいた。
その後ろから、サキが、スケッチブックを抱えて、小走りでやってきた。
「藤原先輩、この前の、木星の絵、ちゃんと飾ってくれてますか」
「はい。向こうの研究室の壁に、ずっと貼ってます」
「よかった。あの絵、少しだけ、自信があったんです」
サキは、嬉しそうに笑った。その笑顔は、春の桜のように、明るかった。
ケンは、少し離れた場所で、腕を組んで、みんなを見ていた。その顔には、穏やかな笑みが浮かんでいた。
あかりは、ケンの方へ振り返って、小さく手を振った。ケンは、いつものように、ぶっきらぼうに、でも確かに笑って、手を振り返してくれた。
その光景を見て、ハルは、そっと目を細めた。
「いいチームですね、天文部」
「うん。本当に、いいチームだと思う」
あかりは、胸を張って答えた。その声には、もう、迷いはなかった。
その日の夕方、学会の会場を出ると、冷たい風が頬を撫でた。
空は、夕焼けが終わって、深い藍色に変わり始めていた。ビルの間から、一番星が顔を出している。
宇野先生が、あかりたちの前に、ゆっくりと歩いてきた。白衣ではなく、スーツ姿の先生は、いつもより少しだけ、かしこまって見えた。
「君たち、よくやったな。本当に、よくやった」
先生の声は、いつもどおり、穏やかだった。けれど、その目が、少しだけ潤んでいた。
「先生、ありがとうございます。ここまで来られたのは、先生のおかげです」
あかりが頭を下げると、宇野先生は、首を横に振った。
「いや、俺は、ちょっと道を見せただけだ。歩いたのは、君たちだ」
先生は、そう言って、空を見上げた。その横顔は、昔の写真で見た、若い研究者の顔に、少しだけ似ていた。
「三浦、お前が、最後のスライドで言った言葉、覚えてるか」
「はい。『見えない場所にも、光は届いている』って」
「そうだ。あれは、俺が、ずっと昔、先輩から教わった言葉なんだ。研究が行き詰まったとき、この言葉で、何度も救われた」
あかりは、胸が熱くなった。その言葉が、自分の言葉で、誰かの心に届いていた。それが、信じられないくらい、嬉しかった。
ユウマが、横から大声を出した。
「先生、それ、すっげえ名言じゃないですか! 俺、メモしてもいいですか!」
「佐伯、お前は、まず、そのメモ帳を忘れないようにしろ」
宇野先生が笑うと、ユウマは、慌ててポケットを探った。その様子に、サキとケンが、声を上げて笑った。
その笑い声の中で、あかりは、ふと、空を見上げた。一番星は、ずっとそこにあった。見えにくくても、光は確かにそこにある。
宇野先生が、あかりの肩を、そっと叩いた。
「来月、大学の研究会で、もう一度、発表してくれないか。今度は、君たち自身の言葉で、話してほしい」
「私たちの言葉で、ですか」
「ああ。君たちの観測は、もう、ただの高校生の記録じゃない。立派な、研究の一部になりつつある」
あかりは、息を止めた。研究の一部。その言葉が、胸の中で、ゆっくりと広がっていく。
「やります」
答えたのは、あかりではなく、ケンだった。ケンは、真っ直ぐに、宇野先生を見ていた。
「俺たちは、ちゃんとやります。な、みんな」
ユウマが、大きく頷いた。サキが、スケッチブックを抱えて、強く頷いた。あかりも、胸を張って、頷いた。
宇野先生は、四人の顔を、一人ずつ見つめた。そして、満足そうに、微笑んだ。
「いい目だ。君たちは、本当に、いい目をしている」
その言葉は、夕暮れの風に乗って、静かに、みんなの胸に届いた。
それは、まるで、遠い国から届いた、一つの光のようだった。第9話 観測記録の行方
その週末、あかりは、一人で大学の図書館へ行った。
