夏の合宿は、天文部にとって、初めての泊まりの観測だった。
場所は、天文台の近くにある、古い山小屋だ。宇野先生が、観測の拠点として使っている建物で、今回は特別に、部員全員が泊まれるように手配してくれた。
「山の上は、夜になると冷えるから、羽織るものを忘れるなよ」
宇野先生の声を聞きながら、あかりは、リュックの中身を確認していた。懐中電灯、防寒着、ノート、それから、ハルが残していった星図。ハルは、今、遠い国で、新しい研究生活を送っている。手紙は、月に一度くらい届いた。
『こちらは、毎日が星の観測で、目が回りそうです。でも、三浦さんと見た土星のことを思い出すと、いつも元気になります』
その言葉を、あかりは何度も読み返していた。
ユウマとサキは、今年も一緒に来ていた。ユウマは、すっかり天文部の盛り上げ役になって、移動のバスの中でも、ずっと大声で喋り続けている。サキは、もう美術部との掛け持ちをやめて、天文部の専属の画家として、毎日スケッチブックを持ち歩いていた。
そして、ケンは。
ケンは、この夏、野球部の練習試合に、コーチとして参加していた。肩は完全には治らなかったけれど、キャッチボールはできるようになったと聞いた。今は、天文部の裏方として、観測機材の運搬を一手に引き受けている。
「ケン、重くない? それ、手伝おうか」
山道を歩きながら、あかりが声をかけた。ケンは、大きな観測機材の箱を背負って、汗だくになっていた。
「いいって。お前は、星の方の準備しとけ」
「でも」
「俺、こういう力仕事、結構好きなんだよ。それに、肩のリハビリにもちょうどいい」
ケンは、そう言って、にっと笑った。その笑顔は、昔と変わらなかった。あかりは、少しだけ安心して、頷いた。
山小屋に着くと、夕焼けが、空をオレンジ色に染めていた。遠くの山々が、影になって、くっきりと見えた。
「わあ、すごい!」
ユウマが、小屋の前で、両手を広げて叫んだ。その声が、山の谷間に、こだまのように響いた。
夜になると、空は、まるで宝石をちりばめたように、星で埋め尽くされた。天の川が、山の稜線から、夜空の向こうまで、白く流れている。
「綺麗……」
サキが、その景色を、息をするのも忘れたように見つめていた。ユウマは、ぼうっと口を開けたまま、「やべえ、語彙がなくなる」と呟いた。
あかりは、その横で、天の川を見上げた。小学生の頃、ケンと一緒に見た星空と、同じ光だった。けれど、今見ている天の川は、あの頃よりも、ずっと大きく、ずっと遠く感じられた。
焚き火を囲んで、みんなで食事をした。ユウマが、大量のカップ麺を作って、サキが「もう少し水を減らして」と注意する。ケンは、それを見て、腹を抱えて笑っていた。
その笑い声が、夜の山に、温かく響いていた。
食事が終わると、宇野先生が、望遠鏡の準備を始めた。今夜は、特別な天体を見せてくれるという。
「今夜は、火星がよく見える。それに、もしかしたら、流星群も見られるかもしれない」
「やった!」
ユウマが、子どものように飛び跳ねた。サキは、スケッチブックを開いて、鉛筆を握りしめた。
あかりも、望遠鏡の前に並んだ。火星の赤い姿が、レンズの向こうで、小さく輝いていた。
その隣で、ケンが、そっと、あかりの横に立った。
「お前、また、こういうとき、顔が変わるよな」
「どういう意味?」
「なんか、子どもみたいな顔してる。昔から、変わんねえな」
あかりは、少しだけ顔が熱くなった。ケンは、それに気づいたのか、慌てて視線を逸らした。
「なんでもねえよ」
ケンは、ぶっきらぼうに言った。その横顔が、ほんの少しだけ赤く見えたのは、焚き火の光のせいだったのかもしれない。
夜が更けて、みんなが小屋の中で休み始めた頃、あかりは、一人で外へ出た。
山の夜は、凍えるように冷たかった。吐く息が、白く空へ昇っていく。見上げると、星が、今にも降ってきそうなほど、近く感じられた。
しばらくして、足音が聞こえた。振り返ると、ケンが、毛布を抱えて立っていた。
「寒いだろ。ほら、これ」
ケンは、毛布をあかりの肩にかけた。その手が、少しだけ震えていた。
「ありがとう」
「おう」
二人は、並んで、星を見上げた。沈黙が、しばらく続いた。その沈黙は、不思議と、居心地が良かった。
「なあ、あかり」
「なに」
「お前さ、藤原のこと、まだ、好きなのか」
あかりは、息を止めた。その質問は、昨日の夜、ケンが言いかけてやめた言葉と、同じだった。
「わからない」
あかりは、もう一度、同じ答えを返した。けれど、今度は、少しだけ、答えが違っていた。
「でも、藤原くんのこと、ずっと考えてる。遠くにいても、星を見るたびに、思い出すの」
ケンは、黙って聞いていた。その横顔が、星の光に照らされて、少しだけ寂しそうに見えた。
「……そっか」
ケンは、ぽつりと言った。それから、深く息を吸い込んだ。
「俺、お前のこと、ずっと昔から、好きだったんだと思う」
あかりは、目を見開いた。言葉の意味が、一瞬、頭に入ってこなかった。
「え……?」
「だから、お前が藤原の話をするたびに、ちょっとだけ、胸がざわついてた。情けねえよな。野球もだめになって、お前にも、何も言えなくて」
ケンの声は、少しずつ、掠れていった。その目が、真っ直ぐに、あかりを見つめていた。
あかりは、何も言えなかった。胸の奥が、熱くて、苦しくて、どうすればいいのかわからなかった。
そのとき、山小屋の扉が、ばたんと開いた。
「おーい、流れ星! 流れ星が、すごい数で降ってます!」
ユウマの大声が、夜の山に響き渡った。その声に、ケンの肩が、びくりと震えた。
「……悪い。今は、いいや」
ケンは、そう言って、慌てて顔を背けた。その横顔は、焚き火の光の中で、どこか苦しそうに見えた。
あかりは、何か言おうとして、言葉が出なかった。ケンの背中が、扉の向こうへ消えていく。
夜空には、無数の流れ星が、音もなく流れていた。
けれど、あかりの目には、その光は、ほとんど映らなかった。
ケンが言いかけた言葉の続きが、胸の中で、ずっと響いていた。
翌朝、山の空気は、昨日よりもさらに澄んでいた。
あかりは、誰よりも早く起きて、山小屋の前の石段に座った。朝靄が、谷間を白く覆っている。遠くの山の稜線が、朝日を受けて、ゆっくりと姿を現していく。
小屋の中からは、ユウマのいびきが聞こえてくる。サキは、まだ寝息を立てているようだった。
ケンは、いなかった。
あかりは、昨夜のことを、何度も頭の中で繰り返していた。ケンの声。ケンの目。そして、ユウマの大声が、すべてを途中で止めてしまった瞬間のこと。
どうして、あのとき、何か言えなかったのだろう。どうして、ケンの言葉を、ちゃんと受け止められなかったのだろう。
自分の中の気持ちが、わからなくなっていた。ハルのことを考えると、胸が温かくなる。でも、ケンのことを考えると、胸の奥が、きゅっと痛くなる。その二つの感情が、絡まって、解けなくなっていた。
「三浦、早いな」
声をかけてきたのは、宇野先生だった。手には、湯気の立つマグカップを持っている。先生は、あかりの隣に、どっかりと腰を下ろした。
「ほら、飲め。山の朝は、寒いからな」
「ありがとうございます」
あかりは、カップを両手で受け取った。コーヒーの香りが、冷えた指先を、少しずつ温めていく。
「昨夜、ちょっと様子が変だったな、お前」
宇野先生は、遠くの山を見ながら、穏やかに言った。あかりは、何も答えられなかった。
「まあ、無理に話さなくてもいい。ただな、三浦。若い頃の俺も、同じような顔をしてたよ」
「先生もですか」
「ああ。大学で、同じ研究室の女の子が好きでな。でも、結局、何も言えずに、星の話ばっかりしてた。今思えば、ずいぶん、もったいないことをしたもんだ」
宇野先生は、少しだけ照れくさそうに笑った。その笑顔は、どこか寂しげだった。
「その子、今、どうしてるんですか」
「さあな。もう、ずっと会ってない。でも、今でも、星を見上げるたびに、あいつの横顔を思い出すよ」
あかりは、胸が詰まった。宇野先生の言葉が、ケンのことと重なって、胸に突き刺さった。
「先生、言わなかったこと、後悔してますか」
宇野先生は、少し黙ってから、ゆっくりと頷いた。
「してるよ。だから、お前たちには、後悔してほしくないんだ。言えるうちに、ちゃんと言え。星は、いつまでも同じ場所にあるわけじゃないからな」
その言葉は、朝の光のように、あかりの胸の中に、静かに染み込んでいった。
小屋の扉が、また開いた。出てきたのは、サキだった。寝ぐせのついた髪を手で押さえながら、眠そうに目をこすっている。
「三浦先輩、おはようございます……あれ、高橋先輩は?」
「まだ、見てないの?」
「はい。さっき、起きたときには、もういなかったです」
サキは、心配そうに、山道の方を見た。その視線の先には、朝靄が、まだ薄く漂っている。
