名梧屋城の向かいにある共済病院の救急外来。平日の午後だというのに、ここは相変わらず慌ただしい。看護師が足早に廊下を行き交い、どこかから医療機器の電子音が断続的に聞こえてくる。そんな喧騒の中、疲れた様子で長椅子に座る茶髪の青年がいた。アケルだった。
黒い陣羽織は脱いで膝の上で畳まれている。いつもはワイシャツの襟につけているシルバーのチェーンブローチは、今はズボンのポケットの中。ワイシャツのボタンも上から二つほどを開けたまま、腰から外した刀が、長椅子の彼のすぐ横に立てかけてある。アケルの頭と右手には白い包帯が巻かれていた。
処置室のドアが開く音がする。アケルは顔を上げてそちらを見た。
「お疲れさま」
現れたのは水色の病衣にスリッパという、いかにも患者らしい格好のマキだった。手には白いビニール袋と、いつもの刀を持っている。ビニール袋の中身は、おそらく廃油まみれになった服だろう。腕や足に包帯が巻かれ、頰にはガーゼが貼られている。普段の精悍な印象とのギャップに、アケルの口元がゆるんだ。
「似合ってんじゃん」
アケルの笑いを含んだ言葉に、マキは眉間にシワを寄せる。
「誰のせいだよ」
マキは不機嫌そうにうなりながら、アケルの隣に少し間を空けてドカっと座り込んだ。しかしその表情は苛立ちよりも疲労の色が濃い。
「お陰で助かったけどさ」
お互い、どちらからともなく長いため息をついた。マキは後ろの壁に頭を預け、アケルは前かがみになって両手で顔を覆う。二人はしばらくそのまま、廊下の向こうから聞こえてくる足音や話し声に耳を傾けていた。
ややあってアケルが、ぼんやりと床を見たまま自嘲気味につぶやいた。
「救急カウント、プラス1だな……」
マキが天井に顔を向けたままアケルのほうに視線を流す。
「お前、今年何回目?」
アケルは少しだけ顔を上げて答えた。
「二回目だよ。マキは」
「俺は今年は初だな」
マキの答えに、アケルは片眉を上げる。
「今年『は』ねえ……」
その皮肉っぽい口調に、マキが口元をへの字に曲げた。
「うるせぇ」
それから二人は、また小さくため息をついた。今度は少し笑いが混じったため息だった。
マキがふと思い出したように、言う。
「そういや、あのタヌキは?」
「無事だってさ……。周辺への避難指示が見事だったって、桐谷さんが」
桐谷はマキとアケルの無事を確認すると、現場を収め、マキたちをこの病院まで連れてきたのだった。
アケルの言葉に、マキは慎吾のパーティーでの振る舞いや、避難時に作業員たちを心配していた様子を思い出す。
「そういうオヤジだよな。あれは」
好きになれるわけではないが、その器は認めざるを得ない。
「そうだね」
アケルの声には、どこか複雑な響きが混じっていた。
また少し沈黙が訪れる。
「この二日、なんだか散々だなあ」
アケルが疲れ切った声で言うと、マキの口元がかすかに上がった。
「よかったこともあるぞ」
アケルが不思議そうに首をかしげる。
「最初の現場の被害がうやむやになった」
マキの言葉にアケルは思わず吹き出し、しばらくの間、抑えた笑い声を上げた。戦闘のときにぶつけた背中が痛んだが、それでも今、笑えることのほうが大事だった。
ひとしきり笑ってから、アケルは横目でマキを見る。
「でもよかったよ」
「うん?」
マキが怪訝な顔をする。
「正直心配したんだ。アレが出たときのマキ、少しおかしかったから」
アケルの静かな言葉に、マキの顔から笑みが消えた。
「……」
マキはまた天井に視線を戻した。ひとつ深い息をついてから、静かに言う。
「お前に感謝してる」
アケルは目をわずかに見開いた。
「……頭でも打ったか? もう一度診てもらったほうがいいんじゃないか?」
わざとらしく心配そうな顔を作るアケル。
「てめ……」
マキはむっとした顔で、スリッパでアケルの足を軽く蹴飛ばした。お互いにまた少し笑う。笑いの小波が去ると、マキは腿の上で指先をゆるく組んで言った。
「里に行く前に、俺を育ててくれてた人。蘇芳ジン……訳あって華守衆を抜けた人だったんだが。その人が、ああいうのに殺されたんだ」
それはため息の続きのような声だった。
「……」
アケルにとって、それは初めて聞く話だった。本来であれば危険な情報、つまり蟲の新しい能力が確認された場合などには、護華庁から華守衆に、速やかに情報が提供される。それなのに今まで、何も知らされていなかったのだ。
とはいえアケルは、今ここでマキを問い詰めるべきではないとも判断した。表情を変えぬよう注意をしながら、アケルはただ静かにマキの言葉に耳を傾ける。
「……アレの目を見た後、俺の頭の中には死しかなかった」
マキは、何かを思い出すように、天井に向けたままの瞳をわずかに伏せた。そうして一つ息をついて目を開く。
「でも、お前が『生きて帰れたら』って言ってくれたから。……帰ってくることがイメージできた」
その声には、いつもの力強さが戻っていた。
アケルは思わず「お前も意外と繊細だったんだな」と言おうとして、さすがにやめた。代わりに別の言葉を口にする。
「じゃあクリーニング代はチャラってことで」
マキが憎々しげに舌打ちをした。
その時、廊下の向こうから規則正しい足音が近づいてきた。男が一人、こちらに向かって歩いてくる。襟に金のラインが入った黒い陣羽織に、黒いワイシャツ、光沢があるグレーのネクタイ。手にはファストファッション店の紙袋とコンビニの袋を持っている。
桐谷ヒロトだった。
アケルとマキは立ち上がろうとしたが、桐谷が片手を上げてそれを制した。
「二人とも終わっていたか。どうだった、帰れるか?」
マキもアケルも入院は言い渡されていない。アケルが少しだけ姿勢を正して答える。
「はい。大きな問題はありませんでした」
となりでうなずくマキ。
そんな二人にうなずきを返すと、桐谷はまずコンビニの袋に入っていたペットボトルの水を二人に渡し、それからマキに向かって紙袋を差し出した。紙袋の中身はTシャツとスウェットのズボン、スニーカーだった。
「好みが分からないから、シンプルなものを選んできた」
マキは立ち上がり、軽く頭を下げながら紙袋を受け取る。
「わざわざすみません」
今度は桐谷はマキが立ち上がるのを止めなかった。桐谷は二人の顔を順番に見て言う。
「平瀬氏の危機は去ったようだ。……要するにあれがそうだったんだろう」
もしもあれが現れたときに、あの場に華守衆がいなければ、どれだけの被害が出ていたかわからない。
桐谷は続ける。
「念のためもう数日は別の者を護衛に充てる。二人はしばらく休養だ。今日は車で送るから、樟田君は着替えてこい」
休養という言葉に、どちらからともなく、小さなため息が漏れた。二人とも、とても疲れていた。
―水浴びて どろにまみれて よごれても どうにかこうにか 今日を生きてる―
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