受験の準備のために、天文学の専門書を借りるつもりだった。書架の間を歩いていると、天井まで届く本棚が、まるで森のように続いている。その奥に、古い星図の複製が、ガラスケースに入れて飾られていた。
あかりは、その前で、長いあいだ立ち止まっていた。昔の人が、手描きで描いた夜空。今よりずっと少ない道具で、それでも必死に星を見上げていた人たちの記録。
「きれい……」
思わず、声が漏れた。隣にいた司書の女性が、くすりと笑って、「そうでしょう」と答えた。
「この星図、今でも、研究者がよく見に来るんですよ」
「そうなんですか」
「ええ。昔の人の目って、今の私たちには見えないものを、見ていたりするんです」
その言葉は、あかりの胸に、深く残った。見えないものを、見ようとする目。それは、ハルが、ずっと持ち続けていたものだった。
秋の放課後は、驚くほど早く暗くなった。
部室の窓から見える空は、夕方の五時を過ぎると、もう藍色に沈んでいく。その色は、夏とは違って、どこか冷たく、澄んでいた。あかりは、窓の外が暗くなるたびに、胸の奥が、少しだけざわめくのを感じた。
秋は、物事が終わっていく季節だと、昔、誰かが言っていた。木の葉が散り、虫の声が途切れ、夏の光が遠ざかっていく。それでも、あかりは、この季節が嫌いではなかった。空気が澄んでいるから、星が、よく見えるのだ。
部室の机の上には、観測記録の束が積まれていた。夏の天体写真、ユウマの観測ノート、サキの描いた星の下絵。どれも、一年かけて集めた、大切な宝物だった。
「三浦先輩、このノート、ちょっと見てください!」
ユウマが、大きな声で呼んだ。あかりが覗き込むと、そこには、ユウマの書いた星座の図が、びっしりと描かれていた。ところどころ、間違えて消した跡が残っている。
「すごい。ちゃんと、覚えてきたんだね」
「はい! 夜中に、ベッドの中で、星座の名前を唱えてたんすよ。そしたら、寝られなくなっちゃって」
ユウマは、照れくさそうに笑った。その笑顔は、夏の頃よりも、少しだけ大人びて見えた。
秋が深まるにつれて、学校の空気は、少しずつ張りつめていった。
廊下には、大学の資料が積み重なり、教室の黒板には、『受験まであと何日』という数字が、毎朝書き換えられていく。進路指導室の前には、いつも列ができていて、ため息と小さな笑い声が、交互に聞こえてくる。
あかりは、その中で、少しずつ、自分の道を探していた。
天文学を学びたい。その思いは、ずっと変わっていない。けれど、その道の先に、どんな未来があるのかは、まだ見えなかった。大学の研究室で、星を見る仕事。それは、夢のように遠くて、現実味のないものに思えた。
「三浦、ちょっといいか」
放課後、部室へ向かう途中で、篠原先生に呼び止められた。先生は、いつもの白いシャツの袖をまくって、手に一枚の封筒を持っていた。
「宇野先生から、連絡があった。今度の学会で、高校生の観測発表の枠があるらしい。天文部から、お前たちの観測記録を出してみないか」
あかりは、息を呑んだ。学会。それは、大人の研究者たちが集まる、大きな場所だ。そこで、高校生が発表する。そんなことが、本当にあるのだろうか。
「私たちの記録を、ですか」
「そうだ。夏の合宿の観測データと、あの天文台で撮った写真。それと、お前たちが作った、展示の記録もな」
篠原先生は、封筒をあかりに差し出した。中には、宇野先生の手書きの手紙と、学会の要項が入っていた。
『君たちの観測は、素人の目で見た、新鮮な発見に満ちている。ぜひ、その目を、大人たちにも見せてあげてほしい』
手紙の最後には、こう書かれていた。
『藤原くんも、遠い国から、君たちの発表を楽しみにしているそうだ』