あかりは、立ち上がった。
「ちょっと、探してくる」
「私も行きます」
「ううん、大丈夫。ここで待ってて」
あかりは、そう言って、山道を歩き出した。足元の石が、朝露に濡れて、きらきらと光っていた。
しばらく歩くと、少し開けた草原に出た。そこに、ケンが一人で座っていた。大きな石の上に腰を下ろし、遠くの山を見つめている。
あかりは、そっと近づいた。
「ケン」
ケンは、振り返らなかった。ただ、少しだけ肩が動いた。
「……ごめん。昨日は、変なこと言って」
「変じゃないよ」
あかりの声は、思っていたよりも、ずっと落ち着いていた。ケンが、ようやく、こちらを見た。その目は、少しだけ腫れていた。
「ケンの言ったこと、ちゃんと聞いたよ」
ケンは、何も言わなかった。ただ、拳を、ぎゅっと握りしめた。
「私、まだ、わからない。ケンのこと、ずっと大事だって思ってる。でも、それが、どういう気持ちなのか、正直に言うと、まだ、整理できてないの」
ケンは、ゆっくりと息を吐いた。それは、白い靄となって、朝の空へ消えていった。
「そっか。それでいい」
ケンは、立ち上がった。そして、あかりの前に、真っ直ぐ立った。
「俺も、まだ、ちゃんと言えるだけの自信がなかった。だから、今は、これでいい。でもな、あかり」
「うん」
「いつか、ちゃんと、答えを聞かせてくれ。それまで、俺、待ってるから」
その言葉は、朝日に照らされて、まっすぐにあかりの胸に届いた。
あかりは、深く頷いた。その頷きは、今まで自分がしたどの返事よりも、重く、確かだった。
下山の準備が始まると、ユウマが、大声で「高橋先輩、どこ行ってたんすか!」と叫んだ。ケンは、笑いながら、「ちょっと、朝の散歩だよ」と答えた。
その笑い声は、いつもの、明るい声だった。
バスの窓から、山々が遠ざかっていく。あかりは、窓に額をつけて、ぼんやりと外を見ていた。
遠くの空に、ひとつだけ、淡い月が残っていた。
朝食は、山小屋の土間で、みんなで囲んだ。
宇野先生が、大きな鍋で、味噌汁を作ってくれた。具材は、山で採れた山菜と、豆腐と、ネギ。湯気が、小屋の中を白く満たしていく。
「先生、料理までできるんですか」
サキが、驚いたように言うと、宇野先生は、得意げに胸を張った。
「大学の研究室で、泊まり込みのときは、俺が毎日作ってたんだ。おかげで、研究より料理がうまくなった」
「それ、研究者として、大丈夫なんですか」
ユウマが、真面目な顔で突っ込んだ。その瞬間、小屋中がどっと笑いに包まれた。
笑い声の中で、あかりは、そっと、みんなの顔を見回した。
ユウマは、味噌汁を三杯もおかわりして、お腹をさすっている。サキは、膝の上にスケッチブックを置いて、食べながら、鉛筆を走らせていた。ケンは、宇野先生と、望遠鏡の話で盛り上がっていた。その表情は、いつになく生き生きとしていた。
この夏が、ずっと続けばいいのに。あかりは、そう思った。
けれど、季節は、いつまでも同じ場所に留まってはくれない。
食事のあと、宇野先生が、みんなを小屋の前に集めた。
「いいか、君たち。今回の観測は、ここで終わりだ。でも、星は、いつだって、君たちを待っている。それを、忘れないでくれ」
先生の声は、山の空気に、凛と響いた。
「はい」
五人の声が、同時に揃った。その声が、山の谷間に、こだまのように返っていく。
そのとき、あかりの携帯が、小さく震えた。画面を見ると、ハルからのメッセージだった。
『今、こちらは夜明けです。山の稜線が、オレンジ色に染まっていて、とても綺麗です。三浦さんの方は、朝の空、どうですか』
時差があるのだと、あかりは、ふと気づいた。ハルは、今、夜明けの空を見ている。自分は、夏の朝の山の空気の中にいる。
遠く離れた場所で、同じ空を見上げていた。その事実が、なぜか、胸を温かくした。
あかりは、すぐに返信を打った。
『こっちは、山の朝です。みんなで、味噌汁を食べました。今度、ハルくんにも食べてほしいな』
送ってから、あかりは、はっとした。『ハルくん』と書いてしまった。今までは、いつも『藤原くん』と呼んでいたのに。
慌てて、もう一通を送った。
『ごめん、藤原くんって、書くつもりだった』
すぐに、返信が来た。
『いいですよ。そう呼んでくれても。ちょっと、嬉しかったです』
あかりは、顔が、真っ赤になるのを感じた。携帯を伏せて、深く息を吐いた。
隣で、ケンが、ちらりとこちらを見ていた。その目が、少しだけ寂しそうに見えたのは、気のせいだったのだろうか。
「なんだよ、顔赤いぞ」
ケンが、からかうように言った。あかりは、慌てて首を振った。
「なんでもない。ちょっと、暑いだけ」
「山の朝に、暑いわけねえだろ」
ケンは、笑った。その笑顔に、あかりは、少しだけ、ほっとした。
バスは、山道をゆっくりと下っていく。
車内では、ユウマが、昨夜の流れ星の数を、何度も大げさに数えていた。「絶対、百個は見た」と言い張るユウマに、サキが「三個ですよ」と淡々と突っ込む。その掛け合いに、後ろの座席の運転手さんまで、小さく笑っていた。
あかりは、窓際の席で、その声を聞きながら、ぼんやりと流れていく景色を眺めていた。
隣には、ケンが座っていた。二人は、ほとんど話をしなかった。それでも、肩がほんの少しだけ触れ合う距離は、昨日の朝より、少しだけ近いような気がした。
ケンは、窓に頬杖をついて、眠っているように目を閉じていた。けれど、時々、まぶたが小さく震えているのが見えた。
あかりは、その横顔を、そっと見つめた。小学生の頃、神社の裏山で、一緒に寝転んで空を見上げていたケンの横顔が、ふいに重なった。
あのころは、ケンのことを、ただの幼なじみだと思っていた。いつも一緒にいて、一緒に笑って、一緒に星を見ていた。それが、ずっと続くのだと、疑いもしなかった。
今は、違う。ケンのことを思うと、胸の奥に、やわらかく、けれど確かな熱が灯る。その熱の正体を、あかりは、もう否定できなかった。
けれど、同時に、ハルのことを思い出すと、別の場所で、やさしい光が揺れた。
遠い国で、毎日夜空を見上げているハル。今、どんな星を見ているのだろう。どんな気持ちで、空を見上げているのだろう。
あかりは、窓の外の山並みを見つめながら、小さく息を吐いた。
自分の中に、二つの光がある。どちらも、本当で、どちらも、大切だった。
その事実が、あかりを、少しだけ苦しくさせた。
山を降りて、駅に着くと、夏の午後の陽射しが、アスファルトに照り返していた。
ユウマが、大きく伸びをして、「やっぱ、夏は山より海っすね!」と叫んだ。サキが、「海なら、今度は絵を描きに行きましょう」と答える。二人の会話が、駅前の広場に、軽やかに響いた。
ケンは、大きな観測機材の箱を、一人で持ち上げていた。その背中は、どこか頼もしかった。
「ケン、それ、重くない?」
あかりが声をかけると、ケンは振り返って、にっと笑った。
「大丈夫だって。さっきも言ったろ」
「でも、肩、大丈夫?」
ケンは、一瞬、箱を置こうとして、やめた。そして、少しだけ照れくさそうに言った。
「……正直、ちょっと痛い。でも、こういうの、俺がやりたいんだよ」
あかりは、何も言えなくなった。ケンは、ずっと、自分の役割を探していたのだ。野球を失ったあとも、ちゃんと、誰かの役に立ちたいと思っていたのだ。
「じゃあ、一緒に持とう」
あかりが、箱の反対側に手をかけると、ケンは、驚いたように目を見開いた。それから、ふっと笑った。
「お前、本当に、変わんねえな」
二人は、箱を並んで持ち上げた。二人分の重さが、手のひらに、しっかりと伝わってきた。
その夜、あかりは、自分の部屋で、一通の手紙を書いた。
宛名は、ハルだった。
ペン先が、紙の上で、なかなか動かなかった。何を書けばいいのか、わからなかった。書いては消し、消しては書き直す。その繰り返しが、夜更けまで続いた。
結局、あかりが書けたのは、たった数行だけだった。
『藤原くんへ。山の上で見た星は、とても綺麗でした。一緒に見た景色を、ずっと大事にしています。まだ、自分の気持ちがうまく言葉にできないけれど、いつか、ちゃんと伝えます。三浦あかり』
読み返すと、字が少し震えていた。それでも、あかりは、その手紙を、丁寧に封筒に入れた。
明日、ポストに出そう。そう決めて、あかりは、窓の外を見た。
夏の夜空に、天の川が、白く流れていた。その光は、遠く離れた場所にいる誰かにも、きっと、同じように見えているはずだった。
あかりは、小さく呟いた。
「また、一緒に見ようね」
その言葉は、誰に届くのか、まだわからなかった。けれど、あかりの胸の中では、確かに、星の光のように、まっすぐに響いていた。
それは、まだ見ぬ答えを、静かに待っているようだった。
夏の合宿は、天文部にとって、初めての泊まりの観測だった。
