「何をしている」
二人が明らかに押されているのが分かったのだろう。苛立ったような声で慎吾が言う。何とか立ち上がったマキは一つ舌打ちをすると、慎吾の肩を現場の外に向かってやや強く押した。
「黙れ、行け。この辺一帯の人間を避難させろ……これは華守衆としての緊急要請だ」
緊急要請。警察や消防などに比べると小規模な組織である華守衆が、安全のために周囲に求めることができる、半ば強制力がある依頼である。
そう言われてしまえば、もはや従うしかない。慎吾は外に向かおうと踵を返す。その慎吾のやや前方に、獣蟲に吹っ飛ばされたアケルが転がってきた。なんとか受け身を取ってすぐに起き上がるアケル。額からは血が流れ、服は埃だらけ。しかしその瞳は光を失っていない。アケルと慎吾の視線が一瞬、ぶつかった。
慎吾から獣蟲に視線を戻し、アケルは言う。
「行ってください」
いつものようなやわらかい声ではない。けれどもその声は、この戦場にあっても、とても静かで落ち着いていた。戦いを日常にする者の覚悟と闘志。
「……」
慎吾は黙って走り出した。
慎吾は現場から飛び出すと、まず最も近くにいた現場監督に向かって言った。
「緊急事態だ。すぐに交通整理員を呼べ」
慎吾の声には、普段の冷静さに加えて切迫感が混じっていた。現場監督は慎吾の表情を見て、事態の深刻さを察したようだ。
「は、はい!」
現場監督が無線機を手に取り、交通整理員たちを呼び出す。慎吾は集まった交通整理員に周辺道路の閉鎖を命じた。整理員たちは慣れた手つきで道路の両端にコーンを設置し、車両の進入を阻止しはじめる。
慎吾は続けて周囲を見回し、近くの雑居ビルや商店の方を指差した。
「あのビルとあの店舗、それから向こうのコンビニ。全部避難させろ。半径200メートル以内は全てだ」
作業員たちが慌ただしく散らばっていく。慎吾自身も、近くの事務所ビルに駆け込み、受付の女性に避難を促した。振り返ると、建設現場の方から金属がぶつかり合う音と、何かが崩れ落ちる音が聞こえてくる。慎吾の表情に、わずかな不安の色が浮かんだ。
現場では、マキとアケルが息を切らしながら戦い続けていた。しかし、状況は絶望的だった。
獣蟲の圧倒的な力の前に、二人は完全に後手に回っている。攻撃を仕掛けようとしても、蜘蛛の足に阻まれ、猿の腕に弾き飛ばされる。かろうじて致命傷は避けているものの、小さな傷は確実に蓄積されていく。アケルの額から血が滴り、マキの陣羽織には汚れと破れが目立ち始めていた。
「応援……まだかよ」
苦しげな呼吸の隙間にマキがうなる。
「持ちこたえさせる。絶対に」
アケルも疲労で肩を上下させながら、マキの隣に並ぶ。二人とも分かっていた。これをここで食い止めなければならない。それが華守衆の務めだ。
蜘蛛は地面に向けて糸を吐き出す。それらが放射状に張り巡らされ、マキとアケルの足場をうばう。その上、獣蟲はものすごい突進力でマキとアケルに飛びかかってくる。力も重さも他の蟲とは桁違い。挙げ句の果てにはフェイントをかけてくるような戦術性。
「くそっ……!」
マキは頭に血が上っていた。斬りかかろうと踏み込んだ瞬間、強い衝撃と共に蜘蛛の脚に進路を阻まれる。一瞬たたらを踏んだマキの胸ぐらを猿の手が掴み、まるでゴミのように投げ飛ばされる。マキは空中で体勢を立て直そうとしたが、着地に失敗してよろめいた。
その瞬間、まるでスプレーを短く噴射するような、プシュっという音がした。獣蟲の口から白い糸が吐き出される。最初は一本の細い線に見えたそれは、空中で急激に太くなり、うねりながらマキの足に巻きついた。マキは慌てて身をよじったが、糸は動くたびにまるで生き物のようにマキの身体を這い上がり、より強く食い込んでいく。
「ちっ!」
獣蟲がマキのほうに向かっていく。
「マキ!」