あかりは、その一行を、何度も読み返した。ハルが、この発表を知っている。そして、楽しみにしてくれている。それだけで、胸が熱くなった。
「先生、やります。やらせてください」
篠原先生は、ふっと笑った。
「そう言うと思った。ただし、発表は、お前たち自身でやるんだぞ。俺は、ただ、道を開けただけだからな」
「わかっています」
あかりは、深く頭を下げた。顔を上げると、先生の目が、少しだけ潤んでいるように見えた。
部室に戻ると、ユウマとサキが、大きな紙を広げていた。発表用のポスターの下書きだ。ユウマは、頭をかきながら、紙に書かれた文字を指差している。
「三浦先輩、これ、どうですか。『夜空の記録』って題名、ちょっとダサいっすかね」
「ダサくないよ。佐伯くん、いいと思う」
「まじっすか! よかった!」
ユウマは、ぱっと顔を輝かせた。その隣で、サキが、ポスターの端に、小さな星の絵を描き込んでいた。線は、どこまでも丁寧だった。
「小林さん、すごく綺麗」
「ありがとうございます。でも、まだ、もっと練習しないと」
サキは、そう言って、少しだけ照れくさそうに笑った。その笑顔は、もう、春に来たときの、怯えたような表情とは、まったく違っていた。
その日の帰り道、ケンが、珍しく早く校門に現れた。
「あかり、ちょっといいか」
ケンの声は、少しだけ硬かった。あかりは、頷いて、彼と並んで歩き出した。
「俺さ、進路、決めたんだ」
「どこにするの」
「大学、体育系じゃなくて、理系の学部にしようと思う」
あかりは、足を止めた。ケンは、少し照れくさそうに、頭をかいていた。
「理系って、どうして」
「お前が、星の話をするの、聞いてるうちにさ。なんか、俺も、もっと知りたくなったんだよ。空のこととか、宇宙のこととか。野球のことは、もう、ちゃんと区切りをつけたいんだ」
ケンの声は、まっすぐだった。その目は、遠くの夕焼けを見つめている。
「それに、俺、肩のことで、ずっと悩んでたけど、ようやく、そのことを、ちゃんと受け止められるようになったんだよ。だから、新しいことに、挑戦してみたい」
あかりは、胸がいっぱいになった。ケンが、こんなふうに自分の未来を語るのは、初めてだった。
「ケン、すごいね」
「すごくねえよ。まだ、何もできてない」
「それでも、すごいよ。ちゃんと、前を向いてる」
ケンは、少しだけ笑った。その笑顔は、夕日の中で、柔らかく光っていた。
「お前は、どうするんだよ」
あかりは、少しだけ迷ってから、答えた。
「私も、天文学を、学びたい。大学で、ちゃんと、星のことを研究したい」
ケンは、目を見開いた。それから、大きく頷いた。
「そっか。じゃあ、お互い、頑張らないとな」
「うん」
二人は、顔を見合わせて、笑った。その笑顔は、昔と同じだった。小学生の頃、神社の裏山で、夢を語り合った、あの夜のように。
その夜、あかりの携帯に、ハルからのメッセージが届いた。
『来月、日本に帰ります。学会の発表、聞きに行けると思います』
あかりは、息を止めた。携帯の画面が、涙でにじんで、見えなくなった。
『本当ですか。待ってます』
そう返信するのに、三回も書き直した。送信ボタンを押したとき、指先が、ほんの少しだけ震えていた。
翌週、学会の発表資料の準備が、部室で本格的に始まった。
あかりは、夏の観測記録を、一枚ずつ整理していった。木星の縞模様、土星の輪、火星の赤い表面。それぞれの写真には、日付と、天候と、観測者の名前が書き込まれている。
その中に、ハルの字で書かれた、古い観測ノートがあった。
ページをめくると、そこには、ハルの父親の字が、所々に書き込まれていた。『雲が多い。でも、見えないからこそ、見える星がある』。その一文の下には、小さな、丸い印が描かれていた。