場所は、天文台の近くにある、古い山小屋だ。宇野先生が、観測の拠点として使っている建物で、今回は特別に、部員全員が泊まれるように手配してくれた。
「山の上は、夜になると冷えるから、羽織るものを忘れるなよ」
宇野先生の声を聞きながら、あかりは、リュックの中身を確認していた。懐中電灯、防寒着、ノート、それから、ハルが残していった星図。ハルは、今、遠い国で、新しい研究生活を送っている。手紙は、月に一度くらい届いた。
『こちらは、毎日が星の観測で、目が回りそうです。でも、三浦さんと見た土星のことを思い出すと、いつも元気になります』
その言葉を、あかりは何度も読み返していた。
ユウマとサキは、今年も一緒に来ていた。ユウマは、すっかり天文部の盛り上げ役になって、移動のバスの中でも、ずっと大声で喋り続けている。サキは、もう美術部との掛け持ちをやめて、天文部の専属の画家として、毎日スケッチブックを持ち歩いていた。
そして、ケンは。
ケンは、この夏、野球部の練習試合に、コーチとして参加していた。肩は完全には治らなかったけれど、キャッチボールはできるようになったと聞いた。今は、天文部の裏方として、観測機材の運搬を一手に引き受けている。
「ケン、重くない? それ、手伝おうか」
山道を歩きながら、あかりが声をかけた。ケンは、大きな観測機材の箱を背負って、汗だくになっていた。
「いいって。お前は、星の方の準備しとけ」
「でも」
「俺、こういう力仕事、結構好きなんだよ。それに、肩のリハビリにもちょうどいい」
ケンは、そう言って、にっと笑った。その笑顔は、昔と変わらなかった。あかりは、少しだけ安心して、頷いた。
山小屋に着くと、夕焼けが、空をオレンジ色に染めていた。遠くの山々が、影になって、くっきりと見えた。
「わあ、すごい!」
ユウマが、小屋の前で、両手を広げて叫んだ。その声が、山の谷間に、こだまのように響いた。
夜になると、空は、まるで宝石をちりばめたように、星で埋め尽くされた。天の川が、山の稜線から、夜空の向こうまで、白く流れている。
「綺麗……」
サキが、その景色を、息をするのも忘れたように見つめていた。ユウマは、ぼうっと口を開けたまま、「やべえ、語彙がなくなる」と呟いた。
あかりは、その横で、天の川を見上げた。小学生の頃、ケンと一緒に見た星空と、同じ光だった。けれど、今見ている天の川は、あの頃よりも、ずっと大きく、ずっと遠く感じられた。
焚き火を囲んで、みんなで食事をした。ユウマが、大量のカップ麺を作って、サキが「もう少し水を減らして」と注意する。ケンは、それを見て、腹を抱えて笑っていた。
その笑い声が、夜の山に、温かく響いていた。
食事が終わると、宇野先生が、望遠鏡の準備を始めた。今夜は、特別な天体を見せてくれるという。
「今夜は、火星がよく見える。それに、もしかしたら、流星群も見られるかもしれない」
「やった!」
ユウマが、子どものように飛び跳ねた。サキは、スケッチブックを開いて、鉛筆を握りしめた。
あかりも、望遠鏡の前に並んだ。火星の赤い姿が、レンズの向こうで、小さく輝いていた。
その隣で、ケンが、そっと、あかりの横に立った。
「お前、また、こういうとき、顔が変わるよな」
「どういう意味?」
「なんか、子どもみたいな顔してる。昔から、変わんねえな」
あかりは、少しだけ顔が熱くなった。ケンは、それに気づいたのか、慌てて視線を逸らした。
「なんでもねえよ」
ケンは、ぶっきらぼうに言った。その横顔が、ほんの少しだけ赤く見えたのは、焚き火の光のせいだったのかもしれない。
夜が更けて、みんなが小屋の中で休み始めた頃、あかりは、一人で外へ出た。
山の夜は、凍えるように冷たかった。吐く息が、白く空へ昇っていく。見上げると、星が、今にも降ってきそうなほど、近く感じられた。
しばらくして、足音が聞こえた。振り返ると、ケンが、毛布を抱えて立っていた。
「寒いだろ。ほら、これ」
ケンは、毛布をあかりの肩にかけた。その手が、少しだけ震えていた。
「ありがとう」
「おう」
二人は、並んで、星を見上げた。沈黙が、しばらく続いた。その沈黙は、不思議と、居心地が良かった。
「なあ、あかり」
「なに」
「お前さ、藤原のこと、まだ、好きなのか」
あかりは、息を止めた。その質問は、昨日の夜、ケンが言いかけてやめた言葉と、同じだった。
「わからない」
あかりは、もう一度、同じ答えを返した。けれど、今度は、少しだけ、答えが違っていた。
「でも、藤原くんのこと、ずっと考えてる。遠くにいても、星を見るたびに、思い出すの」
ケンは、黙って聞いていた。その横顔が、星の光に照らされて、少しだけ寂しそうに見えた。
「……そっか」
ケンは、ぽつりと言った。それから、深く息を吸い込んだ。
「俺、お前のこと、ずっと昔から、好きだったんだと思う」
あかりは、目を見開いた。言葉の意味が、一瞬、頭に入ってこなかった。
「え……?」
「だから、お前が藤原の話をするたびに、ちょっとだけ、胸がざわついてた。情けねえよな。野球もだめになって、お前にも、何も言えなくて」
ケンの声は、少しずつ、掠れていった。その目が、真っ直ぐに、あかりを見つめていた。
あかりは、何も言えなかった。胸の奥が、熱くて、苦しくて、どうすればいいのかわからなかった。
そのとき、山小屋の扉が、ばたんと開いた。
「おーい、流れ星! 流れ星が、すごい数で降ってます!」
ユウマの大声が、夜の山に響き渡った。その声に、ケンの肩が、びくりと震えた。
「……悪い。今は、いいや」
ケンは、そう言って、慌てて顔を背けた。その横顔は、焚き火の光の中で、どこか苦しそうに見えた。
あかりは、何か言おうとして、言葉が出なかった。ケンの背中が、扉の向こうへ消えていく。
夜空には、無数の流れ星が、音もなく流れていた。
けれど、あかりの目には、その光は、ほとんど映らなかった。
ケンが言いかけた言葉の続きが、胸の中で、ずっと響いていた。
翌朝、山の空気は、昨日よりもさらに澄んでいた。
あかりは、誰よりも早く起きて、山小屋の前の石段に座った。朝靄が、谷間を白く覆っている。遠くの山の稜線が、朝日を受けて、ゆっくりと姿を現していく。
小屋の中からは、ユウマのいびきが聞こえてくる。サキは、まだ寝息を立てているようだった。
ケンは、いなかった。
あかりは、昨夜のことを、何度も頭の中で繰り返していた。ケンの声。ケンの目。そして、ユウマの大声が、すべてを途中で止めてしまった瞬間のこと。
どうして、あのとき、何か言えなかったのだろう。どうして、ケンの言葉を、ちゃんと受け止められなかったのだろう。
自分の中の気持ちが、わからなくなっていた。ハルのことを考えると、胸が温かくなる。でも、ケンのことを考えると、胸の奥が、きゅっと痛くなる。その二つの感情が、絡まって、解けなくなっていた。
「三浦、早いな」
声をかけてきたのは、宇野先生だった。手には、湯気の立つマグカップを持っている。先生は、あかりの隣に、どっかりと腰を下ろした。
「ほら、飲め。山の朝は、寒いからな」
「ありがとうございます」
あかりは、カップを両手で受け取った。コーヒーの香りが、冷えた指先を、少しずつ温めていく。
「昨夜、ちょっと様子が変だったな、お前」
宇野先生は、遠くの山を見ながら、穏やかに言った。あかりは、何も答えられなかった。
「まあ、無理に話さなくてもいい。ただな、三浦。若い頃の俺も、同じような顔をしてたよ」
「先生もですか」
「ああ。大学で、同じ研究室の女の子が好きでな。でも、結局、何も言えずに、星の話ばっかりしてた。今思えば、ずいぶん、もったいないことをしたもんだ」
宇野先生は、少しだけ照れくさそうに笑った。その笑顔は、どこか寂しげだった。
「その子、今、どうしてるんですか」
「さあな。もう、ずっと会ってない。でも、今でも、星を見上げるたびに、あいつの横顔を思い出すよ」
あかりは、胸が詰まった。宇野先生の言葉が、ケンのことと重なって、胸に突き刺さった。
「先生、言わなかったこと、後悔してますか」
宇野先生は、少し黙ってから、ゆっくりと頷いた。
「してるよ。だから、お前たちには、後悔してほしくないんだ。言えるうちに、ちゃんと言え。星は、いつまでも同じ場所にあるわけじゃないからな」
その言葉は、朝の光のように、あかりの胸の中に、静かに染み込んでいった。
小屋の扉が、また開いた。出てきたのは、サキだった。寝ぐせのついた髪を手で押さえながら、眠そうに目をこすっている。
「三浦先輩、おはようございます……あれ、高橋先輩は?」
「まだ、見てないの?」
「はい。さっき、起きたときには、もういなかったです」
サキは、心配そうに、山道の方を見た。その視線の先には、朝靄が、まだ薄く漂っている。
あかりは、立ち上がった。
「ちょっと、探してくる」
