名梧屋駅のホームは平日の昼過ぎとあって、比較的落ち着いていた。天気がよく意外と気温が上がっている。マキは特急電車を待ちながら、ベージュの長袖Tシャツの袖を軽く捲り上げた。ジーンズにリュックという私服姿だったが、腰に下げた刀が、彼が華守衆であることを物語っていた。
「花守り《はなもり》さん、よろしければどうぞ」
ホームのベンチに座っていた高齢の婦人が、マキに席を譲ろうと立ち上がった。袖から覗く白い包帯に気づいたのだろう。
「お気遣いなく」
マキは軽く頭を下げて辞退すると、袖を引っ張って包帯を隠した。
やがてやってきた特急電車に乗り込み、マキは車窓を眺めながらぼんやりと過ごす。電車に乗って三十分ほど経ったころだろうか、電車が駅に停車していると、駅に隣接する真新しいビルが見えた。その建物が、下のほうから見る間に花におおわれていく。
「おぉ……」
「何度見てもすごいよな」
かすかにざわめく車内の人たち。マキは座席に座ったまま、そのビルの前の広場を見た。黒い陣羽織に黒い着物の華守衆が、ビルの前にひざまずいて印を結んでいる。華守衆の中でも、刀で戦うよりは結界を張ったりすることを得意とする者による加護だ。この世界を覆う花は、自然発生的なものも多いが、建物などには、こうやって守りを与えるのである。
それからさらに三十分ほど電車に揺られ、木槽島駅で下車すると、マキは駅前のバス停からローカルバスに乗り換えた。降車時に運転手に木札を見せると、運転手は慣れた様子で頷いてくれた。里と駅をつなぐバスは、華守衆ならばタダで乗れるのだ。
バスを降りたマキは、花におおわれたのどかな山里の田園風景の中を歩いた。田んぼにはまだ丈は短いながらも青々とした稲が風に揺れている。この時期にしては涼しい風が心地よく、マキの歩く速度も自然とゆっくりになっていく。
小学校の横を通り過ぎる時、校庭から子どもたちが遊ぶ声が聞こえてきた。マキは足を止めることなく、しかし少しだけ口元を緩めながら歩き続ける。
住宅がまばらに点在する道をさらにを歩いて数分。花が咲き誇る林の斜面を背に、三軒ほどの家がまとまっている。都会に比べればゆったりとした敷地。その一軒の前で、マキは足を止めた。表札には「樟田」と刻まれている。カーポートには車がなく、まだ誰も帰宅していないようだった。
マキはポケットから鍵を取り出し、玄関のドアを開けた。
「ただいま」
誰もいない家に向かって呟くと、靴を脱いで廊下を進む。リビングに入ると、床の上に青いランドセルが一つ、コロンと転がっていた。それを足で壁際によけ、リュックをソファの足元に下ろす。剣帯から外した刀は、テレビ前の刀掛台に立てかけた。そうしてソファにドサっと座り込んで、大きく息をつく。
コツコツと小さな音がして、マキは振り返った。リビングの棚の上に置かれた水槽の中で、ミドリガメが動いている音だった。水槽には子どもの字で「マッハ」と書かれたシールが貼ってある。
「ただいま、マッハ。元気にしてたか?」
マキは立ち上がって水槽を覗き込むと、棚の上にあった容器からエサを少しつまんで水面に落としてやった。亀が水中でエサに食いつく様子を眺めながら、マキはスマートフォンを取り出して写真を撮る。
再びソファに座り、いつものSNSアプリを開いて投稿欄に文字を打ち込んだ。
―音速の 名を賜りし ミドリガメ 今日も日向で おかえりを言う―
亀の写真と共に投稿すると、マキはスマホを隣に放り出した。それからマキはソファの背もたれにもたれかかって、目を閉じた。
静かな時間。
獣蟲との戦闘で傷ついた身体以上に、心の中に重くのしかかっているものがあった。
しばらくして玄関のドアが開く音がした。足音と共に、ダークグレーのスーツを着た中年女性が顔を出す。樟田アユコだった。
「ただいま、おかえり」
「おかえり、ただいま」
マキは振り返りながら、アユコに答える。それはこの家で、誰かが先に帰宅していたときに交わされるあいさつだった。
「もう帰ってたの? 連絡くれれば迎えに行ったのに」
「ちょうどバスが来てたから」
アユコは「手は洗ったの? 昼は食べた? 何か食べる?」と矢継ぎ早に話しながら、洗面所に向かったりジャケットを脱いだりと慌ただしく動き回っている。その様子を見たマキは、何も言わずに立ち上がって洗面所に向かった。
手を洗って戻ってくると、アユコが改めてマキの姿を見て眉をひそめた。
「あらやだ、ケガしてるじゃない。大丈夫なの?」
「うん……まあ、軽いから大丈夫」
「気を付けなさいよ」
「わかってる」
「明日、蘇芳に行くの?」
「うん。それが済んだら名梧屋に戻る」
「もう少しゆっくりしていけばいいのに」
アユコの言葉に、マキは少しバツが悪そうな顔をした。
「掃除しないで出てきちゃったから……」
「もう……。きちんと暮らしなさいよ? カップ麺ばっか食べてちゃダメよ?」
「わかってるって……」
◆