あかりは、そのノートを、そっと閉じた。
見えないからこそ、見える星がある。その言葉は、あかりの心の中に、静かに灯をともした。
窓の外では、秋の風が、落ち葉を運んでいた。遠くの空に、一番星が、淡く光っていた。
発表の準備を始めてから、あかりは、家でもずっと、スライドの構成を考えていた。
夕食のときも、母に、「また星の話?」と笑われた。お風呂の中でも、頭の中で、原稿を繰り返し読み上げていた。寝る前には、机の上のノートに、言い回しのメモを書き加える。そんな毎日が、いつのまにか、当たり前になっていた。
ある夜、母が、部屋の扉を、そっと開けた。
「あかり、そろそろ寝なさいよ。明日、早いんでしょ」
「うん、もうちょっとだけ」
「ほどほどにね。それと、あんたの学会、お母さん、ちゃんと聞きに行くからね」
あかりは、驚いて振り返った。母は、少し照れくさそうに、廊下の方を向いていた。
「お母さん、仕事は?」
「なんとかするわよ。娘が、あんなに頑張ってるんだから」
その言葉に、あかりは、胸がいっぱいになった。小さい頃、天文の図鑑ばかり読んでいた自分を、いつも少し心配そうに見ていた母。その母が、今、こんなふうに、自分を応援してくれている。
「ありがとう、お母さん」
「いいから、早く寝なさい」
母は、そう言って、扉を閉めた。けれど、その足音が、廊下の向こうで、しばらく止まっていたのを、あかりは聞いていた。
発表の練習は、毎日遅くまで続いた。
部室の電気が消えたあとも、あかりたちは、校舎の廊下で、何度も原稿を読み上げた。最初は、声が震えてうまく言葉にならなかった。ユウマは、途中で「あ、やべ、次なんだっけ」と叫んで、みんなに笑われた。サキは、スライドの色使いを、何度も何度も直していた。
「もう、いいよ、小林さん。十分綺麗だよ」
あかりが言っても、サキは首を振った。
「まだ、星の色が、ちゃんと出てないんです。木星の縞の色も、本物の方が、もっと深いんです」
その真剣な目を見て、あかりは、何も言えなくなった。サキは、本当に、本物の星を描こうとしていた。その姿勢が、胸に強く響いた。
ケンは、夜の練習に、毎日付き合ってくれた。原稿を読み上げるあかりの前に座って、一つひとつの言葉に、真剣に耳を傾けている。
「ここ、ちょっと長いな。もっと短くできないか」
「うん、やってみる」
「あと、そこの『えっと』は、いらないぞ」
ケンは、容赦なく指摘した。けれど、その指摘は、いつも的確で、あかりの原稿は、少しずつ磨かれていった。
「ケン、なんでそんなに詳しいの」
「野球のインタビューの練習、いつもやってたからな。ヒーローインタビューは、結構、緊張するんだよ」
ケンは、そう言って笑った。その笑顔は、もう、肩の痛みに耐えていた頃の影は、どこにもなかった。
発表の前日、学校の屋上で、四人は最後の観測をした。
空は、澄み切っていた。町の灯りも、いつもより少し弱くて、空には、いくつもの星が、はっきりと見えていた。
ユウマが、望遠鏡の前で、大きく息を吸った。
「明日、絶対、成功させましょう!」
「佐伯くん、声、大きいよ」
あかりが笑うと、ユウマは、照れくさそうに頭をかいた。
「すみません。なんか、俺、興奮しちゃって」
「わかるよ。私も、ちょっと、どきどきしてる」
サキが、スケッチブックを抱えて、小さく言った。
「私、いつか、本物の星を、大きな舞台で描いてみたいです」
その言葉は、夜風に乗って、屋上に静かに広がっていった。
ケンが、フェンスにもたれかかりながら、空を見上げていた。
「なあ、あかり。お前、明日、緊張しても、俺たちがいるからな」
「うん、ありがとう」
「お前は、一人じゃない。それだけ、覚えとけよ」