「私も行きます」
「ううん、大丈夫。ここで待ってて」
あかりは、そう言って、山道を歩き出した。足元の石が、朝露に濡れて、きらきらと光っていた。
しばらく歩くと、少し開けた草原に出た。そこに、ケンが一人で座っていた。大きな石の上に腰を下ろし、遠くの山を見つめている。
あかりは、そっと近づいた。
「ケン」
ケンは、振り返らなかった。ただ、少しだけ肩が動いた。
「……ごめん。昨日は、変なこと言って」
「変じゃないよ」
あかりの声は、思っていたよりも、ずっと落ち着いていた。ケンが、ようやく、こちらを見た。その目は、少しだけ腫れていた。
「ケンの言ったこと、ちゃんと聞いたよ」
ケンは、何も言わなかった。ただ、拳を、ぎゅっと握りしめた。
「私、まだ、わからない。ケンのこと、ずっと大事だって思ってる。でも、それが、どういう気持ちなのか、正直に言うと、まだ、整理できてないの」
ケンは、ゆっくりと息を吐いた。それは、白い靄となって、朝の空へ消えていった。
「そっか。それでいい」
ケンは、立ち上がった。そして、あかりの前に、真っ直ぐ立った。
「俺も、まだ、ちゃんと言えるだけの自信がなかった。だから、今は、これでいい。でもな、あかり」
「うん」
「いつか、ちゃんと、答えを聞かせてくれ。それまで、俺、待ってるから」
その言葉は、朝日に照らされて、まっすぐにあかりの胸に届いた。
あかりは、深く頷いた。その頷きは、今まで自分がしたどの返事よりも、重く、確かだった。
下山の準備が始まると、ユウマが、大声で「高橋先輩、どこ行ってたんすか!」と叫んだ。ケンは、笑いながら、「ちょっと、朝の散歩だよ」と答えた。
その笑い声は、いつもの、明るい声だった。
バスの窓から、山々が遠ざかっていく。あかりは、窓に額をつけて、ぼんやりと外を見ていた。
遠くの空に、ひとつだけ、淡い月が残っていた。
朝食は、山小屋の土間で、みんなで囲んだ。
宇野先生が、大きな鍋で、味噌汁を作ってくれた。具材は、山で採れた山菜と、豆腐と、ネギ。湯気が、小屋の中を白く満たしていく。
「先生、料理までできるんですか」
サキが、驚いたように言うと、宇野先生は、得意げに胸を張った。
「大学の研究室で、泊まり込みのときは、俺が毎日作ってたんだ。おかげで、研究より料理がうまくなった」
「それ、研究者として、大丈夫なんですか」
ユウマが、真面目な顔で突っ込んだ。その瞬間、小屋中がどっと笑いに包まれた。
笑い声の中で、あかりは、そっと、みんなの顔を見回した。
ユウマは、味噌汁を三杯もおかわりして、お腹をさすっている。サキは、膝の上にスケッチブックを置いて、食べながら、鉛筆を走らせていた。ケンは、宇野先生と、望遠鏡の話で盛り上がっていた。その表情は、いつになく生き生きとしていた。
この夏が、ずっと続けばいいのに。あかりは、そう思った。
けれど、季節は、いつまでも同じ場所に留まってはくれない。
食事のあと、宇野先生が、みんなを小屋の前に集めた。
「いいか、君たち。今回の観測は、ここで終わりだ。でも、星は、いつだって、君たちを待っている。それを、忘れないでくれ」
先生の声は、山の空気に、凛と響いた。
「はい」
五人の声が、同時に揃った。その声が、山の谷間に、こだまのように返っていく。
そのとき、あかりの携帯が、小さく震えた。画面を見ると、ハルからのメッセージだった。
『今、こちらは夜明けです。山の稜線が、オレンジ色に染まっていて、とても綺麗です。三浦さんの方は、朝の空、どうですか』
時差があるのだと、あかりは、ふと気づいた。ハルは、今、夜明けの空を見ている。自分は、夏の朝の山の空気の中にいる。
遠く離れた場所で、同じ空を見上げていた。その事実が、なぜか、胸を温かくした。
あかりは、すぐに返信を打った。
『こっちは、山の朝です。みんなで、味噌汁を食べました。今度、ハルくんにも食べてほしいな』
送ってから、あかりは、はっとした。『ハルくん』と書いてしまった。今までは、いつも『藤原くん』と呼んでいたのに。
慌てて、もう一通を送った。
『ごめん、藤原くんって、書くつもりだった』
すぐに、返信が来た。
『いいですよ。そう呼んでくれても。ちょっと、嬉しかったです』
あかりは、顔が、真っ赤になるのを感じた。携帯を伏せて、深く息を吐いた。
隣で、ケンが、ちらりとこちらを見ていた。その目が、少しだけ寂しそうに見えたのは、気のせいだったのだろうか。
「なんだよ、顔赤いぞ」
ケンが、からかうように言った。あかりは、慌てて首を振った。
「なんでもない。ちょっと、暑いだけ」
「山の朝に、暑いわけねえだろ」
ケンは、笑った。その笑顔に、あかりは、少しだけ、ほっとした。
バスは、山道をゆっくりと下っていく。
車内では、ユウマが、昨夜の流れ星の数を、何度も大げさに数えていた。「絶対、百個は見た」と言い張るユウマに、サキが「三個ですよ」と淡々と突っ込む。その掛け合いに、後ろの座席の運転手さんまで、小さく笑っていた。
あかりは、窓際の席で、その声を聞きながら、ぼんやりと流れていく景色を眺めていた。
隣には、ケンが座っていた。二人は、ほとんど話をしなかった。それでも、肩がほんの少しだけ触れ合う距離は、昨日の朝より、少しだけ近いような気がした。
ケンは、窓に頬杖をついて、眠っているように目を閉じていた。けれど、時々、まぶたが小さく震えているのが見えた。
あかりは、その横顔を、そっと見つめた。小学生の頃、神社の裏山で、一緒に寝転んで空を見上げていたケンの横顔が、ふいに重なった。
あのころは、ケンのことを、ただの幼なじみだと思っていた。いつも一緒にいて、一緒に笑って、一緒に星を見ていた。それが、ずっと続くのだと、疑いもしなかった。
今は、違う。ケンのことを思うと、胸の奥に、やわらかく、けれど確かな熱が灯る。その熱の正体を、あかりは、もう否定できなかった。
けれど、同時に、ハルのことを思い出すと、別の場所で、やさしい光が揺れた。
遠い国で、毎日夜空を見上げているハル。今、どんな星を見ているのだろう。どんな気持ちで、空を見上げているのだろう。
あかりは、窓の外の山並みを見つめながら、小さく息を吐いた。
自分の中に、二つの光がある。どちらも、本当で、どちらも、大切だった。
その事実が、あかりを、少しだけ苦しくさせた。
山を降りて、駅に着くと、夏の午後の陽射しが、アスファルトに照り返していた。
ユウマが、大きく伸びをして、「やっぱ、夏は山より海っすね!」と叫んだ。サキが、「海なら、今度は絵を描きに行きましょう」と答える。二人の会話が、駅前の広場に、軽やかに響いた。
ケンは、大きな観測機材の箱を、一人で持ち上げていた。その背中は、どこか頼もしかった。
「ケン、それ、重くない?」
あかりが声をかけると、ケンは振り返って、にっと笑った。
「大丈夫だって。さっきも言ったろ」
「でも、肩、大丈夫?」
ケンは、一瞬、箱を置こうとして、やめた。そして、少しだけ照れくさそうに言った。
「……正直、ちょっと痛い。でも、こういうの、俺がやりたいんだよ」
あかりは、何も言えなくなった。ケンは、ずっと、自分の役割を探していたのだ。野球を失ったあとも、ちゃんと、誰かの役に立ちたいと思っていたのだ。
「じゃあ、一緒に持とう」
あかりが、箱の反対側に手をかけると、ケンは、驚いたように目を見開いた。それから、ふっと笑った。
「お前、本当に、変わんねえな」
二人は、箱を並んで持ち上げた。二人分の重さが、手のひらに、しっかりと伝わってきた。
その夜、あかりは、自分の部屋で、一通の手紙を書いた。
宛名は、ハルだった。
ペン先が、紙の上で、なかなか動かなかった。何を書けばいいのか、わからなかった。書いては消し、消しては書き直す。その繰り返しが、夜更けまで続いた。
結局、あかりが書けたのは、たった数行だけだった。
『藤原くんへ。山の上で見た星は、とても綺麗でした。一緒に見た景色を、ずっと大事にしています。まだ、自分の気持ちがうまく言葉にできないけれど、いつか、ちゃんと伝えます。三浦あかり』
読み返すと、字が少し震えていた。それでも、あかりは、その手紙を、丁寧に封筒に入れた。
明日、ポストに出そう。そう決めて、あかりは、窓の外を見た。
夏の夜空に、天の川が、白く流れていた。その光は、遠く離れた場所にいる誰かにも、きっと、同じように見えているはずだった。
あかりは、小さく呟いた。
「また、一緒に見ようね」
その言葉は、誰に届くのか、まだわからなかった。けれど、あかりの胸の中では、確かに、星の光のように、まっすぐに響いていた。
それは、まだ見ぬ答えを、静かに待っているようだった。
第8話 言えなかった言葉
第8話 言えなかった言葉 夏の合宿は、天文部にとって、初めての泊まりの観測だった。