夕方になり、夕食の支度が始まった。マキも手伝おうとしたが、「ケガしてるんでしょ?今日はいいわよ」とアユコに断られ、リビングで刀の手入れをしていた。
玄関が勢いよく開く音がする。
「ただいまー!」
少年の明るい声と共に、ドタバタと廊下を走る音が響く。
「あれ? マキ兄さん、帰ってきてたの?」
現れたのは樟田カイトだった。小学四年生。紺色の剣道着姿で、額にはまだ汗の跡が残っている。
「おかえりカイト。手、洗ってこい」
「うん!」
カイトが洗面所に向かう間に、マキは手入れ道具を片付けて刀を刀掛台に戻した。
手洗いを済ませたカイトは、台所を覗き込むと揚げたての唐揚げを素早く二個つまんだ。
「こら、お行儀悪い」
「お腹へったー」
アユコが注意するが、カイトは片方を頬張りながらマキのところにやってきた。そうしてもう片方の唐揚げをマキの口元に差し出す。マキはそれをパクリと口に入れた。香ばしい肉汁が口の中にひろがる。
「うまい」
カイトがニマっと笑う。マキは彼の頭を軽く撫でてやった。
また玄関が開く音がして、今度はジャージ姿の中年男性が入ってきた。樟田コウヘイ。左腕の肘から先がない身体で、リュックを器用にソファの足元に下ろす。
「おかえり」
マキとカイトが声を揃えて言った。
コウヘイがマキに向かってたずねる。
「元気にやってるか?」
「まあ、何とか」
◆
夕食は他愛のない家族の会話に包まれていた。アケルは元気にしているか、名梧屋での仕事はどうか、カイトは今日は学校で何をしたかといった、ごく普通の世間話。
「マキ兄さん、食べ終わったら鍛錬付き合ってよ」
カイトがから揚げに箸を伸ばしながら言った。
「マキは今、ケガをしてるから」
アユコが注意するが、マキは軽く首を振った。
「別にいいよ。少しは動かないと後が大変だし」
「じゃあ俺もマキを少し見てやろう」
コウヘイの言葉に、マキの箸が止まった。コウヘイがにやっと笑う。
「忙しいって言い訳してサボってないよな?」
「おてやわらかに……」
マキは苦笑いしながら答えた。
◆
その夜、マキは夢を見た。
血が混じった花吹雪。消えていくジンの身体。何かを言うように、わずかに動く口元。泣きながら花吹雪を追いかける幼い自分。
「……」
マキは目を覚ました。二年前まで使っていた自室。壁には風景写真が数枚貼られ、机には高校時代の教科書がそのまま積まれている。本棚に置かれた黄色いネズミの古ぼけたぬいぐるみ。机の横の刀掛け台には、小学生のときに持っていた短刀と、中学生のときに持っていた脇差。
ため息をついて身体を起こすと、マキはベッドから降りて机の引き出しを開けた。奥から一枚の写真を取り出す。
写真にはジンが映っていた。髭のない艶やかな肌、きちんと整えられた髪、金の立ち襟の黒い陣羽織。
「ジン……」
この里に来て少し経った頃、蘇芳の人が「昔のものだが」と言って渡してくれた写真だった。アユコとコウヘイは写真立てを買ってくれようとしたが、マキは断った。顔は確かにジンのものだが、マキが知っているジンではなかったからだ。
写真を机の上に置くと、マキは再びベッドに横になった。
目を閉じてみたが、眠れない。スマートフォンをのぞいてSNSアプリを起動させると、先ほど投稿した亀の写真にいくつかの反応とコメントが付いていた。
―亀の名前がマッハなの? おもしろい―
―亀を飼ってるんですか?―
マキは一つずつ返信していく。
―姉と俺でゲラゲラ笑いながらつけました―
―実家の亀です。先日帰省したときに撮りました―
他の人の投稿を眺めているうちに、眠気がゆるやかに戻ってきた。
―この場所は とても大事な ものだから 選んだ道を ただ進むのみ―
◆
翌朝。カイトとコウヘイを見送った後、マキは自分の部屋で着替えた。黒い着物に黒い袴、そしていつもの陣羽織。華守衆の正装である。
リビングに降りていくと、刀掛台から刀を取って腰に差した。
「行くの?」
出勤準備をしていたアユコが声をかける。
「うん」
「お行儀よくするのよ?」
「わかってるって……」
「私もこの後、出勤しちゃうから、名梧屋に戻るときは戸締まりお願いね」
「ん」
玄関で靴を履こうとして、マキは一瞬手を止めた。草履を持ってくるのを忘れていた。靴箱を開けて、コウヘイの草履を借りて履く。
里の中をゆっくりと歩いていく。すれ違う人々と「おかえり」「ども」と挨拶を交わしながら。
やがてマキは里の奥、里の中でも特別な意味を持つ家の門前に立った。格式高い日本家屋。日本全国を探しても、ここまでのものは、なかなか見ないだろう。花に包まれた重厚な造りの屋敷は、この里の中でも一際威厳を放っている。左右に白い提灯が提げられた立派な門。
里の者はこの家を「蘇芳」とよぶ。里の長であり、華守衆たちの本家。
マキはひとつため息をついて、門をくぐった。
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