あかりは、胸の奥が、じんわりと温かくなった。ケンの言葉は、いつも真っ直ぐで、少し照れくさそうで、でも、確かな力があった。
当日の朝、会場となった大学のホールは、大人たちの熱気で満ちていた。白髪の研究者、スーツ姿の若い学生、大きな鞄を抱えた先生たち。その中に、高校の制服を着た四人が、少し緊張した顔で座っていた。
あかりは、会場の壁に貼られたプログラムを見つめていた。そこには、確かに、『天文部による観測記録の発表』と書かれていた。その文字が、現実のものとして、目の前にあった。
「三浦、お前、顔が真っ青だぞ」
篠原先生が、後ろから声をかけてきた。先生は、いつもより少しだけ、スーツを着込んでいた。
「大丈夫です。たぶん」
「たぶんか。それでいい。あとは、いつもどおり、星を見るときみたいに話せ」
篠原先生の言葉は、いつもどおり、少しだけぶっきらぼうだった。けれど、その中に、確かな信頼があった。
あかりは、頷いて、舞台へと向かった。
スポットライトが、まぶしく降り注いだ。会場の中の、たくさんの視線が、一斉にこちらを向いた。
あかりは、息を吸った。ケンの言葉を思い出した。『お前は、一人じゃない』。
「天文部の、三浦あかりです。私たちは、この町の、星の見えない空で、星を見続けてきました」
声は、思っていたよりも、しっかりと出た。会場の空気が、少しずつ、こちらへ傾いていくのがわかった。
発表は、順調に進んだ。ユウマは、夏の観測の失敗談を面白おかしく語り、会場中の笑いを誘った。サキは、スクリーンに映し出された自分の絵を、震える声で説明した。ケンは、観測機材の運搬の苦労を、冷静に、でも温かく伝えた。
そして、あかりは、最後のスライドを映した。
それは、あの天文台で撮った、土星の写真だった。輪をまとった黄色い星が、暗闇の中で、静かに輝いていた。
「この光は、何十億年も前に旅立った光かもしれません。でも、私たちが、今ここで見ることで、その光は、ちゃんと、誰かに届いています。それが、私たちの観測の意味だと、私は思っています」
会場が、静まり返った。そして、ひとつ、拍手が鳴った。その音は、少しずつ広がっていき、やがて、ホール全体を包み込んだ。
質疑応答の時間になると、白髪の研究者が、手を挙げた。
「君たちの観測は、素人のものとは思えない。どうやって、この精度を出したのかね」
あかりは、息を呑んだ。その質問に、どう答えればいいのか、一瞬、迷った。
そのとき、会場の後方から、小さな声が聞こえた。
「それは、いつも、三浦さんが、どんな小さな変化も、見逃さなかったからです」
あかりは、振り返った。
会場の一番後ろの扉の前に、ハルが立っていた。少し日に焼けた顔で、まっすぐに、こちらを見ていた。
その瞳が、懐かしい光で、きらりと輝いていた。
あかりは、言葉を失った。胸の奥から、何か温かいものが、一気にこみ上げてきた。
「……藤原くん」
その名前を呼んだ声は、かすかに震えていた。ハルは、少しだけ微笑んで、小さく頷いた。
発表のあと、会場のロビーは、大人たちの話し声で賑やかだった。
あかりたちは、壁際に並んで、一人ひとりの質問に答えていた。大学の教授が、サキの絵をじっくりと眺めている。若い研究者が、ユウマの観測ノートを覗き込んで、「この記録、すごく丁寧だね」と感心していた。ユウマは、顔を真っ赤にして、「いや、ほとんど失敗ばっかなんですけど」と言い訳をしていた。
その間、ハルは、少し離れた場所で、あかりを待っていた。
人の波が落ち着いたころ、あかりは、ようやく彼のもとへ歩いていった。
「藤原くん、いつ日本に戻ったの」
「昨日の夜です。宇野先生から、学会の話を聞いて、どうしても来たくなって」