場所は、天文台の近くにある、古い山小屋だ。宇野先生が、観測の拠点として使っている建物で、今回は特別に、部員全員が泊まれるように手配してくれた。
「山の上は、夜になると冷えるから、羽織るものを忘れるなよ」
宇野先生の声を聞きながら、あかりは、リュックの中身を確認していた。懐中電灯、防寒着、ノート、それから、ハルが残していった星図。ハルは、今、遠い国で、新しい研究生活を送っている。手紙は、月に一度くらい届いた。
『こちらは、毎日が星の観測で、目が回りそうです。でも、三浦さんと見た土星のことを思い出すと、いつも元気になります』
その言葉を、あかりは何度も読み返していた。
ユウマとサキは、今年も一緒に来ていた。ユウマは、すっかり天文部の盛り上げ役になって、移動のバスの中でも、ずっと大声で喋り続けている。サキは、もう美術部との掛け持ちをやめて、天文部の専属の画家として、毎日スケッチブックを持ち歩いていた。
そして、ケンは。
ケンは、この夏、野球部の練習試合に、コーチとして参加していた。肩は完全には治らなかったけれど、キャッチボールはできるようになったと聞いた。今は、天文部の裏方として、観測機材の運搬を一手に引き受けている。
「ケン、重くない? それ、手伝おうか」
山道を歩きながら、あかりが声をかけた。ケンは、大きな観測機材の箱を背負って、汗だくになっていた。
「いいって。お前は、星の方の準備しとけ」
「でも」
「俺、こういう力仕事、結構好きなんだよ。それに、肩のリハビリにもちょうどいい」
ケンは、そう言って、にっと笑った。その笑顔は、昔と変わらなかった。あかりは、少しだけ安心して、頷いた。
山小屋に着くと、夕焼けが、空をオレンジ色に染めていた。遠くの山々が、影になって、くっきりと見えた。
「わあ、すごい!」
ユウマが、小屋の前で、両手を広げて叫んだ。その声が、山の谷間に、こだまのように響いた。
夜になると、空は、まるで宝石をちりばめたように、星で埋め尽くされた。天の川が、山の稜線から、夜空の向こうまで、白く流れている。
「綺麗……」
サキが、その景色を、息をするのも忘れたように見つめていた。ユウマは、ぼうっと口を開けたまま、「やべえ、語彙がなくなる」と呟いた。
あかりは、その横で、天の川を見上げた。小学生の頃、ケンと一緒に見た星空と、同じ光だった。けれど、今見ている天の川は、あの頃よりも、ずっと大きく、ずっと遠く感じられた。
焚き火を囲んで、みんなで食事をした。ユウマが、大量のカップ麺を作って、サキが「もう少し水を減らして」と注意する。ケンは、それを見て、腹を抱えて笑っていた。
その笑い声が、夜の山に、温かく響いていた。
食事が終わると、宇野先生が、望遠鏡の準備を始めた。今夜は、特別な天体を見せてくれるという。
「今夜は、火星がよく見える。それに、もしかしたら、流星群も見られるかもしれない」
「やった!」
ユウマが、子どものように飛び跳ねた。サキは、スケッチブックを開いて、鉛筆を握りしめた。
あかりも、望遠鏡の前に並んだ。火星の赤い姿が、レンズの向こうで、小さく輝いていた。
その隣で、ケンが、そっと、あかりの横に立った。
「お前、また、こういうとき、顔が変わるよな」
「どういう意味?」
「なんか、子どもみたいな顔してる。昔から、変わんねえな」
あかりは、少しだけ顔が熱くなった。ケンは、それに気づいたのか、慌てて視線を逸らした。
「なんでもねえよ」
ケンは、ぶっきらぼうに言った。その横顔が、ほんの少しだけ赤く見えたのは、焚き火の光のせいだったのかもしれない。
夜が更けて、みんなが小屋の中で休み始めた頃、あかりは、一人で外へ出た。
山の夜は、凍えるように冷たかった。吐く息が、白く空へ昇っていく。見上げると、星が、今にも降ってきそうなほど、近く感じられた。
しばらくして、足音が聞こえた。振り返ると、ケンが、毛布を抱えて立っていた。
「寒いだろ。ほら、これ」
ケンは、毛布をあかりの肩にかけた。その手が、少しだけ震えていた。
「ありがとう」
「おう」
二人は、並んで、星を見上げた。沈黙が、しばらく続いた。その沈黙は、不思議と、居心地が良かった。
「なあ、あかり」
「なに」
「お前さ、藤原のこと、まだ、好きなのか」
あかりは、息を止めた。その質問は、昨日の夜、ケンが言いかけてやめた言葉と、同じだった。
「わからない」
あかりは、もう一度、同じ答えを返した。けれど、今度は、少しだけ、答えが違っていた。
「でも、藤原くんのこと、ずっと考えてる。遠くにいても、星を見るたびに、思い出すの」
ケンは、黙って聞いていた。その横顔が、星の光に照らされて、少しだけ寂しそうに見えた。
「……そっか」
ケンは、ぽつりと言った。それから、深く息を吸い込んだ。
「俺、お前のこと、ずっと昔から、好きだったんだと思う」
あかりは、目を見開いた。言葉の意味が、一瞬、頭に入ってこなかった。
「え……?」
「だから、お前が藤原の話をするたびに、ちょっとだけ、胸がざわついてた。情けねえよな。野球もだめになって、お前にも、何も言えなくて」
ケンの声は、少しずつ、掠れていった。その目が、真っ直ぐに、あかりを見つめていた。
あかりは、何も言えなかった。胸の奥が、熱くて、苦しくて、どうすればいいのかわからなかった。
そのとき、山小屋の扉が、ばたんと開いた。
「おーい、流れ星! 流れ星が、すごい数で降ってます!」
ユウマの大声が、夜の山に響き渡った。その声に、ケンの肩が、びくりと震えた。
「……悪い。今は、いいや」
ケンは、そう言って、慌てて顔を背けた。その横顔は、焚き火の光の中で、どこか苦しそうに見えた。
あかりは、何か言おうとして、言葉が出なかった。ケンの背中が、扉の向こうへ消えていく。
夜空には、無数の流れ星が、音もなく流れていた。
けれど、あかりの目には、その光は、ほとんど映らなかった。
ケンが言いかけた言葉の続きが、胸の中で、ずっと響いていた。
翌朝、山の空気は、昨日よりもさらに澄んでいた。
あかりは、誰よりも早く起きて、山小屋の前の石段に座った。朝靄が、谷間を白く覆っている。遠くの山の稜線が、朝日を受けて、ゆっくりと姿を現していく。
小屋の中からは、ユウマのいびきが聞こえてくる。サキは、まだ寝息を立てているようだった。
ケンは、いなかった。
あかりは、昨夜のことを、何度も頭の中で繰り返していた。ケンの声。ケンの目。そして、ユウマの大声が、すべてを途中で止めてしまった瞬間のこと。
どうして、あのとき、何か言えなかったのだろう。どうして、ケンの言葉を、ちゃんと受け止められなかったのだろう。
自分の中の気持ちが、わからなくなっていた。ハルのことを考えると、胸が温かくなる。でも、ケンのことを考えると、胸の奥が、きゅっと痛くなる。その二つの感情が、絡まって、解けなくなっていた。
「三浦、早いな」
声をかけてきたのは、宇野先生だった。手には、湯気の立つマグカップを持っている。先生は、あかりの隣に、どっかりと腰を下ろした。
「ほら、飲め。山の朝は、寒いからな」
「ありがとうございます」
あかりは、カップを両手で受け取った。コーヒーの香りが、冷えた指先を、少しずつ温めていく。
「昨夜、ちょっと様子が変だったな、お前」
宇野先生は、遠くの山を見ながら、穏やかに言った。あかりは、何も答えられなかった。
「まあ、無理に話さなくてもいい。ただな、三浦。若い頃の俺も、同じような顔をしてたよ」
「先生もですか」
「ああ。大学で、同じ研究室の女の子が好きでな。でも、結局、何も言えずに、星の話ばっかりしてた。今思えば、ずいぶん、もったいないことをしたもんだ」
宇野先生は、少しだけ照れくさそうに笑った。その笑顔は、どこか寂しげだった。
「その子、今、どうしてるんですか」
「さあな。もう、ずっと会ってない。でも、今でも、星を見上げるたびに、あいつの横顔を思い出すよ」
あかりは、胸が詰まった。宇野先生の言葉が、ケンのことと重なって、胸に突き刺さった。
「先生、言わなかったこと、後悔してますか」
宇野先生は、少し黙ってから、ゆっくりと頷いた。
「してるよ。だから、お前たちには、後悔してほしくないんだ。言えるうちに、ちゃんと言え。星は、いつまでも同じ場所にあるわけじゃないからな」
その言葉は、朝の光のように、あかりの胸の中に、静かに染み込んでいった。
小屋の扉が、また開いた。出てきたのは、サキだった。寝ぐせのついた髪を手で押さえながら、眠そうに目をこすっている。
「三浦先輩、おはようございます……あれ、高橋先輩は?」
「まだ、見てないの?」
「はい。さっき、起きたときには、もういなかったです」
サキは、心配そうに、山道の方を見た。その視線の先には、朝靄が、まだ薄く漂っている。
あかりは、立ち上がった。
「ちょっと、探してくる」
「私も行きます」