アケルは何とか獣蟲とマキの間に割って入った。獣蟲の視線がこちらに向く。アケルの脳裏にマキの警告がよぎる。
―目を合わせるな―
その時、アケルの視界の端に廃油のドラム缶が映った。
―これだ—
アケルはドラム缶を勢いよく蹴り倒した。ドラム缶が転がり、中身の廃油がザバザバと溢れ出す。さらにアケルは刀を一閃し、ドラム缶を両断した。黒い廃油が一気に現場に広がる。
「キィィッ!」
獣蟲の足が滑る。八本の足がばたつき、バランスを崩した巨体がよろめいた。
続いてアケルは廃油の入った別の容器を持ち上げ、マキに向かって中身を豪快にぶちまけた。黒い油がマキの頭上から降り注ぎ、髪も服も油まみれになる。
ドブに落ちた犬のような姿になったマキに対し、アケルは刀を一閃した。廃油に濡れて滑りやすくなった糸が、切れ味のいい刀によって小気味く切断される。
廃油の滑りは、残った糸をほどく手助けもしてくれた。まるで結び目が解けるように、マキの体から白い糸が滑り落ちていく。
一方のマキは、まさか戦闘中に廃油をぶっかけられるとは思っていなかった。しかも、どちらかというときれい好きなアケルの手によって。
髪から滴る黒い油、鼻につく刺激的な匂い、服に染み込む重い感触。マキはあまりの出来事に、しばらく呆然とその場に立ち尽くした。しかしそれが、マキにはかえっていい効果をもたらした。冷静さを失っていた思考が、落ち着いていく。
「くそ……クリーニング代お前が払えよ」
「生きて帰れたらね」
「……おう」
アケルは気づかなかったが、そのときアケルが無意識に放った「生きて帰る」という言葉は、マキの心に想像以上の効果をもたらしていた。マキの視線にいつもの不遜さが戻る。
足元は滑るが、獣蟲の動きが鈍り、地面に張り巡らされたトリモチのような糸の効果がほとんどなくなったことが二人には大きなアドバンテージだった。
マキとアケルの目が合う。無言のうなずき。
「はあああああ——!」
マキの鋭い気合いの声が現場に響く。もしもマキをよく知る者が見ていたら、マキが戦闘中とはいえそのように大声を出すのをめずらしいと感じたかもしれない。
真っ正面から獣蟲に突進していくマキ。
刀と猿の爪が激しくぶつかり合い、火花が散る。マキは花鎧を発動し、全身を紫色の光に包みながら獣蟲と組み合った。力比べの体勢だ。筋肉がきしみ、靴底が地面を削る。
その背後でアケルが動いた。
地面を強く蹴り、建設途中のビルの鉄骨へと跳躍する。一瞬の着地の後、鉄骨を蹴ってさらに高く舞い上がる。
アケルはそのまま空中で花鎧を発動させた。薄紅色の光がアケルを包み込む。
「背中がガラ空きだよ」
そしてアケルは刀を獣蟲の頭部に向けて構えた。重力に任せた落下の勢いすべてを込め、アケルの刃が獣蟲の猿の頭蓋を深々と貫く。
「ギ、ギャアアアア——」
獣蟲の断末魔が現場に響いた。巨体がぐらりと傾き、重たい音と共にその場に崩れ落ちる。そうして獣蟲の体は、蟲と同じように黒い煙となって風に消えていった。
ちょうどその時だ。現場に駆け込んできた者がいた。三十代後半、やや年嵩の華守衆だった。桐谷ヒロト。名梧屋地区に配属されたおよそ百人の華守衆たちの、実質的な統括者だ。それを示すように、彼の陣羽織の襟には金のラインが入っている。
「獣蟲が現れたと聞いたが?」
ふだんは冷静沈着な彼がかなり強ばった顔でそう言った。その言葉にマキが、固い表情でうなずいた。
「今、討伐完了しました」
その顔は何かの痛みを堪えているようにも見える。
獣蟲とは何なのか、そしてマキは何を知っているのか。ズキズキと痛む身体を抱えながら、アケルは黙ってマキを見つめた。
―思いつく 言葉が全て 言えぬ日は 口を閉ざして ながれゆくのみ―
この作品が気に入ったら

コメント
まだコメントはありません。
会員登録(無料)かログインをすると、コメントを書けます。