ハルは、少し照れくさそうに笑った。その笑顔は、遠くにいたころよりも、ずっと大人びていた。背も、少し伸びたように見える。
「向こうは、どうだった?」
「大変でした。毎日、夜中まで観測して、研究室で寝ることもありました」
「寝てないの?」
「寝てましたよ。ちゃんと、少しは」
ハルは、笑いながら、鞄から一冊のノートを取り出した。表紙は、少し擦り切れていた。
「これ、向こうでずっとつけていた観測記録です。最初の頃は、字もめちゃくちゃでした。でも、三浦さんに教えてもらった、『小さな変化を見逃さない』っていうのを、ずっと意識してたんです」
あかりは、ノートを受け取って、ページをめくった。そこには、英語と日本語が入り混じった、丁寧な字が並んでいた。雲の動き、星の明るさ、そして、ところどころに、小さなスケッチが描かれている。
その一枚に、目が止まった。
それは、天文台で見た土星の絵だった。輪の一本一本まで、丁寧に描き込まれている。そして、その下には、小さな文字で、こう書かれていた。
『この景色を、三浦さんと一緒に見たかった』
あかりは、息を止めた。胸の奥が、じんと熱くなった。
「……藤原くん、これ」
「すみません、勝手に書いてしまって。でも、どうしても、言葉にしたかったんです」
ハルの声は、少しだけ震えていた。
あかりは、ノートを胸に抱いて、俯いた。涙がこぼれそうになるのを、必死にこらえた。
「ありがとう。大事にする」
「はい。ぜひ、そうしてください」
二人は、しばらく何も言わずに、ロビーの窓から見える空を眺めていた。冬が近いせいか、空は透き通るように青く、遠くの山並みが、くっきりと浮かび上がっていた。
「三浦さん、大学、どこに行くか、決まりましたか」
ハルの問いに、あかりは頷いた。
「うん。天文学科のある、県外の大学に行こうと思ってる。まだ、受験はこれからだけど」
「そうなんですか。すごいですね」
「藤原くんは?」
ハルは、少しだけ迷ってから、答えた。
「僕は、まだ、決めてないです。向こうの研究室から、もう一度、来てほしいって言われてて」
「そっか」
「でも、日本でも、やりたいことがあるんです。宇野先生の天文台で、父さんの観測記録を、ちゃんと整理したくて」
ハルの目は、遠くを見るように、まっすぐだった。その横顔には、父親の面影が、どこか重なって見えた。
あかりは、その姿に、少しだけ胸が締めつけられた。ハルは、ずっと、父親の夢を背負って生きている。その背中は、大きくて、でも、どこか寂しげだった。
「藤原くん、一人で背負わなくていいんだよ」
あかりの言葉に、ハルは、驚いたように目を見開いた。
「三浦さんも、同じこと、言うんですね」
「え?」
「篠原先生が、前に言ってたんです。『一人で全部背負うな』って。僕、それ、ずっと覚えてて」
ハルは、少しだけ笑った。その笑顔は、春の夜の、やわらかな光に似ていた。
「僕も、まだ、ちゃんと仲間に頼るのが、下手なんです」
「じゃあ、一緒に練習しよう」
あかりが言うと、ハルは、吹き出すように笑った。
「三浦さん、本当に、変わりませんね」
「藤原くんも、変わってないよ」
二人は、顔を見合わせて、声を上げて笑った。その笑い声が、ロビーの静かな空間に、軽やかに響いた。
そのとき、少し離れた場所から、ユウマの大声が聞こえてきた。
「藤原先輩! 戻ってきたんすか! 俺、写真、ずっと待ってたんですよ!」
ハルは、驚いたように振り返った。そして、ユウマに向かって、大きく手を振った。
「佐伯くん、元気そうですね」
「はい。あいつ、ずっと、藤原くんの写真、見てたんです」
あかりが言うと、ハルは、少しだけ照れくさそうに、頭をかいた。