「ううん、大丈夫。ここで待ってて」
あかりは、そう言って、山道を歩き出した。足元の石が、朝露に濡れて、きらきらと光っていた。
しばらく歩くと、少し開けた草原に出た。そこに、ケンが一人で座っていた。大きな石の上に腰を下ろし、遠くの山を見つめている。
あかりは、そっと近づいた。
「ケン」
ケンは、振り返らなかった。ただ、少しだけ肩が動いた。
「……ごめん。昨日は、変なこと言って」
「変じゃないよ」
あかりの声は、思っていたよりも、ずっと落ち着いていた。ケンが、ようやく、こちらを見た。その目は、少しだけ腫れていた。
「ケンの言ったこと、ちゃんと聞いたよ」
ケンは、何も言わなかった。ただ、拳を、ぎゅっと握りしめた。
「私、まだ、わからない。ケンのこと、ずっと大事だって思ってる。でも、それが、どういう気持ちなのか、正直に言うと、まだ、整理できてないの」
ケンは、ゆっくりと息を吐いた。それは、白い靄となって、朝の空へ消えていった。
「そっか。それでいい」
ケンは、立ち上がった。そして、あかりの前に、真っ直ぐ立った。
「俺も、まだ、ちゃんと言えるだけの自信がなかった。だから、今は、これでいい。でもな、あかり」
「うん」
「いつか、ちゃんと、答えを聞かせてくれ。それまで、俺、待ってるから」
その言葉は、朝日に照らされて、まっすぐにあかりの胸に届いた。
あかりは、深く頷いた。その頷きは、今まで自分がしたどの返事よりも、重く、確かだった。
下山の準備が始まると、ユウマが、大声で「高橋先輩、どこ行ってたんすか!」と叫んだ。ケンは、笑いながら、「ちょっと、朝の散歩だよ」と答えた。
その笑い声は、いつもの、明るい声だった。
バスの窓から、山々が遠ざかっていく。あかりは、窓に額をつけて、ぼんやりと外を見ていた。
遠くの空に、ひとつだけ、淡い月が残っていた。
朝食は、山小屋の土間で、みんなで囲んだ。
宇野先生が、大きな鍋で、味噌汁を作ってくれた。具材は、山で採れた山菜と、豆腐と、ネギ。湯気が、小屋の中を白く満たしていく。
「先生、料理までできるんですか」
サキが、驚いたように言うと、宇野先生は、得意げに胸を張った。
「大学の研究室で、泊まり込みのときは、俺が毎日作ってたんだ。おかげで、研究より料理がうまくなった」
「それ、研究者として、大丈夫なんですか」
ユウマが、真面目な顔で突っ込んだ。その瞬間、小屋中がどっと笑いに包まれた。
笑い声の中で、あかりは、そっと、みんなの顔を見回した。
ユウマは、味噌汁を三杯もおかわりして、お腹をさすっている。サキは、膝の上にスケッチブックを置いて、食べながら、鉛筆を走らせていた。ケンは、宇野先生と、望遠鏡の話で盛り上がっていた。その表情は、いつになく生き生きとしていた。
この夏が、ずっと続けばいいのに。あかりは、そう思った。
けれど、季節は、いつまでも同じ場所に留まってはくれない。
食事のあと、宇野先生が、みんなを小屋の前に集めた。
「いいか、君たち。今回の観測は、ここで終わりだ。でも、星は、いつだって、君たちを待っている。それを、忘れないでくれ」
先生の声は、山の空気に、凛と響いた。
「はい」
五人の声が、同時に揃った。その声が、山の谷間に、こだまのように返っていく。
そのとき、あかりの携帯が、小さく震えた。画面を見ると、ハルからのメッセージだった。
『今、こちらは夜明けです。山の稜線が、オレンジ色に染まっていて、とても綺麗です。三浦さんの方は、朝の空、どうですか』
時差があるのだと、あかりは、ふと気づいた。ハルは、今、夜明けの空を見ている。自分は、夏の朝の山の空気の中にいる。
遠く離れた場所で、同じ空を見上げていた。その事実が、なぜか、胸を温かくした。
あかりは、すぐに返信を打った。
『こっちは、山の朝です。みんなで、味噌汁を食べました。今度、ハルくんにも食べてほしいな』
送ってから、あかりは、はっとした。『ハルくん』と書いてしまった。今までは、いつも『藤原くん』と呼んでいたのに。
慌てて、もう一通を送った。
『ごめん、藤原くんって、書くつもりだった』
すぐに、返信が来た。
『いいですよ。そう呼んでくれても。ちょっと、嬉しかったです』
あかりは、顔が、真っ赤になるのを感じた。携帯を伏せて、深く息を吐いた。
隣で、ケンが、ちらりとこちらを見ていた。その目が、少しだけ寂しそうに見えたのは、気のせいだったのだろうか。
「なんだよ、顔赤いぞ」
ケンが、からかうように言った。あかりは、慌てて首を振った。
「なんでもない。ちょっと、暑いだけ」
「山の朝に、暑いわけねえだろ」
ケンは、笑った。その笑顔に、あかりは、少しだけ、ほっとした。
バスは、山道をゆっくりと下っていく。
車内では、ユウマが、昨夜の流れ星の数を、何度も大げさに数えていた。「絶対、百個は見た」と言い張るユウマに、サキが「三個ですよ」と淡々と突っ込む。その掛け合いに、後ろの座席の運転手さんまで、小さく笑っていた。
あかりは、窓際の席で、その声を聞きながら、ぼんやりと流れていく景色を眺めていた。
隣には、ケンが座っていた。二人は、ほとんど話をしなかった。それでも、肩がほんの少しだけ触れ合う距離は、昨日の朝より、少しだけ近いような気がした。
ケンは、窓に頬杖をついて、眠っているように目を閉じていた。けれど、時々、まぶたが小さく震えているのが見えた。
あかりは、その横顔を、そっと見つめた。小学生の頃、神社の裏山で、一緒に寝転んで空を見上げていたケンの横顔が、ふいに重なった。
あのころは、ケンのことを、ただの幼なじみだと思っていた。いつも一緒にいて、一緒に笑って、一緒に星を見ていた。それが、ずっと続くのだと、疑いもしなかった。
今は、違う。ケンのことを思うと、胸の奥に、やわらかく、けれど確かな熱が灯る。その熱の正体を、あかりは、もう否定できなかった。
けれど、同時に、ハルのことを思い出すと、別の場所で、やさしい光が揺れた。
遠い国で、毎日夜空を見上げているハル。今、どんな星を見ているのだろう。どんな気持ちで、空を見上げているのだろう。
あかりは、窓の外の山並みを見つめながら、小さく息を吐いた。
自分の中に、二つの光がある。どちらも、本当で、どちらも、大切だった。
その事実が、あかりを、少しだけ苦しくさせた。
山を降りて、駅に着くと、夏の午後の陽射しが、アスファルトに照り返していた。
ユウマが、大きく伸びをして、「やっぱ、夏は山より海っすね!」と叫んだ。サキが、「海なら、今度は絵を描きに行きましょう」と答える。二人の会話が、駅前の広場に、軽やかに響いた。
ケンは、大きな観測機材の箱を、一人で持ち上げていた。その背中は、どこか頼もしかった。
「ケン、それ、重くない?」
あかりが声をかけると、ケンは振り返って、にっと笑った。
「大丈夫だって。さっきも言ったろ」
「でも、肩、大丈夫?」
ケンは、一瞬、箱を置こうとして、やめた。そして、少しだけ照れくさそうに言った。
「……正直、ちょっと痛い。でも、こういうの、俺がやりたいんだよ」
あかりは、何も言えなくなった。ケンは、ずっと、自分の役割を探していたのだ。野球を失ったあとも、ちゃんと、誰かの役に立ちたいと思っていたのだ。
「じゃあ、一緒に持とう」
あかりが、箱の反対側に手をかけると、ケンは、驚いたように目を見開いた。それから、ふっと笑った。
「お前、本当に、変わんねえな」
二人は、箱を並んで持ち上げた。二人分の重さが、手のひらに、しっかりと伝わってきた。
その夜、あかりは、自分の部屋で、一通の手紙を書いた。
宛名は、ハルだった。
ペン先が、紙の上で、なかなか動かなかった。何を書けばいいのか、わからなかった。書いては消し、消しては書き直す。その繰り返しが、夜更けまで続いた。
結局、あかりが書けたのは、たった数行だけだった。
『藤原くんへ。山の上で見た星は、とても綺麗でした。一緒に見た景色を、ずっと大事にしています。まだ、自分の気持ちがうまく言葉にできないけれど、いつか、ちゃんと伝えます。三浦あかり』
読み返すと、字が少し震えていた。それでも、あかりは、その手紙を、丁寧に封筒に入れた。
明日、ポストに出そう。そう決めて、あかりは、窓の外を見た。
夏の夜空に、天の川が、白く流れていた。その光は、遠く離れた場所にいる誰かにも、きっと、同じように見えているはずだった。
あかりは、小さく呟いた。
「また、一緒に見ようね」
その言葉は、誰に届くのか、まだわからなかった。けれど、あかりの胸の中では、確かに、星の光のように、まっすぐに響いていた。
それは、まだ見ぬ答えを、静かに待っているようだった。
第8話 言えなかった言葉
第8話 言えなかった言葉 夏の合宿は、天文部にとって、初めての泊まりの観測だった。
場所は、天文台の近くにある、古い山小屋だ。宇野先生が、観測の拠点として使っている建物で、今回は特別に、部員全員が泊まれるように手配してくれた。
「山の上は、夜になると冷えるから、羽織るものを忘れるなよ」
宇野先生の声を聞きながら、あかりは、リュックの中身を確認していた。懐中電灯、防寒着、ノート、それから、ハルが残していった星図。ハルは、今、遠い国で、新しい研究生活を送っている。手紙は、月に一度くらい届いた。
『こちらは、毎日が星の観測で、目が回りそうです。でも、三浦さんと見た土星のことを思い出すと、いつも元気になります』
その言葉を、あかりは何度も読み返していた。
ユウマとサキは、今年も一緒に来ていた。ユウマは、すっかり天文部の盛り上げ役になって、移動のバスの中でも、ずっと大声で喋り続けている。サキは、もう美術部との掛け持ちをやめて、天文部の専属の画家として、毎日スケッチブックを持ち歩いていた。
そして、ケンは。
ケンは、この夏、野球部の練習試合に、コーチとして参加していた。肩は完全には治らなかったけれど、キャッチボールはできるようになったと聞いた。今は、天文部の裏方として、観測機材の運搬を一手に引き受けている。
「ケン、重くない? それ、手伝おうか」
山道を歩きながら、あかりが声をかけた。ケンは、大きな観測機材の箱を背負って、汗だくになっていた。
「いいって。お前は、星の方の準備しとけ」
「でも」
「俺、こういう力仕事、結構好きなんだよ。それに、肩のリハビリにもちょうどいい」
ケンは、そう言って、にっと笑った。その笑顔は、昔と変わらなかった。あかりは、少しだけ安心して、頷いた。
山小屋に着くと、夕焼けが、空をオレンジ色に染めていた。遠くの山々が、影になって、くっきりと見えた。
「わあ、すごい!」
ユウマが、小屋の前で、両手を広げて叫んだ。その声が、山の谷間に、こだまのように響いた。
夜になると、空は、まるで宝石をちりばめたように、星で埋め尽くされた。天の川が、山の稜線から、夜空の向こうまで、白く流れている。
「綺麗……」
サキが、その景色を、息をするのも忘れたように見つめていた。ユウマは、ぼうっと口を開けたまま、「やべえ、語彙がなくなる」と呟いた。
あかりは、その横で、天の川を見上げた。小学生の頃、ケンと一緒に見た星空と、同じ光だった。けれど、今見ている天の川は、あの頃よりも、ずっと大きく、ずっと遠く感じられた。
焚き火を囲んで、みんなで食事をした。ユウマが、大量のカップ麺を作って、サキが「もう少し水を減らして」と注意する。ケンは、それを見て、腹を抱えて笑っていた。
その笑い声が、夜の山に、温かく響いていた。
食事が終わると、宇野先生が、望遠鏡の準備を始めた。今夜は、特別な天体を見せてくれるという。
「今夜は、火星がよく見える。それに、もしかしたら、流星群も見られるかもしれない」
「やった!」
ユウマが、子どものように飛び跳ねた。サキは、スケッチブックを開いて、鉛筆を握りしめた。
あかりも、望遠鏡の前に並んだ。火星の赤い姿が、レンズの向こうで、小さく輝いていた。
その隣で、ケンが、そっと、あかりの横に立った。
「お前、また、こういうとき、顔が変わるよな」
「どういう意味?」
「なんか、子どもみたいな顔してる。昔から、変わんねえな」
あかりは、少しだけ顔が熱くなった。ケンは、それに気づいたのか、慌てて視線を逸らした。
「なんでもねえよ」
ケンは、ぶっきらぼうに言った。その横顔が、ほんの少しだけ赤く見えたのは、焚き火の光のせいだったのかもしれない。
夜が更けて、みんなが小屋の中で休み始めた頃、あかりは、一人で外へ出た。
山の夜は、凍えるように冷たかった。吐く息が、白く空へ昇っていく。見上げると、星が、今にも降ってきそうなほど、近く感じられた。
しばらくして、足音が聞こえた。振り返ると、ケンが、毛布を抱えて立っていた。
「寒いだろ。ほら、これ」
ケンは、毛布をあかりの肩にかけた。その手が、少しだけ震えていた。
「ありがとう」
「おう」
二人は、並んで、星を見上げた。沈黙が、しばらく続いた。その沈黙は、不思議と、居心地が良かった。
「なあ、あかり」
「なに」
「お前さ、藤原のこと、まだ、好きなのか」
あかりは、息を止めた。その質問は、昨日の夜、ケンが言いかけてやめた言葉と、同じだった。
「わからない」
あかりは、もう一度、同じ答えを返した。けれど、今度は、少しだけ、答えが違っていた。
「でも、藤原くんのこと、ずっと考えてる。遠くにいても、星を見るたびに、思い出すの」
ケンは、黙って聞いていた。その横顔が、星の光に照らされて、少しだけ寂しそうに見えた。
「……そっか」
ケンは、ぽつりと言った。それから、深く息を吸い込んだ。
「俺、お前のこと、ずっと昔から、好きだったんだと思う」
あかりは、目を見開いた。言葉の意味が、一瞬、頭に入ってこなかった。
「え……?」
「だから、お前が藤原の話をするたびに、ちょっとだけ、胸がざわついてた。情けねえよな。野球もだめになって、お前にも、何も言えなくて」
ケンの声は、少しずつ、掠れていった。その目が、真っ直ぐに、あかりを見つめていた。
あかりは、何も言えなかった。胸の奥が、熱くて、苦しくて、どうすればいいのかわからなかった。
そのとき、山小屋の扉が、ばたんと開いた。
「おーい、流れ星! 流れ星が、すごい数で降ってます!」
ユウマの大声が、夜の山に響き渡った。その声に、ケンの肩が、びくりと震えた。
「……悪い。今は、いいや」
ケンは、そう言って、慌てて顔を背けた。その横顔は、焚き火の光の中で、どこか苦しそうに見えた。
あかりは、何か言おうとして、言葉が出なかった。ケンの背中が、扉の向こうへ消えていく。
夜空には、無数の流れ星が、音もなく流れていた。
けれど、あかりの目には、その光は、ほとんど映らなかった。
ケンが言いかけた言葉の続きが、胸の中で、ずっと響いていた。
翌朝、山の空気は、昨日よりもさらに澄んでいた。
あかりは、誰よりも早く起きて、山小屋の前の石段に座った。朝靄が、谷間を白く覆っている。遠くの山の稜線が、朝日を受けて、ゆっくりと姿を現していく。
小屋の中からは、ユウマのいびきが聞こえてくる。サキは、まだ寝息を立てているようだった。
ケンは、いなかった。
あかりは、昨夜のことを、何度も頭の中で繰り返していた。ケンの声。ケンの目。そして、ユウマの大声が、すべてを途中で止めてしまった瞬間のこと。
どうして、あのとき、何か言えなかったのだろう。どうして、ケンの言葉を、ちゃんと受け止められなかったのだろう。
自分の中の気持ちが、わからなくなっていた。ハルのことを考えると、胸が温かくなる。でも、ケンのことを考えると、胸の奥が、きゅっと痛くなる。その二つの感情が、絡まって、解けなくなっていた。
「三浦、早いな」
声をかけてきたのは、宇野先生だった。手には、湯気の立つマグカップを持っている。先生は、あかりの隣に、どっかりと腰を下ろした。
「ほら、飲め。山の朝は、寒いからな」
「ありがとうございます」
あかりは、カップを両手で受け取った。コーヒーの香りが、冷えた指先を、少しずつ温めていく。
「昨夜、ちょっと様子が変だったな、お前」
宇野先生は、遠くの山を見ながら、穏やかに言った。あかりは、何も答えられなかった。
「まあ、無理に話さなくてもいい。ただな、三浦。若い頃の俺も、同じような顔をしてたよ」
「先生もですか」
「ああ。大学で、同じ研究室の女の子が好きでな。でも、結局、何も言えずに、星の話ばっかりしてた。今思えば、ずいぶん、もったいないことをしたもんだ」
宇野先生は、少しだけ照れくさそうに笑った。その笑顔は、どこか寂しげだった。
「その子、今、どうしてるんですか」
「さあな。もう、ずっと会ってない。でも、今でも、星を見上げるたびに、あいつの横顔を思い出すよ」
あかりは、胸が詰まった。宇野先生の言葉が、ケンのことと重なって、胸に突き刺さった。
「先生、言わなかったこと、後悔してますか」
宇野先生は、少し黙ってから、ゆっくりと頷いた。
「してるよ。だから、お前たちには、後悔してほしくないんだ。言えるうちに、ちゃんと言え。星は、いつまでも同じ場所にあるわけじゃないからな」
その言葉は、朝の光のように、あかりの胸の中に、静かに染み込んでいった。
小屋の扉が、また開いた。出てきたのは、サキだった。寝ぐせのついた髪を手で押さえながら、眠そうに目をこすっている。
「三浦先輩、おはようございます……あれ、高橋先輩は?」
「まだ、見てないの?」
「はい。さっき、起きたときには、もういなかったです」
サキは、心配そうに、山道の方を見た。その視線の先には、朝靄が、まだ薄く漂っている。
あかりは、立ち上がった。
「ちょっと、探してくる」
「私も行きます」