その後ろから、サキが、スケッチブックを抱えて、小走りでやってきた。
「藤原先輩、この前の、木星の絵、ちゃんと飾ってくれてますか」
「はい。向こうの研究室の壁に、ずっと貼ってます」
「よかった。あの絵、少しだけ、自信があったんです」
サキは、嬉しそうに笑った。その笑顔は、春の桜のように、明るかった。
ケンは、少し離れた場所で、腕を組んで、みんなを見ていた。その顔には、穏やかな笑みが浮かんでいた。
あかりは、ケンの方へ振り返って、小さく手を振った。ケンは、いつものように、ぶっきらぼうに、でも確かに笑って、手を振り返してくれた。
その光景を見て、ハルは、そっと目を細めた。
「いいチームですね、天文部」
「うん。本当に、いいチームだと思う」
あかりは、胸を張って答えた。その声には、もう、迷いはなかった。
その日の夕方、学会の会場を出ると、冷たい風が頬を撫でた。
空は、夕焼けが終わって、深い藍色に変わり始めていた。ビルの間から、一番星が顔を出している。
宇野先生が、あかりたちの前に、ゆっくりと歩いてきた。白衣ではなく、スーツ姿の先生は、いつもより少しだけ、かしこまって見えた。
「君たち、よくやったな。本当に、よくやった」
先生の声は、いつもどおり、穏やかだった。けれど、その目が、少しだけ潤んでいた。
「先生、ありがとうございます。ここまで来られたのは、先生のおかげです」
あかりが頭を下げると、宇野先生は、首を横に振った。
「いや、俺は、ちょっと道を見せただけだ。歩いたのは、君たちだ」
先生は、そう言って、空を見上げた。その横顔は、昔の写真で見た、若い研究者の顔に、少しだけ似ていた。
「三浦、お前が、最後のスライドで言った言葉、覚えてるか」
「はい。『見えない場所にも、光は届いている』って」
「そうだ。あれは、俺が、ずっと昔、先輩から教わった言葉なんだ。研究が行き詰まったとき、この言葉で、何度も救われた」
あかりは、胸が熱くなった。その言葉が、自分の言葉で、誰かの心に届いていた。それが、信じられないくらい、嬉しかった。
ユウマが、横から大声を出した。
「先生、それ、すっげえ名言じゃないですか! 俺、メモしてもいいですか!」
「佐伯、お前は、まず、そのメモ帳を忘れないようにしろ」
宇野先生が笑うと、ユウマは、慌ててポケットを探った。その様子に、サキとケンが、声を上げて笑った。
その笑い声の中で、あかりは、ふと、空を見上げた。一番星は、ずっとそこにあった。見えにくくても、光は確かにそこにある。
宇野先生が、あかりの肩を、そっと叩いた。
「来月、大学の研究会で、もう一度、発表してくれないか。今度は、君たち自身の言葉で、話してほしい」
「私たちの言葉で、ですか」
「ああ。君たちの観測は、もう、ただの高校生の記録じゃない。立派な、研究の一部になりつつある」
あかりは、息を止めた。研究の一部。その言葉が、胸の中で、ゆっくりと広がっていく。
「やります」
答えたのは、あかりではなく、ケンだった。ケンは、真っ直ぐに、宇野先生を見ていた。
「俺たちは、ちゃんとやります。な、みんな」
ユウマが、大きく頷いた。サキが、スケッチブックを抱えて、強く頷いた。あかりも、胸を張って、頷いた。
宇野先生は、四人の顔を、一人ずつ見つめた。そして、満足そうに、微笑んだ。
「いい目だ。君たちは、本当に、いい目をしている」
その言葉は、夕暮れの風に乗って、静かに、みんなの胸に届いた。
それは、まるで、遠い国から届いた、一つの光のようだった。


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