「ううん、大丈夫。ここで待ってて」
あかりは、そう言って、山道を歩き出した。足元の石が、朝露に濡れて、きらきらと光っていた。
しばらく歩くと、少し開けた草原に出た。そこに、ケンが一人で座っていた。大きな石の上に腰を下ろし、遠くの山を見つめている。
あかりは、そっと近づいた。
「ケン」
ケンは、振り返らなかった。ただ、少しだけ肩が動いた。
「……ごめん。昨日は、変なこと言って」
「変じゃないよ」
あかりの声は、思っていたよりも、ずっと落ち着いていた。ケンが、ようやく、こちらを見た。その目は、少しだけ腫れていた。
「ケンの言ったこと、ちゃんと聞いたよ」
ケンは、何も言わなかった。ただ、拳を、ぎゅっと握りしめた。
「私、まだ、わからない。ケンのこと、ずっと大事だって思ってる。でも、それが、どういう気持ちなのか、正直に言うと、まだ、整理できてないの」
ケンは、ゆっくりと息を吐いた。それは、白い靄となって、朝の空へ消えていった。
「そっか。それでいい」
ケンは、立ち上がった。そして、あかりの前に、真っ直ぐ立った。
「俺も、まだ、ちゃんと言えるだけの自信がなかった。だから、今は、これでいい。でもな、あかり」
「うん」
「いつか、ちゃんと、答えを聞かせてくれ。それまで、俺、待ってるから」
その言葉は、朝日に照らされて、まっすぐにあかりの胸に届いた。
あかりは、深く頷いた。その頷きは、今まで自分がしたどの返事よりも、重く、確かだった。
下山の準備が始まると、ユウマが、大声で「高橋先輩、どこ行ってたんすか!」と叫んだ。ケンは、笑いながら、「ちょっと、朝の散歩だよ」と答えた。
その笑い声は、いつもの、明るい声だった。
バスの窓から、山々が遠ざかっていく。あかりは、窓に額をつけて、ぼんやりと外を見ていた。
遠くの空に、ひとつだけ、淡い月が残っていた。
朝食は、山小屋の土間で、みんなで囲んだ。
宇野先生が、大きな鍋で、味噌汁を作ってくれた。具材は、山で採れた山菜と、豆腐と、ネギ。湯気が、小屋の中を白く満たしていく。
「先生、料理までできるんですか」
サキが、驚いたように言うと、宇野先生は、得意げに胸を張った。
「大学の研究室で、泊まり込みのときは、俺が毎日作ってたんだ。おかげで、研究より料理がうまくなった」
「それ、研究者として、大丈夫なんですか」
ユウマが、真面目な顔で突っ込んだ。その瞬間、小屋中がどっと笑いに包まれた。
笑い声の中で、あかりは、そっと、みんなの顔を見回した。
ユウマは、味噌汁を三杯もおかわりして、お腹をさすっている。サキは、膝の上にスケッチブックを置いて、食べながら、鉛筆を走らせていた。ケンは、宇野先生と、望遠鏡の話で盛り上がっていた。その表情は、いつになく生き生きとしていた。
この夏が、ずっと続けばいいのに。あかりは、そう思った。
けれど、季節は、いつまでも同じ場所に留まってはくれない。
食事のあと、宇野先生が、みんなを小屋の前に集めた。
「いいか、君たち。今回の観測は、ここで終わりだ。でも、星は、いつだって、君たちを待っている。それを、忘れないでくれ」
先生の声は、山の空気に、凛と響いた。
「はい」
五人の声が、同時に揃った。その声が、山の谷間に、こだまのように返っていく。
そのとき、あかりの携帯が、小さく震えた。画面を見ると、ハルからのメッセージだった。
『今、こちらは夜明けです。山の稜線が、オレンジ色に染まっていて、とても綺麗です。三浦さんの方は、朝の空、どうですか』
時差があるのだと、あかりは、ふと気づいた。ハルは、今、夜明けの空を見ている。自分は、夏の朝の山の空気の中にいる。
遠く離れた場所で、同じ空を見上げていた。その事実が、なぜか、胸を温かくした。
あかりは、すぐに返信を打った。
『こっちは、山の朝です。みんなで、味噌汁を食べました。今度、ハルくんにも食べてほしいな』
送ってから、あかりは、はっとした。『ハルくん』と書いてしまった。今までは、いつも『藤原くん』と呼んでいたのに。
慌てて、もう一通を送った。
『ごめん、藤原くんって、書くつもりだった』
すぐに、返信が来た。
『いいですよ。そう呼んでくれても。ちょっと、嬉しかったです』
あかりは、顔が、真っ赤になるのを感じた。携帯を伏せて、深く息を吐いた。
隣で、ケンが、ちらりとこちらを見ていた。その目が、少しだけ寂しそうに見えたのは、気のせいだったのだろうか。
「なんだよ、顔赤いぞ」
ケンが、からかうように言った。あかりは、慌てて首を振った。
「なんでもない。ちょっと、暑いだけ」
「山の朝に、暑いわけねえだろ」
ケンは、笑った。その笑顔に、あかりは、少しだけ、ほっとした。
バスは、山道をゆっくりと下っていく。
車内では、ユウマが、昨夜の流れ星の数を、何度も大げさに数えていた。「絶対、百個は見た」と言い張るユウマに、サキが「三個ですよ」と淡々と突っ込む。その掛け合いに、後ろの座席の運転手さんまで、小さく笑っていた。
あかりは、窓際の席で、その声を聞きながら、ぼんやりと流れていく景色を眺めていた。
隣には、ケンが座っていた。二人は、ほとんど話をしなかった。それでも、肩がほんの少しだけ触れ合う距離は、昨日の朝より、少しだけ近いような気がした。
ケンは、窓に頬杖をついて、眠っているように目を閉じていた。けれど、時々、まぶたが小さく震えているのが見えた。
あかりは、その横顔を、そっと見つめた。小学生の頃、神社の裏山で、一緒に寝転んで空を見上げていたケンの横顔が、ふいに重なった。
あのころは、ケンのことを、ただの幼なじみだと思っていた。いつも一緒にいて、一緒に笑って、一緒に星を見ていた。それが、ずっと続くのだと、疑いもしなかった。
今は、違う。ケンのことを思うと、胸の奥に、やわらかく、けれど確かな熱が灯る。その熱の正体を、あかりは、もう否定できなかった。
けれど、同時に、ハルのことを思い出すと、別の場所で、やさしい光が揺れた。
遠い国で、毎日夜空を見上げているハル。今、どんな星を見ているのだろう。どんな気持ちで、空を見上げているのだろう。
あかりは、窓の外の山並みを見つめながら、小さく息を吐いた。
自分の中に、二つの光がある。どちらも、本当で、どちらも、大切だった。
その事実が、あかりを、少しだけ苦しくさせた。
山を降りて、駅に着くと、夏の午後の陽射しが、アスファルトに照り返していた。
ユウマが、大きく伸びをして、「やっぱ、夏は山より海っすね!」と叫んだ。サキが、「海なら、今度は絵を描きに行きましょう」と答える。二人の会話が、駅前の広場に、軽やかに響いた。
ケンは、大きな観測機材の箱を、一人で持ち上げていた。その背中は、どこか頼もしかった。
「ケン、それ、重くない?」
あかりが声をかけると、ケンは振り返って、にっと笑った。
「大丈夫だって。さっきも言ったろ」
「でも、肩、大丈夫?」
ケンは、一瞬、箱を置こうとして、やめた。そして、少しだけ照れくさそうに言った。
「……正直、ちょっと痛い。でも、こういうの、俺がやりたいんだよ」
あかりは、何も言えなくなった。ケンは、ずっと、自分の役割を探していたのだ。野球を失ったあとも、ちゃんと、誰かの役に立ちたいと思っていたのだ。
「じゃあ、一緒に持とう」
あかりが、箱の反対側に手をかけると、ケンは、驚いたように目を見開いた。それから、ふっと笑った。
「お前、本当に、変わんねえな」
二人は、箱を並んで持ち上げた。二人分の重さが、手のひらに、しっかりと伝わってきた。
その夜、あかりは、自分の部屋で、一通の手紙を書いた。
宛名は、ハルだった。
ペン先が、紙の上で、なかなか動かなかった。何を書けばいいのか、わからなかった。書いては消し、消しては書き直す。その繰り返しが、夜更けまで続いた。
結局、あかりが書けたのは、たった数行だけだった。
『藤原くんへ。山の上で見た星は、とても綺麗でした。一緒に見た景色を、ずっと大事にしています。まだ、自分の気持ちがうまく言葉にできないけれど、いつか、ちゃんと伝えます。三浦あかり』
読み返すと、字が少し震えていた。それでも、あかりは、その手紙を、丁寧に封筒に入れた。
明日、ポストに出そう。そう決めて、あかりは、窓の外を見た。
夏の夜空に、天の川が、白く流れていた。その光は、遠く離れた場所にいる誰かにも、きっと、同じように見えているはずだった。
あかりは、小さく呟いた。
「また、一緒に見ようね」
その言葉は、誰に届くのか、まだわからなかった。けれど、あかりの胸の中では、確かに、星の光のように、まっすぐに響いていた。
それは、まだ見ぬ答えを、静かに待っているようだった。
第8話 言えなかった言葉
第8話 言えなかった言葉

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